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白衣を着た学者が感心したように頷く。
「これほど大きなもの、ましてや蕾も初めて見ました」
「十年前も同じように蕾をつけていたんですけれどね、私は開花の瞬間は見ることができませんでした」
時はもう夏の盛りになっていた。温室にいると汗ばんでくるので、体調を心配した侍女が時折、飲み物を持って休憩を促してくる。
「メアリル様、お休みになられてはどうですか? 汗が冷えるとお風邪を召されますよ」
「ありがとうございます、大丈夫ですから」
ガラスのコップに注がれたよく冷えたレモン水を音を立てて飲む。横の学者にも同じものが振る舞われていた。
レモン水を飲みながら学者は蕾に触れた。
「これは咲いてはいませんね。蕾をつけたまま、ずっとこのままなのです、十年前から」
「それでは腐ってはしまいませんか?」
「そこが不思議なところなのですよ。わたしたちもそもそもここまで大きな朱天蘭を見るのは初めてですからね……」
十年前、メアリルとラインハルトが見損ねたと思っていた朱天蘭の開花は未だに行われていなかったらしい。
「それならばここには鉢植えが五つありますから一つ、お持ち帰りください。研究に役立ててもらえれば幸いです」
「いいえ、それがね、おそらく世話するのが白狼一族でなければならないんですよ。わたしたちが研究所に持って帰ったとして、すぐに枯らしてしまうでしょうから」
学者はメアリルの白狼耳に視線を移した。
「かつて、同僚に白狼の者がいました。やっぱり彼女しか育てられなかったんです」
学者は懐かしむようにメアリルの白狼耳を見ている。
「彼女でも開花させることはできませんでした。まあ赤月夜を待たずに病死をしてしまったのですが……」
「そうだったのですね……」
それから二人で、開花する際の日照時間の話や、最近出てきた植物にだけかかる病の話などをした。
王都から追放され、辛い日々を送っていた十年間、暇さえあれば植物図鑑や植物関係の本を読み漁っていた。
遠方なので頻繁に書物が入ってくるわけではない。なので、何度も何度も、暗記するぐらい同じ図鑑や書物を読み返していたのだ。
「メアリル様の知識や技術は十分わたしが勤める研究所でも通用いたします。どうですか、週に一度でも構いません。お勤めになりませんか?」
「ええと、それは……」
メアリルには判断がしかねる。学者はおそらくメアリルの知識の深さに感心していて、メアリルの立場のことが頭から抜け落ちているに違いない。
「先生! メアリル様は貴重な白狼一族というお立場です。それに今は国王陛下の寵愛を一身に受けるオメガのお方。アルファの多い研究所になど、勤められるはずがないでしょう! あまりメアリル様をお困らせにならないでください」
本当を言えばやってみたい。研究所で学問として植物を栽培するなんて面白そうだ。だが正式に学校で習ったわけでも、専門教育を受けたわけでもない自分が研究所なんかに勤められるのだろうか。
メアリルが困っていることに気がついた侍女が割って入ってくれたが、少し論点がずれていて、メアリルは曖昧に微笑んだ。
それでも学者は引かなかった。
「いや、勿体無いですよ。これほどまでの人材をこの小さな温室に留まらせておくなんて。ぜひ国王陛下にもご相談ください」
「陛下とも相談してみます。良い返事が出来そうでしたら、お手紙をお送りしますね」
「ええ、ぜひ」
メアリルは学者が帰っていくのを侍女と見送った。
王都へ帰ってきて、二ヶ月が過ぎた。王妃という立場を断ったメアリルに与えられた地位は愛妾というものだった。
要するに国王の愛人だ。ラインハルトには王妃はおらず、愛妾もメアリルしかいない。メアリル以外に愛人も妃も取るつもりがないと宣言されている。
疲れを感じたメアリルは温室の外の椅子に腰掛けた。気の利いた侍女が再びレモン水を差し出す。ありがとうございます、と言って受け取り、一口飲んだ。
(愛妾、愛人……)
王都に来た当初、みんなは自分のことを悪く思っているだろうと考え、怖かった。
淫らな白狼がまた国王を誑かして、王都に戻ってきた、と思われていたらどうしよう、と眠れない日もあった。
また自分のことで、ラインハルトにまで影響を与えたら、と思うと、怖くて仕方なかったのである。
けれど、思っていたよりもみんなメアリルを温かく迎え入れてくれていた。
十年前の事件を知る人があまりいないのも意外だった。確かに顔ぶれが一新されているなあ、と感じている。王宮といえば人の出入りが激しいものだろう。そういうこともあるのかもしれない。
