上 下
201 / 430
第四章『ファースト・ブラッド/A-311小隊、やがて少年たちは戦火の中へ』

Int.49:ブルー・レイン/月影と藍、白狼はしめやかな雨の中に

しおりを挟む
「…………」
 ――――しめやかな雨が降りつける、夜。一真は独り訓練生寮のベランダに立ち、雨に濡れる夜の街を眺めていた。
 背中の向こう側では、シャワーの流れ落ちるサーッとした水音が微かに浴室から漏れ聞こえている。そうして瀬那が湯を浴びている中、一真は独り、こうしてベランダに立っていた。
 あれから、半日ほどのときが過ぎた。結局あの後、式場のパンフレットやらその他諸々を持たされて二人があそこを出る頃には、既に夕刻近かった。
 結局、あの東浦とかいう女のセールスに上手いこと乗せられた形というわけだ。我ながらに愚かだとは思いつつも、まあ結果的には悪くなかったと……今ではそう、信じている。
「雨、か」
 思えば、こういう時はいつも雨だった。無人島で遭難めいた目に遭った時も、そういえば雨だった。
「――――」
 舞依と出逢ったあの日も……確か、雨だったような気がする。
 一真の人生に於いて、重要な場面ではいつもいつも、決まってこんな雨が降っていた。ささやかな、小さな雨音だけを立てる、細かい粒のようなしめやかな雨が。
 だからか、こんな風にまるで清めのような雨を眺めていると、自然と心は落ち着いてくる。地面に跳ねるささやかな雨音を聞いていれば、自然と心が安らいでくる。
 だから、一真は本音のところで雨は好きだった。傘を差さねばならなかったりだとか、濡れたりだとかという面倒なところはあるが、しかし本質的なところで、彼は雨というものが好きだった。
「……これで、良かったんだよな」
 ――――良かったに、決まってる。
 即座に一真は、たった今己の言い放った言葉に対し、胸の内でそう答え、確信を抱く。間違いない、この覚悟に、間違いなんて無いんだと……。
「――――決めたね、一真」
 そうした折に、そんな声がすぐ傍から聞こえたと思えば――――いつの間にか、ベランダの端。その影に身を落とすようにして、知らぬ間に霧香がそこに立っていた。
「まあな」
 そんな霧香の存在を不自然にも思わず、一真はフッと小さく笑みを浮かべれば、そうやって短く、何処かぶっきらぼうなように頷き返す。
 まず間違いなく、霧香もあの一連の出来事を見ていたのだろう。だからこそ、顔に浮かぶのは含みを込めた笑みなのかもしれない。
「これで、やっと君に、瀬那を預けられる……」
「そんな、大層なモンじゃないさ」
 小さく呟きながら、一真はベランダの手すりに背を向け、そこにもたれ掛かりながら両肘を掛けた。
「それより、悪かったな」
「…………何、が?」
「今日一日、徒労に終わらせちまってさ」
 すると、霧香はフッと小さな笑みを浮かべ、
「……気にしない、気にしない」
 そうやって近づいてきたかと思えば、何故かそんな風に一真の頭を軽く撫でてくる。
「何も無いに、越したこと、ない……」
「ま、そりゃあそうだ」
「……それより」
「ん?」
「……私の目の前で、あんなの食べるのは、ちょっと辛かったかな…………?」
 どうやら、昼間の海老天の一件を未だに根に持っているらしく、そんな風にボソリと言った霧香は、相変わらずの薄い無表情ながら珍しくぷくーっと膨れっ面を付くってみせた。
「今度奢ってやるから、それで勘弁してくれ」
 苦笑いしながら一真がそう言えば、霧香は未だに膨れっ面のままで一真の方をチラリと見上げ、「……約束、だよ?」と小さく呟く。
「はいはい、分かった分かった」
 そう言ってやれば、やっとこさ霧香は膨れるのをやめ。「……しょうがないから、今回は、許してあげるよ…………?」なんて風に、まあいつもの調子に戻ってそんな風に独りでうんうんと何度か頷いていた。
「…………一真」
 そして少しの沈黙の後、ふとした時に霧香がそう、声を掛けてくる。それに一真が「ん?」と反応してやれば、
「本当に、君を、信じてもいいのかな……?」
 こちらを見上げながら、まるで最後に覚悟を問うかのように、霧香はそうやって一真に問いかけてくる。
「――――信じたきゃ、好きにしろ」
 すると、一真はフッとまた小さな笑みを形作り――――そうやって、霧香に頷いてみせた。
「……そっか」
 そう一真が答えてやれば、霧香は納得したように小さくコクリと頷いて。そうして一真の方に向き直ると、何故か一歩を大きく踏み出し――――。
「ん」
 ――――何故か、その唇を重ねてきた。
「なっ……!?」
 あまりに突拍子のない行動に、一真は目を見開き。しかしそうしている間にも目の前にあった霧香の顔が一瞬の内に離れて行くと、距離感は再び元の通りに戻ってしまう。
「……何の、つもりだ…………?」
 戸惑いながら、一真が目の前に立つ霧香に向けてそう問いかける。ほんの一瞬のこと、既に何も無かったかのようで。しかし唇にだけは、軽く触れ重なり合った一瞬の感触の残滓だけが、未だに離れないでいた。
「……一真は、もう、瀬那のものだから」
 すると、霧香はいつも通りの薄い無表情で。しかしその頬をほんの少しだけ朱に染めながら、囁くみたいに小さな声色で言葉を紡ぎ始める。
「瀬那は、私のあるじだから。あるじのものは、流石にニンジャでも、奪えはしないからね……」
 でも、ニンジャは嘘をつけないから。分かってても、それでも。自分の気持ちにも、嘘はつけなかったんだ――――。
