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君
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昏い室内。カビ臭い空気。カーテンで閉め切られた、本だらけの壁面。『隣』の自室と大して変わらない造りをした内部は、それでも唯一の灯りになったノートPCが爛々と存在を誇示している。間違い探しの問題なら、ガキでも最初に当てられる部類だろう。
「……」
キーボードを叩く音がリズミカルに響く。真っ白い画面はゴシック体の黒で徐々に埋められて、その奥ではまだ誰も知ることのない「化物」が、現実と虚構の狭間でずっと息を潜めている。
「──楽しいのか?」
「──ん。楽しい。」
ディスプレイに視線を向けたまま投げられる簡潔な質問。それに即答する俺を、呆れたままの溜息が貫く。陰湿を具現化したような声色と口調は正しくこの男を体現していて、兎にも角にも心地が良い。こっちを向いていても表情が見えない長い前髪も良い。この男が驚くほど澄んだ瞳をもっていることに、一体この世界の何人が気づいているんだろう?
「僕には理解出来ないな。こんな退屈な現場の一体何が面白い」
「俺が心酔してる世界の描かれてる只中だぞ?興味を持たないほうがおかしい」
「理解不能だな。僕の文章は〈了〉を打って初めて僕の中で世界という形を持つ。完成するまでは、所詮唯の文字列だ」
「俺にとっては一行でも一文字でも、狭間連の世界だぞ」
「知るか。君の見解に興味はない」
この偏屈で陰鬱な作家大先生は利己的で排他的で、この通り俺の意見なんて一切反映しない、孤独な作家様の鑑のような存在だ。圧倒的な他者の拒絶はこれまでこの男がそうして生きてきた証で、そんな男の部屋に俺という存在が居座っていること自体、イレギュラーなことなんだろう。
平凡な俺に訪れた非凡な偶然と、猥雑にして淫猥な欲望を経て、この男に許された、「俺」という人間。それがどれだけの重みと居場所を獲得したのか、きっとまだ世界で誰も認知していない。
ああ、それで構わない。なんの問題もない。俺は前科を首輪にしてハメられたバター犬で、それを想像する余地すらない。つまりはそもそも人じゃないわけか。成程、それはそれで、愉快に思える。
「迅」
小気味良い妄想に、リズミカルな音が停止する。濁流のように溢れていた文字の河が鎮まって、そこには人の名前が浮かぶ。「境囲迅」。それは僭越ながら現世で犬ではなく人間として産まれた俺という生き物の固有名詞だ。少しだけ、意外な展開だった。
「……? なんだよ」
俺を見ている。長い前髪ではなく更にその奥に在る、切れ長の瞳で俺を視ている。そこに居るのは俺が心の底から愛している作家。あの、そしてこの卑しい『穴』を知る前は、生きる理由そのものだった世界を描いていた神。「狭間連」。それは俺が、いずれ、心の底から愛するようになるのかもしれないひとりの男。
「君は、どうして此処へ来た」
「お前の世界を見るため」
「不可能だ。僕の世界は僕にしか視えない」
「じゃあ訂正する。俺の世界から見た、お前の世界を見るため」
「下らない言葉遊びはどうでもいいんだ」
「っ」
どこか苛立った調子で浮かぶ舌打ちに、連は俺の腕を掴んだ。スウェットに包まれた細くも太くもない腕に食い込む五指は酷く強い力で、そこからはえらく鮮明な意思が滲み出ていた。それを自然と知れるのが不思議だと思った。俺はなんの能力もない、ただの奴隷犬を気取った人間なのに。
「……」
声もなく、言葉もなく、じっと俺を見つめる、視ているとわかる連に、俺は手を伸ばした。両目を覆い隠す黒髪、その無辜の帳をゆるく開く。呆気なく露わになる、神ではない人の瞳に、俺は光陰を不均等に宿す球体をもう何度目かも分からず美しいと思った。連だ。そう感じた瞬間に、俺の中の世界が、また動いた。
「連」
「……なんだ。ぁ……んっ」
名前を呼んで、呼応するようにキュっと細く締まった瞳に、俺はこいつの、言葉よりも余程雄弁な体内を思い出した。腹の奥が熱くなって、やけに切ない痛みが響く。それに後押しでもされるように、俺は連へ口づけた。この痛みを分け与えるように。俺では名付けられないこの痛みに、最も不完全で、最も好ましい名前を、この作家が名付けてくれるように。
「ん……っ」
「ん、ぁ、ふぁ……っ」
舌を挿れた口づけを離す。さっきよりも少しだけ高く、少しだけ湿った息が響く。濡れた膜を張る水晶体に、まだいびつなままの、けれど以前よりはずっと滑らかになった形で、連の口元が、甘く緩む。
「──迅」
……それはかつての狭間連には決して存在しなかった、陰鬱にはほんの数センチだけ届かない微量な距離。その、常人では輪廻転生を千度繰り返しても辿り着かないたった数センチを、俺は、どうしようもなく、心の底から愛しているとそう思った。
「連」
だから、だからこそ、俺は笑い、連を抱き締めて敷いたままの布団へふたりで倒れ込んだ。そして先程よりも深い口付けをして、服の下から連の素肌に触れた。
傾倒していたホラー作家の狭間連とどうしてこんなことになったのかを語れるほど、俺は饒舌でも達筆でもない。だからこそいつか、この男自身がその手でそれを形にしてくれるのを俺はどこかで期待している。狭間連の最高傑作として、至高の怪異を描いてくれると。
もしもそれが実現したら、そこから産まれる未来は俺にとっての祝福になるんだろうか。それとも破滅になるんだろうか?叶うなら、その結果を連と共に見届けたい。
ああ、そうだな。
それを俺の。
──今を生きる、理由にしよう。
「……」
キーボードを叩く音がリズミカルに響く。真っ白い画面はゴシック体の黒で徐々に埋められて、その奥ではまだ誰も知ることのない「化物」が、現実と虚構の狭間でずっと息を潜めている。
「──楽しいのか?」
「──ん。楽しい。」
ディスプレイに視線を向けたまま投げられる簡潔な質問。それに即答する俺を、呆れたままの溜息が貫く。陰湿を具現化したような声色と口調は正しくこの男を体現していて、兎にも角にも心地が良い。こっちを向いていても表情が見えない長い前髪も良い。この男が驚くほど澄んだ瞳をもっていることに、一体この世界の何人が気づいているんだろう?
