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 小野からの嬉しい報告の数日後、いつものように出勤をした賢木は職場の雰囲気に違和感を覚えた。
 どことなく空気がピリついている。誰かと廊下ですれ違っても、ちょこんと頭を下げられ、探るような目つきの視線を送られ、居心地の悪い思いをした。
(何か問題でもあったのでしょうか……?)
 しかし賢木が勤めるところは、朝議で決まった通達や命令、龍帝からお言葉などを紙や木簡に写し、然るべき部署へと運ぶだけの部署だ。
 もしかして、写し間違いや運び間違い、運び忘れなどがあったのだろうか。昨日は午後から税率の引き下げについての通達を書き写していた。
 雨が降らない地域があり、作物が実らないので、その地域の税率を下げたのだ。それを知らせる通達を何枚か書いた。
 賢木は紙が運ばれる前に、自分が書いたことをきちんと見直し、配布部署も間違いがないか確認しているが、同僚の小野は少し粗雑なところがある。
 意中の姫と結ばれ、浮かれていて、配布部署を間違えてしまったのだろうか。
 仕事のミスなら早く正さねばならない。賢木は職場へと急ぐ。
 部屋の前に来ると、薄い几帳越しに二人の人物が見え、ひとりは項垂れているのがわかった。その項垂れている姿はどう見ても小野にしか見えない。賢木は急いで声をかける。
「おはようございます、橘でございます。お部屋に入れていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、やっと来たのか。入れ」
「失礼します」
 賢木の呼びかけに応えたのは聞き慣れない男性の声だ。凛としていて、なぜか背筋が伸びてしまう。ただ少なくとも普段、ここに勤めている者の声でもないし、上司の声でもない。
 許しが出ると、賢木はすぐさま部屋へと入る。そして、青ざめて項垂れている小野の上座にあぐらをかき、居座っている人物を見て驚愕した。
「大変失礼いたしました、皇太子殿下」
 賢木は慌てて、小野の横に平伏をする。
 真っ青で、晴天の空のような龍角には見覚えがある。
 部屋の中にいたのは、この国の皇太子である愛仁(ちかひと)であった。
 本来なら、賢木や小野のような下級貴族では近くで見ることも、話しかけることも叶わない雲の上の存在だ。
「顔を上げろよ、そういうのは良い」
 そう言われ、顔を上げるが、まともに視線を合わせられるはずもない。賢木は横目でちらりと小野の顔色を確認すると、小野は泡でも噴いて倒れそうなぐらい、緊張で顔が白くなっている。
「小野と言ったか、お前はもういい。用があるのはこの橘賢木だけだ」
 その言葉に、今度は賢木の方が顔を青くする。
 か、かしこまりました、と噛みながら、震える声で言って、小野が急いで出ていく。余程、慌てていたのか、足を縺れさせ、部屋から逃げるようにして出ていった。
(皇太子殿下とは何も縁がないはず、直接関わることなど……)
 煌安帝国を統べる龍帝の嫡男であり、母親は摂関家出身の中宮である皇太子・愛仁皇太子殿下と言えば、文武両道かつ豪快な性格で次期龍帝として名高く、人望も厚い。成人すると同時に母方の父親を後見人として立太子され、それに異を唱える者は一人もいなかった。
 ただ色好みで、恋愛関係に関してはだらしないとは聞いている。女房や姫たちを泣かせたという少なくない話が、噂話にそこまで興味がない賢木の元にも届いているぐらいだ。
 どれだけ人望がある人物であろうと、色恋沙汰にだらしない人はあまり好きではない。
「そんな風に俯かれていたら、話もできん。俺の顔を見ろ、橘」
 そう言われてしまうと逆らえず、賢木は言われた通り、目線を上げ、愛仁を見つめた。
 艶やかな長い黒髪は後ろで一つに結われている。秀でた額は平で、眉は濃く、その下の瞳は龍角と同じく真っ青だ。鼻筋が通り、しっかりとした顔立ちは男らしく、かなりの美形だ。
