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Chapter-02『新たなる神姫、深紅の力は無窮の愛が為に』
第四章:君と僕と、この降りしきる雨の中で/02
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――――遥がセラと交戦した翌日、雨の降る金曜日のことだ。
「…………」
戒斗は今日も今日とていつものように神代学園の校門前にオレンジ色のZ33を横付けして、アンジェの帰りを待っているところだった。
ハザードランプを炊いて路肩に停めた愛機のボディに寄りかかっている点も普段通りだったが、今日は安っぽいビニール傘を差した格好で戒斗は待っている。雨が降っているから、傘を差しているのも当然といえば当然のことだった。
「……来たか」
そうして傘を差しながらボディに寄りかかり、じっと校門の向こう側を見つめて戒斗が待っていると。すると……少ししてから、見慣れた二人の少女が向こうから近づいてくるのを彼の眼は捉えていた。
アンジェと、そしてセラだ。二人とも目立つ容姿をしている上、セラの方は一八五センチの長身だから遠目でも一発で見分けがつく。
今日も二人は相変わらず横並びになって一緒に歩いていた。今日は雨だけに二人とも傘を差しているから、その距離感はいつもよりは少しだけ遠かったが。それでも二人とも楽しそうな顔で歩いている。遠目からでも二人の仲が良いことは窺えるだろう。
「あ、カイトお待たせー」
そうしてアンジェはセラと一緒に歩いてくると、やはり手を振りながら戒斗の方に駆け寄ってくる。それを戒斗は出迎えつつ、傘を畳んだアンジェを自分の傘の中に入れてやった。
助手席側のドアを開け、器用に傘で庇いつつアンジェを助手席に乗せてやる。彼女が無事に乗り込んだのを見てバタンとドアを閉めつつ、戒斗は一旦車の後方に回り……リアハッチを開けると、そこのラゲッジスペースに折り畳んだビニール傘をポイッと放り込み。小雨に小さく肩を濡らしながら、急ぎ足で運転席に滑り込む。
「……アンジェ、あのさ」
そうして戒斗が運転席に乗り込んで、別れ際。開いた助手席側の窓越しにアンジェと話していたセラは、ふとした折に少しだけ神妙そうな顔になり……窓から顔を出すアンジェに、何かを問おうとした。
「ん?」
「……ううん、やっぱいいわ」
だが首を傾げるアンジェを前に、セラは直前で言い淀み。フッと小さく肩を揺らしながらそう言って、言葉を濁してしまった。
――――ウィスタリア・セイレーンのことを、何か知っているのかも知れない。
そう思い、セラは試しにアンジェを問いただそうとしてみたのだが。しかし……どうしても、あの時のことを訊けない。
アンジェならひょっとして、セイレーンのことを何か知っているのかも知れない。そう思いつつも……セラは今日の今日まで、どうしてもそのことをアンジェに訊けないでいたのだ。
何せ、数えてこれで五度目のトライだ。それでも言い出す直前になって言葉が出てこない辺り……自覚はしていないが、よっぽどそのことをアンジェに訊きたくないらしい。
そう思うと、セラはアンジェに問うことを諦め。言い淀んだ彼女を見つめながら、不思議そうに首を傾げるアンジェをよそに……そのままクルリと踵を返すと、ただ一言「じゃあね」とだけ彼女に告げ。セラはスタスタとこの場から歩き去って行ってしまった。
「セラ、どうしたんだろ……?」
去って行く彼女の背中を、アンジェが車内から不思議そうな面持ちで見送っていると。すると真横の運転席に座っていた戒斗が「どうした?」と問う。
「ううん、何でもないよ」
それにアンジェは、彼の方を振り返りながらそう言って。雨があんまり車内に入ってはいけないと思い、助手席側の窓をそっと閉じた。
窓を閉じ、ふと真横に視線を向けてみると。すると……小さく雨に肩を濡らした戒斗がふぅ、と小さく息をつくのが見えて。そんな彼の様子を横目に見ながら、アンジェはふっと柔らかく微笑む。彼の仕草が、何だか可愛らしくて。アンジェは無意識の内に微笑みを浮かべていた。
「さて、と……」
そんな彼女の笑顔にも気付かぬまま、戒斗は再びキーを差し込み、止めていたエンジンを再始動させようとする。
