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Execute.03:ノエル・アジャーニ -Noelle Adjani-

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「むぅ、レイの馬鹿……」
 それから、十数分後。
 一階のリビングで、またソファに座り項垂れる零士と。そしてその傍ら、ソファの背もたれに裏から乗りかかるような格好で彼を見下ろしながら、ノエルがぷうっと頬を膨らませていた。
 まだ頬をほんのりと朱色に染めるノエルの格好は、当然ながらさっきの下着姿でなく。上は襟を開けた半袖の黒いブラウスと、下は脚のラインがそこそこ出るような細身のジーンズといった格好だ。開いたブラウスの襟元から見える白い首元には、相変わらず小さな金のロザリオが揺れている。
「だから、悪かったって」
 あの後、零士はすぐさま叩き出されるようにして部屋を出て。そうして彼女の着替えが終わった後で、報告書を書き上げるのに必要な物々を部屋から持ち出し、そして今に至るというワケだ。
 本当に、我ながら失敗したと零士は思う。寝ぼけた頭は昨日からノエルと同居を始めたことをすっかり忘れきっていて、思い出したのは当然のような顔で自室に入り、着替え中だったノエルを眼にした後のことだったのだ。
 その結果が、少しだけ不機嫌そうに、そして恥ずかしげに頬を小さく桜色に染める彼女だ。さっきから何かに付けては零士に小さく文句を垂れてきていて、その度に零士はただただ平謝りといった風。責められて当然なことをしただけに、零士はただただ詫び続けるだけだった。
「……別に、レイになら良いんだよ。良いんだけど……その、断りもなくいきなりってのは、どうなのかなあって」
「本当に悪かったって。というか、それは良いのか……」
「そ、それはっ!」
 零士がまた謝った後で、後ろの言葉は困惑気味に言えば。ノエルは「しまった」と言わんばかりにハッとし、慌てて首をぶんぶんと横に振り出す。
 とはいえ、否定するのもそこそこに。ノエルはちょっとしてから首を振るのをやめると、続けてこう言った。囁くように小さな声音で、頬に差す朱色も、色合いを強めさせながら。
「……まあ、うん。それはね、正直僕も構わないんだよ。構わないんだけれど……こ、心の準備ってものが――――」
 後半の方はあまりにも声音が細すぎて、零士の耳では捉えきれなかった。
 捉えきれなかったが、しかしノエルの言わんとしていることは何となく理解出来る。それほどまでに自分のことを信頼してくれているとは毛ほども思っていなかっただけに、零士は何故だか少しだけ嬉しくなってしまう。
(……俺は、何を)
 彼女に信頼されていると思えば、無性に嬉しくなり。嬉しくなったところで、零士はハッと我に返った。自分は一体、何を考えているのだと。
(ノエルは、ミラージュであってミラージュじゃない。違うんだ。なのに……)
 彼女は、ノエル・アジャーニはミラージュだ。――――しかし、飛鳥ではない。
 なのに、ノエルから信頼を寄せて貰っていることに気が付いて、嬉しく思っている自分は何なのだろうか。こんなこと、不義理のようなものなのに。それなのに、なんで自分は彼女が、ノエルが自分のことを信じ、認めてくれていることを、素直に嬉しく思ってしまっているのだろうか……。
「……レイ、どうかしたの?」
 そうして、零士が自罰的な感情に支配されていると。いつの間にやらその暗い色が顔に出てしまっていたのか、肩越しに覗き込んでくるノエルが心配そうに声を掛けてきた。
 ソファの背もたれに乗りかかったまま、片方の手はソファについて身体を支え、しかしもう片方の手を、優しく零士の肩に触れさせながら。突然暗い顔をし始めた彼を、心底から案ずるみたいな触れ方で。ノエルはそんな格好で、零士の方を覗き込んでくる。ハッと我に返った零士が横目に視線を向ければ、心配に揺れる彼女のアイオライトの瞳と、パッと眼が合う。
「……済まない、なんでもないよ」
 そんな彼女に、零士が言い放ったのは。そんな、嘘のような言葉だった。
 なんでもない、そんなことは嘘だ。なんでもなくなんて、ない。深刻なことに思考を巡らせていたことぐらい、横顔に滲み出ていた暗さから明らかなほどに見て取れる。
「そっか、なら良いんだけれど」
 分かっていても。それが分かっていても、しかしノエルは彼に返す言葉を、それ以外に持っていなかった。
 本当なら、聞いてあげるべきなんだとは思う。何をそんなに暗い顔をしているのか、何が心を締め付けるのか。話を聞いて、出来ることなら抱き締めて。それで、少しでも彼の心を楽にしてあげるべきだとは感じている。
 それでも、今のノエルにはそれが出来なかった。今はまだ、彼に対してそんな踏み入ったことをしてあげられる関係でもないし、それに何より、彼の横顔自体が拒んでいた。ノエルに、自分の深いところまで踏み込んでこられることを。多分無意識でなのだろうが、彼の横顔はそれを拒んでいたのだ。
