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第1章
第3話 あの日の誓い
しおりを挟むその夜はなかなか寝付けなかった。モヤモヤが頭に残り、完全に目が冴えてしまった。仕方がないので本を読み出した。ようやく眠気を覚えたのは午前3時を過ぎていた。
翌朝、登校し生あくびを噛み殺しながら座席に着く。ぼーっとしていると、自分を呼ぶ声に気付く。腕をつつかれる感触と共に。
「……君、数仁君。……ねぇ、聞いてる?」
隣りを向くと千華子がやや不機嫌そうに見つめている。指で数仁の腕をつついている。
「ごめんごめん。何だっけ?」
「もう~」
千華子が口を尖らせる。
「学食で新作のスイーツが出るから一緒に行こうって言ったでしょ?」
「あはは、そうだったね」
他愛のない会話。しかし数仁には千華子との何気ない会話一つ一つが貴重なものに思えた。彼女の存在は今の数仁に大きな影響を与えていた。
彼女との出会いは今から約3年前、高校進学直後だった。
◇◇◇
「何それ!? 信じらんない! 花山天皇って変態じゃない!」
千華子は叫んでいた。
数仁は衝撃を受けた。
確かに花山天皇は数々の奇行と好色で知られた人物だ。
多少の誇張はあるにしても相当に「変な」天皇だ。
しかし、それを未来の天皇である自分の前でバッサリ切り捨てるとは。
そのあまりに率直な意見に数仁は――
「ぷっ……くくく……あはははは、そ、そうだよね! そう思うよね! 僕の口からは言えないけど!」
――腹を抱えて笑った。
目の前の千華子はポカンとしている。さっきまで数仁と駄弁っていた雅人は呆れた顔を久美に向ける。
「お前、また余計なことを……」
近くにいた啓もジト目で久美をにらむ。
「まったく、君は少しは遠慮というものを……」
「え? 一体どうしちゃったの?」
千華子は状況が飲み込めず戸惑っている。
「御先祖様が変態呼ばわりとか超ウケる!」
久美はヘラヘラ笑っている。
「御先祖様ってどういうこと?」
彼と花山天皇に何の関係があるの?――そんな顔で千華子が久美を問いただそうとした時。
「だってコイツさぁ、将来天皇になるんだよ」
数仁を指差しながら、久美が衝撃的な答え合わせをする。
「えっ? ええぇぇぇ~!!」
千華子の絶叫が教室に響いた。
彼女は、この高校に皇族がいるのは知っていた。しかし特に関心もなかったので、顔を見たこともなかった。それが、「彼」だとは思いもよらなかった。
きっかけは古文の勉強を教えて欲しいという頼みだった。隣のクラスの久美が数仁の前に1人の女生徒を連れてきた。
数仁は古文、漢文、日本史が大得意だと学年中に知れ渡っていた。
その女生徒が分からないと言ったのが『大鏡』の「花山天皇の出家」だった。数仁はまるで予備校講師の様にスラスラと解説する。
そしてその女生徒が素朴な疑問を口にする。
「花山天皇って出家したあとどうなっちゃったの?」
すかさず久美が「解説」する。「親子丼」を食べていたと。
彼女は「親子丼」の意味を久美から耳打ちされた。
花山天皇は母娘2人の女性に同時に子を産ませたと。
その女生徒こそ千華子だった。
それが「変態発言」に繫がったのである。
「その、ごめんなさい。御先祖様のこと悪く言っちゃって……」
千華子はバツの悪そうな顔をして数仁に謝った。未来の天皇の前で、歴史上の人物とはいえ、1人の天皇を変態呼ばわりしたのは気まずかった。
「別に気にしてないよ。花山天皇はまぁ、色々な評価があるし。それに僕の直系の御先祖様じゃないしね」
ようやく笑いの収まった数仁は鷹揚に応えた。
「それにしても、久美ちゃん……。彼が皇族だなんて聞いてなかったよ」
千華子は久美に非難がましい視線を向ける。千華子は単に「隣のクラスの古文が得意なヤツ」としか聞いていなかった。
「あれ~言ってなかったっけ?」
久美はとぼけた顔をする。
「でもさぁ、コイツはうちの学校じゃ超有名人だから当然知ってると思ったんだけど?」
知らない方が悪いとでも言いたげだ。
「だって、入学式は欠席したし、色々トラブル続きで他のクラスのことまで気が回らなかったんだよ!」
千華子は久美に抗議の声を上げる。
「ニュースくらい見ないんだ?」
「だからそんな余裕なかったんだって!」
「まぁ、普通の人は皇族に関心はないからね」
数仁は千華子の肩を持つ。
「そうだよね!」
千華子が同意する。
「まぁ、久美がもうちょっと『親切』でもよかったんじゃないかな?」
数仁が僅かに非難を込めて久美を見る。
「そうだよ、そうだよ!」
千華子も力強くうなづく。
「へへへ……悪い、悪い」
数仁に咎められると久美は軽い感じで謝った。
(久美の悪ふざけにも困ったもんだ)
数仁はため息をついた。
数仁の高校生活が始まるとすぐに久美は親しげに(馴れ馴れしく)声をかけてきた。
「よっ! アンタが未来の天皇かい? アンタのこと数仁って呼んでいい? アタシのことは久美って呼んでいいからさ!」
それ以来、久美は何かと数仁にウザ絡みしてくるようになった。遠慮のない態度は数仁にとっても気楽だったが、時に呆れることもあった。
「ところでなんて呼べばいいかな? 春日宮君、長いから春日君でいいかな?」
千華子が数仁に呼び方を尋ねてきた。
「春日だと俺と区別がつかなくなるからな」
雅人が割り込む。彼の名字は「春日」だ。
「みんな僕のことは数仁と呼んでるよ」
「じゃあ、数仁君でいい?」
千華子が確認する。
「いいよ。河合さん」
数仁がうなづく。
