チルアカ前日譚

藍色綿菓子

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領主

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 久々の入浴は気持ちが良かった。服を着て領主様の部屋に向かう。このまま走って屋敷の外へ逃げられはしないだろうか。翼があれば、あの塀を越えて出られないかな。無理か。
 あの領主様の噂は多い。元々はよそ者だったのだとか。大陸の外から来たので結構いじめられて、それを返り討ちにしてたらいつの間にか領主になっていた、という話を聞いた。
 困ったことにこのアルバートという領主様は、他者を虐めるのが大好きらしい。話変わるけど、権力者に媚びようとするタイプの人っているだろう? 私がそれだ。今まで家庭でも学校でも力のある人間にすり寄って上手く生きてきたつもりだが、媚びてはいけない権力者って、いるよな。
 この館のヒエラルキーはよく変動する。トップがアルバート。最底辺がおそらく今は私。その中間はよく動く。死んだり入れ替わったりを繰り返している。なんとなく暮らせばわかるのだ。ああ、この館に私は必要とされているのだな、と。前はこの最底辺も変動していたのだろうが、私に固定されてから、皆少し穏やかになったんだって。そう言われた。薬草をくれた子がそう言っていた。だからありがとう、死なないで、と。
 私の命を脅かす奴はいなかった。だからこの館から逃げなかった。命さえ守ればいつか帰ることができるかもしれない、という希望を持ち続けていた。疲れても、傷付いても、眠れなくても、ただ生きてきた。そうか、今日死ぬのか……。今逃げ出すのとなんとか部屋に入るの、どちらが生存率が高いかしら? 迷っている内に部屋の前まで辿り着いてしまった。質素に見えて、手垢や指紋も付いてない、非常に潔癖な両開きの扉。
 いくつもの記憶がバラバラに散乱して頭の中を占領する。例えば下らない少女漫画。例えば扉を開ける絵のついたタロットカード。頬をぐりぐり押されて無理矢理口に突っ込まれた白いワーム。味は悪くないけど、と謎に主張しながら声を上げて笑っていた領主様の足が飛んできたこと。
 水を運ぶ足が止まらない時と同じように、扉に手をかけた。軋みもせずに開いてしまう。部屋に入ってゲロを吐いて帰ろうか……と思ったけど結局出なかった。初めて入った領主様の部屋は、赤と黒などダークカラーの多い、だけど宝石やら何やらがそこかしこに飾られた華美な部屋だった。女性の部屋に見えないこともない。
「来ましたよー……?」
 部屋をぐるりと見回してみると、大きなベッドに寝そべって本を読んでいる領主様がいた。まさかノックもしないとはな、と落ち着いた声が返ってくる。完全に忘れていた。
「そこ」
 領主様の指さした方向にはテーブルがあり、何やらティーセットが並んでいるようだった。金で装飾された茶器にはまだ何も入っていない。赤い宝石のようなジャムが埋め込まれた菓子がある。今日もろくに食事していないのを思い出した。椅子が二脚並んでいる。向き合う形ではなく、横に座る形で。
「えっ、すごい綺麗じゃないですか」
 椅子の向かいには窓があり、庭の植物園と赤い月がよく見える。白い雲が月を半分ほど覆っていたが、赤い月の光は雲も色付けて薄紅色にする。
「だろう? 今日は良い夜になるんじゃないかと思ってな」
 本のキリが悪いのかよほど私に興味が無いのか、領主様は本を持ったままティーセットの前の椅子に腰掛けていた。これは隣に座りたくないんだけど座らなきゃいけない雰囲気なのかな、と思っていたらわざわざ椅子を引かれて睨まれたので、失礼しますと一声かけて座る。領主様は本をテーブルに置いた。
 領主様はいつもよりも薄着で、部屋着なのかな、と思ったがそういえばここ、この人の自室だ。そりゃそうだ。いつも公務中みたいな格好のわけがない。
 長い銀髪が腰辺りまで伸びている。いつもはここまで長くない。普段もしかして巻いてるんだろうか。いや巻いてるかどうかは知らないが、飾って括っているのは知っている。日によって髪型が違うのはおしゃれさんなんだろうなぁとぼんやり思っていた。
 領主様が窓の外を見たままティーポットに手を伸ばすので、流石にこれくらいはやらないと死ぬんじゃないかな、と思い、ティーポットからカップに注いだ。ヴォアッと声が出て、くすくす笑われた。湯気もないのに熱かった。思ったより熱かった。なんで側面を触ってしまったんだ、私。熱が加わったからか、カップの底に沈んでいた花弁の模様が花開く。桃色の花から甘い匂いがする……。
 花に見惚れていたら、顔を上げた時に領主様がこちらを見ていて、思わず体が跳ねた。彼は穏やかに微笑んでいる。優しそうに、まるで慈しむかのように。垂れ目なのがそう見える。だけど口元が少し意地悪そうに、やんちゃな牙を覗かせる。
 人を誑かす悪魔は美しいのだ、と聞いたことがある。
「飲むといい。気持ちの落ち着く作用があるから」
 はい、と応えてお茶を飲んだ。ふーふー冷まして飲んだので、それほど熱くはなかった。丸っこい味がする。優しい風味のお茶だ。領主様は、美しい長い爪でありながら、器用にティーカップを扱う。せっかくの厚意、というのと、緊張して喉が渇いたのでごくごく飲んでしまった。
「それと筋弛緩剤」
「え?」
 聞き捨てならない単語が聞こえてきて、何のことかと領主様に向き直ったが、椅子を強く引かれて私は後ろに椅子ごとぶっ倒れた。美味しいお茶を思い切り顎と胸に浴びる。とても熱かった。小さな悲鳴を上げてしまった。アハハ、と楽しそうな笑い声が聞こえる。
「まあまあ、そう固くならないで。無理ならいいよ、君が余計に辛いだけ」
 領主様は立ち上がって私の足を掴み、ずるずると引きずって寝所へ持っていく。連れて行くなんて形容じゃない、物扱いだ。柔らかいラグが敷かれていない床の上は痛かった。
「まあ呼ばれた理由は察していると思うけど」
 私はもう驚いてしまって、やめて、やめて、と繰り返していたが、魔人の力に人間が敵うわけがなく。ぐいぐいと引きずられてしまえば、もうどうにもできない。最後は米俵のように抱え上げられてベッドへ放り出された。領主様の香水の匂いがする。
「あの、ごめんなさい、ごめんなさい」
「何か謝られるような記憶は無いけど」
「あの、私、わからないんです、死にたくないんだけど、こういうの、したことが一度も無いんです」
「はは、可哀想に」
 きっとトラウマになるね。そう笑顔で付け足されたけど、トラウマ以前に生きてこの部屋から出られるのかどうか、という問題の方が大きい。体のパーツが欠けていたら、そのまま失血死するだろう。何人か見てきた。
 当然のように私を寝具に押し倒して上に乗る男性に恐怖した。見える視界の上半分がチカチカした。
「あの、あの! 推薦します! ▲▲というメイドさんが、見た目も良ければ性格も良い子なのです。私なんぞに薬草を分けてくれるような素敵な女性が、この屋敷には沢山いるではありませんか」
「中々クズだね君……」
 彼はいつものように微笑んでいる。いつも使用人を処刑する時のように、穏やかに笑んでいる。
 背中が沈むフカフカの寝具の心地よさを、味わう暇なんて一切無い。
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