半妖の陰陽師～鬼哭の声を聞け

第九話 櫛風沐雨、我が主の半生

　とある邸やしきの前で、牛車が止まる。
（これだから、雨の日の外出は嫌なのだ……）
　その牛車の中にいた男は苛立っていた。
　宴うたげに呼ばれるのはいいが、俥くるまが何度か泥ぬ濘かるみに嵌はまった。揺れも酷ひどい。
　自じ邸ていに帰るのに行きより倍かかり、亥いの正刻せいこく(※午後二十二時)を告げる鐘鼓しようこが鳴り終わっての帰宅となった
　牛車を降りると、パシャリと足あし許もとで水が跳ねた。
　濡れた指ゆび貫ぬきに眉を寄せ、男は引ひき攣つった声を上げた。
「殿との、如いか何がされました？」
「早はよう、これを退どかせ。まったく気味が悪い」
　牛うし飼かい童わらわたちが、主あるじが〝これ〟というモノのほうに視線を送ると、一いち様ように眉を寄せる。
「なにも――おりませぬが？」
「いるではないか？　そこに」
　牛飼い童たちは、ますます怪け訝げんそうに首を傾かたむける。
  男は、自分だけが見えているものが何なのか怖くなった。黒い影のようなモノがすうっと上に伸びて、こちらを見てくるモノが。
（これならば……）
　男は後こう悔かいしていた。
　いつもなら具ぐ注ちゆう暦れき（※その日の吉凶など書かれてある暦）を毎朝見ていたものを、なぜこの日は確認しなかったのか。
　後悔はやがて嘆なげきと変わり、男は雲くも間まから覗のぞいた月を見上げていた。
　ああ、なにゆえ――と。
　
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　また、王都に骸むくろが転がった――。