 出立ちは青色を基調とした普段着だが、ところどころにあしらわれた糸の色に淡い銀色が使われている。銀、白色と、根本から先まで真っ青な龍角と伴わせて、高貴さを一層際立たせていた。
 根本から先まで色の濃い龍角は格の高い皇族の象徴であると言ってもいい。
 賢木たちのような庶民に近い下級貴族などは色が斑であったり、ところどころに薄い色の場所があったりする。
 賢木は内心、初めて目の前で見る皇族に圧倒されていた。
 賢木はふう、と息を浅くつき、一度目を閉じる。そして、神代から受け継ぐ、そのオーラに飲み込まれないよう、しっかりと愛仁を見つめ返した。
「橘、お前、小野の恋文の代筆をしたようだな?」
 そう言われ、賢木はどう応えたら良いのか考える。しかしその思考がまとまる前に、愛仁から鋭い言葉が飛んできた。
「小野から顛末は聞いている。誤魔化そうとするな」
「確かに代筆は致しました。彼の歌を口述筆記し、さる美しい姫君にお渡し、二人は無事に夫婦となる約束をした、と聞き及んでおります」
 その時、賢木の脳裏によぎったものがあった。
(そうでした、皇太子殿下は確か夏雨様に袖にされた過去がお有りでした)
 何年か前の話だ。モテることで有名な彼が一人だけ顔を見ることすらできなかった相手がいた。それが今度、小野の妻になる藤原夏雨だ。
 もしかして、それを根に持ち、必要な数の共すら連れず、一人でここに現れたのだろうか。
 いや、そうであったらおかしい。用事があるのはむしろ小野の方だろう。それに愛仁は賢木を待っていた、と言い、小野を退出させてしまった。
 賢木は気づかれないよう、僅かに眉間に皺を寄せる。
 なんだろう。代筆がバレたところで、賢木は特に何とも痛いところも、痒いところもない。強いて言えば、目立ってしまうのであまり他人にはバラされたくはないが、それもうまく交わせる自信がある。
「小野と夏雨姫との身分違いの恋の成就が広まり、巷ではな、お前のことを恋の橋渡しをする者として期待する者がおるらしい。自分が作った渾身の恋歌をお前の美しい字にのせれば、どんなに気難しい姫君でもころっと態度を変えて、靡いてくれるのではないか、とな」
「はあ……」
 だから何だと言うのだろう。というか、そこまで噂が広まっていること自体、知らなかった。それは多分に誤解を含んでいるので、早めに解いておきたい。小野は元々、芸術に関して造詣が深かった。天性の才能もあった。それがきちんと評価されただけだ。賢木の力が働いたということはほとんどない。
 しかし、いきなりそんな話をし始めた愛仁の意図が読めない。不思議に思った賢木は少し首を傾げた時、愛仁から思いもよらない提案をされた。
「橘、俺の文の代筆をしてくれないか?」
 その言葉に再び、さあ、と賢木の頭が巡る。愛仁は恋多き人物だ。どこからか、小野の身分違いの恋の噂を聞き、賢木に会いにきた。
(恋愛を道楽と考える典型的な皇族様なのですね……)
 そして、面白がって賢木に恋文を代筆させ、本当に賢木の代筆で、恋が成就するのか確かめたいのだろう。
 いずれ決められた相手と絶対に一緒にならなければならないからその前に遊んでいるのだろう。その心労もわからないでもないが、賢木の持つ信念からはあまりにもかけ離れたものであった。賢木は、遊びのような恋をする人のことを好ましく思えない。
「お断りいたします」
 考える前に口が先に動いていた。賢木は姿勢をもう一度正し、真っ直ぐに彼の青い瞳を見つめる。初っ端から断られるとは思っていなかったのか、彼は目を大きく見開き、瞬きを何度か繰り返している。
 その反応を見て、賢木はしまった、と焦った。つい拒否してしまったが、皇太子に逆らうなんて、噂になったら余計に目立ってしまうではないか。
 しかし言ってしまったことは取り消せない。
 内心ドキドキしながらも、賢木は毅然とした態度を崩さず、愛仁に相対する。
「皇太子殿下にあられましては、最近は礼泉院(れいぜんいん)様の三女様と良い仲なのではありませんか?」
「ん? ちょっと昔の噂だな、彼女とは何度か話をしただけだ。今も昔も、特にそういう関係でもない。それがどうかしたのか?」
