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名前を呼ぶ2
しおりを挟む「……あの、私は聖獣様に命を捧げる覚悟ができています。ですがこうも唐突に、理由もなく奪われるものではないと思うのです。確かにご不快な思いをさせてしまいましたが」
「ヨアン」
「……」
声には怒りも苛立ちもないのに、その低音で呼ばれる名前に胸が震える。
反則だ。どんな制止の言葉より力がある。
「呼びなさい。あのとき、呼んだだろう?」
「……あれは、ですが、最後までは……」
だから生きているのではないか。
もごもごと言い訳するも、聖獣の晴天の瞳がひたりと突き刺さって尻窄みになる。これは見逃されそうもない。
ヨアンは上目で男の表情を窺った。断罪の眼差しではない、と思う。
傷を癒してベッドの提供までした相手を、こんなふうに殺そうとするだろうか。
そもそもヨアンはそのために名前を呼んだ。最後までは言えなかったが、放置しておけば死んだはずだ。
(意味があって命じるなら、答え合わせの猶予くらいはくれるよな……)
ヨアンは意を決すると、爆発しそうな心臓を押さえて息を吸い込んだ。
「……ベ、…ノア、ルド……さま……」
途切れ途切れでも、言い切った。
大きく肩を上下させるヨアンの口許に、聖獣の指先が触れる。
「もう一度」
「……ベノアルド様……」
その瞳を見つめて名を呼んだヨアンに、男は満足そうに微笑んだ。
唇に触れた指は褒めるように頬を撫で、離れていくのを名残惜しいと感じてしまう。
「ヨアン。おまえは私の契約者だな」
「……え?」
「私の名に耐えられるのは、契約者のみだ」
言葉はわかるが、その意味がわからない。
ぽかんと呆けるヨアンと違い、聖獣はすっかり疑問が晴れた表情だ。さっきも契約と言っていたが、指輪がその証明らしい。
「いや、待ってください。それは、つまり、アレイジムは……、今の国王陛下は……」
「私はずっと眠っていたのだろう。契約の更新はない。少なくとも私は、誰かと契約した覚えがない」
聖獣と契約を結んでいるのは国、王家のはずだ。国という概念とは契約の結びようがないだろうから、おそらく歴代国王。
他国ではそのように王位とともに契約が継承されていくらしい。ヨアンはさらに混乱した。
「なぜ契約を交わした記憶がないのに、ここに留まっているのか。そんな違和感すら抱かずに、……いや、奪われたからこそ気づけなかったのか……」
「私が奪ったからですか?」
「おまえが持っていたこれは、すでに成された契約の一部であり、『核』の部分だ。本来は私の中にあるものだが、おまえの内側に無理なく溶け込んでいた。対の契約者だからだろう」
強者が契約の主導権を握るのは当然だが、一部を相手に持たせても不都合はないそうだ。それが核ともなれば、強い信頼の証といえる。
「奪われたのは、核の部分以外。奪ったところで、他人の名が刻まれた契約だ。対象は変わらないし、無理に取り込もうにも私の契約を上書きできるはずもないが……」
聖獣は手の中にある指輪をじっと見つめている。
契約の核を取り戻したことで、これまで気にならなかったことが気になりだしたようだった。
「ええと……よく、わからないのですが」
「なんだ」
「すでに成されていた契約者が私で、一部を私に渡し、その後に他の部分を奪われたとすると……」
正確には渡されたのはヨアンではなく前世の少年だが、ここに至ってはもう同一でいいだろう。
「契約者がはじめから私だったように聞こえるのですが」
「そう言っている」
「いえ、でも、それならなおさら、なぜ聖獣様はこの国にいるのですか……」
アレイジム王国と聖獣が契約を結んだのは千二百年も前。王国の歴史そのものであり、この事実を否定することはできない。
そのときから聖獣はこの国に住み、祝福を与え続けているのだ。
「アレイジムの建国王と契約し継承されているはずの契約を私が持っているのは……私が奪ったということにならないですか? それがいつ、どうやって……、でも変わらずこの地に祝福があるのは……?」
ヨアンが前世で指輪をもらった時点で、すでに契約者だった。とすれば、実際に契約したのはもっと前。前世があるのだから、その前世があっても不思議ではないけれど。
指輪をもらうときに彼は何を言っていただろうか。幼い少年の記憶力では、たった一つの印象的な単語を覚えているだけだ。
聖獣も説明ができないようで、険しい表情で黙り込んでしまった。
奪われたのは彼であり、持っていない情報は整理のしようがない。苦痛を堪えるように目を閉じてこめかみを押さえるから、ヨアンは慌てて前言を撤回した。
「あ…っ、忘れてください! 余計なことを」
「いい……、すぐに、落ち着く」
誰か呼ばねばと狼狽えるヨアンの手を握って留め、聖獣はゆるく首を振った。
「……おそらくこれは、奪われた契約の影響だ。欠片を持つおまえが現れたことで、本来の契約を思い出そうとしている。だが……継ぎ接ぎだらけで、決定的なものに繋がらない……」
足りないものを補おうと、内側で力が暴れ出すのだそうだ。その本能を抑えきれなかったのが、あの暴力的な行為だった。
思い出してぴくりと肩を揺らすヨアンに、聖獣は自嘲気味に微笑んでみせる。
「怯えることはない。もうおまえには何も残っていないことを知っている。この欠片を、持たせてやりたいとは思うが……」
「いっ、いいんです。それは聖獣様のものです」
「名を」
「……」
「呼んでくれ。……思い出せるかも、しれない」
吸い込まれるような晴天の瞳を見つめて、ヨアンは背を押されるように口を開いた。
「……ベノアルド様。お預かりしていたものを、お返しいたします……」
「ヨアン。いつかまた、おまえに預けると約束しよう」
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