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序章
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その華の別名は〝死人花〟――。
その華を辿っていくと、自然に冥がりに着くという。
それは、幾つも揺れていた。
ぽつりぽつりと浮かび上がり、時には激しく、時には儚げに、青く燃えながら冥がりの地で揺れていた。
――逃げなければ。
その光景に慄然し、少年は必死に駆けた。
周りに光はなく、ただ青く燃える鬼火が、彼の胸間にまで冥がりを広げるようで、たまらず彼は逃げた。
――逃げなければ。早く。
はたして自分は、本当に前に進んでいるのか。
走っても走っても、先には何も見えない。
――無駄ダ。お前ハ、コチラ側ノ存在。代リニ、ソノ躯ヲ寄越セ。
鬼火は幾つも燃えて、彼の行く手を阻む。
その危急に、彼は絶望感に苛まれる。
――ああ、僕はこのまま陥ちてしまうのか。
――せいめい。
誰かの声がして、少年は顔を上げた。人の手がそこにあった。
今この手を取らなければきっと後悔する。
少年は藁にもすがる思いで、その手をしっかりと握った。
◆
さぁ――……と、音がしていた。
上げられた蔀をほうに目をやると、雨が降っているのが見えた。
文台には開きっぱなしの書と、傍らには式盤(※占いの道具の一つ)、どうやらうたた寝をしてしまったようだ。
――まさか、昔の夢を見るとは……。
晴明は額に手をやって、自嘲の笑みをこぼす。
子供の頃の自分――、周りからの嘲罵を浴び、奇異の目を向けられる。
妖の血を引くがゆえに、子供だろうと容赦はされなかった。
そんな人々の目から彼は逃げた。邸に籠もり、膝を抱え、自分で冥がりを作ってそこに逃げ込んでいた。
そのほうが、楽だと思ったのだ。
だが実際は、冥がりの住人も優しくはなかった。いい餌が飛び込んできたとばかりに、この躯を欲してくる。
そう、彼は妖の血を引く半妖――。
実際に父に聞いたわけではない。あれは妖の子だと、周りがいっていただけだ。
父に聞かなかったのは、それが真実かも知れなくて、それを聞くのが怖かったのだ。はたして現在なら、阿倍野(※現在の大阪府阿倍野区)で暮らす父はなんと答えるだろうか。 ここ何日か、陰鬱な雨が降っては止んでを繰り返している。
晴れていれば依頼された霊符を届けに外に出るが、笠に蓑を着けてまで出ようとは思わない。はっきりいって、今も人間づきあいは好きではない。
陰陽寮に属する陰陽師という職に就いてはいるが、彼に対する奇異の目と蔑みは消えたわけではない。子供の時のように逃げはしないが、忌み嫌っておきながら霊符を依頼してくる彼らの気が知れない。
ふと、晴明はその存在に気がついた。
いつからそこにいたのか、青く燃える鬼火が儚げに揺れていた。
化野(※風葬地)ならともかく、ここは晴明が暮らす邸の中である。
――どおりで、夢にまで鬼火が出るはずだ……。
渋面で見据えるも、晴明はこういったものには慣れていた。昔は怖かったが、陰陽師となると人よりも、異界との付き合いのほうが多くなった。
誰ぞから零れたモノに違いはなさそうだが、この躯をくれてやるつもりはない。おとなしく彼岸に渡って欲しいが、鬼火は消えるつもりはないらしい。
仕方がない――。
晴明は泰山府君(※仏教で言う閻魔)を念じ、柏手を打つ。目の前で彷徨う魂魄を、冥府へ送るためである。鬼火はいったん大きく揺れて、溶けるように消えていった。
ようやく静かになったと思えば、今度はぴちゃぴちゃと水音が聞こえてくる。
晴明は、嘆息した。
「今度はお前たちか……?」
板敷きの床で、五寸(※約十五センチ)ほどの雑鬼と、蛙の化生が芋の葉を笠代わりして跳ねていた。
