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第一話

第1章:営業時間3時間の喫茶店

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ラルベニア王国の王都ラダニアン。その石畳の小路に、ひっそりと佇む喫茶店「雪の庭」がある。
この店の特徴は、上品な雰囲気や美味しいスイーツだけではない。何よりも特筆すべきは、店先に掲げられた看板だった。

> 営業時間:気が向いたら開店
閉店時間:開店後3時間(疲れたら3時間前に閉まることもあります)



初めてその看板を目にした者は、誰もが眉をひそめ、「この店、営業する気があるのか?」と首をかしげるだろう。実際、この日も店の扉は朝から閉ざされたまま、誰一人として店内に入ることはできなかった。

しかし、それも当然だった。カウンター奥の椅子に座る店主――雪乃が、まだ寝ていたからだ。


---

「お嬢様、そろそろお目覚めください。」

カウンターで準備を進めていた忍が、やや苛立った声で雪乃を揺り起こす。

「うーん……あと5分……。」

雪乃は椅子の背にもたれかかり、目を閉じたまま手を振る。紅茶を淹れる手つきを練習していた忍は、ため息をついて彼女を睨んだ。

「お嬢様、すでに正午を過ぎています。お客様が来られる時間ですよ。」

「正午? でも、朝はまだ寝ている時間でしょ。」

「午前中全部を朝にするのはやめてください!」

忍の声に、雪乃はようやく目を開けた。そして、まだ眠たげな表情のまま、カウンターの奥にあるサイフォンを眺めて微笑む。

「サイフォンの音って、いいわよね。コポコポしてて癒されるわ。」

「お嬢様、それは働いているとは言いません。」

「そう? でも、この音が店の雰囲気を作ってると思わない?」

忍が何か言い返そうとしたとき、厨房から弥生が顔を出した。

「お嬢様、新作スイーツの『プリン』、冷蔵ストレージで冷やしておきましたよ。」

「あら、ありがとう弥生。でも、冷やしてるだけって簡単に言わないで。冷やす間の待ち時間が一番大事なのよ。」

忍は弥生に向かって口を動かさず「やれやれ」と伝えた。


---

昼を少し過ぎた頃、ようやく雪乃が店の扉を開けた。石畳の通りを歩く人々が看板を見て「今日も開いたのか」と驚いた表情を浮かべる。

最初に入店したのは近隣に住む衛兵のレオンだった。彼はすでにこの店の「気まぐれな営業スタイル」に慣れ始めている。

「おう、今日も開いててよかったよ。」

「ええ、今日は気が向いたの。」

雪乃はさらりと言いながら、カウンター奥の椅子に座る。忍は慌ててカウンターから出てレオンに声をかけた。

「いらっしゃいませ。本日はプリンと紅茶をご用意しております。」

「プリンか……それは期待できそうだな。」

レオンは席につき、メニューを見ながら注文を伝える。弥生は厨房で素早くプリンを盛り付け、紅茶と共に提供した。

「これが今日の新作か。ほう……ぷるぷるしてるな。」

レオンが一口食べると、目を見開いた。

「うまい! これは絶品だ!」

その声に他の客たちも続々と入店し、席が埋まり始める。忍と弥生はテキパキと動き回り、次々と注文をさばいていった。しかし、その光景を眺めているだけの雪乃は、どこか退屈そうにカウンターで紅茶を飲んでいた。


---

「お嬢様、少しは動いてください!」

忍が忙しそうに言うと、雪乃は微笑みながら答える。

「私は店の雰囲気作りを担当しているのよ。ほら、私がいるだけでこの店が素敵な空間になるでしょ?」

「お嬢様、それは違います。」

弥生が紅茶を淹れながら苦笑いを浮かべる。

「でも、お客様が満足してくださっているのは事実ですね。」

店内では、客たちが笑顔でスイーツや紅茶を楽しんでいた。その様子を見て、雪乃も少しだけ満足そうに頷く。


---

しかし、営業開始からちょうど3時間が経った頃、雪乃はふと思いついたように呟いた。

「お客さんも減ってきたし、そろそろ閉店にしようかしら。」

その言葉に、まだ席に座っていたレオンが声を上げる。

「おい、まだ俺がいるぞ!」

「じゃあ、また明日来てね。開けるかどうかは明日にならないと分からないけど。」

「おいおい、まだ2時間しか経ってないだろ!」

「どうして2時間だと分かるの?」

「開店からずっといるんだから当たり前だろ!」

雪乃は驚いた表情を見せた後、にっこり微笑んでこう言った。

「開店から居座ってたの? 迷惑なお客様ね。帰って。」

レオンは無言になり、渋々席を立つ。店内の他の客たちはくすくすと笑いながら帰り支度を始めた。


---

閉店後、片付けを進める忍と弥生を横目に、雪乃は紅茶を飲みながら満足そうに呟く。

「今日もいい仕事をしたわ。」

忍は手を止めて、じっと雪乃を見つめる。

「お嬢様、オーブンとサイフォンを眺めていただけですよね。」

「それも大事な仕事よ。明日も気が向いたら開けることにするわ。」

忍と弥生は顔を見合わせ、同時にため息をついた。


---

こうして、「雪の庭」はその気まぐれな営業スタイルのまま、王都で少しずつ話題を集める喫茶店としての地位を確立していくのだった。



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