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第十一話 嘆きの雨
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文月(※七月)七日――、朝から降る雨を、殿舎の中から見ていた弘徽殿の中宮・藤原瞳子は、溜め息をついた。
この日は杜若の襲、金糸の文様を刻む濃緋の唐衣、顔を半分隠す檜扇にも巧みな意匠を施され、さすが薫橘の君と呼ばれた彼女らしい装いである。
(そりゃあね、中宮さまと比べたら私なんか……)
側仕えとなって半月――、藤典侍・藤原菖蒲は、さすがに自分も女であることを自覚させられる。〝あやめ〟という花の名はつくものの、これまでの行いが祟って『若菖蒲の君』という渾名が付いた。
そもそも、〝あやめ〟とも、〝しょうぶ〟とも読まれてしまうややこしい名前である。性格に難がなければ若菖蒲の君でもいいが、男勝りの気質がそう簡単に直るわけでなく、帝にまで知られてしまった己の男勝りの気質に、もう笑うしかない菖蒲である。
「今夜は、星河(※天の川)は無理ね……」
残念そうに溜め息を漏らす瞳子に、菖蒲は「そうですね」と答える。
この日に降る雨を、催涙雨という。
この日にしか会うことの出来ない織女と牽牛が、雨によって星河を渡れなくなり、流す涙になぞらえているとされる。
「乞巧祭会はどうなるのでしょう?」
「そうね……」
乞巧祭会とは、糸や針の仕事を司る織女に対して、手芸や機織りなどの技巧上達を願う行事で、内裏では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香を焚き、帝が庭の倚子に出御し、二星会合(織女星と牽牛星が出会うこと)を祈ったという。
しかし雨が降れば、儀式はどうなることやら。
「それより、梨壺に幽鬼が現れたんですって?」
梨壺とは昭陽舎のことで、主は梨壺の更衣である。
さらに彼女は現在、帝が夢中の妃嬪(※中宮以外の帝の妃)である。
急に話が変わり、菖蒲は肩を震わせた。
「え、は、はい」
「晴明どのと、左近衛中将どのが追い返したとか」
中宮・瞳子は菖蒲がその人物と従兄妹と知って聞いてきたと思うが、菖蒲がその左近衛中将当人から聞いたのは、昭陽舎に駆けつけたとき、幽鬼は消えたあとだったという。ゆえに、追い返してはいない。
「違って? 藤典侍」
「い、いえっ。さすが中宮さま、内裏のことに熟知されておいでに」
「主上から聞いたのよ」
「主上が?」
「主上も報告を受けて聞いたようですけど」
(誰よ? その間違った報告をした奴は……)
菖蒲としては〝逃がした〟と身内の恥を晒すよりは、間違った報告でもいいのだが。
(でも、変ね)
内裏に広がっている噂では、幽鬼は藤壺の女御であり、北家の人間に祟りにきたとされている。昭陽舎の梨壺の更衣は、北家の血筋ではない。
疑問に思うものの、迂闊に掘り起こすとまた騒動を引き起こしかねず、菖蒲はその疑問をそっと胸にしまった。
◆
丑の正刻(※午後二時)――大内裏・陰陽寮。
妻戸越しに昊を見上げていた師の背に、晴明は近づいた。
「師匠」
「今宵は乞巧奠(※乞巧祭会と同じ)というに、天は酷なことをなさる」
賀茂忠行が「天が酷なことを」と言ったのは、雨により、織女と牽牛が一年に一度の逢瀬ができないことだろうか。
人間の方は面倒な祭祀をしなくてすんだと陰でいっているのだから、これは天が降らせている雨と言うよりも二星(織女星と牽牛星)の嘆きの雨だろうと、晴明は思う。
「内裏に現れた幽鬼ですが――」
晴明の報告に、忠行は当惑の色を浮かべる。
「――つまりこの件に、人間が関わっていると申すのじゃな?」
「卜占の卦には、今回の幽鬼騒ぎ、何者かが関与していると出ています」
「そうなると由々しきことじゃぞ? 晴明」