「…………」
「ニンジャ、だからね」
 クスッと冗談めいた笑みを浮かべながら、そんな霧香が小さく紡ぎ出すその言葉を、一真は黙ったままで聞いていた。
「でも、これぐらいは……許して、欲しいかな…………?」
「霧香、君は……まさか」
「――――だめ」
 まさかと思って言い掛けた一真だったが、しかし霧香の声にそれを制され。そうしながら霧香はくるりと踵を返して一真に背を向けると、しかし首を傾げて一真の方に振り返り、
「――――瀬那のこと、頼んだよ」
 何処か儚いような、吹けば飛んで消えてしまいそうなぐらいの儚さを、普段と同じような薄い無表情の上に漂わせ。そして――――ほんの少しだけの、小さな笑顔を浮かべながら、彼女は一真に向かってそう、囁くような声音で告げていた。
「……霧香」
 何か言葉を返そうとして、一真がそう彼女の名を呼んだ時。ガラリと浴室の戸が開く音がすれば、一真は一瞬だけそちらの方に気を取られ、霧香から視線をそらしてしまった。
「一真、どうか致したか?」
 浴室から出てきた瀬那に首を傾げながらそう訊かれ、一真は「い、いや。何でもない」と咄嗟に出てきた言葉で答えながら、もう一度霧香の居た方向に振り返るが。
「…………」
 そこには、もう既に彼女の姿は無く。まるで最初から何も無く、誰も居なかったかのように、がらんとしたベランダだけが一真の視界には映っていた。ただ、仄かな残香だけを、そこに残して。
(霧香……)
 ――――きっと、彼女もまた、己を好いていてくれたのかもしれない。
 今となっては、それが真実かどうかは分からない。しかし、ひとつだけ分かることは――――彼女は、敢えて己から身を引いたということ。己があるじの為に、そして、一真の為に……。
「…………」
 彼女の立っていた場所を、一真がそう思いながら名残惜しげに眺めていると。すると瀬那は「おかしな奴よの」と小さく微笑みながら、部屋からベランダへと出てくる。
「……雨、止まぬな」
 そうして一真の隣に立つと、雨の降りつける夜の街並みを遠くに眺めながら、感慨深そうに瀬那がそう呟く。
「……ああ」
 頷きながら、一真もベランダの手すりに背中を預ける格好のまま、軽く振り返り、瀬那と同じ方を見る。
「今宵の月は美しいものになると聞いておったのに、この調子では見えそうにない」
「たまには、雨も悪くないさ」
「…………うむ、違いない」
 短い言葉を交わし合い、横目同士の視線を交錯させ合えば、二人はどちらからとも知れずに小さく笑い出す。
「其方は、本当に私で良かったのか?」
 すると、瀬那はまた雨の降る外の景色を眺めながら、ポツリとそんなことを呟いた。
「自分から仕掛けといて、何を今更言うのさ」
「いや、本当に良かったのかと、ふと不安になってしまってな……。済まぬ、今のは忘れてくれぬか」
「あんまり、忘れたくはないかな」
「……やはり、其方はいじわるだ」
 ニッと小さく笑みを浮かべながら、一真が冗談めかした顔でそう返せば。瀬那はぷくーっと小さく膨れ、そんなことを呟く。
「そうさ、俺は意地悪なのさ」
 そんな瀬那の方に横目を流しながら、一真は尚もニヤニヤとしながらそうやって言い、
「そんな意地悪な俺にあんなことしちまったのは、何処の誰だったっけか?」
 ニヤッとしながら言ってみれば、瀬那は「……むぅ」と、ほんの少し頬を紅く染めながら唸る。それが風呂上がりの熱気だからか、はたまた別の理由わけがあってなのかは、彼女の反応を見ていれば明白だった。
「……雨、止まないな」
「……うむ」
 一真が何気なしに呟いた言葉に、瀬那が小さく頷く。
「いい加減、寒くなってきた……。瀬那、そろそろ入るか?」
 そうやって一真が言えば、しかし瀬那は「いや」と首を横に振り、「もう暫し、此処でこうしておりたい」と言う。
「そうか」
 そんな彼女に、一真は頷くと。ぼうっと虚空を仰ぎみながら、ただ黙ったままでいた。
「…………しかし、確かに少しばかり寒くもなってきた。このままでは、湯冷めしてしまいそうだ」
 ともしていれば、続けて瀬那は独り言みたいにそんなことを口走り。ベランダの手すりから離れたかと思えば、
「少しだけ、胸を貸すがい」
 そう言って、何故か一真に近づいてきて。ぼうっとする彼の胸へと、瀬那は深く顔を埋めてきた。
「……好きにしてくれ」
 ほんの少しだけ口角を緩ませながら、一真は小さく、まるで息でもつくかみたいな安穏とした声音で、短くそれだけを言い返した。
 雨の、濃い湿気の匂いが満ちる中、風呂を出たばかりで漂う石鹸の香りが、ほんの少しだけ一真の鼻腔をくすぐっていた。彼にとっても慣れ親しんだ、彼女の匂いを僅かに織り交ぜながら。
 揺蕩たゆたうような安堵に二人身を落としながら、一真はまだ、雨の街を眺めていた。
「やはり、此処が一番落ち着く……。其方の傍が、一番落ち着ける……」
 胸の中にある彼女が呟く、安堵の色に満ちたそんな呟きは、しめやかな雨音の中に霧散し、消えていく。
「…………雨、か」
 雨は、止むところを知らない。安堵の中に身を漂わせる二人と、穢れた外界を隔絶させるように、カーテンのように濃く、分厚い雨は降りつけていた。
 街を煙らせる雨は、誰かの流す涙にもよく似ていて。星明かりを覆い隠す分厚い雲の流す静かな涙は、まだ止みそうにもなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

