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第1章 世界くん降臨

2話

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パンプスを鳴らしながら小さくなっていく女の後ろ姿を眺めながら、俺は開いた口をようやく閉めた。

「な……何だよ、変な女っ」

俺は思わず舌打ちしそうになって慌てて口元を押さえた。あの日以来、俺がクセだった舌打ちをするコトをやめてからもう十年だ。ここまできたら一生しないと決めている。

(まさか俺が女の言ったコトをここまで聞くとはな)

俺はふと雲ひとつない青空に目をやった。なぜだかさっきの女があの日の女に重なる。

「あの女どうしてんのかな……」

昔話に出てくるお姫様みたいな名前の女にもう二度と会えるとは思ってないが、俺がここまで人様の言うこと、ましてや女の言うことを聞いたのは初めてだった。褒められて然るべきだと思うのは俺の独りよがりの我儘だろうか。

「はぁ……それにしても朝からツイねぇ。あんな訳のわかんねぇ女に時間取られるわ、説教されるわ……この俺に説教するとか何様なんだよっ」

歩みを早めながら、手に持っている鞄から伝わる振動に気づいた俺は鞄の中のスマホに手を伸ばした。液晶画面に浮かんでる相手は『ボス』。

「めんどくせぇ……」

チャリン……。
(え? )

見れば取り出したスマホと共に五円玉がアスファルトに転がっていく。

「おっと……」

俺は思わず革裏で五円玉を止めた。ゆっくりと足を上げれば五円玉がちゃんと寝そべっている。

「何だよっ。あの女の五円玉、俺の鞄にも入ってたのかよ」

俺は震え続けているスマホの電源を落とすと、五円玉に背を向けて颯爽と駅へ向かっていく

──五円玉はご縁を運んできてくれるんだから!

どこからともなく、さっきのムカつく女の声が降ってくる。
(もう会うこともねぇしな)

でもご縁を本当に運んできてくれるとしたら?あの昔出会った忘れられない女にもう一度会えるとしたら?ふと、そんな考えが浮かぶ。俺は足を止めるとガシガシと頭を掻いた。

「あー、どうかしてんな。くそっ」

俺は数十歩後ろに戻って五円玉を拾い上げるとスラックスのポケットに仕舞った。

(なんで俺があんな女の言うこと間に受けてんだよっ)

この時の俺はまだ知らなかった。一回りも歳上の女の沼にハマりにハマって抜け出せなくなることを。

──世界くん……。

俺にしか見せない色っぽい顔も甘い声も会社では想像もつかないくらい弱い姿もほろりと流す涙も全部俺のモノだ。

俺の腕に閉じ込めて誰にも見せたくもなければ触れられたくもない。永遠に俺のモノ。そんなふうに思うくらい、この俺が恋に溺れることになろうとは。

御堂世界みどうせかい、二十二歳四ヶ月。この時の俺は、そんな一世一代の恋の予感に全く気づいていなかった。

※※

「はぁぁぁっ」

グイッと緑茶を飲み干すと私は年季の入った有田焼の湯呑みをデスクに置いた。デスクの上は綺麗に片付けて帰ったはずだが、既に営業部からの得意先へ提出する見積書の作成依頼が山盛りきている。更にはパソコンにも大量の見積依頼メールが到着している。もはやため息しかでない案件である。

「梅将軍おはよう御座います。朝から凄いため息ですけどどうかされましたか? 」

視線をあげれば、私が切り盛りしている見積課の課長補佐である森川明菜もりかわあきながにこりと微笑んでいた。

「明菜ちゃん、おはよ。もうね朝からね、顔だけキラキラしてる世界級イケメンに落とした小銭踏みつけられてすっごいムカついた上に、会社に来てみれば相変わらず凄い量の見積依頼にこのまま切腹したいくらいだわっ」

「あはは。切腹は困りますね。見積依頼はいつものことですけど、その話、世界級イケメンだったなら目の保養はできたのでは?」

「まあ、ただのイケメンさえも絶滅危惧種なのに世界級イケメンだったから保養といえば保養だけど……」

私はさっきの世界級イケメンを思い出す。切れ長の瞳に柔らかそうな黒髪、あといい匂いだった。

(って何考えてんのよ、梅子っ……これじゃあホントに欲求不満みたいじゃない……)

