上 下
4 / 14

第三話 若菖蒲の君

しおりを挟む
 その夜――、きんじよう(※帝)は外にいた。外と言っても内裏のすのえんだが、『いとしのきみ』の殿でんしやに忍んで行こうと、よる殿おとど(※清涼殿にある帝の寝室)を抜け出していたのである。
 世の男たちは愛しの姫のもとに通うそうだが、帝ともなるとそうはいかない。一度やってみたいと思うものの、内裏の外にによにんを求めずとも、後宮にはちゆうぐうにようなどいるのだが。
 彼がいに行こうとしているのは、なしつぼこう殿でんしやだ。彼の中で現在いま、一番お気に入りの女人である。
 そらにはひさかたりのもちづき(※満月)がのぼり、んでみるのもよいだろう。
  だが、梨壺の更衣が暮らすしようようしやへ向かうその足が止まる。
 庭に青いだまが浮いていたからだ。
 だが今上は、声を上げることはしなかった。自分の前に現れた火霊はき、ふじつぼの女御かも知れないと思ったからだ。
「出たわね? このゆう!」
「え……」
 なにゆえこの声は、背後から聞こえてくるのだろう。
 今上が振り向くと、なぎなたが振り下ろされる寸前だった。


「――ねぇ、聞いた? また幽鬼が出たんですって」
 内裏・うんめい殿でんないどころで、女房たちが噂に花を咲かせている。
 そんな彼女から少し離れた先で、書の片付けをしていたとうないしのすけふじわらあやは、噂に夢中の彼女たちに内心ひやひやしていた。先ほどからずっと、背後に嫌なものが突き刺さって仕方がないのである。
 いちべつすると、とうないしのかみふじわらあきけんに小さなしわを刻んでいた。
 にようぼうしようぞくさくらつじかさねが美しい彼女は、さすがほつの血筋と感心するが、性格はかなりきつい。かくいう菖蒲も負けずおとらずという性格をしていたが、彼女ほどではない――と自分では思っている。
「やはり、ふじつぼの?」
 彼女たちは藤内侍の表情に気づいていないのか、話をやめる気配はない。
(そろそろ、ないしのかみさまのかみなりが落ちるわね)
 内裏にゆうが出る――、そんな噂が内裏を駆け巡っていた。
 なにしろ、幽鬼が目撃されるのが現在は誰もいないぎようしやふじが植えられていることから藤壺とも呼ばれるが、主である藤壺のにようと、彼女が里で産んだ帝の第一皇子が亡くなってから、二人はじゆされたと噂になったことがあったらしい。
 それに関白・ふじらよりふさじつじようである中宮が関わっているかも知れないとなると、北家側の人間である章子が眉間に皺を刻むのは当然と言えば当然かも知れない。
「まさか、先の――」
「いい加減になさいっ!」
 どうやら彼女たちは、きんに触れてしまったようだ。
 藤内侍の怒りが、ついに破裂した。
「藤内侍さま……っ」
「あなたがたは、ここを何処だとお思い? 恐れ多くも、あまてらすおおみかみをおまつりするかしこどころがある所。かつな発言はおやめなさいっ」
 温明殿の南側には、その天照大神のご神体・かがみを祀る賢所があるが、藤内侍としてはやはり、北家のことにまで踏み入られたくないのだろう。
 さらさらときぬれをさせて持ち場へ戻っていく彼女たちを目で追って、菖蒲は藤内侍と二人にされて困惑した。
わかしようきみ
 そう藤内侍に呼ばれて、菖蒲はもはやへびにらまれたかえるである。
 冷ややかに見つめられ、何を言われるのかせんせんきようきようである。
 若菖蒲の君とは、菖蒲の周りにいる者たちがつけた名で、勝ち気な姫という意味合いが強いらしく、菖蒲としては気に入らないのだが。
 藤内侍が若菖蒲の君と呼んでくるときはたいがいせつきようか、めんどうなことを押しつけられるかだ。
「……なにか? 藤内侍さま」
「あなた、かの安倍晴明どのとじつこんあいだがらですって?」
 ぱらりとおうぎを開いた藤内侍は、目を細めた。
(ああ、そっち?)
 これまで以上の雷を落とされ、長い説教がくどくどと始まるのかと覚悟したが、どうやや違うらしい。
「昵懇というよりは……、従兄いとこを通してですけど……?」
「ならば、頼まれていただけないかしら? その従兄どのに伝えて」
「はぁ……」
 気の抜けた返事をした、菖蒲であった。

