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Execute.02:巴里より愛を込めて -From Paris with Love-

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「…………」
 眉間を.357マグナムに吹っ飛ばされたベアトリス・ブランシャールは息絶えて。今は物言わぬむくろと化した彼女を一瞥しながら、ノエルは少しだけ哀しげな表情を浮かべ。銃を持たぬ右腕は、無意識の内に自信の胸元へと寄っていた。
 真っ白な右手で握り締めるのは、首から吊り下げる小さな金のロザリオ。彼女がいつだって肌身離さず身に着けているそれを、ノエルは無意識の内に握り締めていた。縋るように、自らの胸の内で揺れる心を、鎮めるかのように。
「ノエル」
 彼女がそうしていれば、傍に歩み寄って来た零士が、懐から取り出したハンカチでノエルの頬をそっと拭った。知らぬ間に頬に飛んでいた返り血が拭われれば、ノエルは「……ありがとう、レイ」と、蒼い瞳で彼を横目に見て礼を言う。
「色々と思うところはあるだろうが、悪いが今は時間に余裕がない」
「……うん、そうだね」
 ノエルはコクリと小さく頷き、先を行く零士に付き従い、ベアトリスの死骸の前から離れていく。
「奴の言葉が正しいのなら、この先にシャンペーニュが隠れてるはずだ」
 零士は言うと、ノエルを一歩下がらせて。そしてPx4ストームを構えると、扉を蹴り開け一気にその奥へと雪崩込んだ。
「ひっ!?」
 飛び込めば、その先に一人の男が蹲っていた。飛び込んで来た零士たちを怯えた表情で見上げる、白人の男。金髪の髪をオールバックにし、フレームレスの眼鏡を掛けたビジネスマン風なその男は、間違いなくこの屋敷のあるじであるフランス人資産家、ジルベール・シャンペーニュだった。
「やっ、やめて! 殺さ……殺さないで!!」
 シャンペーニュは二人の姿を一目見るなり、すぐさま涙目で命乞いを始める。抵抗の意思も、世界を股に掛け綱渡りを繰り返してきただろう資産家らしく、交渉に臨むこともせず。ただ情けなく蹲って、涙声で命乞いをし始めた。
「だ、誰に雇われたんだ? SIAか? きっとそうだろう、こんな荒っぽいことをするのなんて奴らぐらいしか居ない!」
「レイ……」
 困惑した顔のノエルを手振りだけで制し、零士は無言のままにシャンペーニュを見下ろしていた。冷たく凍り付いた、深淵を湛えた黒い双眸で。
「幾らだ? 私とブランシャールの首に幾ら掛かってる? 幾らだか知らないが、私ならその数倍……いや! 一〇倍は出せる! 貴方が望むのなら、二〇倍や三〇倍だって!」
「レイ、もう」
「いいから、ノエルは気にするな」
 うん、と困った顔で頷くノエルをよそに、シャンペーニュは這いつくばった格好のまま、赤ん坊のように寄って来て零士の脚へしがみついてくる。行動だけは赤ん坊のようだが、しかしそれをやっているのは三〇か四〇を過ぎたような大の大人だ。涙目でそうするシャンペーニュの姿は、色々通り越して最早哀れですらある。
「良いんだ、どうせブランシャールはたかが傭兵崩れだ。あんな奴は幾ら死んだって構いやしない。グローバル・ディフェンスの警備員だってそうだ! 貴方たちが望むのなら、今回の件は私の力で上手く揉み消す!
 だから……だから殺さないでくれ、私だけは! 私にはまだやるべきことがある! やれることが沢山あるんだ! あんな屑どもとは違う、私にはやれることがある! 私はまだ生きねばならないんだ! 私の人生は、あんな連中とは比べものに――――」
「もういいよ」
 飽きたように、突き放すように零士は言うと。しがみつかれていた脚をそのまま強く振るい、シャンペーニュの身体を力いっぱい蹴っ飛ばした。
「うひ――――っ」
 吹っ飛んでいったシャンペーニュが壁に激突し、形容しがたい声を上げる。蹴った際にフォーマルシューズの爪先が顎から顔面にかけての辺りに当たったからか、シャンペーニュの歯は砕け散って。高い鼻は無残に折れ、割れた眼鏡は彼方へと吹っ飛んでいた。
「アンタは最低最悪の下衆野郎だ。ブランシャールは悪党なりに矜持も、誇りもあった。だがジルベール・シャンペーニュ、アンタは何なんだ?」
 怒りを通り越したような、冷たい表情で零士が言う。するとノエルが「レイ」と彼の肩に触れ、制してから彼の前に出て、
「もういいよ、終わらせよう」
 と、左手に提げていたマニューリン・MR73の銃口をシャンペーニュに向けた。
「やめてくれ」
 だが、零士は彼女が左腕一本で構えたMR73をそっと上から手のひらで包み込み。そうして、ノエルに銃を下げさせた。
「でも……」
 不思議そうな顔で、ノエルが問う。すると零士は「いいんだ」と首を横に振り、
「こんな下衆、君が手を下す価値もない」
 冷たい顔でそう言うと、右手に銃把を握り締めていたツートンカラーのベレッタ・Px4ストームの銃口を、ノエルの代わりにシャンペーニュへと向ける。
「ひっ、やめ――――」
 怯えたシャンペーニュが更なる命ごいをする暇も与えず、零士は一切の躊躇いなく、すぐさまその引鉄を絞った。
 9mmパラベラムのカートリッジが爆ぜた、乾いたコルダイト無煙火薬の破裂音が狭い部屋に木霊する。
 舞い落ちる金色の空薬莢と、銃口から吹き出す淡い白煙。Px4ストームの銃口と、ノエルのアイオライトの瞳と、そして零士の乾いた冷徹な双眸が睨み付ける先で。ジルベール・シャンペーニュは右眼の眼窩から先を撃ち貫かれ、その無意味な生に幕を下ろした。
「……出よう、任務は完了した。屋敷の裏でミリィ・レイスがお待ちかねだ」
「分かったよ、レイ。……行こう」
 そして、目的を果たした二人は消えていく。サイファーとミラージュ、最強と名高いエージェントと、それに付き従う彼女と。二人の影は、最初からこの場に無かったかのように掻き消えていく。闇から闇へと姿を消すかのように、二人の気配は夜闇の中へと消えていく…………。
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