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Execute.03:ノエル・アジャーニ -Noelle Adjani-

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 ぐぅぅ、とノエルが可愛らしく腹の虫を鳴らしたのは、それから暫くもし無い内のことだった。
「あ、あははは……」
 零士のすぐ目の前で腹の虫を鳴らしてしまったのがよっぽど恥ずかしかったのか、ノエルは今まで見たことも無いほどに頬を朱色に染め、何歩か後ずさりながら誤魔化すように激しく苦笑いをする。
 そんなノエルに、零士もまた小さくはにかんだ表情を返し。そうしてチラリと左手首に巻いたゴツい腕時計――CASIOのG-SHOCK、モデルMT-G――の強化ガラスに封印された、ときを刻む三本の針のムーブメントに視線を落としてみれば。知らぬ内に帰宅してから随分と時間が経っていたらしく、頃合いも夕飯には丁度良い具合になっていた。
 愛用品の腕時計が示す時刻を見て、零士は「ふむ」と小さく唸った。確かに、零士とて良い具合に空腹を覚えてきている。ノエルが慣らした可愛い腹の虫に触発されたワケではないが、気付いた途端に零士も猛然とした空腹を覚え始めた。
「じ、じゃあ! 僕が何か作るよっ! き、キッチン借りるねっ!!」
 と、零士がそんなことを考えている内に、ノエルは何をどんな風に思考を転がしたのか。尚も顔を真っ赤にしたまま、しどろもどろになりながらで零士へ一方的に言えば、ダイニングテーブルのすぐ傍に見える、カウンター式の割に広いキッチンの方へと歩いて行ってしまう。
「待て待て待て、慌てるなってノエル」
 照れ隠しのように早足で歩いて行く彼女の肩をそっと掴み、キッチンに趣こうとする彼女を、椅子から立ち上がった零士が制する。
「此処は俺の家だ、飯なら俺が作る」
「わ、悪いって! 僕の方から押し掛けたのに、レイにそこまでさせちゃうのは!」
 立ち止まり、振り向いたノエルの顔は、まだまだ頬に差した桜色が抜けきっていない感じだったが。しかしその言葉が照れ隠しという意味でないことぐらいは、彼女が向けてくるアイオライトの瞳の奥に垣間見える、一抹の申し訳なさのような色から何となく感じ取れた。
「それはそれ、これはこれ、だ」
 だからこそ、零士は敢えて割り切るようにノエルを諭す。気遣いが良く出来て、優しいなのは結構だが、幾らなんでも度が過ぎている。少なくとも、彼女の真意を知らぬ零士にはそう思えていた。
「この家のホストは、俺だ。パリのアパートでは君に色々と世話になったからな。借りを返すってワケじゃないが、ここは俺に任せてくれ」
 零士が言えば、ノエルは「う、うん……。分かったよ」と頷き。とりあえずは落ち着きを取り戻した様子で、零士が食事を振る舞うことを了承してくれた。
「そういうことだ。ゆっくりしててくれ、さっさと作るから」
 ノエルの肩から手を離すと、零士はカウンター式キッチンの中に立った。
(とはいえ、どうしたものか)
 冷蔵庫をパカッと開きながら、零士は顎に手を当てつつ、思い悩むように唸る。
 まさか、こんな来客が来るとは想定外にも程がある。基本的にこの家にやって来るゲストといえばシャーリィぐらいなもので、それも滅多にないことだ。
 故に、冷蔵庫の中にはそう大したものは入っていない。いやある程度は取り揃えているのだが、基本的に零士の独り暮らしな都合上、二人分も供給できるほど分量は多くないのだ。
 そういう事情もあって、零士はひどく悩んでいた。ああは言ったものの、ノエルに何を作ってやれば良いものか、実のところかなり頭を捻らせている。しかも、現在進行形で。
 初っ端から日本食、というのもアレだろう。SIAの関係で――恐らくはシャーリィに訓練を施される関係で、日本にはそこそこ滞在する期間があったと前にパリで聞いた覚えがあるから、きっとその中で味噌やらその他諸々を食する機会もあっただろう。
 だが、確証もないのにそれをやるのはマズい。ある程度ノエルの嗜好やらを承知してから、そしてノエルがどれだけ日本食に触れてきたか。それを聞き出し承知した上でやらねば、彼女に要らぬ嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
(……何を考えてるんだ、俺は)
 と、そこまで考えたところで零士は我に返り、首をぶんぶんと激しく横に振った。
 ガラにもなく、こんなことを考えてしまうなんて。まるで、一年半前に戻ってしまったかのようだ。あの日・・・以来、一匹狼ローン・ウルフでやってきたというのに。こんなこと、二度と考えることはないと思っていたのに。ノエルがやって来た途端にこれだ。本当に、我ながら笑わせる。
 そんなことを、零士は独り考えていた。己の胸中、その奥深くに潜む、己自身でも気付いていない己の本心を知らぬまま。
(まあ何にせよ、方向性は固まってきた)
 とにかく、今日のところは洋風寄りで行くべきだろう。零士はそう判断すると、目の前にあった包みを取った。
 中身は牛肉だ。アメリカ産の牛の、サーロインの部位。和牛のサシ文化を好まない零士は、敢えて合衆国産の牛肉を好んで買い求めているのだ。和牛みたく不必要なまでに油っぽくなく、少しばかり硬いが味は良い。
 この肉は昨日の夕方に、今日の夕食にでもしようとスーパーの精肉店で購入しておいたものだ。余れば冷凍してストックしておこうと、多めに調達しておいたのが功を奏した。今日のところは、これをメインに振る舞えば良いだろう。
「さてと、ちゃっちゃと終わらせるか」
 ニヤリと笑みを零し、零士は冷蔵庫を閉じた。
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