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聖獣観察2
しおりを挟む(……まずいな、泣きそうだ)
前世を知らない頃でも、紋なしを理由に泣いたことは数えるほどしかない。
マリウスが言葉を尽くして慰めてくれたおかげでもあるし、侯爵家子息としていかなる時も取り乱すなと教え込まれたためでもある。
それなのに、聖獣の言葉や態度はヨアンの感情を大きく揺さぶった。
せっかく会えたのに。二度は失えない。どうしたらいいだろうかと狼狽えるヨアンの耳に、聖獣のため息が届く。
覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。威圧に耐えたら見直してくれるだろうか。絶対に耐えてみせると腹に力を込めて身構える。
「紅茶を」
「……え」
けれど聞こえた言葉は意外なもので、はっと顔を上げて聖獣を凝視した。
男はもうこちらを見ていなかったが、本を閉じて壁の絵を見るともなしに見つめている。休憩の合図だ。
(……許された? いや、見逃された……?)
ヨアンは茫然として、おずおずと左手を解放した。ワゴンに手をかけて少しずつ近寄っても、咎める声はない。
勇気を得てテーブルの脇に立つと、紅茶を注いでカップを置いた。
以前は食器の触れる音が響き、雫をこぼしてしまうこともあったが、ひと月も経てば少しは見られるようになっていた。
男の指がカップをつまみ、口元へ運ぶ。
瞬きひとつさえ息を止めて見つめるヨアンに、聖獣はもう一度「見過ぎだ」と注意した。
「すっ、すみません」
再び謝罪して顔を背けるが、今回の声には緊張感がない。
そっと横目で窺うと、こちらを見上げる青い瞳とぶつかった。驚いて視線を逃がすヨアンを三度は咎めず、聖獣はゆっくりと口を開く。
「本を、三冊」
本? とヨアンは目を瞬いてテーブルを見下ろした。右側に積まれた本が一冊増えている。新たに左の本に手を伸ばし、男はぱらぱらと最初の数ページをめくっていた。
そのまま読み進める様子に、ヨアンの心がじんわりと温かくなる。
「……はい。また、探してまいります。どのような内容か、ご希望がありましたら」
「好きに選べ」
ぐっと歯を食いしばる。今度は別の意味で感情が溢れそうだった。
「……っ、は、い。お任せください」
認めてもらえた。紋なしを不快には思っても、ヨアンの努力はたしかに男の元に届いていたのだ。
嬉しくて、思わず弾む声が抑えられなかった。
聖獣はふと視線を落とし、仕方ないなというように吐息する。そんな仕草さえ、新たな発見のようで心が躍った。
やっぱり彼は、ヨアンが覚えているままに暖かく優しい人だ。祝福が受け取れないからといって安易に差別せず、根気強く見守ってくれた。
もしかしたら、もっと人と話したいと思っているのかもしれない。そうして交流を持つこともあったのだろうか。
けれどこんな極上の人に興味を向けられたら、誰だって錯覚する。錯覚のはずはないと、錯覚してしまうのだ。
(俺は、大丈夫。そんなことにはならない)
ヨアンは己を理解している。
宝を守れず、祝福を受け取れず。すべてを拒絶した自分が彼に否定されるのは当然だ。
寛大な心で許されたとしても、ようやく他の人間にとってのスタートラインに立てるだけ。そこから先に進む資格は持っていない。
だからせめて、どんなささやかなことでも手助けがしたい。本の好みでも、見たい景色でも、望むものを見つけたい。それを叶えることが、ヨアンの恩返しになるのだ。
「……視線がうるさい」
「申し訳ありません。それは、黙る方法がわかりません」
「……はあ……」
思いきって言ってみたが、機嫌を損ねた様子はない。
聖獣はついにヨアンの視線を諦めたようだ。深く吐息して、それ以上は何も言わず本に視線を落としている。
彼が手に取ったのは、大衆向けの娯楽小説。どうだろうかと悩みながら選んだものだが、興味を持ってくれたようだ。
表紙には美しい鳥が描かれ、ストーリーも不思議な力を持つ鳥を中心に様々な物語が展開する。
聖獣は意外にもと言っていいのか、鳥が好きらしい。部屋には鳥をモチーフにした彫刻やオブジェが多く、鳥に関する本も何冊かある。試しに表紙だけで小説を選んでみたのだが、それでもいいらしい。
彼は白狼だから、おそらく空は飛べない。憧れがあるのかと想像すると、かわいいなとすら感じてしまう。
それこそ不敬なので表情にも出してはいけないが、彼は鳥に何を感じているんだろうか。
そんなことを考えていたヨアンだから、その変化にはすぐに気づいた。
「……っ」
「聖獣様!?」
突然男が痛みを堪えるように眉を寄せ、本が音を立てて落下した。
手で顔を覆う聖獣に慌てて駆け寄り、前かがみに倒れこみそうな肩を支えた。想像以上に重い体に、鍛えたはずのヨアンさえもふらつきかけるが、そっとソファに横たえる。
「頭が痛むのですか? 薬などは……っ」
こんなことははじめてだった。前例があるなら対処法も準備されているかと考えたが、聖獣は小さく首を振るだけだ。
強く目を閉じて頭を押さえるから頭痛だとは思うが、薬はないし、ヨアンは魔法も使えない。
「ぐ……っ」
時折肩を揺らし、苦悶の表情を浮かべる聖獣になすすべもない。落ち着かせようと肩を撫でるだけでは、むしろ邪魔ですらある。
わかっているのに、動揺が激しくて何も考えられなかった。
役に立てたと満足した途端、これだ。
(どうしよう。誰か)
誰か助けを。ヨアンははっとして男の顔を覗き込む。
冷や汗を浮かべる額をそっと撫で、祈るように声をかけた。
「……っ、神官を、呼んでまいります。どうか、それまで……どうか、堪えてください」
一人にするのは不安だったが、ヨアンがいても何もできない。
振り切るように立ち上がり、癒し手を求めて駆け出した。
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