「僕には理解出来ないな。こんな退屈な現場の一体何が面白い」
「俺が心酔してる世界の描かれてる只中だぞ?興味を持たないほうがおかしい」
「理解不能だな。僕の文章は〈了〉を打って初めて僕の中で世界という形を持つ。完成するまでは、所詮唯の文字列だ」
「俺にとっては一行でも一文字でも、狭間連の世界だぞ」
「知るか。君の見解に興味はない」
この偏屈で陰鬱な作家大先生は利己的で排他的で、この通り俺の意見なんて一切反映しない、孤独な作家様の鑑のような存在だ。圧倒的な他者の拒絶はこれまでこの男がそうして生きてきた証で、そんな男の部屋に俺という存在が居座っていること自体、イレギュラーなことなんだろう。
平凡な俺に訪れた非凡な偶然と、猥雑にして淫猥な欲望を経て、この男に許された、「俺」という人間。それがどれだけの重みと居場所を獲得したのか、きっとまだ世界で誰も認知していない。
ああ、それで構わない。なんの問題もない。俺は前科を首輪にしてハメられたバター犬で、それを想像する余地すらない。つまりはそもそも人じゃないわけか。成程、それはそれで、愉快に思える。
「迅」
小気味良い妄想に、リズミカルな音が停止する。濁流のように溢れていた文字の河が鎮まって、そこには人の名前が浮かぶ。「境囲迅」。それは僭越ながら現世で犬ではなく人間として産まれた俺という生き物の固有名詞だ。少しだけ、意外な展開だった。
「……? なんだよ」
俺を見ている。長い前髪ではなく更にその奥に在る、切れ長の瞳で俺を視ている。そこに居るのは俺が心の底から愛している作家。あの、そしてこの卑しい『穴』を知る前は、生きる理由そのものだった世界を描いていた神。「狭間連」。それは俺が、いずれ、心の底から愛するようになるのかもしれないひとりの男。
「君は、どうして此処へ来た」
「お前の世界を見るため」
「不可能だ。僕の世界は僕にしか視えない」
「じゃあ訂正する。俺の世界から見た、お前の世界を見るため」
「下らない言葉遊びはどうでもいいんだ」
「っ」
どこか苛立った調子で浮かぶ舌打ちに、連は俺の腕を掴んだ。スウェットに包まれた細くも太くもない腕に食い込む五指は酷く強い力で、そこからはえらく鮮明な意思が滲み出ていた。それを自然と知れるのが不思議だと思った。俺はなんの能力もない、ただの奴隷犬を気取った人間なのに。
「……」
声もなく、言葉もなく、じっと俺を見つめる、視ているとわかる連に、俺は手を伸ばした。両目を覆い隠す黒髪、その無辜の帳をゆるく開く。呆気なく露わになる、神ではない人の瞳に、俺は光陰を不均等に宿す球体をもう何度目かも分からず美しいと思った。連だ。そう感じた瞬間に、俺の中の世界が、また動いた。
「連」
「……なんだ。ぁ……んっ」
名前を呼んで、呼応するようにキュっと細く締まった瞳に、俺はこいつの、言葉よりも余程雄弁な体内を思い出した。腹の奥が熱くなって、やけに切ない痛みが響く。それに後押しでもされるように、俺は連へ口づけた。この痛みを分け与えるように。俺では名付けられないこの痛みに、最も不完全で、最も好ましい名前を、この作家が名付けてくれるように。
「ん……っ」
「ん、ぁ、ふぁ……っ」
舌を挿れた口づけを離す。さっきよりも少しだけ高く、少しだけ湿った息が響く。濡れた膜を張る水晶体に、まだいびつなままの、けれど以前よりはずっと滑らかになった形で、連の口元が、甘く緩む。
「──迅」
……それはかつての狭間連には決して存在しなかった、陰鬱にはほんの数センチだけ届かない微量な距離。その、常人では輪廻転生を千度繰り返しても辿り着かないたった数センチを、俺は、どうしようもなく、心の底から愛しているとそう思った。
「連」
だから、だからこそ、俺は笑い、連を抱き締めて敷いたままの布団へふたりで倒れ込んだ。そして先程よりも深い口付けをして、服の下から連の素肌に触れた。
傾倒していたホラー作家の狭間連とどうしてこんなことになったのかを語れるほど、俺は饒舌でも達筆でもない。だからこそいつか、この男自身がその手でそれを形にしてくれるのを俺はどこかで期待している。狭間連の最高傑作として、至高の怪異を描いてくれると。
もしもそれが実現したら、そこから産まれる未来は俺にとっての祝福になるんだろうか。それとも破滅になるんだろうか?叶うなら、その結果を連と共に見届けたい。
ああ、そうだな。
それを俺の。
──今を生きる、理由にしよう。
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