おむつオナニーやりかた

rtokpr
エッセイ・ノンフィクション
おむつオナニーのやりかたです

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

自衛官、異世界に墜落する

フレカレディカ
ファンタジー
ある日、航空自衛隊特殊任務部隊所属の元陸上自衛隊特殊作戦部隊所属の『暁神楽(あかつきかぐら)』が、乗っていた輸送機にどこからか飛んできたミサイルが当たり墜落してしまった。だが、墜落した先は異世界だった!暁はそこから新しくできた仲間と共に生活していくこととなった・・・ 現代軍隊×異世界ファンタジー!!! ※この作品は、長年デスクワークの私が現役の頃の記憶をひねり、思い出して趣味で制作しております。至らない点などがございましたら、教えて頂ければ嬉しいです。

異世界日本軍と手を組んでアメリカ相手に奇跡の勝利❕

naosi
歴史・時代
大日本帝国海軍のほぼすべての戦力を出撃させ、挑んだレイテ沖海戦、それは日本最後の空母機動部隊を囮にアメリカ軍の輸送部隊を攻撃するというものだった。この海戦で主力艦艇のほぼすべてを失った。これにより、日本軍首脳部は本土決戦へと移っていく。日本艦隊を敗北させたアメリカ軍は本土攻撃の中継地点の為に硫黄島を攻略を開始した。しかし、アメリカ海兵隊が上陸を始めた時、支援と輸送船を護衛していたアメリカ第五艦隊が攻撃を受けった。それをしたのは、アメリカ軍が沈めたはずの艦艇ばかりの日本の連合艦隊だった。   この作品は個人的に日本がアメリカ軍に負けなかったらどうなっていたか、はたまた、別の世界から来た日本が敗北寸前の日本を救うと言う架空の戦記です。

処理中です...