知っている人がいても、可哀想に、とメアリルに同情の目を向けてくれる人の方が多かった。
それがとても不思議だったが、不安でたまらなくて仕方なかったメアリルからすれば、涙が出るほど嬉しかったのだ。
愛妾と言っても、メアリルはほぼ温室にいる。花を育て、土をいじり、植物を栽培する。庭は侍女や庭師たちが主に管理しているが、たまにメアリルも手伝っていた。
温室では、十年前と同じように季節外れの花を咲かせようとしたり、エスターライヒ王国の気候では栽培が難しい植物を育てていた。
今日の学者は朱天蘭の噂を聞きつけてやってきた一人だ。懇意にしている貴族からメアリルの話を聞いたらしい。
(研究所……、学問としてそういうことをするのも面白いかもしれないなあ)
誘われて、興味が惹かれなかったわけではない。きっと楽しいだろう。今よりも栽培できる植物の幅が広がり、人々を喜ばせることができるかもしれない。
考え込んでいると、ラインハルトが近づいて来るのがわかった。今日の彼からは目覚めた若葉のような、爽やかな香りがする。
陛下、と言い、立ち上がり、頭を下げようとすると、そのままで、と制される。
そしてメアリルの横に腰掛けた。
「何だか考え込んでいるな、今日は学者が来る日ではないのか?」
「もうお帰りになられました。朱天蘭は白狼一族の者でないと育てられないようです」
「そうか、それならここにはメアリルがいるから良いな。今度こそ、二人で開花するときを見よう」
赤月夜は十年周期。ちょうど来月の中旬ごろに来ると言われている。
「儀式は良いのですか? 祝いの宴などがあるでしょう?」
「俺が出なければいけないものだけは出て、あとは任せてくる。お前も出るか?」
「いいえ、私はそういうものに興味はありませんし、今は神官でもないですから……」
「そうか、なら無理に、とは言わない」
そう言って手を握られる。メアリルもラインハルトの手を握り返した。
あれ以来、口付けすらしていない。抱きしめられたりもなく、愛妾と言いながら身体の関係もない。
ただ手に触れられるだけだ。
国王であるラインハルトは公務で忙しい。けれどもこうやって日に一度は必ず時間を作って、メアリルに会いに来てくれる。
「学者様に週に一度でも良いから、研究所で共に働かないか、と誘われました。私の持っている知識や技術は十分通用するようです」
「お前がやりたいのなら許そう」
ラインハルトの視線の先には色とりどりの花が植えられた花壇がある。機嫌が良さそうに、ラインハルトは鼻を鳴らした。
「やりたいか、と言われればやってみたいです。けれども、大丈夫なのでしょうか?」
「俺の許可が必要か、ということか? 許す、と言ったぞ」
「それもありますが……」
今のメアリルの役目はラインハルトの愛妾だ。その役目を果たせないのに自分のやりたいことを優先しても良いのだろうか。
なかなか、自分からは言い出しにくい。今でも自分はここにいるべきではないのではないか、と思うこともあるのに。
「白い髪も、頬も触れたくなるほど艶やかであるのに、指先だけはカサついているな」
突然、ラインハルトはメアリルの指先を自分の指で弄ぶ。
「……不快ですか?」
されるがままになりながら、メアリルも触れられている指先を見つめる。
それなら土いじりも植物の栽培もやめなければならない。ラインハルトがそう望むのなら。
愛妾という立場は本来、閨で国王を癒し、慰めることが役目だろう。
なのに、メアリルは名ばかりの地位に落ち着き、好きなことばかりしている。
それでラインハルトは満足しているのだろうか。
(私がここで果たさなければならない役目って何なのだろう)
メアリルの存在について、今のところ、何か言う人がいないとはいえ、メアリルが罪人であることには変わりない。
現国王が王太子であった時に発情期で誘惑した大罪人だ。普通なら、極刑が出るところを大神官の尽力と、白狼一族であるからという理由で、王都追放となった身なのだ。
ラインハルトと同じようにメアリルも前を見据える。
美しい花々と整理された遊歩道。初代国王と聖狼アスティツァーリアが仲睦まじく見つめ合う銅像が視界に入った。
優しくされて苦しい。本当ならラインハルトに迷惑をかけないよう、ここを出ていかなければならないだろう。
頭ではそうやって考えているものの、メアリルはラインハルトと離れたくない、と強く感じた。
彼を受け入れたい、もう傷つけたくない。
王妃として、国王としての彼も支えたい。
(私が罪人でさえなければ……)