だが、そんな矢先……アンジェがポツリと呟いた。
「……カイトはさ」
「ん?」
彼女の呟きを耳にして、戒斗はキーを回しかけていた右手を止めて隣の彼女の方にそっと振り向く。
「カイトは……そういえば、昔は雨が嫌いだったよね?」
「ああ……そんなこともあったな」
そして、アンジェに言われて。昔のことを思い出した戒斗は呟くと、回しかけていたキーから手を離し……そのままシートの背もたれに深く身体を預けると、小さく息をつきながら遠い目をする。まるで遠い日の、嘗ての自分に思いを馳せるみたく。
「子供の頃は、確かに俺は雨が嫌いだった。嫌なことがあった日は、決まって雨が降っていたからな」
「じゃあ、今は?」
「今、か」
アンジェに問われ、戒斗はフッと小さく笑む。
そして、少しの間を置いてから彼はこう答えた。敢えて隣のアンジェの方は見ないまま、ただ……フロント・ウィンドウ越しに分厚い曇天の空を眺め、ボディを打ち付けるささやかな雨音を聴きながら。
「……好きになれた、と思う。最近は昔と違って、良いことがある日は決まって雨なんだ」
「そっか」
「何でまた、アンジェは急にこんなことを俺に?」
「なんとなく、かな。僕はほら、雨の日が一番好きだから」
「……前に聞いた気もするが、理由を聞かせてくれるか?」
「なんていうか……凄く、落ち着くんだ。雨の音や、雲の色。ふわふわとした匂いに……空気の色も。雨が降ってくれていた方が、僕は落ち着くから」
「だから、俺にも好きでいて欲しかった?」
かも知れないね、とアンジェが苦笑いをする。どうしてこんなことを訊いたのか、自分でも分からないといった風に。
「そういえばさ、カイト」
「ん?」
「遥さんが家の前で倒れてたのも、丁度こんな雨の日だったよね?」
「ああ……そういえば、そうだったな」
――――今からおよそ一年半前のことだ。
その日も、丁度こんな風に小雨が降っていたのを今でも覚えている。空は暗い色の分厚い雲が覆い、降りしきる細い小雨は街をささやかに濡らしていて。そんな日に――――戦部戒斗は、彼女と出逢ったのだ。
確か、アンジェと一緒に夕飯の食材を買い出しに行こうとしていた時だ。彼女と一緒に家を出て、そうしたら……青い髪の乙女が、家のすぐ目の前の道路に倒れていたのだ。
ボロボロの格好で倒れていた彼女に駆け寄り、濡れた道路から彼女の身体を戒斗が抱え上げてやると……彼女は、後の間宮遥は殆ど意識を失いかけていた。
揺すってみても、何も言わない。戒斗はひとまずアンジェに救急車を呼んで貰いつつ、遥を担いで一度家の中に彼女を担ぎ込もうとしたのだ。
その時――――遥が、こんなことを呟いた。
「……ごめん、なさい。飛鷹、私は貴女を――――」
ただ一言だけを呟いて、それきり遥は完全に意識を失ってしまった。
彼女がうわ言のように呟いたその言葉の意味は、一年半が経った今でも分からずじまいだ。記憶を失ってしまっているのだから、分からなくて当然だが。
とにかく、それが戒斗とアンジェの、遥との出逢いだった。
その後、駆けつけた救急車に乗せて遥を病院に担ぎ込み――――暫く経って目を覚ましたとき、彼女はもう過去の記憶を失ってしまっていて。それから戦部家で引き取ることになって、その時に戒斗は彼女に今の名をあげたのだ。間宮遥という、今の彼女の名を。
「……懐かしいな」
そんな遥との出逢いのことを、遠い目をして思い出す戒斗。そんな彼を横目に見て、アンジェは内心でこんなことを思ってしまっていた。
――――ひょっとして、戒斗は遥に対して特別な感情を抱いているのではないかと。
或いは、その逆なのかも、ともアンジェは思う。どちらにせよ、心中穏やかではなかった。
だって……ちゃんとした言葉の形でこそ未だ伝えていないが、それでもアンジェは彼のことを心の底から好いているのだ。彼の為なら自分の生命なんてどうでもいいと思えてしまうほどに、アンジェリーヌ・リュミエールは彼のことを……戦部戒斗のことを心の底から想い、そして深く愛していた。
だからこそ、こんな要らぬ心配をしてしまい。だからこそ、無意味に心を痛めてしまっているのだ。そんなこと、あるはずがないって分かっているのに。それでも……一度想像してしまえば、妙に心が落ち着かなくなってしまう。