「梅将軍?」

「あぁ、気にしないで何でもないの」

「ふふっ、目の保養はお肌にもいいらしいですよ。で、早速ですけど梅将軍のところに届いてる見積依頼五十件ほど受け取りますよ」

「あー、もう明菜ちゃんいつもほんっとありがと!明菜ちゃんが見積課の若い子達を仕切ってくれてるからこの見積課が存続できてるのよっ」

私は両手を合わせて拝むポーズで明菜にペコリと頭を下げる。

「大袈裟ですよ、それにこの見積課がまわってるの梅将軍のおかげだと思ってますから。皆が源課長を梅将軍と呼ぶのは女の戦場であるこの見積課でいつも課長が先陣を切って敵陣という名の見積の山に向かって突っ走ってくれるからですよ」

「え、そうなの?」

「ふふっ、そうですよ」

明菜は、ベージュのボブを揺らすとオレンジ色のルージュを引き上げた。

「私からみたら明菜ちゃんって天使だわ、だって頭の上に輪っかついてるもん」

「あはは。梅将軍にそのように行って頂けるなんて光栄ですね。有難うございます。あ、ちなみに梅将軍、新入社員研修会、何時からですか?」

私は、その言葉にこめかみを抑えながら明菜に答える。

「はぁ、そうだった。営業第一エリアグループのアイツの講義のあとだから、11時から。今年もまたキラキラしたのが入ってくるんでしょうね……」

「あはは、キラキラって。あ、そうだ、秘書課の同期から小耳に挟んだんですけど、今年は社長の甥っ子が入社されるらしいですよ」

「え? 社長の甥? 」

「えぇ、私も知らなかったんですけど、なんでも社長の歳の離れた妹さんの息子さんらしくて、どういう理由か社長が後見人として面倒みてるらしくて……あと名前がすごく変わってるらしいですよ?」

我がTONTONトントン株式会社は、衛生陶器専門の卸業社として100年ほど前に神戸で産声を上げた。日本初の腰掛水洗便器を発明、製造し日本国内の社会の発展及び生活水準の向上に貢献し、現在は、世界中に陶製の腰掛水洗便器やウォシュレットを卸し、その名は世界中で認知され年間売上利益は三千億円を優に越える。特に最近は、節水機能とスタイリッシュな見た目を兼ね備えたタンクレス便器『ミラクルトイレ』が大ヒットし、昨年はベリーグッドデザイン賞を受賞した。

「梅将軍? 」

「あ、ごめん。我が社の世界中の水洗設備への貢献につい思いを馳せてしまっていたわ。で、その子の名前は? 社長が陶山由紀恵とうやまゆきえだから同じ陶山かしら? 」

「それが、違うらしいんですよねー。でもすっごいイケメンらしいんで、すぐわかる思いますよ。またあとでこっそり教えてください」

明菜は人差し指を立てるとシーッと唇に当てた。

「へー、明菜ちゃんもイケメンは気になるんだ? 」

明菜は今年で入社5年目の27歳だ。私が課長になる前の見積リーダー時代に新入社員として入社して以来ずっと一緒に仕事をしている同志であり、妹みたいな存在だ。すっきりとした瞳にボブがよく似合う爽やか女子という言葉がぴったりで、性格もさっぱりとしていて裏表がない。

「私だって人並みにイケメンは気になりますよー……彼氏と別れちゃたし」

「えぇっ、そうなの? 」

「ま、転勤で彼が遠距離になったときにヤバいかなって思ってたんですけどね……浮気です……また話きいてください。あ、見積依頼データ送信してくださいね」

明菜は、敬礼ポーズをとりながら甘い香水の匂いを漂わせながら席へと戻っていく。

(……浮気か……)

その二文字にせっかく朝掻き消した元カレのことが一瞬過ぎった。

(どうして男って浮気するのかしら……)

あんなに可愛くて魅力的な明菜の恋人でも浮気するのだ。世の中の男は皆浮気をする又は願望があるという認識だったが、あながち外れては居ないのかもしれない。

「……もう恋愛は懲り懲りだわ……」

誰かに夢中になって、二人の未来を夢見て、でも最後は他の女に取られて崖から突き落とされるなんて、本当に懲り懲りだ。尚更この年になって恋愛なんてモノをしてお涙ちょうだいの結末を迎えたら二度と立ち上がれない。若い頃のようにはもう恋なんてできない。一つ年を取るごとに恋愛がこわくなる。

