冷たい婚礼に炎を灯して

ゆる

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3章

セクション3

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 ステラリア家に新たに設けられる“ギャラリー”に、自分の絵を飾る――カリナ・ステラリアがその可能性を得てから、まだ数日。朝晩の空気には夏の名残が漂いつつも、どこか早めの秋の気配が忍び寄っている。昼間は伯爵令嬢として来客の応対や書状の確認などに追われるカリナだが、夜が更けて使用人たちの足音が途絶える頃になると、彼女は少しずつ自室の机に向かい始めていた。

 薄明かりのランプを頼りに、机上にはイーゼルを簡素に立て、小ぶりのキャンバスと絵具を用意する。以前なら、絵筆を握るだけで心浮き立つ感覚があったが、今はそれ以上に「父や周囲に知られてはいけない」という緊張感が混ざる。それでも、ひとかけらの自由を味わえる時間を失いたくはなかった。筆先に静かに色を乗せ、ゆっくりとキャンバスに触れていくと、まるで水底に沈んでいた思いがふわりと浮上してくるような感覚を覚える。

 (ああ、私……こんなにも“描くこと”が好きだったのね)

 少しずつ輪郭を描き、淡い色を重ねていく。モチーフは白い花と薄青の空――かつて庭先で心奪われた景色を思い出しながら、自分なりに“どこにもない世界”を描き出していく。まるで荒涼とした現実から離れ、ほんのひととき幻想の中へ逃げ込むかのような作業。しかし、それは決してただの逃避ではなく、「自分自身を取り戻す」ための大切な行為でもあった。

 だが、そんな夜の静寂はある晩、不意に破られることになる。いつものように書斎で残務をこなし、廊下を巡回していた家令が、カリナの部屋の前を通りかかったのだ。普段なら灯りを落としているはずの時間帯に、隙間から微かな光が漏れていることを不審に思ったのだろう。「お嬢様、まだ起きておいでですか?」――低い声が扉越しに響き、カリナは思わず筆を落としかける。

 「あ、はい。少し読書をしていただけですわ」

 そう取り繕いながら慌ててキャンバスを衝立の陰に隠し、絵具類を布で覆い隠す。家令はしばらく沈黙していたが、扉を開ける気配はない。代わりに「遅くまでご熱心ですね。ご体調を崩されませんよう、ほどほどに」とだけ言い残し、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 (危なかった……)

 胸を撫で下ろすと同時に、カリナは心のどこかで小さな罪悪感を覚える。自分は伯爵令嬢として“正しい振る舞い”をしているわけではないのだ、と。しかし、その一方で「絵を描きたい」という意志が、どれだけ自分にとって大事なことかを再認識してもいた。周囲には秘密にせざるを得ない窮屈さと、それでも捨てられない大切な夢――その二つの狭間で揺れる夜が、彼女の日常となりつつあった。

 翌朝、カリナはいつものように早めに起床し、伯爵家の日課である朝食に臨む。テーブルの席には、すでに父ハロルド伯爵と母、そして家令が揃っていた。エドリック・ヴェイルがここに顔を出すことは、相変わらず滅多にない。もともと彼は一度婚礼パーティが終わると、すぐに公爵家の公務へ戻ってしまい、また愛人の存在を隠そうともしない。母も伯爵の命令に逆らえる立場ではなく、ただ俯きがちに夫の話を聞いている。そんな光景にカリナは暗い息苦しさを覚えながらも、父の機嫌を損ねぬよう努めて箸を進める。

 その朝、父はやや甲高い調子で話し始めた。
 「お前、ギャラリーの件はちゃんと進めているのだろうな? アルファード氏からまだ具体的な展示計画が上がってこないと聞いているが」
 「……はい。リース――いえ、アルファード様からは、いくつかの下準備を進めていると伺っています。どの絵を飾るか、周囲の反応を考慮しているとのことで」
 父は「ふん」と鼻を鳴らしながら続ける。
 「せっかくだから、ヴェイル公爵家との縁を連想させるような、荘厳な絵が欲しいものだ。庶民の描いた絵では風格に欠ける。そこらの芸術家を集めるだけではなく、ステラリア家のメンツにも配慮しろ。お前の描く絵とやらも、“恥ずかしくない程度”に仕上げておけ。分かったな」

 最後の一言で刺すような目を向けられ、カリナは応えに詰まる。どこまでも形式や体裁にこだわり、娘の作品を「ただの飾り」程度にしか見ていない父。そんな現実に、しばし悔しさが込み上げるが、今はこらえるしかない。

