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月日が経過するのは早く、とうとう、フランツブルグと伯爵夫人が対面する日が来た。
マシェリーの周りには、もう夜の香りが漂っており、上空にはちらちらと光る小さな星がまばらに散っている。懐中時計の針は、七のところを少しばかり回ったところだ。
季節がら、もう夜になると冷たい風が吹く。少し肌寒く、上着が一枚欲しくなる程度の気温だった。
彼女は現在の時刻よりも三十分ほど前から、門のそばに立って、馬車の到着を待っていた。
頭上のランプが燃え、小さな炎が揺れ動く。
この待つ時間の緊張感は、どんなに経験しようとも、慣れるものではなかった。
それに、今回は相手が相手である。その緊張もあってか、心臓の場所がハッキリと分かる程、ドギマギとしていた。
約束の時間は懐中時計の音と共に近づいてくる。
あのフランツブルグ家の家主様ことだ。少し早い到着になるだろうとは予想していたが、それは見事に的中した。
ガラガラという車輪の音と、複数の蹄の音が響き、大きな影を作って、門の前で停止する。
御者が降りてきて、馬車の扉を開けると、中からは、あの舞踏会の時に見た美しい紳士が緊張した面持ちで降りてきた。
彼女は一礼し、
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
と、その紳士を伯爵夫人のところへと案内するのだった。
馬車の周りに彼はいないだろうかと、ひそかに目を回してみるも、その影すらも見受けることはなかった。
歩いている時も、後ろのことが気になって仕方がない。
急に刺されたりなんかはしないだろうかと、漠然とした不安が掻き立てられるのである。それはあくまで偏見であると、彼女自身でも理解しているのだが、どうしてもその背中が落ち着くことはなかった。また、自分がそのような不安と恐れを抱いていることが相手方に察されることがないだろうかと、その心配も重なって、彼女はいつもよりも背筋が伸び切っていた。
普段から通っているはずの廊下が長く感じる。駆け出してしまいたい気持ちを抑えて、一行はようやく、どの部屋よりも飾られた部屋の前に着いた。
彼女は再び一礼して、足早にその場を立ち去る。とにかく、その場から離れたくて仕方がなかったのだ。
それはもちろん、フランツブルグから離れたかったということもあるが、彼女は以前、誤って逢引きの邪魔をしてしまったことがあった。
その失敗が脳裏をよぎり、以来彼女は、こうして廊下を静かに駆けるのが普通になってしまったのだった。
あとは、彼女に特別な仕事はない。
相手の方がいつ帰ることがあってもいいように、外で待っているだけだった。
この日はひどく風が強い。
上着一つ着ることも許されず、彼女は一人、噴水の縁に腰かけていた。
座れるところは、ここのほかにない。だからどんなに背中に水がかかっても、我慢する以外に休む方法がなかった。
ビュウビュウと気味の悪い音を立てて風が吹き荒れる。
水の音は華やかに洗練されていて、人工的なうるささを感じた。
ランプの下以外の場所は暗闇に閉ざされ、広々とした屋敷の庭が、今はどこにも果てがないように思える。
彼女は退屈な時間を弄び、それと同時に、ため息を吐いた。
唐突に訪れた虚無と、どうしようもない悲愴が漂ってきたのである。
今やもう忘れてしまった時間が、ぼうっとした頭を撫でたようだった。暗い箱のなか、たった一人、さよならを残した、あの記憶である。
「こんなところにいたら、寒いだろうに」
不意に声をかけられる。
振り返ると、いつもとは違った礼服を着た、ラムールの姿があった。
彼はいつもと同じような笑顔を向けていた。その表情に、ほんの少しの安堵を抱く。
「寒くはありませんよ」
「そんなことないだろう。指先が赤いよ」
そう言って、ラムールは自身のジャケットを脱ぎ、彼女の背中にかけてやった。
「いけませんわ。水がかかってしまいます。それに、貴方も寒いでしょうに」
「私は、一枚多く着込んでいるから、平気さ」
ラムールは笑うと、彼女の隣にそっと腰かけた。
「ね、あの後は、大丈夫だったかい」
その優し気な言葉に、彼女はすぐには答えなかった。どこにも向けようのない嫌な感情が渦巻いて、一種の高揚とともに内心をひどくかき乱したからである。
そうとも知らずに、ラムールは彼女に気遣いの言葉をかける。
「風邪とか、ひかなかったかい。何か言われたりなんかは、しなかった?」
「……別に、なにも。いたって健康でしたわ」
「それはよかった!」
彼女は、悶々と流れる心情に惑わされるにつれ、今まで感じたことないようなフワフワした感覚に、三割の好奇心と、七割の恐怖心を抱いていた。
落ち着かなくなって、彼女は立ち上がる。
「どうしたの」
ラムールが問いかけるが、彼女は答えなかった。
マシェリーはラムールにジャケットを返して、門の方に歩いて行ってしまう。
「どこに行くの?」
「どこだっていいでしょう」