「……余計なこと考えずに仕事仕事っと。仕事だけは、いつも梅子の味方なんだから!」

仕事だけはキチンと正確に、そしてたっぷりと情熱を注げば必ず応えてくれる。私はパソコンで明菜に大量の見積依頼のデータを送ると、新入社員研修で使用する資料を印刷しながら届いている管理職用の社内メールに目を通していく。

──コンコン。

ノックの音と共に直ぐに開かれた扉からは長身の男が入って来た。上品な濃いグレーのスーツにエンジ色のネクタイをぶら下げ天然物の茶髪をさらりと揺らす。

(はぁぁぁぁ、出たわね。わが社のお殿さま……)

誰が名付けたのか分からないが容姿端麗、営業成績万年トップさらには我がTONTON株式会社の花形である営業第一エリアチームの若き部長はそう呼ばれている。

「見積課の皆さん、おはようございます。今日も頑張ってるね」

パソコンと電話応対の声しかしなかった見積課の事務所内のあちこちから悲鳴が聞こえてくる。そして総勢五十名の見積課の女性社員の視線は一気にハートに変わる。私はあえてそちらを見ないままパソコンを打つ指先を早めた。

(最悪……こいつが此処までやって来るのだからどうせ急ぎの案件だ)

男は迷わず私の課長席までやってくるとデスクに手を突いた。

「梅子おはよう」

「おはようございます。営業第一エリアグループの殿村伊織とのむらいおり部長」

私はちらりと殿村を見上げて直ぐにパソコン画面に視線を戻す。

「梅子は朝からつれないね、また怒ってるの?」

「あのね、怒りたくもなるでしょ。あんたがわざわざ見積課に来るってことは今日中に上役に確認して直ぐに商談に入れる決済承認済みの見積書の作成依頼でしょ!?」

殿村は形のよい薄い唇を引き上げると私のデスクにバサッと図面を置いた。見れば都市開発として駅のすぐそばに大型商業施設の建設が決まったと小耳に挟んでいたが、その商業施設の平面図だ。

「さすが梅子。悪いけど同期のよしみで、この商業施設の見積書最優先で作成してくれないかな?」

「お断りよ!大体今日は新入社員研修もあるし、他の部署からの見積依頼だって山ほど来てるのよ!殿村のまでうけたら残業確定じゃないっ」

「いいじゃん、どうせ今日は金曜だけど予定ないでしょ?僕も営業おわったら事務所戻って来るし手伝うし」

「嘘ばっかり、いつもそう言ってて事務所帰ってきてもすぐ帰るくせに」

「梅子が僕がいると気が散るっていうからじゃん」

「そりゃそうでしょ、目の前で私が見積作るのじっと眺められたら気が散ってしょうがないわよっ」

顔を上げれば、髪と同じで色素の薄い茶色の瞳を細めると殿村が首を傾けた。

「ね。プレミアムチケットでどう?」

「え?何の……?」

「決まってるでしょ、今週末封切りの『暴れすぎ将軍~イケメン悪代官と真剣勝負編~』の俳優陣舞台挨拶付のチケットだよ」

(噓でしょ!あの暴れすぎ将軍演じる松平健次郎まつだいらけんじろうに会えるなんて…何着て行こう……目があったりして……)

「お。その顔商談成立だな!」

「えっと……」

「はい、どうぞ」

胸ポケットからひらりと出されたチケットの入った封筒を殿村から受け取ると、私は殿村がデスクに置いた図面を手元に引き寄せた。

「商談成立ね。今日の二十一時までに作成して殿村のパソコンとスマホにデータ飛ばしとく。ついでに上役に事前承認もらって印字したものは私のハンコをついて殿村が取りに来なかったら金庫に入れとく。暗証番号はいつもので」

うちの会社では商談に使用する正式書類は保管室の中に壁一面に並んでいる小さな金庫ボックスを使用することになっている。事前に渡したい相手と暗証番号4桁を決めておけばその番号で金庫からの出し入れが可能になるのだ。