きゅ、と服を握りしめていた指先を優しく揉まれた。爪に触れられ、するり、と撫でられる。
「まさか。俺はそんなお前の指先が好きだ。一生懸命、何かを頑張っている者の手だ」
ラインハルトはメアリルの手を取り、自分の鼻先へと押しつける。そして目を閉じ、香りを深く吸い込んだ。
「俺は白狼ほど、鼻は良くない。けれど指先からは土の香りや、草花の汁の香り、お前の指先に悪戯を仕掛ける虫の香りがする。好きだ、とても」
久しぶりに好きだ、と言われ、メアリルは胸が高鳴る。顔が熱くなった。しかしラインハルトから目が離せない。そのまま指先に軽く口付けされてしまった。
「一生懸命なお前が好きだ……、俺は気持ちを伝えていくが、お前はゆっくりで良い。いつか俺を受け入れてくれたらそれだけで良いんだ」
そう言って、ラインハルトはポケットから無香料のハンドクリームを取り出す。
鼻がよく効くメアリルには、王都で流行っているような香料がきついものは使えない、と言って。
メアリルのカサついた指先を軽く揉みながら、ハンドクリームを塗っていく。
ラインハルトの指先は節が高く、また手のひら全体も大きい。爪は綺麗に切り揃えられているが、とてもじゃないけれど、こんなにも繊細に、壊れ物を扱うように何かに触れるようには見えない。
けれど実際、メアリルに触れるラインハルトは優しい。そっと大切な何かを扱うように触れる。
メアリルはラインハルトを見上げる。そして赤い瞳に必死さを滲ませながら、口を開いた。
「私は罪人で……、こんなに良くしてくださって、好いてくださっているのに……、貴方に迷惑をかける存在でしかなくて……」
「みなまで言うな、どれだけ俺が言ったところで、お前の中で整理がつかなければきっと納得はいかないだろう。良いんだ、俺は待っているから。それに俺の方でも動いている。だから心配をするな」
肩を引き寄せられる。メアリルは息を深く吸い込んだ。
いつもの香りに加えて、日向の香りを感じた。これは慈しみの香りだ。
本心からラインハルトがメアリルを思っている証拠だろう。
(ラインハルト様、お慕いしております)
まだ心の中でしか言うことができない。
いつか自分の中で整理がついたなら、名前で呼んでみたい。ラインハルト様、と口に出して呼んでみたい、と思い、メアリルはラインハルトに身体を預けた。
「これほど大きなもの、ましてや蕾も初めて見ました」
「十年前も同じように蕾をつけていたんですけれどね、私は開花の瞬間は見ることができませんでした」
時はもう夏の盛りになっていた。温室にいると汗ばんでくるので、体調を心配した侍女が時折、飲み物を持って休憩を促してくる。
「メアリル様、お休みになられてはどうですか? 汗が冷えるとお風邪を召されますよ」
「ありがとうございます、大丈夫ですから」
ガラスのコップに注がれたよく冷えたレモン水を音を立てて飲む。横の学者にも同じものが振る舞われていた。
レモン水を飲みながら学者は蕾に触れた。
「これは咲いてはいませんね。蕾をつけたまま、ずっとこのままなのです、十年前から」
「それでは腐ってはしまいませんか?」
「そこが不思議なところなのですよ。わたしたちもそもそもここまで大きな朱天蘭を見るのは初めてですからね……」
十年前、メアリルとラインハルトが見損ねたと思っていた朱天蘭の開花は未だに行われていなかったらしい。
「それならばここには鉢植えが五つありますから一つ、お持ち帰りください。研究に役立ててもらえれば幸いです」
「いいえ、それがね、おそらく世話するのが白狼一族でなければならないんですよ。わたしたちが研究所に持って帰ったとして、すぐに枯らしてしまうでしょうから」
学者はメアリルの白狼耳に視線を移した。
「かつて、同僚に白狼の者がいました。やっぱり彼女しか育てられなかったんです」
学者は懐かしむようにメアリルの白狼耳を見ている。
「彼女でも開花させることはできませんでした。まあ赤月夜を待たずに病死をしてしまったのですが……」
「そうだったのですね……」
それから二人で、開花する際の日照時間の話や、最近出てきた植物にだけかかる病の話などをした。
王都から追放され、辛い日々を送っていた十年間、暇さえあれば植物図鑑や植物関係の本を読み漁っていた。
遠方なので頻繁に書物が入ってくるわけではない。なので、何度も何度も、暗記するぐらい同じ図鑑や書物を読み返していたのだ。
「メアリル様の知識や技術は十分わたしが勤める研究所でも通用いたします。どうですか、週に一度でも構いません。お勤めになりませんか?」
「ええと、それは……」
