半妖の陰陽師～鬼哭の声を聞け

第十話 招かざるもの

　晴明が父・益ます材きと阿あ倍べ野ので暮らしていた邸やしきは、現在の王都にある邸より小さく、池などはなかった。周りは鬱うつ蒼そうと茂しげる竹林と、川魚が釣れるという川、足を伸ばせば四し天てん王のう寺じまでは行けるだろう。
　そんな父・益材が何を思ったか、山やま城しろの国くに（※現在の京都府）へ行くという。
　大だい膳ぜん大たい夫ふ（※宮中の官人の食事や朝廷での会食の調理を担当した大だい膳ぜん職しきの長おさ）であった彼は、出しゆつ仕しするには近い方がいいと王都への移住を決めたのかも知れない。それが現在の晴明邸である。
　二人でも広すぎる邸には池もあり、池に面して建つ釣つり殿どのは、彼のお気に入りの場所であったようだ。気がつけば池を眺ながめ、土かわ器らけを傾かたむけている益材の姿がある。
　晴明が十四の時に阿倍野に逆戻りした益材だが、それからもふらりとやって来る。
　そしていつもの場所に座るのだ。
　よくもまぁ、飽あきもせず――。
　そう思った晴明の感想は、いまでも変わらない。
『いつも思うが、お前の親おや父じどのは、何をしに来たんだ？』
　晴明邸に棲すみ着く雑ぞう鬼きが、首を傾かしげる。
「さぁな……」
　晴明はそんな父・益材の背を見つめつつ、文ぶん台だいで墨すみをすった。
　彼が何を考えているか理わ解かれば、苦労しないのだが。
　ただ――。
　晴明は、墨をする手を止めて沈ちん思しする。
　遠い日――、初めて視みた妖あやかしに、驚いて逃げ帰る幼い晴明むすこにたった一言。

　――大丈夫だ。彼らは全部が悪いものじゃない。

　頭を撫なでるその手の温かさに、躯からだの震ふるえが止まったのは確かだ。
　そして今、少しだけ安部益材という男が理解った気がした。
　大おお髑どく髏ろとの対たい峙じで冥くらがりに飛ばされた晴明、そこに現れた男は恐らく益材だ。
　
  ――妖も人も、全てが悪者じゃない。お前はまだ、一部しか見えていないのだ。

　そう、子供の時の自分は一部しか見えていなかった。人も妖も、全て敵だと思っていた。
　息子に無関心にみえて、本当は心配してくれているのだと気づくのに、十年以上もかかってしまった。それならそうと、もっとわかりやすい愛情の示し方があっただろうに。
　池の蓮はすに自身の息子を重ね、本体の晴明には背を向ける――、まったくもって難なん解かいな父・益材である。
　偏へん見けんや差別という泥どろから、心折れることなく華はなを咲かす人生。
　今は周りの目を畏おそれることはしないが、たまに冥がりが覗のぞくことがある。
　陰陽師となってより一層に、それは見える。
　益材が、静かに腰を上げた。
「お帰りですか？　父上。もう少しゆっくりされては？」
「いや……、釣りの帰りに立ち寄っただけだからな」
　こういうときは、嘘が下へ手たな益材である。
　阿倍野から王都まで、釣りの帰りに立ち寄るほどの近さではないというのに。
　奇き妙みような父おや子この関係は、これからも続くだろう。
　益材が、彼ひ岸がんに渡るその日まで。
　文台に戻ろうした晴明は、池を見て愕がく然ぜんした。
　池から、黒く長いモノが覗いていた。
　それは蛇へびのようでもあるが、目も口もない。ただ、黒いのだ。
　漂ってくる妖よう気きに、晴明は片手に印いんを結ぶ。
　まさか、陰陽師の邸に乗り込んでくるとは――。