「なら新しい恋人をお探しなのでございますね」
 また感情のコントロールができなくなり、よくもまあ適当なことを、と言いそうになってしまった。賢木は慌てて唇を引き結ぶ。
 何だかよくわからないが、腹の中で炎が渦巻いている心地がする。
 大体、皇太子から恋文が来て断る女性などまずいない。そのまま上手くいき、愛仁が龍帝になれば、中宮の位は無理であったとしても側室になることができる。そこで、皇子を産み、その子が皇太子、果ては龍帝となれば国母となることができるのだ。そんな機会をみすみす見逃すような女性など、ほとんどいないと言ってもいいだろう。
(まあ一人だけ知っていますが……)
 夏雨姫はかなりの例外なので、今は置いておく。
 賢木に代筆を頼まなくとも、愛仁が直接書くか、例えその取り巻きたちが代筆したとしても、どんな女性も愛仁に色よい返事をするだろう。
 宮中では大いに『あの姫を落とした』『あの気難しい女房と逢う約束を取り付けた』と言って、まるで恋愛を自慢のために使うような輩がかなりいる。もちろん男性だけではなく、女性にも同じ考えの人はおり、賢木は恋愛感の違いから、そういう考え方の人はあまり好きではなかった。
 恋愛を面白がっているだけ、ただの遊び、享楽としか考えていない。
 そう考えたら、何だか無性に腹が立ってきた。 
 賢木は誰とも深い関係になることはできない。恋愛どころか、誰かに恋をすること、親密になることすら自ら禁じている。どれだけ憧れても、手に入れられず、手放さなければならないからだ。それならいっそ、最初から自らを律し、そういうものとは距離を置いた方がいい、と考えている。
 もし万が一、自分に想う人ができたならば、絶対に秘めておこうと思っている。
(一体、この方はいくつ愛をお持ちなのだ。それを一つにまとめて、誰か一人を愛し抜こうとは思わないのでしょうか)
 賢木はふう、と息を吸い、一息で言葉を放った。
「恋とは命をかけてするものでございます」
 賢木は無意識のうちに胸元に手を当てた。ここには実母の形見である手のひらぐらいの大きさの手鏡が入っている。
 小野はずっと一途に夏雨姫に恋をしていた。ただどれだけ歌が良くとも、悪筆のせいで彼女付きの女房たちに止められていたのだ。
 彼の思いは彼女に届いていなかった。夏雨姫からすれば、そんな文が届いていたことすら知らなかっただろう。
 そういう状況でも、小野の思いがどれほどのものであったのか、賢木は知っている。だからこそ今回、手を貸した。
「皇太子殿下がどれほどの愛をお持ちなのかわかりません。しかし私は一つの愛に命をかけ、たった一人を愛し抜く方のお手伝いしか致しません」
 賢木はきっぱりと言い切り、口を真一文字に結んだ。
 断られることは予想外だったのだろう。愛仁の空色の瞳が僅かに開かれる。しかしそれは一瞬のことで、すぐにすっと目が細められる。そして、くっ、と愛仁が喉奥で笑う音が聞こえた。
「なるほどな……」
 馬鹿にされた、と感じたが、別に腹は立たない。たくさんの恋愛を経験してきた愛仁から見れば賢木の言葉など、幼稚な理想論にしか聞こえないのだろう。
 けれども、いくら恋愛ができなくとも、夢ぐらいは見ていたい。こういう恋をする人を応援したい、と考えることは自由なはずだ。
 さら、と下ろしている長い黒髪が顎を撫で、賢木は急いで髪を耳にかける。
「……用は、まあいい。いきなり来て悪かったな。お前の熱い思いが聞けて今日はおもしろかったしな」
「お役に立てず、申し訳ありません。何か他事でお役に立てるなら私をご指名くださいませ」
「そうすることにする」
 そう言うと、愛仁は立ち上がる。どこに潜んでいたのか侍従が出てきて、さっと几帳を上げた。
 愛仁が帰ろうとしている。賢木はまたすぐに平伏した。
「熱い思いを持ち、お前が恋の橋渡しをしていたのはわかった」
 愛仁が立ち止まった。角の付け根あたりに視線を感じ、むず痒い思いをする。何だか決まりが悪い。