「師匠、主上への奏上は暫く待った方がいいかと思います。本当に人が関わっているのか、そしてそれは何者なのか、それらがはっきりするまではかえって厄介です」
「保憲が摂津(※現在の大阪府)に行ったゆえ、また面倒なことをそなたに頼むことになるが? 晴明」
聞けば、忠行の息子にして晴明の兄弟子・賀茂保憲は、摂津守として赴任する男について行ったのだという。
しかし晴明の頭の中は、幽鬼の件よりも、彼の前に現れた黒い妖の存在がしみの如く、心にこびり付いていた。
帝への簡単な報告を終えて清涼殿・昼の御座を辞した晴明は、何人かの廷臣とすれ違った。今夜の乞巧奠に対応に追われているようである。
「浮かない顔だな? 晴明」
簀子縁を更に進むと、武官束帯の男が角を曲がって現れた。藤原冬真である。
「この雨に辟易していたところだ」
「俺としてはこの雨の中、門に立たなくてすんだけどな」
本日の冬真の任務は、左近衛府での書簡整理なのだという。じっとしているのが好きではないと言っている男が、はたしておとなしく籠もっていられるのかと心配になった晴明である。
「いいのかそんなことを言って」
「左近衛府の大将どのは物忌み中だ。鬼の居ぬ間になんとやらだ。で、お前がどうして雨が降ったくらいで辟易するんだ? 晴明」
「あまりいい話ではないが、聞きたいか?」
「……お前のその顔で、凄く厄介なことだとは想像できるよ」
苦笑する冬真に、それほど自分は酷い顔をしていたのかと晴明は嘆息した。
◆◆◆
ああ、なにゆえに。
今日も嘆きの雨が降る。
報われぬ思いが雨となる。
なにゆえに、きてはくれぬ。
なにゆえに、みてくれぬ。
お前なら、わかるとおもった。
お前なら、答えると。
いつまで待てばよいのか。
いつになれば、お前はきづく。
わが声に。
◇
さらさらと、雨が降る。
恋路を邪魔する雨に、嘆く二つ星のそれか。
それともこの世を憂う嘆きの雨か。
申二刻(※午後十五時半)――、検非違使が血相を変えて大内裏を出て行く。
「聞いたか? 今度は四条の辻だそうだ」
寮官たちの囁く声に、塗籠で書を捲っていた晴明はその手を止めた。
「まったく、白骨にされるとは……」
どうやらまたも誰かの骸が発見されたらしい。ただ亡くなるのではなく、白骨となった姿で発見される――この怪異に、陰陽寮では原因を調べよと陰陽頭の命が下りている。
しかも決まって雨の日か、雨が降った翌日に発見される。
とするならば、白骨となったのは今日。一日も経たずに骨になるのは、まずありえない。
『晴明』
晴明の横に、神気が一つ降りた。
「どうやら、手遅れだったようだな」
青龍、騰蛇だと続くかの水将は、悔しさを顔に滲ませて顕現してきた。
『弁解はしない。妖気を察知した時は、遅かったよ』
「つまり、姿を捉えていない。そういうことか? 玄武」
『しかも、またあの華だ』
「あの華?」
胡乱に眉を寄せる晴明に、玄武は続ける。
『青い彼岸花さ』
青い彼岸花――、骸の側に咲くというその華は、今回も咲いたようだ。
間違いなく、人を骨に変えたのは妖だろう。だが――。
「正体を探らせない割には、随分と親切な奴だな」
『人を骨にしておいてか?』
「だってそうだろう? まるで、ここに骸があるぞと教えているようなものじゃないか」
晴明のこれまでの経験上、そんな妖はいなかった。
人を喰らって骨に変え、華でその場所を報せる――、妖にはなんの特にはならないはずである。それともあっという間に喰われた者が無念で咲かせた華か。
それならば、これまでにもあっておかしくはない。
頭を擡げる疑懼に、晴明は眉をひそめた。
塗籠を出た晴明は、目を瞠った。
雨の中、それは儚げに揺れていた。
半分透けた小さな火霊が、雨に消されてしまうにも関わらず揺れていた。
――あれは……、ではない。誰も……、ない。
必死に何かを訴える小さな火霊。
「承知した――」
晴明の声に、火霊は一瞬大きく揺らぎ、雨の中に溶けていく。
おかげで、内裏での幽鬼騒ぎは早く決着がつきそうだ。