メアリルには判断がしかねる。学者はおそらくメアリルの知識の深さに感心していて、メアリルの立場のことが頭から抜け落ちているに違いない。
「先生! メアリル様は貴重な白狼一族というお立場です。それに今は国王陛下の寵愛を一身に受けるオメガのお方。アルファの多い研究所になど、勤められるはずがないでしょう! あまりメアリル様をお困らせにならないでください」
本当を言えばやってみたい。研究所で学問として植物を栽培するなんて面白そうだ。だが正式に学校で習ったわけでも、専門教育を受けたわけでもない自分が研究所なんかに勤められるのだろうか。
メアリルが困っていることに気がついた侍女が割って入ってくれたが、少し論点がずれていて、メアリルは曖昧に微笑んだ。
それでも学者は引かなかった。
「いや、勿体無いですよ。これほどまでの人材をこの小さな温室に留まらせておくなんて。ぜひ国王陛下にもご相談ください」
「陛下とも相談してみます。良い返事が出来そうでしたら、お手紙をお送りしますね」
「ええ、ぜひ」
メアリルは学者が帰っていくのを侍女と見送った。
王都へ帰ってきて、二ヶ月が過ぎた。王妃という立場を断ったメアリルに与えられた地位は愛妾というものだった。
要するに国王の愛人だ。ラインハルトには王妃はおらず、愛妾もメアリルしかいない。メアリル以外に愛人も妃も取るつもりがないと宣言されている。
疲れを感じたメアリルは温室の外の椅子に腰掛けた。気の利いた侍女が再びレモン水を差し出す。ありがとうございます、と言って受け取り、一口飲んだ。
(愛妾、愛人……)
王都に来た当初、みんなは自分のことを悪く思っているだろうと考え、怖かった。
淫らな白狼がまた国王を誑かして、王都に戻ってきた、と思われていたらどうしよう、と眠れない日もあった。
また自分のことで、ラインハルトにまで影響を与えたら、と思うと、怖くて仕方なかったのである。
けれど、思っていたよりもみんなメアリルを温かく迎え入れてくれていた。
十年前の事件を知る人があまりいないのも意外だった。確かに顔ぶれが一新されているなあ、と感じている。王宮といえば人の出入りが激しいものだろう。そういうこともあるのかもしれない。
知っている人がいても、可哀想に、とメアリルに同情の目を向けてくれる人の方が多かった。
それがとても不思議だったが、不安でたまらなくて仕方なかったメアリルからすれば、涙が出るほど嬉しかったのだ。
愛妾と言っても、メアリルはほぼ温室にいる。花を育て、土をいじり、植物を栽培する。庭は侍女や庭師たちが主に管理しているが、たまにメアリルも手伝っていた。
温室では、十年前と同じように季節外れの花を咲かせようとしたり、エスターライヒ王国の気候では栽培が難しい植物を育てていた。
今日の学者は朱天蘭の噂を聞きつけてやってきた一人だ。懇意にしている貴族からメアリルの話を聞いたらしい。
(研究所……、学問としてそういうことをするのも面白いかもしれないなあ)
誘われて、興味が惹かれなかったわけではない。きっと楽しいだろう。今よりも栽培できる植物の幅が広がり、人々を喜ばせることができるかもしれない。
考え込んでいると、ラインハルトが近づいて来るのがわかった。今日の彼からは目覚めた若葉のような、爽やかな香りがする。
陛下、と言い、立ち上がり、頭を下げようとすると、そのままで、と制される。
そしてメアリルの横に腰掛けた。
「何だか考え込んでいるな、今日は学者が来る日ではないのか?」
「もうお帰りになられました。朱天蘭は白狼一族の者でないと育てられないようです」
「そうか、それならここにはメアリルがいるから良いな。今度こそ、二人で開花するときを見よう」
赤月夜は十年周期。ちょうど来月の中旬ごろに来ると言われている。
「儀式は良いのですか? 祝いの宴などがあるでしょう?」
「俺が出なければいけないものだけは出て、あとは任せてくる。お前も出るか?」
「いいえ、私はそういうものに興味はありませんし、今は神官でもないですから……」
「そうか、なら無理に、とは言わない」
そう言って手を握られる。メアリルもラインハルトの手を握り返した。
あれ以来、口付けすらしていない。抱きしめられたりもなく、愛妾と言いながら身体の関係もない。
ただ手に触れられるだけだ。
国王であるラインハルトは公務で忙しい。けれどもこうやって日に一度は必ず時間を作って、メアリルに会いに来てくれる。
「学者様に週に一度でも良いから、研究所で共に働かないか、と誘われました。私の持っている知識や技術は十分通用するようです」
「お前がやりたいのなら許そう」