「そういうお前はどうなのだ? 誰かと真剣な、命をかけるような恋をしているのか?」
 笑いを含んだ声色に賢木はカッと耳が熱くなる。きっと意趣返しだろう。しかし愛仁の挑発にのるのは、恋に夢を見ることよりも子供じみた行為のように思え、喉元で怒りを抑える。
「皇太子殿下に比べたら、些細なものでございます」
 今、賢木ができる精一杯の皮肉だ。それにこの年齢で誰とも良い仲になったことがないことを知られたくはない。賢木の身体の秘密にも関わってくるからだ。なのでわざと曖昧に、どちらとも取れるように応えた。
 賢木は平伏したまま、畳の香りをゆっくりと吸い込む。青臭く、香ばしい香りに幾分心が落ち着く。
 ほお、と探るような声が愛仁からかけられた。賢木は何も言わず、そのまま平伏している。そして、足音が完全に遠くなってから賢木は顔を上げた。
「皇太子というのは暇なのですか? このようなところに来て、うだつの上がらない下級貴族二人をからかって帰っていくなんて……」
 愛仁がいたところには甘い香の香りが漂っている。きっと彼が衣服に焚いている物だろう。
 賢木は顔を顰めながら、部屋の几帳を全て上げ、風通しを良くし、彼の残り香を消そうとしたが、なかなか部屋から消えなかった。
 
「橘、お前宛に文が届いているぞ」
 小野から何気なく手渡されたが、賢木は嫌な予感がして、受け取るのを少し躊躇った。
 小野からはあの後、ものすごく心配をされた。何があったのかをしつこく聞かれたので、正直に応えると、また顔を青白くされて、更に心配されてしまった。
『皇太子殿下の申し出を断るなんて、クビがとんでもおかしくない』なんて、小野の方が恐怖していたので、あれから何もないから大丈夫だと言ったが、小野はまだ賢木を心配しているようだ。
 もう一度、小野が持つ文に視線を落とす。
 まず上質な紙だ。これを何気なく使える人物というと、人数が限られてくる、それにどこかで嗅いだことのある甘い香りがした。これが受け取るのを躊躇った一番の理由だ。
「甘ったるい香りがする紙ですね……」
 何だか文と言いたくなくて、わざと紙と呼び、顔をしかめる。
「そうか? 何の香りもしないぞ」
 くんくん、と小野が文に鼻を近づけている。賢木の鼻にはつん、とつくほど香っているのに小野は何も感じないらしい。
 それに小野は賢木の微妙な機嫌の変化に気がついた様子はない。つくづくおめでたい性格だと思うが、そこが彼の美点でもあるので、あまり突っ込まないことにしている。
 引き取るのを少し躊躇うと、不思議そうな顔を小野がするので、賢木は仕方なく文を持ち、自分の席へと戻った。
 開けると、予想通りの相手からであった。
『お前に頼みたい仕事がある。二日後、またこの前と同じ時刻にお前の職場を訪ねる。 遍雲宮愛仁(へんうんのみやちかひと)』
 育ちの良い字だ、と直感的に思った。まるで教本のように一寸一分違わない字。教科書から取り出してきたのだろうか。
(こんな綺麗な字でしたら、私の代筆などいらないでしょうに……)
 しかしだからなのか、あまり個性、人間味が感じられなかった。
 字にはその人の個性が現れるものだ。そそっかしいところがある小野は悪筆だが、丸っこくて優しい。武士たちから上がってくる書類の字はやはりどこか素早く、厳しい雰囲気を感じ、どこかの上級貴族の三男坊の書く字はのんびりと間伸びしていて、その人のおおらかさを表している。
(私の字は……、まあ美しい部類には入るのでしょうが……)
 自分で自分のことを評価するのは難しい。それに誰もが読む書類を書くことが仕事であるので、仕事中は賢木も愛仁が寄越した文のように、教本のような字を書く。
 だがこれは愛仁から賢木への私的な文だ。賢木以外の誰かに見られる可能性が低いのだから、崩して適当に書いたって良い。
 誰かの代筆の可能性も考えたが、皇太子直筆の名前が入っており、その字体と変わらないので、まず愛仁が書いたもので間違い無いだろう。
(もっと癖のある字だと思っていました……、これが皇族?)