 だからこそ、ノエルには当たり触りの無い言葉を返すことしか出来ない。
 そうすることしか他に取れる手段のない自分が、少しだけ悔しかった。沸々と、日に日に増してくるこの感情は、紛れもない本物だというのに。
「っと、こうしちゃいられない」
 だが、零士はそんな彼女の内心も知らず。思い出したかのようにひとりごちれば、小さく肩を鳴らし。そして目の前のテーブルに置かれていた、古めかしいアナログな機械のキーボードを叩き始めた。
「……レイ、ひとつ訊いてもいい?」
 多少の沈黙を、パチパチとした小気味の良い機械的な動作音が埋めた後。尚もそんな音がテンポ良く響くリビングの中、ノエルはソファに乗りかかり彼の方を覗き込んだ格好のまま、彼がしきりにタイプする手元を不思議そうに眺めつつ、両手の指を忙しなく動かす零士にそう、問うていた。
「なんだ」
 手元に視線を落としたまま、彼女の方を見ないままで零士が反応する。
「なんで、タイプライターなんて使ってるの?」
 ノエルの疑問は至極当然なモノだった。何せ、零士が報告書の作成に使っているのはノートパソコンの類でなく、アンティークの領域に入るような機械式のタイプライターだったのだから。
 レミントン・ポータブル・モデル5。1930年代にアメリカで流行っていた、当時にしては割に小柄なタイプライターだ。中でも形はボクシー(箱型)と呼ばれるタイプで、見た目は言ってしまえばステレオタイプなタイプライターだ。それこそ、レイモンド・チャンドラーの小説世界で、私立探偵フィリップ・マーロウが使っていそうな具合の。
 電子機器の類は欠片も介入せず、全てが物理的に完結した機械式の代物だ。生産から百年近い、完全にアンティークの代物。そんなものをわざわざ零士が実用で使っていることを、ノエルが疑問に思うのも当然なことだった。今時タイプライターで実務書類の作成だなんて、偏屈を通り越して最早奇妙ですらある。
「信用できるからな」
 しかし、零士の答えは素っ気ないものだった。パチパチと軽妙なタイプ音が延々と響く中、それにノエルが「どういうこと?」と更に問う。
「完全な機械式だから、中に記録が残ったりすることはない。一応カーボン紙を噛ませて控えは取ってあるが、暫くしたらコイツも焼却処分だ」
「つまり、機密保持が楽ってことかな?」
「そういうことだ」
 零士の説明を聞いて、ひとまずはノエルも納得した。
 確かに、彼の主張は理に適っている。パソコンの類――要はコンピュータを介した書類作成であれば、元のコンピュータの方から、どんな書類を作成したか。その履歴を漁られてしまう可能性は無きにしも非ずだ。どれだけ消去しても履歴は欠片ほどは残ってしまうと聞くし、それこそそんなデータの復元なら、ミリィ・レイスほどの腕前を以てしなくても可能だ。
 それを防ぐには、パソコンの物理的な破壊しかない。だが、毎度毎度そんなことをやっているのも、流石に非効率というものだ。
 そういう意味で、零士がこんなアンティークめいた機械式タイプライターを使うことは、一応理には適っているのだ。一応1980年代から'90年代頃には集積回路(IC)を積んだ、電子式という奴も出てはいたのだが。それですら使わずに、百年近く前の骨董品を使っているのは、零士の過剰なまでの警戒心が故なのか。それとも、単に彼が偏屈なだけなのか。
「あはは……」
 きっと後者であろうことは、少しだけ楽しげな顔でキーボードを打つ彼の横顔から、何となく読み取れた。ノエルは思わず苦笑いを浮かべてしまう。彼に対しての無愛想な印象は、パリを去る頃には既に拭えていたが。こんな偏屈な、ある意味では人間らしいような一面を垣間見れば、またノエルの中で零士に対する、サイファーに対する認識が改まってしまう。胸中に巡り巡る熱い気持ちを、更に強める形で。
「機械は、下手にコンピュータを噛ませない方が色々と融通が利くんだ」
 そんなノエルの苦笑いを背中越しに聞きながら、続けて零士はそう言ったが。きっと、そちらが本音だろう。普通に考えて、完全に非効率な行為なのだから。
「報告書自体は日本語で上げちまっても良いんだが、どうせSIAの標準言語は英語だ。俺が日本語で上げたところで、シャーリィが英語に翻訳コンバートする羽目になっちまうからな。どうせ俺もシャーリィも英語が使えるんだし、そんなことに意味はない」
「へぇー」零士の話を聞いて、感嘆した風にノエルが唸る。「だから、英語で書いてるの?」
「そういうことだ。アルファベットを打ち込むなら、タイプライターってのも案外良いモノだからな」
 パチパチと小気味の良い、何処か古めかしいアンティークな機械の音色を聞きながら。ノエルはもう暫くの間、楽しげにキーをタップし、古びた機械で報告書を書き上げていく彼を、背中越しに眺めていようと思った。
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