そんなことを考えてしまえば――――アンジェの取るべき行動は、ひとつしかなかった。
「か、カイトっ!」
急にアンジェに呼び掛けられて、戒斗は「ん?」と横を向く。
そうして視界に映ったアンジェは、何故だか戒斗の方に小さく身を乗り出してきていて。そんな彼女の顔は……いつも通りではあったものの、しかし頬がほんの僅かに朱く染まっていた。アイオライトのように綺麗な蒼い瞳も、僅かにだが緊張に揺れているような気もする。
「その、今度の日曜日って……カイト、暇かな?」
アンジェはそんな面持ちのまま、恐る恐る……それでもハッキリとした口調で、すぐ傍の彼へと問うていた。
「日曜? んー……その日なら特に予定は入ってないな。まあ、俺に予定が入ってる方が珍しいんだが……」
問いかけられた戒斗は、少し唸った後で彼女にそう答える。最後にちょっとした自虐を加えつつで、だ。
「じゃ、じゃぁっ!!」
そんな彼の回答を聞き、アンジェはそう……僅かに声を裏返させながら、妙に強い勢いで戒斗へ更に近づきつつ、続けてこんな提案をした。
「その、だったら……日曜は僕に一日付き合ってくれないかな?」
「付き合う? 別に構わないけど」
「ほ、ほんとっ!?」
「俺がアンジェに嘘つく理由なんかないって」
「じゃあ、じゃあ約束だからね!?」
声を上擦らせながら念押ししてくるみたいに言うアンジェに、戒斗は「分かった分かった」と苦笑い気味に頷き返す。
「……それで、何処に行きたいんだ?」
その後で、肝心なことを訊いていなかったと思って訊いてみると。するとアンジェは「あー……」と目を泳がせて数秒、考える。
実を言うと、何も考えていなかった。その場のノリと勢いだけで提案したことだけに……プランなんてものは最初から無かったのだ。
そうして考えること数秒、身を乗り出していた格好から再び助手席のシートに戻りつつ、アンジェはポツリと隣の彼に向かってこう言った。
「……その、観たい映画があるんだ」
「映画?」
うん、と頷くアンジェ。
そんな彼女の顔を見て、戒斗は大体のことを察していた。
「……大体の予想はついた。まあなんでもいい、付き合えってなら喜んで付き合うよ」
「ほんと?」
「ホントにホント。んじゃあ今週末、日曜にな」
「……うんっ!!」
日曜日、戒斗と二人でお出かけ――――二人きりで、彼とデート。
そう思うと、アンジェは自分でも気が付かぬ内に満面の笑みを浮かべて喜んでいた。
あんまりにも嬉しそうな彼女を見て、戒斗も戒斗でフッと表情を綻ばせる。彼の方はなんでアンジェがここまで嬉しそうにしているのか、その理由は分かっていなかったが……それでも、アンジェのこんな笑顔を見るのは嬉しかったのだ。アンジェにはやはり、こういう笑顔が一番似合う。
「んじゃま、とっとと帰るとすっか」
そんな彼女の嬉しそうな笑顔を横目に見ながら、戒斗は言って。今度こそキーを捻り、エンジンを始動させる。
しめやかな雨がボディを叩く中、ボンネットの下で今まで眠りに就いていた排気量三・五リッター、遠心式スーパーチャージャー過給器付きのV6エンジンが獰猛な唸り声を上げて目を覚ます。
すると、今まで聞こえていた雨音が……ポツポツとボディを叩いていた静かな雨音が、唸るエンジンの重厚なサウンドに掻き消される。
古いカーナビをデジタルメーター表示に切り替え、水温油温をチェック。全て適正値まで暖まっている。油圧も電圧も正常、走行に問題無し。すぐに走り出せる状態だ。
そうして一度コンディションを確認した後、戒斗はサイドブレーキを下ろし、ギアをパーキング位置からドライヴ位置へと突っ込み、ハザードランプを消しつつZを発進させる。
低い唸り声を上げながら、雨の中をゆったりと流し始めたZ33。その車内でアンジェは独り嬉しそうに、少し照れくさそうに微笑んでいた。
(カイトとデート……久し振りに、嬉しいな……)
本当に、久し振りだ。二人でちょっと出掛けることはあれど……休日にちゃんとした形でのデートなんて、何だかんだと久しく機会が無かった気がする。
だからこそ、アンジェは余計に嬉しかった。日曜日に彼と二人で出かけられることが、凄く嬉しかったのだ。