振り返りもせずに言う彼女の手を、ラムールは掴んで引き留めた。
「見送りにはまだ早いよ」
「…離してください」
「嫌だって言ったら?」
「…いい加減にしてください!」
強めの言葉と共に、彼女はラムールの手を振り払う。
その彼女の態度に、ラムールは笑みを消した。
「…ごめんよ」
悲し気な声。
(違う。こんなことをしたいんじゃない。でも、どうすればいいのか分からない)
気づけば、彼女は口走っていた。
「…貴方といると、とても自分が情けなくなるんです」
何を言いたいのか、よく分からない。頭とか顔とか、何から何まで熱くなっていくのを感じた。
「自分のことが、嫌になっていくんです。貴方は私のままでいいって言ってくれたけど、私は貴方の隣にいると、とても見劣りするような気がして、とても、辛いんです…」
言っているうちに、視界が歪んでいく。
泣いてはいけない。そう思って、唇を噛んだ。
「私、私、貴方といると辛い。どうしてこうなんだろうって、思ってしまう。でも、貴方には隣にいてほしい。貴方のこと、嫌いじゃない。けど、とても苦しい…。どうなってしまったの、私、怖い…」
「それは僕だってそうさ!」
ラムールは耐えかねたように言った。
聞いたことのない言い方に、マシェリーは顔を上げる。彼の顔はとても苦し気で、何かにとても大きく感動しているかのような、酔いしれたような表情だった。
「自分が自分じゃないみたいだ。前の自分とは確実に違う…。まさか、違う誰かになってしまったのではないかと、恐ろしくなったさ。でも、僕はどうしても君のそばにいたくて、仕方がないんだ! 今だってそうだ! 心が熱く燃え上がって、灰になってしまいそうだ! でも、灰になってでもいいと思えるほど、どうしても、君が愛しくて、たまらないんだよ…」
「……分からない。私、今までそんなことを、人から言われたことないもの…。いつだって、私は出来損ないよ」
彼女は口元に震える手を当てて、両の目から大粒の涙を流していた。
「…マシェリー、聞いてくれるかい」
彼女は小さくうなずいた。
「僕は君を、心から愛している」
その言葉は彼女の心に響いて、大きく揺らした。
そして、こう言わせたのだった。
「もし、私のこの感情が、貴方と同じものだとしたら…私は、貴方以上に貴方を愛しているわ」
二人は、互いの瞳に酔いしれていた。そしてそのまま引き込まれるように顔を近づけ、静かにキスをした。
このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
本気でそう思った。
マシェリーの周りには、もう夜の香りが漂っており、上空にはちらちらと光る小さな星がまばらに散っている。懐中時計の針は、七のところを少しばかり回ったところだ。
季節がら、もう夜になると冷たい風が吹く。少し肌寒く、上着が一枚欲しくなる程度の気温だった。
彼女は現在の時刻よりも三十分ほど前から、門のそばに立って、馬車の到着を待っていた。
頭上のランプが燃え、小さな炎が揺れ動く。
この待つ時間の緊張感は、どんなに経験しようとも、慣れるものではなかった。
それに、今回は相手が相手である。その緊張もあってか、心臓の場所がハッキリと分かる程、ドギマギとしていた。
約束の時間は懐中時計の音と共に近づいてくる。
あのフランツブルグ家の家主様ことだ。少し早い到着になるだろうとは予想していたが、それは見事に的中した。
ガラガラという車輪の音と、複数の蹄の音が響き、大きな影を作って、門の前で停止する。
御者が降りてきて、馬車の扉を開けると、中からは、あの舞踏会の時に見た美しい紳士が緊張した面持ちで降りてきた。
彼女は一礼し、
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
と、その紳士を伯爵夫人のところへと案内するのだった。
馬車の周りに彼はいないだろうかと、ひそかに目を回してみるも、その影すらも見受けることはなかった。
歩いている時も、後ろのことが気になって仕方がない。
急に刺されたりなんかはしないだろうかと、漠然とした不安が掻き立てられるのである。それはあくまで偏見であると、彼女自身でも理解しているのだが、どうしてもその背中が落ち着くことはなかった。また、自分がそのような不安と恐れを抱いていることが相手方に察されることがないだろうかと、その心配も重なって、彼女はいつもよりも背筋が伸び切っていた。
普段から通っているはずの廊下が長く感じる。駆け出してしまいたい気持ちを抑えて、一行はようやく、どの部屋よりも飾られた部屋の前に着いた。
彼女は再び一礼して、足早にその場を立ち去る。とにかく、その場から離れたくて仕方がなかったのだ。
それはもちろん、フランツブルグから離れたかったということもあるが、彼女は以前、誤って逢引きの邪魔をしてしまったことがあった。
その失敗が脳裏をよぎり、以来彼女は、こうして廊下を静かに駆けるのが普通になってしまったのだった。
あとは、彼女に特別な仕事はない。