一応、妙なモノが入り込まないよう結界を張ってあるのだが、こうした小物は簡単に入ってくる。特に雑鬼は、人間の家ならどこにでも棲んでいて、珍しいものではないが。
「いやぁ……、よく降るよなぁ」
「人の家を水浸しにするつもりか……?」
「そう怒るなって。雨宿りくらいさせろよ。雨に濡れると可哀想だろ? 俺たち」
いけしゃあしゃあと言ってのける雑鬼に、晴明は半眼で腕を組んだ。
「どこが?」
第一、蛙の化生は雨に濡れたところで、ちっとも可哀想ではない。
それよりも、芋の葉から滴る水滴のほうが心配である。
湿気対策にと蔀を上げたことを後悔しつつ、晴明は語気を強めて言った。
「消えろ」
祓われては適わぬと悟ったか、二匹は入ってきた蔀から出て行った。
さぁ――……と、雨が降る。
無駄に広い邸は、この数十年住人は一人である。棲み着いている雑鬼を入れるとその数ではないが、晴明は十四の頃から独りで住んでいる。
人間嫌いになった息子をどう思っていたのか、父・益材はさっさと阿倍野に行ってしまった。それは息子を任せられる人物に出会ったからだろうが、それにしても薄情な父よと当時は嘆き呆れた。かの人は、今もたまにふらりとやって来ては戻っていく。
彼曰く、王都での暮らしは馴染めないらしい。
あの時――。
夢の中で、晴明が掴んだ人の手。
冥がりに沈みかけた幼い彼を引き上げたのは父だったのか、それとも陰陽師に誘った師だったのか。
立ち上がり、簀子縁のほうへ向かった晴明は目を瞠った。
雨の中、面妖な華が揺れていた。
あの鬼火のような、青い彼岸花が一輪。
しかしそれは幻だったのか掻き消えて、見慣れた庭の景色が広がっていただけであった。
彼岸花の別名は〝死人花〟。
華を辿れば、自然と冥がりに着くという。
どうやら〝向こう側〟は、晴明を冥がりに引きずりこむことをまだ諦めていないらしい。
何れ化野にて白い骸を晒すことになるかも知れないが、それはまだ遠い未来だ。
晴明は華が揺れていた場所を一瞥し、纏っている狩衣の袂を翻した。
その華を辿っていくと、自然に冥がりに着くという。
それは、幾つも揺れていた。
ぽつりぽつりと浮かび上がり、時には激しく、時には儚げに、青く燃えながら冥がりの地で揺れていた。
――逃げなければ。
その光景に慄然し、少年は必死に駆けた。
周りに光はなく、ただ青く燃える鬼火が、彼の胸間にまで冥がりを広げるようで、たまらず彼は逃げた。
――逃げなければ。早く。
はたして自分は、本当に前に進んでいるのか。
走っても走っても、先には何も見えない。
――無駄ダ。お前ハ、コチラ側ノ存在。代リニ、ソノ躯ヲ寄越セ。
鬼火は幾つも燃えて、彼の行く手を阻む。
その危急に、彼は絶望感に苛まれる。
――ああ、僕はこのまま陥ちてしまうのか。
――せいめい。
誰かの声がして、少年は顔を上げた。人の手がそこにあった。
今この手を取らなければきっと後悔する。
少年は藁にもすがる思いで、その手をしっかりと握った。
◆
さぁ――……と、音がしていた。
上げられた蔀をほうに目をやると、雨が降っているのが見えた。
文台には開きっぱなしの書と、傍らには式盤(※占いの道具の一つ)、どうやらうたた寝をしてしまったようだ。
――まさか、昔の夢を見るとは……。
晴明は額に手をやって、自嘲の笑みをこぼす。
子供の頃の自分――、周りからの嘲罵を浴び、奇異の目を向けられる。
妖の血を引くがゆえに、子供だろうと容赦はされなかった。
そんな人々の目から彼は逃げた。邸に籠もり、膝を抱え、自分で冥がりを作ってそこに逃げ込んでいた。
そのほうが、楽だと思ったのだ。
だが実際は、冥がりの住人も優しくはなかった。いい餌が飛び込んできたとばかりに、この躯を欲してくる。
そう、彼は妖の血を引く半妖――。
実際に父に聞いたわけではない。あれは妖の子だと、周りがいっていただけだ。