そんな嬉しさのあまり、左手の甲に感じた多少の違和感も……アンジェは気にしていなかった。確かに左手の甲に感じていたはずの、その違和感を――――。
(第四章『君と僕と、この降りしきる雨の中で』了)
「…………」
戒斗は今日も今日とていつものように神代学園の校門前にオレンジ色のZ33を横付けして、アンジェの帰りを待っているところだった。
ハザードランプを炊いて路肩に停めた愛機のボディに寄りかかっている点も普段通りだったが、今日は安っぽいビニール傘を差した格好で戒斗は待っている。雨が降っているから、傘を差しているのも当然といえば当然のことだった。
「……来たか」
そうして傘を差しながらボディに寄りかかり、じっと校門の向こう側を見つめて戒斗が待っていると。すると……少ししてから、見慣れた二人の少女が向こうから近づいてくるのを彼の眼は捉えていた。
アンジェと、そしてセラだ。二人とも目立つ容姿をしている上、セラの方は一八五センチの長身だから遠目でも一発で見分けがつく。
今日も二人は相変わらず横並びになって一緒に歩いていた。今日は雨だけに二人とも傘を差しているから、その距離感はいつもよりは少しだけ遠かったが。それでも二人とも楽しそうな顔で歩いている。遠目からでも二人の仲が良いことは窺えるだろう。
「あ、カイトお待たせー」
そうしてアンジェはセラと一緒に歩いてくると、やはり手を振りながら戒斗の方に駆け寄ってくる。それを戒斗は出迎えつつ、傘を畳んだアンジェを自分の傘の中に入れてやった。
助手席側のドアを開け、器用に傘で庇いつつアンジェを助手席に乗せてやる。彼女が無事に乗り込んだのを見てバタンとドアを閉めつつ、戒斗は一旦車の後方に回り……リアハッチを開けると、そこのラゲッジスペースに折り畳んだビニール傘をポイッと放り込み。小雨に小さく肩を濡らしながら、急ぎ足で運転席に滑り込む。
「……アンジェ、あのさ」
そうして戒斗が運転席に乗り込んで、別れ際。開いた助手席側の窓越しにアンジェと話していたセラは、ふとした折に少しだけ神妙そうな顔になり……窓から顔を出すアンジェに、何かを問おうとした。
「ん?」
「……ううん、やっぱいいわ」
だが首を傾げるアンジェを前に、セラは直前で言い淀み。フッと小さく肩を揺らしながらそう言って、言葉を濁してしまった。
――――ウィスタリア・セイレーンのことを、何か知っているのかも知れない。
そう思い、セラは試しにアンジェを問いただそうとしてみたのだが。しかし……どうしても、あの時のことを訊けない。
アンジェならひょっとして、セイレーンのことを何か知っているのかも知れない。そう思いつつも……セラは今日の今日まで、どうしてもそのことをアンジェに訊けないでいたのだ。
何せ、数えてこれで五度目のトライだ。それでも言い出す直前になって言葉が出てこない辺り……自覚はしていないが、よっぽどそのことをアンジェに訊きたくないらしい。
そう思うと、セラはアンジェに問うことを諦め。言い淀んだ彼女を見つめながら、不思議そうに首を傾げるアンジェをよそに……そのままクルリと踵を返すと、ただ一言「じゃあね」とだけ彼女に告げ。セラはスタスタとこの場から歩き去って行ってしまった。
「セラ、どうしたんだろ……?」
去って行く彼女の背中を、アンジェが車内から不思議そうな面持ちで見送っていると。すると真横の運転席に座っていた戒斗が「どうした?」と問う。
「ううん、何でもないよ」
それにアンジェは、彼の方を振り返りながらそう言って。雨があんまり車内に入ってはいけないと思い、助手席側の窓をそっと閉じた。
窓を閉じ、ふと真横に視線を向けてみると。すると……小さく雨に肩を濡らした戒斗がふぅ、と小さく息をつくのが見えて。そんな彼の様子を横目に見ながら、アンジェはふっと柔らかく微笑む。彼の仕草が、何だか可愛らしくて。アンジェは無意識の内に微笑みを浮かべていた。
「さて、と……」
そんな彼女の笑顔にも気付かぬまま、戒斗は再びキーを差し込み、止めていたエンジンを再始動させようとする。
だが、そんな矢先……アンジェがポツリと呟いた。
「……カイトはさ」
「ん?」
彼女の呟きを耳にして、戒斗はキーを回しかけていた右手を止めて隣の彼女の方にそっと振り向く。