相手の方がいつ帰ることがあってもいいように、外で待っているだけだった。
この日はひどく風が強い。
上着一つ着ることも許されず、彼女は一人、噴水の縁に腰かけていた。
座れるところは、ここのほかにない。だからどんなに背中に水がかかっても、我慢する以外に休む方法がなかった。
ビュウビュウと気味の悪い音を立てて風が吹き荒れる。
水の音は華やかに洗練されていて、人工的なうるささを感じた。
ランプの下以外の場所は暗闇に閉ざされ、広々とした屋敷の庭が、今はどこにも果てがないように思える。
彼女は退屈な時間を弄び、それと同時に、ため息を吐いた。
唐突に訪れた虚無と、どうしようもない悲愴が漂ってきたのである。
今やもう忘れてしまった時間が、ぼうっとした頭を撫でたようだった。暗い箱のなか、たった一人、さよならを残した、あの記憶である。
「こんなところにいたら、寒いだろうに」
不意に声をかけられる。
振り返ると、いつもとは違った礼服を着た、ラムールの姿があった。
彼はいつもと同じような笑顔を向けていた。その表情に、ほんの少しの安堵を抱く。
「寒くはありませんよ」
「そんなことないだろう。指先が赤いよ」
そう言って、ラムールは自身のジャケットを脱ぎ、彼女の背中にかけてやった。
「いけませんわ。水がかかってしまいます。それに、貴方も寒いでしょうに」
「私は、一枚多く着込んでいるから、平気さ」
ラムールは笑うと、彼女の隣にそっと腰かけた。
「ね、あの後は、大丈夫だったかい」
その優し気な言葉に、彼女はすぐには答えなかった。どこにも向けようのない嫌な感情が渦巻いて、一種の高揚とともに内心をひどくかき乱したからである。
そうとも知らずに、ラムールは彼女に気遣いの言葉をかける。
「風邪とか、ひかなかったかい。何か言われたりなんかは、しなかった?」
「……別に、なにも。いたって健康でしたわ」
「それはよかった!」
彼女は、悶々と流れる心情に惑わされるにつれ、今まで感じたことないようなフワフワした感覚に、三割の好奇心と、七割の恐怖心を抱いていた。
落ち着かなくなって、彼女は立ち上がる。
「どうしたの」
ラムールが問いかけるが、彼女は答えなかった。
マシェリーはラムールにジャケットを返して、門の方に歩いて行ってしまう。
「どこに行くの?」
「どこだっていいでしょう」
振り返りもせずに言う彼女の手を、ラムールは掴んで引き留めた。
「見送りにはまだ早いよ」
「…離してください」
「嫌だって言ったら?」
「…いい加減にしてください!」
強めの言葉と共に、彼女はラムールの手を振り払う。
その彼女の態度に、ラムールは笑みを消した。
「…ごめんよ」
悲し気な声。
(違う。こんなことをしたいんじゃない。でも、どうすればいいのか分からない)
気づけば、彼女は口走っていた。
「…貴方といると、とても自分が情けなくなるんです」
何を言いたいのか、よく分からない。頭とか顔とか、何から何まで熱くなっていくのを感じた。
「自分のことが、嫌になっていくんです。貴方は私のままでいいって言ってくれたけど、私は貴方の隣にいると、とても見劣りするような気がして、とても、辛いんです…」
言っているうちに、視界が歪んでいく。
泣いてはいけない。そう思って、唇を噛んだ。
「私、私、貴方といると辛い。どうしてこうなんだろうって、思ってしまう。でも、貴方には隣にいてほしい。貴方のこと、嫌いじゃない。けど、とても苦しい…。どうなってしまったの、私、怖い…」
「それは僕だってそうさ!」
ラムールは耐えかねたように言った。
聞いたことのない言い方に、マシェリーは顔を上げる。彼の顔はとても苦し気で、何かにとても大きく感動しているかのような、酔いしれたような表情だった。
「自分が自分じゃないみたいだ。前の自分とは確実に違う…。まさか、違う誰かになってしまったのではないかと、恐ろしくなったさ。でも、僕はどうしても君のそばにいたくて、仕方がないんだ! 今だってそうだ! 心が熱く燃え上がって、灰になってしまいそうだ! でも、灰になってでもいいと思えるほど、どうしても、君が愛しくて、たまらないんだよ…」
「……分からない。私、今までそんなことを、人から言われたことないもの…。いつだって、私は出来損ないよ」
彼女は口元に震える手を当てて、両の目から大粒の涙を流していた。
「…マシェリー、聞いてくれるかい」
彼女は小さくうなずいた。
「僕は君を、心から愛している」
その言葉は彼女の心に響いて、大きく揺らした。
そして、こう言わせたのだった。
「もし、私のこの感情が、貴方と同じものだとしたら…私は、貴方以上に貴方を愛しているわ」
二人は、互いの瞳に酔いしれていた。そしてそのまま引き込まれるように顔を近づけ、静かにキスをした。
このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
本気でそう思った。
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