                         ◆

 どんてんの一条大路――、もうそろそろ戻り橋というところで、晴明の足が止まった。
 こくげんとりこく(※午後十八時)――、いわゆるおうどきである。
 みちの真ん中で、鬼が大きな口をにいっと吊り上げていた。おそらくらおうとしているのだろうが、相手を間違えていることを鬼は気づいていない。
『喰ッテヤル……、喰ッテヤル』
 ぎょろりとした大きな目に、口からのぞいたきば、文字通りの鬼だが、晴明は目の前の鬼よりもっと迫力があるモノを見たことがあるために、やれやれという気分だ。
あいにくだが、私もこれからゆうなんだ」
 と言っても、こわしるものといういたってしつなものだが。
 じゆの身となっても、晴明の衣食住は変わらない。やしきだけは池がある寝殿造りと広々としているが、他の貴族からすれば小さかろう。
 着るものもうちぎ地紋じもんが少ない狩衣、大内裏では無地の白い直衣である。
『人間……、喰ウ』
 どうやら目の前の鬼には、こちらの事情など関係ないようである。
 晴明はたんそくし、狩衣のあわせから呪札じゆふだを引き抜く。
「オン、サンマンダバサラダン、センダンマカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」
 とういんを指で結び、しんごんを唱える。
けいばくふくじゆうじや滅消めつしよう!!」
 呪符に刻まれるぼうせいが、カッせんこうする。
『ギャ……!』
 晴明の手を離れた呪符が鬼の動きを止め、黒いちりへと変えていく。
 ていの前まで来ると、晴明は再び足を止めた。
 門の前に、ひたたれ姿すがたの男が立っていた。れたその姿に、晴明ははんがんたんそくする。
「お前なぁ……、人の都合というものを考えたことはあるのか? 冬真」
 常識がある者なら、さきれ(※前もって知らせる)をする。だがこの男の場合は、突然やってくるため、いささか迷惑である。
 なにしろ、自邸に帰っても晴明の仕事あるのだ。依頼された霊符、星の運行を読んで吉凶を判じ、さらには関白・頼房から言われた幽鬼の件と盛りだくさんだ。
「危うく、首が飛びかけたらしい」
「は……?」
 ぜんとする晴明をに、冬真は眉を寄せていた。

                   ◆◆◆

 ああ、なにゆえに――。
 
 げつで『それは』嘆く。
 じような身の上と、誰にも気づいてもらえぬさびしさに。
 待てど暮らせど、誰も答えぬ。
 聞け。聞け。
 我が嘆きを聞け。
 早く、我が問いに答えよ。