 何だかわからないが、予想を裏切られ、賢木の中に少しだけ愛仁に対して興味が生まれた。
 皇太子然とする姿なんて、新年の挨拶の時とか、立太子の儀の時の豆粒ほどの大きさでしか見たことがない。
 五年前の立太子の儀、賢木は養父と共に出席をした。下級貴族のため、近くに行くことは叶わず、一番端にも近い場所で豆粒くらい小さな愛仁を見た。
 真っ青な龍角が印象的だった。その日は晴れていたが、雲が時折空にかかり、白い雲と空色の愛仁の龍角のコントラストが美しくて印象深く脳裏に残っている。
 だから、初対面のあの時も、龍角の特徴からすぐに愛仁だと思いたったのだ。
 しかし所詮は雲の上の存在。愛仁の人となりなど、最近までは他人から聞く多少誇張された噂でしか知らなかったし、それもあまり間違ったものではなかったと感じている。
 なので、初対面で小野を多分に緊張させ、ふざけて『文を書け』なんて言ってくる姿の印象が強く、この字と愛仁が結びつかない。余計に不思議な思いに駆られる。
(まあ恋文の代筆ならまたお断りしますけれども)
 気が進まないながらも、賢木は了承の返事と、こちらからお伺いします、といった旨の返事をすぐに書くと、廊下で待ってくれていた小野に手渡した。
 
 結局、愛仁がまたこちらに出向いてくれることになった。
 下級貴族である賢木はもちろん龍帝やその妃、家族が住まう帝居に許可なく立ち入ることはできないし、理由も相応のものが必要だ。なので、愛仁が住む東宮に近いところに場所を借り、そこで話を聞こうとしたのだが、めんどくさい、と断られてしまった。
 そう言われてしまっては仕方ない。以前のように宮中でも端に建てられ、長い間改修もされていない、鄙びた賢木の職場で迎えるしかない。
 共も最低限しか連れて行かないから、仰々しい出迎えもやめろ、と既に愛仁から賢木の上司に釘が刺されていた。そういう根回しは正直、ありがたい。
 賢木は職場へと向かう。約束の時刻の三十分前だ。流石に皇太子よりも遅く入るわけには行かない。
 まだ時間はたっぷりあるのに廊下を歩く足はいつもよりそそ、と早くなってしまう。
 角を曲がった先に部屋はある。賢木が素早く角を曲がると、甘い香りが奥から香っていた。
(こ、これは皇太子殿下がお召し物に焚かれているお香では……⁉︎)
 最初に来た時、部屋に残っていた残り香と送られてきた文についていた香りと同じ香りが鼻についた。
 まさか時間を間違えたのだろうか。いや、そんなはずはない。
 時間を間違えたとか、間違えていないとかそういうことはもうどうでもいい。ただ『皇太子である愛仁よりも賢木の方が遅かった』『賢木の出迎えがなかった』という事実の方がかなり深刻なのだ。
 賢木は廊下を走る。どんどん香りが強くなっていき、やはり愛仁が部屋の中にいるのだと確信する。
「皇太子殿下! 橘です! お待たせしてしまい、申し訳ありません! お部屋に入れていただけますか!」
 さっと几帳が上げられた。朝焼けに照らされた愛仁はやはり非の打ちどころもないほど、美丈夫だ。今朝は頭の高いところで髪を一つに束ねており、美しい空色の上衣を羽織っている。
 部屋の中で愛仁は賢木が書いた書類を物色していた。
「も、申し訳ありませ……!」
「良い、近くへ」
 平伏しようとした賢木を愛仁が手で制し、手招きする。
 表情から察するに、怒ってはいないようで安心する。賢木は少しだけ緊張を和らげ、手の中へ折り込んでいた親指を解放した。
 予定よりもこんなに早く来るなんて、意外だった。もっと皇族らしく、遅れてやってきて、また偉そうに『代筆しろ』と言われるのでは、と思っていた。
 近くへ、と呼ばれたので、側に座るが、落ち着かない。愛仁は熱心に賢木の書き写した文書、木簡、書類を眺めている。
 何がしたいのだろう。だがあまりにも熱心に見ているから声もかけづらい。
 書類は仕事上のもので、賢木自身の私生活に関するものはない。だが見られていると何だか落ち着かない気分になってしまう。
 そわそわ、と目線を泳がせてしまった。これでは賢木が何か隠していて、愛仁がそれを探しにきた官吏みたいだ。