ラインハルトの視線の先には色とりどりの花が植えられた花壇がある。機嫌が良さそうに、ラインハルトは鼻を鳴らした。
「やりたいか、と言われればやってみたいです。けれども、大丈夫なのでしょうか?」
「俺の許可が必要か、ということか? 許す、と言ったぞ」
「それもありますが……」
今のメアリルの役目はラインハルトの愛妾だ。その役目を果たせないのに自分のやりたいことを優先しても良いのだろうか。
なかなか、自分からは言い出しにくい。今でも自分はここにいるべきではないのではないか、と思うこともあるのに。
「白い髪も、頬も触れたくなるほど艶やかであるのに、指先だけはカサついているな」
突然、ラインハルトはメアリルの指先を自分の指で弄ぶ。
「……不快ですか?」
されるがままになりながら、メアリルも触れられている指先を見つめる。
それなら土いじりも植物の栽培もやめなければならない。ラインハルトがそう望むのなら。
愛妾という立場は本来、閨で国王を癒し、慰めることが役目だろう。
なのに、メアリルは名ばかりの地位に落ち着き、好きなことばかりしている。
それでラインハルトは満足しているのだろうか。
(私がここで果たさなければならない役目って何なのだろう)
メアリルの存在について、今のところ、何か言う人がいないとはいえ、メアリルが罪人であることには変わりない。
現国王が王太子であった時に発情期で誘惑した大罪人だ。普通なら、極刑が出るところを大神官の尽力と、白狼一族であるからという理由で、王都追放となった身なのだ。
ラインハルトと同じようにメアリルも前を見据える。
美しい花々と整理された遊歩道。初代国王と聖狼アスティツァーリアが仲睦まじく見つめ合う銅像が視界に入った。
優しくされて苦しい。本当ならラインハルトに迷惑をかけないよう、ここを出ていかなければならないだろう。
頭ではそうやって考えているものの、メアリルはラインハルトと離れたくない、と強く感じた。
彼を受け入れたい、もう傷つけたくない。
王妃として、国王としての彼も支えたい。
(私が罪人でさえなければ……)
きゅ、と服を握りしめていた指先を優しく揉まれた。爪に触れられ、するり、と撫でられる。
「まさか。俺はそんなお前の指先が好きだ。一生懸命、何かを頑張っている者の手だ」
ラインハルトはメアリルの手を取り、自分の鼻先へと押しつける。そして目を閉じ、香りを深く吸い込んだ。
「俺は白狼ほど、鼻は良くない。けれど指先からは土の香りや、草花の汁の香り、お前の指先に悪戯を仕掛ける虫の香りがする。好きだ、とても」
久しぶりに好きだ、と言われ、メアリルは胸が高鳴る。顔が熱くなった。しかしラインハルトから目が離せない。そのまま指先に軽く口付けされてしまった。
「一生懸命なお前が好きだ……、俺は気持ちを伝えていくが、お前はゆっくりで良い。いつか俺を受け入れてくれたらそれだけで良いんだ」
そう言って、ラインハルトはポケットから無香料のハンドクリームを取り出す。
鼻がよく効くメアリルには、王都で流行っているような香料がきついものは使えない、と言って。
メアリルのカサついた指先を軽く揉みながら、ハンドクリームを塗っていく。
ラインハルトの指先は節が高く、また手のひら全体も大きい。爪は綺麗に切り揃えられているが、とてもじゃないけれど、こんなにも繊細に、壊れ物を扱うように何かに触れるようには見えない。
けれど実際、メアリルに触れるラインハルトは優しい。そっと大切な何かを扱うように触れる。
メアリルはラインハルトを見上げる。そして赤い瞳に必死さを滲ませながら、口を開いた。
「私は罪人で……、こんなに良くしてくださって、好いてくださっているのに……、貴方に迷惑をかける存在でしかなくて……」
「みなまで言うな、どれだけ俺が言ったところで、お前の中で整理がつかなければきっと納得はいかないだろう。良いんだ、俺は待っているから。それに俺の方でも動いている。だから心配をするな」
肩を引き寄せられる。メアリルは息を深く吸い込んだ。
いつもの香りに加えて、日向の香りを感じた。これは慈しみの香りだ。
本心からラインハルトがメアリルを思っている証拠だろう。
(ラインハルト様、お慕いしております)
まだ心の中でしか言うことができない。
いつか自分の中で整理がついたなら、名前で呼んでみたい。ラインハルト様、と口に出して呼んでみたい、と思い、メアリルはラインハルトに身体を預けた。
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