 さぁ――……と、てんらい(※自然の音)が晴明の耳に届く。
 またも聞こえてきた『それ』は、いったいなんなのか。風に混じり、何か別の音がするのだがはっきりしない。
 目の前の男には、聞こえていなさそうだが。
 晴明は冬真をいちべつし、かわらけを口に運んだ。
 冬真の話に寄れば、昨夜またも内裏に幽鬼が出たという。
「それがどうして、誰かの首が飛びかけたことになる?」
 ろんに眉を寄せる晴明に、冬真は首が飛びかけたのは従妹いとこ菖蒲あやめだという。
「菖蒲どのが……?」
 藤原菖蒲はふじはらなんつらなる家の姫で、父親は冬真の父にして右大臣・ふじわらかねひさじつていである。
「あのおてんば、みやづかえなんぞ務まるのかと思えば、さっそくやらかした。聞いて驚くなよ? 晴明。なんと、かみを幽鬼と間違えて危うく薙刀を振り下ろすところだったんだ」
「確かに……、首がとぶな」
 しようする、晴明である。
 菖蒲は〝若菖蒲の君〟とも呼ばれ、たんせちまれなのと、勝ち気な性格、さらに〝あやめ〟と〝しょうぶ〟は同じ漢字でもあったためにつけられたという。
「だろう? 主上は〝夜中にろついている私が悪かったのだ〟とその場で許してくれたそうだが、けんしていれば勘違いだろうとすまない」
「まさか、ただ菖蒲どののしつたいを嘆きにきたんじゃないだろうな? 冬真」
「今回は主上が火霊をご覧になったらしい。菖蒲の所(内侍所)では、幽鬼の正体は藤壺の女御さまではないかと噂になっているそうだ」
「確か内侍どのは、関白さまのめいだったな」
 内侍は、帝の声がかかってもおかしくはない女官の最高位である。
 げんに歴代の帝の中には、内侍に子を産ませたものもいたらしい。
 しかも殿でんの中宮とは従姉妹いとこ、せっかく手に入れた地位を手放したくないのは女人も同じらしい。冬真曰く彼女も幽鬼が誰なのか調べろと、菖蒲に言ってきたという。
「既に関白さまからその件は言われている」
「そうだが、彼女にすればかの女御の死因が、北家の呪詛だったなんてことになると内裏からはいられなくなる。関白さまは居座るだろうが」
 早い話が、晴明に何とかしろということらしい。
 関白といい、藤内侍といい、北家の人間は遠回しにものをいう癖がある。
 なんは南家で――。
 晴明は、冬真を一瞥した。
「お前も、藤原だったな」
「あのふるだぬきと一緒にするなよ……」
 冬真の目がわる。
 冬真の言う古狸が誰のことを指しているのか、いうまでもない。
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

くじら斗りゅう

陸 理明
歴史・時代
捕鯨によって空前の繁栄を謳歌する太地村を領内に有する紀伊新宮藩は、藩の財政を活性化させようと新しく藩直営の鯨方を立ち上げた。はぐれ者、あぶれ者、行き場のない若者をかき集めて作られた鵜殿の村には、もと武士でありながら捕鯨への情熱に満ちた権藤伊左馬という巨漢もいた。このままいけば新たな捕鯨の中心地となったであろう鵜殿であったが、ある嵐の日に突然現れた〈竜〉の如き巨大な生き物を獲ってしまったことから滅びへの運命を歩み始める…… これは、愛憎と欲望に翻弄される若き鯨猟夫たちの青春譚である。

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

北海帝国の秘密

尾瀬 有得
歴史・時代
 十一世紀初頭。  幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士、トルケルの側仕えとなった。  ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼の考えたという話を聞かされることになる。  それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという話だった。  本物のクヌートはどうしたのか?  なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?  そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?  トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。  それは決して他言のできない歴史の裏側。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

十王閻魔帳

平 和泉
歴史・時代
古来より現世には陰陽のごとく隣り合うものが多かった。 男と女。 太陽と月。 昼と夜。 ……そして光と影。 光が強まれば自然、影も濃くなる。 栄華を極めた人間たちは形なき者たちを恐れ、忌避し……ついには名を与えてしまった。 魑魅魍魎、妖、鬼と。 名は呪。 形を持った彼らは夜陰に乗じて人間たちを襲い始め、瞬く間に夜に対する恐怖心が広がっていった。 時は平安中期。 貴族たちが謳歌し、都人によって華やかな貴族文化が花開いた頃のこと。 平安京と謳われた都にもそれらは存在していた。 だが、そればかりではなかった。 僧侶は言う。 魑魅魍魎や妖、鬼はそれ自体はさほど怖くはない。 それ以上に怖いのは人間だ。 人の心の中には鬼が棲んでいる。 ひとたびそれが表出すれば、人は簡単に罪を犯す。 忘れてはならない。 人もまた魑魅魍魎なのだと。 これは、複雑に絡み合った運命を持つ複数の人間が織りなす物語である。

処理中です...