望みが叶えられると喜んだ火霊が呼んだのか、雨は上がった。
一気に乞巧奠にむけて忙しなくなる陰陽寮に向かい、晴明は纏う白い直衣の袂を翻した。
この日は杜若の襲、金糸の文様を刻む濃緋の唐衣、顔を半分隠す檜扇にも巧みな意匠を施され、さすが薫橘の君と呼ばれた彼女らしい装いである。
(そりゃあね、中宮さまと比べたら私なんか……)
側仕えとなって半月――、藤典侍・藤原菖蒲は、さすがに自分も女であることを自覚させられる。〝あやめ〟という花の名はつくものの、これまでの行いが祟って『若菖蒲の君』という渾名が付いた。
そもそも、〝あやめ〟とも、〝しょうぶ〟とも読まれてしまうややこしい名前である。性格に難がなければ若菖蒲の君でもいいが、男勝りの気質がそう簡単に直るわけでなく、帝にまで知られてしまった己の男勝りの気質に、もう笑うしかない菖蒲である。
「今夜は、星河(※天の川)は無理ね……」
残念そうに溜め息を漏らす瞳子に、菖蒲は「そうですね」と答える。
この日に降る雨を、催涙雨という。
この日にしか会うことの出来ない織女と牽牛が、雨によって星河を渡れなくなり、流す涙になぞらえているとされる。
「乞巧祭会はどうなるのでしょう?」
「そうね……」
乞巧祭会とは、糸や針の仕事を司る織女に対して、手芸や機織りなどの技巧上達を願う行事で、内裏では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香を焚き、帝が庭の倚子に出御し、二星会合(織女星と牽牛星が出会うこと)を祈ったという。
しかし雨が降れば、儀式はどうなることやら。
「それより、梨壺に幽鬼が現れたんですって?」
梨壺とは昭陽舎のことで、主は梨壺の更衣である。
さらに彼女は現在、帝が夢中の妃嬪(※中宮以外の帝の妃)である。
急に話が変わり、菖蒲は肩を震わせた。
「え、は、はい」
「晴明どのと、左近衛中将どのが追い返したとか」
中宮・瞳子は菖蒲がその人物と従兄妹と知って聞いてきたと思うが、菖蒲がその左近衛中将当人から聞いたのは、昭陽舎に駆けつけたとき、幽鬼は消えたあとだったという。ゆえに、追い返してはいない。
「違って? 藤典侍」
「い、いえっ。さすが中宮さま、内裏のことに熟知されておいでに」
「主上から聞いたのよ」
「主上が?」
「主上も報告を受けて聞いたようですけど」
(誰よ? その間違った報告をした奴は……)
菖蒲としては〝逃がした〟と身内の恥を晒すよりは、間違った報告でもいいのだが。
(でも、変ね)
内裏に広がっている噂では、幽鬼は藤壺の女御であり、北家の人間に祟りにきたとされている。昭陽舎の梨壺の更衣は、北家の血筋ではない。
疑問に思うものの、迂闊に掘り起こすとまた騒動を引き起こしかねず、菖蒲はその疑問をそっと胸にしまった。
◆
丑の正刻(※午後二時)――大内裏・陰陽寮。
妻戸越しに昊を見上げていた師の背に、晴明は近づいた。
「師匠」
「今宵は乞巧奠(※乞巧祭会と同じ)というに、天は酷なことをなさる」
賀茂忠行が「天が酷なことを」と言ったのは、雨により、織女と牽牛が一年に一度の逢瀬ができないことだろうか。
人間の方は面倒な祭祀をしなくてすんだと陰でいっているのだから、これは天が降らせている雨と言うよりも二星(織女星と牽牛星)の嘆きの雨だろうと、晴明は思う。
「内裏に現れた幽鬼ですが――」
晴明の報告に、忠行は当惑の色を浮かべる。
「――つまりこの件に、人間が関わっていると申すのじゃな?」
「卜占の卦には、今回の幽鬼騒ぎ、何者かが関与していると出ています」
「そうなると由々しきことじゃぞ? 晴明」
「師匠、主上への奏上は暫く待った方がいいかと思います。本当に人が関わっているのか、そしてそれは何者なのか、それらがはっきりするまではかえって厄介です」
「保憲が摂津(※現在の大阪府)に行ったゆえ、また面倒なことをそなたに頼むことになるが? 晴明」