「カイトは……そういえば、昔は雨が嫌いだったよね?」
「ああ……そんなこともあったな」
そして、アンジェに言われて。昔のことを思い出した戒斗は呟くと、回しかけていたキーから手を離し……そのままシートの背もたれに深く身体を預けると、小さく息をつきながら遠い目をする。まるで遠い日の、嘗ての自分に思いを馳せるみたく。
「子供の頃は、確かに俺は雨が嫌いだった。嫌なことがあった日は、決まって雨が降っていたからな」
「じゃあ、今は?」
「今、か」
アンジェに問われ、戒斗はフッと小さく笑む。
そして、少しの間を置いてから彼はこう答えた。敢えて隣のアンジェの方は見ないまま、ただ……フロント・ウィンドウ越しに分厚い曇天の空を眺め、ボディを打ち付けるささやかな雨音を聴きながら。
「……好きになれた、と思う。最近は昔と違って、良いことがある日は決まって雨なんだ」
「そっか」
「何でまた、アンジェは急にこんなことを俺に?」
「なんとなく、かな。僕はほら、雨の日が一番好きだから」
「……前に聞いた気もするが、理由を聞かせてくれるか?」
「なんていうか……凄く、落ち着くんだ。雨の音や、雲の色。ふわふわとした匂いに……空気の色も。雨が降ってくれていた方が、僕は落ち着くから」
「だから、俺にも好きでいて欲しかった?」
かも知れないね、とアンジェが苦笑いをする。どうしてこんなことを訊いたのか、自分でも分からないといった風に。
「そういえばさ、カイト」
「ん?」
「遥さんが家の前で倒れてたのも、丁度こんな雨の日だったよね?」
「ああ……そういえば、そうだったな」
――――今からおよそ一年半前のことだ。
その日も、丁度こんな風に小雨が降っていたのを今でも覚えている。空は暗い色の分厚い雲が覆い、降りしきる細い小雨は街をささやかに濡らしていて。そんな日に――――戦部戒斗は、彼女と出逢ったのだ。
確か、アンジェと一緒に夕飯の食材を買い出しに行こうとしていた時だ。彼女と一緒に家を出て、そうしたら……青い髪の乙女が、家のすぐ目の前の道路に倒れていたのだ。
ボロボロの格好で倒れていた彼女に駆け寄り、濡れた道路から彼女の身体を戒斗が抱え上げてやると……彼女は、後の間宮遥は殆ど意識を失いかけていた。
揺すってみても、何も言わない。戒斗はひとまずアンジェに救急車を呼んで貰いつつ、遥を担いで一度家の中に彼女を担ぎ込もうとしたのだ。
その時――――遥が、こんなことを呟いた。
「……ごめん、なさい。飛鷹、私は貴女を――――」
ただ一言だけを呟いて、それきり遥は完全に意識を失ってしまった。
彼女がうわ言のように呟いたその言葉の意味は、一年半が経った今でも分からずじまいだ。記憶を失ってしまっているのだから、分からなくて当然だが。
とにかく、それが戒斗とアンジェの、遥との出逢いだった。
その後、駆けつけた救急車に乗せて遥を病院に担ぎ込み――――暫く経って目を覚ましたとき、彼女はもう過去の記憶を失ってしまっていて。それから戦部家で引き取ることになって、その時に戒斗は彼女に今の名をあげたのだ。間宮遥という、今の彼女の名を。
「……懐かしいな」
そんな遥との出逢いのことを、遠い目をして思い出す戒斗。そんな彼を横目に見て、アンジェは内心でこんなことを思ってしまっていた。
――――ひょっとして、戒斗は遥に対して特別な感情を抱いているのではないかと。
或いは、その逆なのかも、ともアンジェは思う。どちらにせよ、心中穏やかではなかった。
だって……ちゃんとした言葉の形でこそ未だ伝えていないが、それでもアンジェは彼のことを心の底から好いているのだ。彼の為なら自分の生命なんてどうでもいいと思えてしまうほどに、アンジェリーヌ・リュミエールは彼のことを……戦部戒斗のことを心の底から想い、そして深く愛していた。
だからこそ、こんな要らぬ心配をしてしまい。だからこそ、無意味に心を痛めてしまっているのだ。そんなこと、あるはずがないって分かっているのに。それでも……一度想像してしまえば、妙に心が落ち着かなくなってしまう。
そんなことを考えてしまえば――――アンジェの取るべき行動は、ひとつしかなかった。
「か、カイトっ!」
急にアンジェに呼び掛けられて、戒斗は「ん?」と横を向く。