 相変わらず愛仁の侍従たちは気配を消していて、いるのかどうかさえわからなかった。だが賢木が部屋へと入る時にさっと几帳があげられたから、側には侍っているのだろう。
 静かな部屋に愛仁が紙を捲る音だけが響いている。
「この前はいきなり来て悪かったな」
 しばらく経ってから、突如、沈黙を破るように愛仁は言葉を発した。
「いえ……、こちらこそ、本日はお出迎えも出来ず、皇太子殿下をお待たせしてしまい、申し訳ありません」
「気にするな、俺が早くお前に会いたかっただけだ」
「はあ……」
 いきなりそんなことを言われて、賢木の愛仁に対する警戒度が上がっていく。そう言って、おだてて、恋文の代筆を断りにくくする作戦だろうか。 
「それにしても綺麗な字だ、本当に読みやすい。これ、仕事ができるヤツの字だな」
 愛仁がニッカリと笑いながら差し出してきた文書は、とある降嫁された内親王のご懐妊を報告するものだ。
 おめでたいことなので、堅苦しく書くのではなく、華やかに書いた。少し字を崩して書いたものである。
「ありがとうございます、殿下から受け賜わりました文の字も大変お上手でございました。まるで教本からそのまま切り取ったかのような、お手本のような……」
「個性がないだろう?」
 そう言った愛仁から、いつものような堂々とした雰囲気が薄れている気がした。先ほどと同じように笑ってはいるが、少し元気がない。
 雰囲気もあいまって、賢木は言葉に詰まってしまう。褒めたつもりなのだが、あまり良くなかったのだろうか。
「いえ、個性……、ええと」
 確かにやり取りをした文を見て同じような感想を持った。意外だとは感じたものの、しかしそれが悪いことだとは思わない。文章や字は相手に伝わらないと意味がないからだ。小野の件がそれを物語っている。
「言いたいことや伝えなければならないことが伝わればいいと、思いますよ。まずそれが基本ですから」
「……そうだな」
 微妙な間の後、愛仁がぼそっと気のないように呟く。そして、手に持っていた文書を箱に戻すと、上座の方へと歩いていき、腰を落とした。
 賢木も愛仁へと向き直る。
「今日の俺はな、凝りもせず、お前に文の代筆を頼みにきたわけだ」
 それを聞き、賢木は眉間に皺を寄せる。この前、きつく断ったのにどうしてまたそんなことを言い出したのだろう。
「恋文ならお断りだと、以前も申したはずですよ」
「恋文ではない、俺の妹への文だ」
「妹君……?」
「というか、前もそのことでお前のところに伺ったんだがな、とんだ勘違いをされてしまって……、あれは面白かった」
 予想外の言葉が出てきたので、鸚鵡返しのように言われた言葉を呟く。そして、次の言葉で更に驚く。賢木はわずかに目を見開き、口元を手で覆った。
 恋文だと最初から決めつけていた。次第に自分の勘違いが明らかになっていき、顔が白くなっていく。
(ご家族の方への文だったのですね)
 ようく思い返してみると、初対面で話した時も『文の代筆』とは言っていたが、『恋文の代筆』と、愛仁は言っていなかった気がする。
 思い込みから大きな誤解をしていたことがわかり、途端に恥ずかしくなってきた。親指を手のひらに握り込むと、かあーっと顔が暑くなってくる。『恋とは命懸けでするもの』なんて、見当違いも甚だしい、恥ずかしいセリフを強気でよく言ったものだ。
 賢木は愛仁の顔が見られず、俯く。
「も、申し訳ありませんっ、とんだ勘違いをしておりました……」
 恥ずかしくて消えてしまいたいが、謝罪だけはしなければ、と思い、あえて大きな声を出す。震えてしまったが、仕方ない。
「いや、俺が女性にだらしなかった時期が合ったのも事実だ。それが広まっていて、恋愛に対して信念を持つお前からしたら、俺は軽蔑する対象だったんだろう」
「いや、軽蔑とまではさすがにいきませんよ」
「あの時、訂正しなかった俺も悪かったしな。何だか久々に熱い思いを感じさせられてな、言い出す機会を失ってしまった。すまない」
「そんな……、勝手に決めつけて、誤解をしていた私が悪いのです。殿下が謝罪なさることはありません」
 本当に恥ずかしい。そして、その償いに今回の依頼はきちんと受けようと心に誓った。
「妹君と申されましたが、どちらの方でしょうか?」
 愛仁には腹違いの妹が何人かいる。誰に文を送りたいのだろうか。