聞けば、忠行の息子にして晴明の兄弟子・賀茂保憲は、摂津守として赴任する男について行ったのだという。
しかし晴明の頭の中は、幽鬼の件よりも、彼の前に現れた黒い妖の存在がしみの如く、心にこびり付いていた。
帝への簡単な報告を終えて清涼殿・昼の御座を辞した晴明は、何人かの廷臣とすれ違った。今夜の乞巧奠に対応に追われているようである。
「浮かない顔だな? 晴明」
簀子縁を更に進むと、武官束帯の男が角を曲がって現れた。藤原冬真である。
「この雨に辟易していたところだ」
「俺としてはこの雨の中、門に立たなくてすんだけどな」
本日の冬真の任務は、左近衛府での書簡整理なのだという。じっとしているのが好きではないと言っている男が、はたしておとなしく籠もっていられるのかと心配になった晴明である。
「いいのかそんなことを言って」
「左近衛府の大将どのは物忌み中だ。鬼の居ぬ間になんとやらだ。で、お前がどうして雨が降ったくらいで辟易するんだ? 晴明」
「あまりいい話ではないが、聞きたいか?」
「……お前のその顔で、凄く厄介なことだとは想像できるよ」
苦笑する冬真に、それほど自分は酷い顔をしていたのかと晴明は嘆息した。
◆◆◆
ああ、なにゆえに。
今日も嘆きの雨が降る。
報われぬ思いが雨となる。
なにゆえに、きてはくれぬ。
なにゆえに、みてくれぬ。
お前なら、わかるとおもった。
お前なら、答えると。
いつまで待てばよいのか。
いつになれば、お前はきづく。
わが声に。
◇
さらさらと、雨が降る。
恋路を邪魔する雨に、嘆く二つ星のそれか。
それともこの世を憂う嘆きの雨か。
申二刻(※午後十五時半)――、検非違使が血相を変えて大内裏を出て行く。
「聞いたか? 今度は四条の辻だそうだ」
寮官たちの囁く声に、塗籠で書を捲っていた晴明はその手を止めた。
「まったく、白骨にされるとは……」
どうやらまたも誰かの骸が発見されたらしい。ただ亡くなるのではなく、白骨となった姿で発見される――この怪異に、陰陽寮では原因を調べよと陰陽頭の命が下りている。
しかも決まって雨の日か、雨が降った翌日に発見される。
とするならば、白骨となったのは今日。一日も経たずに骨になるのは、まずありえない。
『晴明』
晴明の横に、神気が一つ降りた。
「どうやら、手遅れだったようだな」
青龍、騰蛇だと続くかの水将は、悔しさを顔に滲ませて顕現してきた。
『弁解はしない。妖気を察知した時は、遅かったよ』
「つまり、姿を捉えていない。そういうことか? 玄武」
『しかも、またあの華だ』
「あの華?」
胡乱に眉を寄せる晴明に、玄武は続ける。
『青い彼岸花さ』
青い彼岸花――、骸の側に咲くというその華は、今回も咲いたようだ。
間違いなく、人を骨に変えたのは妖だろう。だが――。
「正体を探らせない割には、随分と親切な奴だな」
『人を骨にしておいてか?』
「だってそうだろう? まるで、ここに骸があるぞと教えているようなものじゃないか」
晴明のこれまでの経験上、そんな妖はいなかった。
人を喰らって骨に変え、華でその場所を報せる――、妖にはなんの特にはならないはずである。それともあっという間に喰われた者が無念で咲かせた華か。
それならば、これまでにもあっておかしくはない。
頭を擡げる疑懼に、晴明は眉をひそめた。
塗籠を出た晴明は、目を瞠った。
雨の中、それは儚げに揺れていた。
半分透けた小さな火霊が、雨に消されてしまうにも関わらず揺れていた。
――あれは……、ではない。誰も……、ない。
必死に何かを訴える小さな火霊。
「承知した――」
晴明の声に、火霊は一瞬大きく揺らぎ、雨の中に溶けていく。
おかげで、内裏での幽鬼騒ぎは早く決着がつきそうだ。
望みが叶えられると喜んだ火霊が呼んだのか、雨は上がった。
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