　朝からそんな話を聞かされて、かの青年は渋じゆう面めんで腕を組んだ。いくら怪かい異いに詳しい職にあるとはいえ、まだ朝あさ餉げ前まえである。
「お前なぁ……」
「穢けがれの都みやこ――なぁんてことになったら、お前も嫌だろう？　晴明」
　晴明は人の心を軽く抉えぐってくる男に「この野郎……っ」と思ったが耐えた。
　そもそも、迷惑だと言いながらも邸やしき内ないに入れているのは自分だ。来て欲しくないのなら、辻つじという辻に呪じゆを飛ばせば、彼は晴明邸にはやってはこられない。
　同じ路みちを何度も往復することになるか、諦あきらめて自邸に帰るしかない。
　それをしないということは、藤原冬真という男に心を許したということなのだろう。
「で、今度はどこなんだ？」
「東ひがし洞とう院いんの藤ふじ原わら實さね朝ともさまの邸だ。亡くなったのは、その實朝さまさ」
　東洞院は先せん帝てい――、上じよう皇こうの座ざ所しよ・仙せんと洞う院いんがあるため、そう呼ばれる。その場所で〝穢れ〟を出したと、内裏では大騒ぎになっているらしい。
「なにせ、鳥とり辺べ野の（※貴人の墓所）に行く前に骨になったんだからな。これで北ほつ家けの関係者が三人、この王都で骨になった。噂うわさ好ずきな連中がなんと言っているか、知っているか？　晴明」
「いや」                                                
「藤ふじ壺つぼの怨おん霊りようが北家を祟たたっている――だそうだ」
　藤原實朝は藤ふじ原わら嫡ちやく流りゆうである北家から派は生せいした家の当主で、参さん議ぎの地位にあるという。
　その夜は宴に呼ばれた帰りで、前日の雨の影響により帰るのに時間がかかり、實朝は酷く苛立っていたらしい。
　帰宅して暫しばらくして、北きたの方かた（※正妻）が實朝の様子が気になり、主しゆ殿でんに行くと、庭に青い華はなが咲いていたという。　
「――そこに實朝さまの骸があったというわけか」
「ああ、見事に骨になってな」
　見た北の方は恐怖のあまり、寝込んでしまったらしい。
　しかし、またも青い彼ひ岸がん花ばなである。
　間違いなく、この王都に〝それ〟はいる。いくら亡くなったからと、人はすぐに白骨にはならない。明らかに、何モノかが関わっている。
　冬真が帰った後、暫く黙もつ考こうしていた晴明は十二天将を招しよう喚かんした。
　最近は自由気ままな天てん将しようである。人じん界かいに降りている誰からしらが応じるだろう。
『何か用？　晴明』
　顕けん現げんした太たい陰いんに、晴明は半はん眼がんで彼女を見み据すえた。
「なんだ……それは？」
『なにってみればわかるでしょ？』
　なんと彼女は、袿うちぎを数枚重ねて羽は織おっていた。貴族の女性たちが着ているのを見た太陰は、着てみたくなったらしい。自分たちの存在は人界に影響すると言っておきながら、逆に影響されているのはどうだろう。
　軽い頭痛を覚えた晴明だが即、脱げと命じた。
　太陰も着てみたものの動きづらかったらしく、いつもの姿になった。
『それで？』
「都に妖あやかしが侵入している。すぐに気け配はいを探れ」
『わかったわ』
「太陰」
　赤い髪をふわりと舞わせて背を向けた太陰を、晴明が呼び止めた。
『なぁに？』
「この間、お前が言いかけたことは何だったのだ？」
　振り向いた太陰の目が一瞬見開かれ、答えるまで間が空く。
『……そうだったかしら？　もう忘れたわ』
　彼女はくるりと背を向けて、隠いん形ぎようした。
　太陰が残した風が晴明の近くにあった几き帳ちようと御み簾すを揺らし、文ぶん台だいに置かれた書をぱらぱらと捲めくった。
　暫くすると、簀すの子こ縁えんを歩いてくる足音が聞こえてきた。
　先さき触ぶれもなく、門もん前ぜんで断ことわりもしない、勝手に上がり込んでくるモノといえば人間では冬真ともう一人――。
「やぁ……」
　狩衣に烏え帽ぼ子し、手には釣り竿という姿で廂ひさしの下に立つ人物に、晴明はやれやれと溜ため息いきをついた。
「まさか、その格かつ好こうのまま阿あ倍べ野のからいらしたのですか？　父上」
　
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　雨が降ったり止んだりを繰り返す王都の昊そらは、この日は日にち輪りんが遠えん慮りよがちに雲から覗のぞいていた。雨は人界に恵みをもたらす一方で、河かわを暴れさせるため厄やつ介かいだろう。
　鴨かも川がわに桂かつら川がわ、賀か茂も・下しも鴨がもを流れる賀か茂も川がわ、王都や周辺には様々な河がある。
『なぁ？　晴明あいつが昏くらがりに沈んだらどうなるんだ？』
　唐とう突とつに話を振ってきた同どう胞ほうに、天将・太陰は目を瞬かせた。
  晴明邸を離れた太陰はもう一人、異界から降りていた天将にして、北きたの守しゆ護ご・玄げん武ぶと合ごう流りゆうしていた。
　十二天将の中で陽よう気きなほうの玄武が、神しん妙みような面おも立だちでものを言ってくるのは珍しい。
『……完全に人ではなくなるでしょうね』
　彼らも神だが人の未来さきが見えるわけではない。もし晴明が昏がりに傾くとわかれば、天将は異界に去るしかないのだ。そのことは、晴明との約やく定じようで決けつしている。
『あいつの下に降りたこと、後悔していないか？』
『あなたはどうなの？　玄武』
『晴明に使われてみると楽しいこともあるが、大抵は無茶な命令だ。あいつ、俺たちが神だということを忘れていないか？』
『たぶん、考えていないと思うわ。私たちなら彼の心を覗のぞこうと思えば覗けるけど、あまりお勧すすめできないわね』
　恐らく晴明の心は、まだ迷いの中にある。
　いつ再び、心に冥がりが生まれるか知れぬという思い。
　人の中で最も冥がりの地に近い者として生まれた彼は、これからも迷い、戦って生きていくのだろう。その辛つらい心の奥おく底そこを、太陰は覗く気にはならなかった。
　人界に降りなければ人と接することも、その内ない面めんも知ることはなかった。
　だからといって、後悔はしてはいない。
　玄武は晴明に呆あきれてはいるが、憤いきどおっている様子はない。
『とりあえず、俺は晴明の一いつ端たんが覗けてほっとしているが？』
　にっと笑う玄武に、太陰は微ほほ笑えみ返す。　
　小お倉くら山やま東とう麓ろくでの一件――。
　なにゆえと嘆いた大おお髑どく髏ろ、結けつ界かいで動きと攻撃を封じたまではよかった。
　黒い塵ちりとなって風に飛ばされる――大髑髏かれの最さい期ご。だが、そうはならなかった。
　晴明は個々に集まる魂たましいに情じようをかけた。彼らを救うために。
　普通の陰陽師なら、その魂も塵となり、冥めい府ふへ送ることはしなかったであろう。
　祓はらうだけが陰陽師の務つとめでないという晴明に、人の情がある以上、彼は冥がりに沈むことはないだろう。
『あの魂、どうなったんだろうな？』
『いくら晴明でも冥府の領域にははいれないわ。天将わたしたちも』
　大髑髏の躯からだから解放された魂かれらが、はたして極ごく楽らくへ向かうのか地獄へ向かうのか。
『人間っていうのは、俺たちに比べたら命はあっという間だな』
『そうね……』
　あとどのくらい、晴明の式神としていられるのだろう。
　晴明かれもいつか年を取り寿じゆ命みようを迎むかえ、彼岸に渡る日が来る。
　玄武が気き遣づかわしげな視線を寄よ越こす。
『泣いているのか？　太陰』
『馬ば鹿かね。目に塵が入っただけよ！　大体あの唐とう変へん木ぼく、女おんな心ごころなどわからないんだからっ』
『……なにかあったのか？　晴明の邸で……』
　突然怒り出す太陰に、玄武が首を傾かしげる。
『なにもないわっ！』
　まさか、人の真ま似ねをして着き飾かざってみた、とは口が裂けても言えない太陰であった。