父に聞かなかったのは、それが真実かも知れなくて、それを聞くのが怖かったのだ。はたして現在なら、阿倍野(※現在の大阪府阿倍野区)で暮らす父はなんと答えるだろうか。 ここ何日か、陰鬱な雨が降っては止んでを繰り返している。
晴れていれば依頼された霊符を届けに外に出るが、笠に蓑を着けてまで出ようとは思わない。はっきりいって、今も人間づきあいは好きではない。
陰陽寮に属する陰陽師という職に就いてはいるが、彼に対する奇異の目と蔑みは消えたわけではない。子供の時のように逃げはしないが、忌み嫌っておきながら霊符を依頼してくる彼らの気が知れない。
ふと、晴明はその存在に気がついた。
いつからそこにいたのか、青く燃える鬼火が儚げに揺れていた。
化野(※風葬地)ならともかく、ここは晴明が暮らす邸の中である。
――どおりで、夢にまで鬼火が出るはずだ……。
渋面で見据えるも、晴明はこういったものには慣れていた。昔は怖かったが、陰陽師となると人よりも、異界との付き合いのほうが多くなった。
誰ぞから零れたモノに違いはなさそうだが、この躯をくれてやるつもりはない。おとなしく彼岸に渡って欲しいが、鬼火は消えるつもりはないらしい。
仕方がない――。
晴明は泰山府君(※仏教で言う閻魔)を念じ、柏手を打つ。目の前で彷徨う魂魄を、冥府へ送るためである。鬼火はいったん大きく揺れて、溶けるように消えていった。
ようやく静かになったと思えば、今度はぴちゃぴちゃと水音が聞こえてくる。
晴明は、嘆息した。
「今度はお前たちか……?」
板敷きの床で、五寸(※約十五センチ)ほどの雑鬼と、蛙の化生が芋の葉を笠代わりして跳ねていた。
一応、妙なモノが入り込まないよう結界を張ってあるのだが、こうした小物は簡単に入ってくる。特に雑鬼は、人間の家ならどこにでも棲んでいて、珍しいものではないが。
「いやぁ……、よく降るよなぁ」
「人の家を水浸しにするつもりか……?」
「そう怒るなって。雨宿りくらいさせろよ。雨に濡れると可哀想だろ? 俺たち」
いけしゃあしゃあと言ってのける雑鬼に、晴明は半眼で腕を組んだ。
「どこが?」
第一、蛙の化生は雨に濡れたところで、ちっとも可哀想ではない。
それよりも、芋の葉から滴る水滴のほうが心配である。
湿気対策にと蔀を上げたことを後悔しつつ、晴明は語気を強めて言った。
「消えろ」
祓われては適わぬと悟ったか、二匹は入ってきた蔀から出て行った。
さぁ――……と、雨が降る。
無駄に広い邸は、この数十年住人は一人である。棲み着いている雑鬼を入れるとその数ではないが、晴明は十四の頃から独りで住んでいる。
人間嫌いになった息子をどう思っていたのか、父・益材はさっさと阿倍野に行ってしまった。それは息子を任せられる人物に出会ったからだろうが、それにしても薄情な父よと当時は嘆き呆れた。かの人は、今もたまにふらりとやって来ては戻っていく。
彼曰く、王都での暮らしは馴染めないらしい。
あの時――。
夢の中で、晴明が掴んだ人の手。
冥がりに沈みかけた幼い彼を引き上げたのは父だったのか、それとも陰陽師に誘った師だったのか。
立ち上がり、簀子縁のほうへ向かった晴明は目を瞠った。
雨の中、面妖な華が揺れていた。
あの鬼火のような、青い彼岸花が一輪。
しかしそれは幻だったのか掻き消えて、見慣れた庭の景色が広がっていただけであった。
彼岸花の別名は〝死人花〟。
華を辿れば、自然と冥がりに着くという。
どうやら〝向こう側〟は、晴明を冥がりに引きずりこむことをまだ諦めていないらしい。
何れ化野にて白い骸を晒すことになるかも知れないが、それはまだ遠い未来だ。
晴明は華が揺れていた場所を一瞥し、纏っている狩衣の袂を翻した。
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