「一番末だ。詩空(うたから)といえばわかるか?」
「詩空内親王様ですね、確か身体があまり丈夫ではなく、お屋敷に篭りきりだとか」
 まだ十二歳ほどの年齢であったはずだ。母親の身分が高くなく、龍帝からの寵愛も途切れがちで、皇族の中では厚遇されているとは言い難い。病弱で、降嫁するにも相手が見つかっていないとのことだ。
 愛仁が詩空のことを気にかけているとは意外であった。皇族とはもっと殺伐としていて、同じ兄弟であっても、仲が良くないことが多い。母親の身分や派閥であったり、政治的な闘争や駆け引きが例え、兄弟間でも絶えないからだ。
「最近、乾いた日々が続いているだろう。もう梅雨に入り、湿った空気が入り込んでもいいはずなのにな。詩空は肺や喉が弱くてな、この乾きがどうも身体に響いていて、具合があまり良くないらしく、屋敷で塞ぎ込んでいるらしい」
 なるほど、肺や喉を痛めている妹を労わり、慰める手紙か。
 しかしそれなら一つの疑問が賢木の中に湧く。
「それは……、兄である殿下が直筆でお書きなさった方が詩空内親王様も喜ぶのではないでしょうか?」
 聞いた感じでは詩空と愛仁の関係は悪くないだろう。
 代筆を立てるよりも、兄から直接、手書きで送られてきた文の方が、例え腹違いであったとしても、喜ばれるのではないだろうか。
 賢木がそう言うと、愛仁は、はは、と大きく笑った。
「それがな、この前、返ってきた詩空からの文に『お兄様の字はまるで教本から飛び出してきたお手本のよう。お勉強をさせられているみたいで面白くない』と書かれてしまったんだ」
「それは……」
 うーん、と賢木も首を捻ってしまう。詩空の人となりを知らないので、冗談で言っているのか、それとも本気の、少女特有の残酷な本音を語っているのか、判断がつかない。それにどんな内容を送っているのかにもよるだろう。
「どうだ? やっぱり代筆はダメか?」
「いや、ダメではないのですが……」
「なら決まりだ! 紙は持ってきたから。ほらほら、机の前に座れ」
 愛仁が立ち上がると、横からひょいと紙を持った手が出てきた。相変わらず気配の薄い侍従たちだ。愛仁は何気なくそれを受け取り、賢木に近づいてくる。賢木も急いで立ち上がった。
「この紙を使ってくれ」
 雪のように真っ白の紙だ。不純物は入っていない上等なものだろう。目もぴっしりと定められ、手触りもかなり良い。主に重要な書類などで使われるような代物だ。
 しかし、とここで賢木は考えてしまう。
(これは……、確かに教本……)
 この上等な紙にお手本のような愛仁の文字を浮かべてみる。
 十二歳の病弱な女の子に送るものとしてはあまりにも味気ないものではないだろうか。
「もしかして……、今までこの紙で内親王様への文を送っていたのですか?」
「ん? そうだが?」
 賢木よりも幾分か背の高い愛仁を見上げると、質問の意図がわからない、とでも言うような不思議な表情をしていた。
「紙に何か問題あるのか?」
「問題というか、なんというか……」
 賢木は再び目線を上質な真っ白い紙に落とす。
「こういう言い方は神代からの龍神の貴き血統を引き継がれる皇族の方々には大変失礼な言い方なのかもしれませんが……」
 一応、長ったらしい前置きをしておいた。
「内親王様は十二歳のまだ可愛らしい盛りの少女でございますよね……、そして、お身体が弱く、病弱で、最近は病に苦しんでいらっしゃる」
 ああ、と短く返事をされる。そんなこと、お前よりも俺の方が詳しいぞ、と言いたげな視線で見られ、何もわかってないな、と賢木は確信する。
「でしたら、可愛らしい色紙や、香りがついたもの、季節の花を添えるとか、そういうものの方がよろしいのではないですか?」
「おお! なるほど!」
 賢木の言葉に、愛仁の目が大きく開かれ、両手が打ち鳴らされた。小気味よい音が部屋に鳴り響く。
「それは思いつかなかった。橘、お前さすがだな」
「いいえ……、お可愛らしい内親王様のお言葉の裏にあるお気持ちを考えたら、もしかしたらそうではないのか、と考えただけでございますよ」
「色紙や香紙か……、どうするか」
 愛仁の顔が難しそうに顰められている。