 食事を終え、カリナが侍女たちと身支度をしていると、家令が「アルファード様がお越しです」と告げに来た。ほどなくして大広間へ向かうと、そこにはリースが落ち着いた紺色の上着をまとい、資料らしきファイルを抱えて待っている。周囲には数人の使用人が所在なさげに立ち尽くしているだけで、伯爵は別の客人の相手で忙しいらしい。家令は「少々のあいだお嬢様のご意向を確認してください」と述べると、奥へ姿を消した。

 「カリナお嬢様、失礼いたします」
 リースが深々と頭を下げる。二人きりではないが、ここなら多少は会話の自由がきくだろう。
 「リース、わざわざありがとうございます。父様からは“計画が遅れている”と責められてばかりで……大丈夫かしら?」
 リースは苦笑まじりに「ご心配なく、順調に進んでいます。ただ伯爵殿は少々お急ぎのご様子で……」と告げると、手にしたファイルを開いて数枚のスケッチを見せた。そこには壁面の配置や照明の当て方、展示する作品のテーマ構成などが、簡潔に描かれている。

 「実は、いくつかあなたの作品を紛れ込ませたいと思っています。もちろん、正式には伯爵殿の承認が必要ですが、『ステラリア家の令嬢が描いた優雅な絵』という名目なら、意外とすんなり通るかもしれません」
 リースが声を潜めながら言う。カリナは思わず胸が熱くなるが、一方で一抹の不安も拭えない。「父様が“荘厳で格式高い作品”を望んでいるみたいだから、私の絵じゃ足りないって言われそうで……」
 しかしリースはきっぱりと首を振った。
 「大丈夫です。あなたの絵には繊細な美しさがある。むしろ、形式ばった絵画が多い中で、そういう瑞々しい感性が際立つはずです。伯爵殿にも“やわらかい印象の作品”があることでメリハリが出ると説明すれば、説得できるかもしれません」

 その言葉に背中を押されるように、カリナは小さく頷いた。そして、まだ誰にも見せていない夜明けの花の絵を、ひとまずリースに見てもらいたいと申し出る。「でも、あれはまだ描きかけで……仕上げにはもう少し時間が必要なの。夜中にしか作業できないし」
 リースは笑みを返し、声のトーンを落とす。
 「すべてを一度に進めるのは難しいでしょう。少しずつで構いません。あなたが納得できる絵を完成させるまで、僕も協力を惜しみません。……ただ、できれば誰にも気づかれずに、あなたが自由に筆を握れる環境を作りたいのですが……」

 それこそが最大の障壁だった。伯爵家の目を盗み、かつ家令や使用人たちの監視をかわすには、それなりの知恵がいる。さらに、エドリックの動向も予測不能だ。彼がふとした思いつきで屋敷を訪れたとき、もし“隠れて絵を描く伯爵令嬢”などという場面を目撃してしまえば、どれほどの騒ぎになるか想像もつかない。
 (だけど、今ここで諦めたら……本当に何も変わらない)

 カリナは、ぎこちなくも強い決意の込められた眼差しでリースを見つめる。彼もまた、その瞳に応えるようにゆっくりと頷いてくれた。自分たちが成すべきことははっきりしている――「絵を完成させ、ギャラリーに飾り、新しい道を切り開く」。たとえそれが、ほんの小さな“逆転劇”の始まりに過ぎないとしても、カリナはこの機会を絶対に逃したくなかった。

 そこへ、父ハロルド伯爵と家令が戻ってくる足音が聞こえてきた。二人は気まずさを悟られないよう距離を取り、あくまで「仕事上の相談」という体裁を装ってファイルを閉じる。伯爵は露骨にリースを値踏みするような視線を向け、「どうだ、進展は?」とせっつく。リースはやや緊張した面持ちで「はい、問題なく進行しております。具体的な展示案を近々まとめますので、ご安心を」と答えた。

 「ふん。まぁいい。カリナ、お前も真面目に取り組むんだぞ。ヴェイル公爵家の名に恥じぬようにな」
 父の言葉にカリナは静かに目を伏せ、「かしこまりました」と返事をする。いつかこの“名門の仮面”を剝ぎ取って、本当の自分の色を取り戻せる日が来るように――その願いを胸に抱きながら。

 ――こうして、“ギャラリー計画”を通じて、カリナが自分の絵を堂々と披露するための準備は着実に進んでいく。しかし、それは同時に、彼女とリースが少しずつ“反撃”の兆しを見せ始めたという証でもあった。果たして伯爵家の監視や、いつか訪れるであろうエドリックとの衝突をどう乗り越えていくのか。冷たい婚礼に閉ざされた世界に、新たな炎が確実に燃え上がり始めている――カリナはその熱を、もう決して見失わないと誓うのだった。

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