そうして視界に映ったアンジェは、何故だか戒斗の方に小さく身を乗り出してきていて。そんな彼女の顔は……いつも通りではあったものの、しかし頬がほんの僅かに朱く染まっていた。アイオライトのように綺麗な蒼い瞳も、僅かにだが緊張に揺れているような気もする。
「その、今度の日曜日って……カイト、暇かな?」
アンジェはそんな面持ちのまま、恐る恐る……それでもハッキリとした口調で、すぐ傍の彼へと問うていた。
「日曜? んー……その日なら特に予定は入ってないな。まあ、俺に予定が入ってる方が珍しいんだが……」
問いかけられた戒斗は、少し唸った後で彼女にそう答える。最後にちょっとした自虐を加えつつで、だ。
「じゃ、じゃぁっ!!」
そんな彼の回答を聞き、アンジェはそう……僅かに声を裏返させながら、妙に強い勢いで戒斗へ更に近づきつつ、続けてこんな提案をした。
「その、だったら……日曜は僕に一日付き合ってくれないかな?」
「付き合う? 別に構わないけど」
「ほ、ほんとっ!?」
「俺がアンジェに嘘つく理由なんかないって」
「じゃあ、じゃあ約束だからね!?」
声を上擦らせながら念押ししてくるみたいに言うアンジェに、戒斗は「分かった分かった」と苦笑い気味に頷き返す。
「……それで、何処に行きたいんだ?」
その後で、肝心なことを訊いていなかったと思って訊いてみると。するとアンジェは「あー……」と目を泳がせて数秒、考える。
実を言うと、何も考えていなかった。その場のノリと勢いだけで提案したことだけに……プランなんてものは最初から無かったのだ。
そうして考えること数秒、身を乗り出していた格好から再び助手席のシートに戻りつつ、アンジェはポツリと隣の彼に向かってこう言った。
「……その、観たい映画があるんだ」
「映画?」
うん、と頷くアンジェ。
そんな彼女の顔を見て、戒斗は大体のことを察していた。
「……大体の予想はついた。まあなんでもいい、付き合えってなら喜んで付き合うよ」
「ほんと?」
「ホントにホント。んじゃあ今週末、日曜にな」
「……うんっ!!」
日曜日、戒斗と二人でお出かけ――――二人きりで、彼とデート。
そう思うと、アンジェは自分でも気が付かぬ内に満面の笑みを浮かべて喜んでいた。
あんまりにも嬉しそうな彼女を見て、戒斗も戒斗でフッと表情を綻ばせる。彼の方はなんでアンジェがここまで嬉しそうにしているのか、その理由は分かっていなかったが……それでも、アンジェのこんな笑顔を見るのは嬉しかったのだ。アンジェにはやはり、こういう笑顔が一番似合う。
「んじゃま、とっとと帰るとすっか」
そんな彼女の嬉しそうな笑顔を横目に見ながら、戒斗は言って。今度こそキーを捻り、エンジンを始動させる。
しめやかな雨がボディを叩く中、ボンネットの下で今まで眠りに就いていた排気量三・五リッター、遠心式スーパーチャージャー過給器付きのV6エンジンが獰猛な唸り声を上げて目を覚ます。
すると、今まで聞こえていた雨音が……ポツポツとボディを叩いていた静かな雨音が、唸るエンジンの重厚なサウンドに掻き消される。
古いカーナビをデジタルメーター表示に切り替え、水温油温をチェック。全て適正値まで暖まっている。油圧も電圧も正常、走行に問題無し。すぐに走り出せる状態だ。
そうして一度コンディションを確認した後、戒斗はサイドブレーキを下ろし、ギアをパーキング位置からドライヴ位置へと突っ込み、ハザードランプを消しつつZを発進させる。
低い唸り声を上げながら、雨の中をゆったりと流し始めたZ33。その車内でアンジェは独り嬉しそうに、少し照れくさそうに微笑んでいた。
(カイトとデート……久し振りに、嬉しいな……)
本当に、久し振りだ。二人でちょっと出掛けることはあれど……休日にちゃんとした形でのデートなんて、何だかんだと久しく機会が無かった気がする。
だからこそ、アンジェは余計に嬉しかった。日曜日に彼と二人で出かけられることが、凄く嬉しかったのだ。
そんな嬉しさのあまり、左手の甲に感じた多少の違和感も……アンジェは気にしていなかった。確かに左手の甲に感じていたはずの、その違和感を――――。
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