 ここで何か、賢木は違和感を覚えた。女性とよくやりとりをしたり、恋愛をしているのなら、こういうちょっとした気遣いや華やかさは当たり前に思い浮かぶのではないだろうか。それとも、相手は妹なので、思いつかなかっただけなのだろうか。
 とにかく、どうやらすぐに用意ができない雰囲気を感じ取る。
 賢木の屋敷には数年前に亡くなった養母が趣味で集めていた美しい色紙や芳しい香りのする香紙が残されている。
 自分では使う予定もない。そんな色紙や香紙で手紙を渡すような相手もいないが、養母が大切にしていたものなので、捨てるに捨てられずに残してあった。
「私の屋敷には上等な色紙や香紙がたくさん残されています。亡くなった母が集めていたもので状態もかなり良いです。私は使う予定がありませんので、いくつか見繕ってまた後日、お持ちしましょうか?」
 本当は、『いつか賢木に大切な人ができたときに使ってほしい』と言われていたものだが、そんな日が来る事はないだろう。養母もわかっていて、死の間際だからこそ、あんな夢のようなことを呟いたのだろう、と考えている。
 それに紙も、使われないでずっと屋敷の隅に置いておかれるよりも、誰かのために使われた方がよほどいい。
「いや、俺がお前の屋敷に行く」
 愛仁から放たれた言葉に驚き、賢木は思わず目を丸くして見上げてしまう。
「む、無理です、うちのボロボロの屋敷なんて……、とてもじゃないけれど殿下をお出迎えなどできませんよ! 使用人もほとんどおりませんし!」
「出迎えなんて俺が求めたことなんか、一度もないだろう。それにこれは私用だ。正式にお前の屋敷へ行くわけではないからそんなに畏まらなくとも良い」
「しかし……、もうすでに殿下には二度も足をお運びいただいておりますし、その上、私の屋敷までなんて……」
「構わん、紙もいくつかあるんだろう? 俺も直接見て選んだものを詩空に送ってやりたいしな、ああその紙はやろう。俺には必要、無くなったものだ」 
「あ、ちょっとお待ちください! なぜ帰ろうとなさるのです、まだ話は……!」
 もう話は決まった、とばかりに部屋を出て行こうとする愛仁を追いかける。
 皇太子が下級貴族の賢木の屋敷に来るなんてとんでもないことだ。こうして話をしていること自体、奇跡のようなものなのに。
「また日にちや時刻を決めて、文を送る」
「殿下!」
 タイミングを見計らったように、侍従の手によって几帳が挙げられ、愛仁は廊下に出てしまった。
「今度は橘の屋敷か、楽しみだな!」
 廊下ではははっ、と愛仁は大きな声で笑っている。大声で呼び止めるわけにも、跡を追い掛け、縋りつき、無理やり止めるわけにもいかない。
 賢木が廊下に出て、口をぱくぱくさせていると、愛仁は大股で素早く廊下を曲がり、姿が見えなくなってしまった。
 全然楽しみではない。非常に困る。迷惑だ、とまでは言わないが、うちの数少ない使用人たちがびっくりしてしまうだろう。
(強引なのか、豪快なのか……)
 とりあえず部屋に戻る。すると、何だかどっと疲れが押し寄せてきて、賢木はその場にへたり込んだ。
 無理やり渡された紙からまた甘い香りがしてきて、賢木はふう、とため息をつく。
(この紙は……、何か大切なものを書くときにでも使おう)
 今は愛仁が自分の屋敷に来る、ということで、どうすれば良いのか、頭がいっぱいだ。
(私はひっそりと静かに生きたいだけなのに……)
 皇太子と接点を持ってしまうなんて、これまでの人生の計画にはなかった。いいことなのか、悪いことなのか判断がつかない。
 野心があり、出世を望む者なら、ここまで目をかけられたら嬉しいだろう。けれど賢木はそう言ったことは一切望んでいない。
(けれど、けれども……) 
 皇族特有の強引さがあろうと、病弱な妹を思う優しい愛仁の兄としての気持ちを無視したり、邪険に扱うことはできなかった。
「はあ~」
 賢木は思わず畳に足を投げ出し、大の字になって寝転がる。
 寝返りを打つと、ちょうど床に広がった黒髪の先に陽光が反射しているのが見えた。
(どうしましょう……)
 まず屋敷で働く使用人たちになんと説明すればいいのか、賢木は頭を悩ませた。
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