「いつものね。梅子と僕だけの秘密だな」

(私と殿村の暗証番号は三七一〇……源の『みな』と殿村の『と』を漢数字にしただけ……)

「変な言い方しないでよね」

「じゃあ、宜しく。梅子も新入社員研修の講義担当だよね? 」

「えぇ、今年もまたキラキラしたガキンチョたちの相手が大変だわ……」

殿村が口元に拳をあててクククッと笑った。

「何よ? 」

「いや、梅子は変わんないなって」

「どこが?」

殿村の言葉に思わず怪訝な顔になる。はっきりいって三十すぎてからお肌の艶は二十代と違って落ちたし、中身だって大人になるにつれて変化を求めなくなったし変化を怖がるようになった。

「僕から見たら入社式で会った時から変わってない。見た目も中身も」

「また嘘ばっかりっ」

「僕は梅子にだけは嘘つかないようにしてるけどね」

「あっそ、それはどうも」

可愛くない言い方で誤魔化したが、私はこの殿村という男が未だにわからない。いつも涼しい顔をしていて冷静で、あまり喜怒哀楽を表にださないくせに、同期の私だからかなのか、時折返答に困る言い方をすることがある。

「怒った?僕は褒めてるんだけどね」

「素直に受け取っとくわよ、ありがと」

私の返事に満足そうに頷くと殿村は私に背をむけて直ぐに振り向いた。

「梅子、新入社員研修十一時からだよね?」

「えぇ、それがどうかした?」

「いや、梅子の前の講義が僕ってだけ」

「わざわざ殿村自ら講義しなくても課長あたりにまかせればいいのに、完璧主義ね、お殿さまは」

殿村がクククッと笑う。

「梅子までその呼び方するんだ?僕も呼ぼうか?梅将軍」

「もうやめてよっ」

「はいはい。ていうか今更梅子以外に呼び方かえれないや。じゃあ見積宜しくな、梅子」

殿村はひらひらと手を振りながら私に背を向けると見積課の扉を閉めた。

(梅子ね……)

私と殿村はこのTONTON株式会社で唯一の同期入社だ。入社時は就職氷河期といわれていた時代で会社も腰かけ入社を狙って、その年の新入社員は女子社員の入社がほとんどだった。そして会社の目論見通り、私以外の同期だった女子社員たちは、はるか昔に寿退社している。仲の良かった年の近い後輩達も全滅だ。いまや私のことを呼び捨てで、しかも下の名前で呼ぶのは殿村だけになってしまった。

私だけが変わらない。変えられない。

「はぁ、変わらないっていい事なのかな……」

いまやTONTON株式会社の底辺を支える縁の下の力持ち部門である見積課の初めての女課長となって五年。周りの後輩社員たちは皆、私を尊敬の意味と敬意をこめてらしいが、いつの間にか私ことを『梅将軍』と呼ぶようになった。先ほどの明菜に言われた言葉を思い出す。

(見積の山に先陣をきって、ね……)

確かに仕事には誇りをもっているし、仕事においては一切妥協はしたくない。常に全力で誠心誠意取り組みたい。

(入社して十二年か……)

思わず誰にも聞かれないため息が転がった。総合職で男に交じって仕事をして会社に貢献している自分は決して嫌いじゃない。でも……。

──本当は私だって結婚したい。

一度でいい。とびきり甘いドラマみたいな恋愛を経験してみたい。そんなことを考えるのはアラフォー女にとっては馬鹿げた妄想なのだろう。現実は甘くないし、どちらかと言えば苦い事ばっかりだ。それでもこのまま仕事に生きて一生を終えると決めるのもまだ早い気がして、どこかで勝手に目に見えない恋に向かって手を伸ばしそうになる。手を伸ばさなければ恋なんて普通に仕事をしていても、降っても来なければ沸いても来ないのだから。

「あぁ……何考えてんのよ!駄目っ、煩悩を捨て去るのよ!梅子!」

私は湯のみに手をかけると緑茶を一気に飲み干した。

(私には暴れすぎ将軍様が待っているんだからっ)

一瞬頭に浮かんだレンアイの二文字を緑茶と共に飲み込むと、私は殿村がおいていった図面を早速広げた。









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