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　酉とりの半はん刻こく（※午後十八時半）――、この男もある災さい難なんに遭あっていた。
　左近衛府さこんえふから正せい殿でん（※紫し宸しん殿でん）の階きざはしまでやって来た藤原冬真は、正面からやって来た男を視し界かいに捉とらえるなり回れ右をした。
「左さ近こん衛え中ちゆう将じようどのではないか！　これは奇き遇ぐう」
「はは……、まったくですなぁ。頭とうの中ちゆう将じようどの」
　頭中将・藤原冬房――、関白・藤原頼房の次男。奥おく内だい裏り（※後宮）の女房たちを甘く蕩とろけさしているという噂うわさがあるという男である。
　確かに、血ち筋すじも身分も申し分なく、端たん正せいな面おも立だちの美び丈じよう夫ふであるが、性格は言えば――。
「聞けば、従妹いとこどのが主上おかみのお目にとまったとか」
　蝙かわ蝠ほり扇おうぎをぱらりと開き、冬房が意地の悪い笑みを寄よ越こす。
「は……？」
「南なん家けも、権力争いに腰を上げた――ということかな？　左近衛中将どの」
　嫌いや味みもここまでくれば大たいしたものだなと、冬真は呆あきれて聞いていた。
　北ほつ家けと南家は元は一つの藤原家である。決して対立しているわけではないのだが、権力争いに必死な北家に比べ、南家は右大臣まで昇りつめたものの政せい務むにはあまり口出しもせず、姫を入じゆ内だいさせることもなく、後ろから傍ぼう観かんしているような家であった。
　お陰で頼房から軽んじられていたが、晴明に近づいたことで今度は睨にらまれることになった。晴明の力を借りて出世する――そう思っているのだろうか。
「何か誤ご解かいがあるようですが、籐とう典ないし侍のすけは中宮様の側そば仕づかえとして召めされたのであり――」
「ああ……、そうだったな」
　白しら々じらしい台せ詞りふに、冬真の怒ど気きが上がる。
　冬真としては早く解放されたいのだが、冬房はしつこい。
「そういえば――、夜や警けいの折おりに例れいの幽ゆう鬼きと遭そう遇ぐうしかけたそうだが？」
「それがなにか……？」
「都も物ぶつ騒そうだが、内裏にまで怪かい異いとは些いささか、問題と思わないか？　主上の他の殿でん舎しやへのお忍びも、もう少し減ってくれると助かるんだが。でないと、何処どこぞの誰かに刃を振り下ろされる――と、いうことになりかねんだろう？　左近衛中将どの」
　じっと正せい視しされ、さすがの冬真もたじろぐ。　
「――まさか、主上に対してそのような……こと……は……」
（菖あや蒲め……、お前がやらかしたことはしっかりとばれているぞ？）
　いまにも睨み殺されるのではないかという強い視線に、冬真は己おのれの間まの悪さを嘆なげく。
　ようやく開放されたときは、どっと体力を削そがれたような気分である。
　陽よう明めい門もんへ着くと、先に門の守しゆ衛えいをしていた少しよう将しようが眉を寄せた。
「中将……なんか、お疲れの様子ですが？」
　冬真は一気に脱だつ力りよくし、少将に抱きついた。
「死ぬかと思った～!」
　
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  晴明邸の池に現れた〝それ〟は、不ぶ気き味みな姿を水面に覗かせている。
　蛇へびのような長い胴、だが蛇とは違う。それがじっと晴明を見てくる。
　身み構がまえる晴明の横に、神しん気きが降りた。
『晴明――』
　瑠る璃り色いろの髪と双そう眸ぼう、褐かつ色しよくの逞たくましい体たい躯くに肩当てと胸当て、背に大たい剣けん、腕に領巾ひれを絡ませ立つその姿を一いち瞥べつし、晴明は池に視線を戻した。
「おまえがやってきたということは、これか？　騰とう蛇だ」
　十二天将・騰蛇、青龍と並ぶ闘とう将しよう――。
　その青龍同様、滅多に人界に降りてこない騰蛇の出現に、ことの重大さが窺える。
『ああ。嫌な妖気を察したのでな。まさか、お前の邸に現れるとは』
　はたして、池にいる妖あやかしはなんなのか。天将が気にするほどの妖気を纏まとったこの妖は――。
「――蛟みずち」
『晴明？』
　思わず口から出た名に、騰蛇が眉を寄せた。
　口にした晴明も、目の前にいる妖が人を喰くい、骨にした蛟かは確かく証しようはない。　
「騰蛇」
　晴明が何かを命ずる前に、騰蛇は動いていた。
　領巾に風をはらませ、妖に向かっていく。
『逃がさぬ』
　水中へ消えていこうとしている妖に、騰蛇の放った雷らい霆てい（※雷いかづち）が落とされる。
　一瞬明るくなる池だが、すぐに何事もなかったように静寂に包まれる。
　――逃げたか……。
　騰蛇は宙に浮いた姿勢で、苛か烈れつに池を睨にらんでいる。
　ただ、晴明はどうも釈しやく然ぜんとしなかった。
　現れた妖からは、敵てき意いが感じらなかったからだ。
　ならば、なぜここに現れたのか。
　
　 ――大丈夫だ。彼らは全部が悪いものじゃない。

　父・益材の言葉が蘇る。
　晴明の心に薄く張った靄もやは、現在いまも消えることはなかった。