「わたしも千華子でいいよ」
千華子が申し出る。
「じゃあ、千華子ちゃん……でいいかな?」
数仁がやや躊躇いがちに聞く。
「うん。よろしく、数仁君」
「よろしく、千華子ちゃん」
千華子はにっこりとした。周りが明るくなる様な笑顔だった。その笑顔は数仁の心に強く印象に残った。
数仁と千華子は互いに好印象を抱いた。
千華子は数仁の柔らかい物腰と鷹揚とした態度に。
数仁は千華子の朗らか笑顔と、率直な話し方に。
2人は勉強や部活を通じて交流を深めた。
「後白河法皇は今様を集めて梁塵秘抄を編纂したんだよね。今様の歌い過ぎで喉を痛めたとか」
「よく知ってるね」
「うん。数仁君の御先祖様だと思うと興味が湧いてきて……」
千華子は苦手だった古文や日本史が得意になっていった。
「また、頬を打っちゃった……。弓道って難しいね」
「練習するなら付き合うよ」
数仁と千華子は弓道部に所属した。数仁は千華子によくアドバイスした。
「やった。頬を打たなかった……! ありがとう、数仁君の指導のおかげだよ!」
「千華子ちゃんのセンスがいいからだよ」
「えへへ……」
互いの好印象は好感へと変わっていった。
やがて、2人の間からは特別な空気が感じられる様になっていた。
周囲の者達、「学友」の雅人、久美、啓は気付いていた。
香子も同じだった。香子は2人の雰囲気を察するとさり気なく千華子に近づいていった。
「あら、カズ。おかえりなさい」
「あ、数仁君。お邪魔してま~す」
いつの間にか香子は千華子をたびたび家に呼ぶ様になっていた。
数仁と千華子は2年、3年は同じクラスになり、2人で一緒にいるのは自然な光景となっていた。
やがて2人は高校3年の秋を迎えた。
そろそろ進学先を決める時期になっていた。
この時期、数仁の進学先を巡って様々な憶測報道がされていた。
曰く、
『春日宮はAO入試や推薦入試で東大受験を狙っている』
『東大受験は母親代わりの皇嗣妃の意向だ』
『付属の大学に進学すると予想される』
『留学を考えているらしい』
未来の天皇の進学先はマスコミの関心を呼んだ。その上、論調はどれも好意的ではなかった。そんな状況では誰も数仁に進路を聞けなかった。
そんなある日の放課後。
「数仁君、大学どこにするの?」
千華子は何かを決心した様子で数仁に尋ねた。
「まだ……決めてないよ」
数仁はどこか言いにくそうに答えた。
それを聞いて千華子は躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「余計なお世話かも知れないけど……目白の『あの大学』だけは止めた方がいいと思う」
数仁はその意見に少し驚いたが、顔には出さなかった。
目白の「あの大学」とは伝統的に皇族の多くが進学する大学を指していた。俗に「皇族学校」とも言われている。
さらに千華子は迷いを振り切るかの様に言葉に力を込める。
「だって、今あそこに行ったら……脅されて行ったみたいな形になっちゃう」
数仁も今度は驚きを隠せなかった。
(彼女、あの報道を知っていたのか?)
数仁の進学先としてマスコミでは「目白にある『皇族学校』に行くべきである」という意見が急に湧き上がっていた。
理由は、「一般の大学を受験すると未来の天皇が限られた合格枠を一般国民と争うことになり好ましくない。しかし『皇族学校』は皇族のための学校だから問題ない」とするものだった。
さらに総合型選抜――いわゆるAO入試や、学校推薦型選抜――一般に言う推薦入試は、皇族に忖度した裏口入学が疑われる「恐れがある」から止めるべきと主張する者もいた。
「皇族学校」以外は一般入試も、AO入試や推薦入試で進学するのも駄目。
「皇族学校」への進学だけを認める。
そんな風潮がいつの間にか出来上がっていた。
さらに、「皇族学校」の卒業生の一部や「評論家」、「識者」の一部は時には脅迫的な言辞で、数仁に「皇族学校」への進学を迫っていた。
これは、数仁が避けると「皇族学校」のブランド力が低下するので、それを恐れて関係者が嫌がらせを行っているからだ、と見る者もいた。
千華子が言う「脅し」とはこれらの圧力のことだった。
千華子は一呼吸おいて、少し自信なさげに付け加える。
「別に数仁君がどうしても行きたいんなら止めないけど」
数仁は考え込む様な表情になる。
大抵のバッシングには動じない彼も、この件に関してはマスコミの憶測報道や評論家の圧力が鬱陶しくなっていた。
(一層のこと『皇族学校』を受験して、白紙で答案を出してやろうか? ブランドのために僕に忖度して合格させる様を見てやろうか?)
そんな投げやりな考えに囚われたこともあった。
数仁の内心を察したのか、千華子は静かに、そして力強く自分の想いを伝えた。
「数仁君が行きたい大学を受ければいいよ。東大でもどこでも。でも、脅しや嫌がらせに負けたら絶対に駄目だよ」
その言葉は数仁の胸に静かに響いた。千華子は真摯な瞳で真っ直ぐに数仁を見つめていた。
数仁は自分が投げやりになっていたことを恥じた。
そして、千華子の想いを受け止めようと思った。
「ありがとう、千華子ちゃん。参考になったよ」
数仁は微笑んだ。
「よかった。頑張ってね。いつも応援してるよ」
千華子もはにかんだ様な笑顔になる。
数仁は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じていた。
数仁はその日の夜、自室で進学先をあれこれ考えていた。
(『あの大学』はないとしてどこにするか……)
数仁は迷っていた。史学科のある大学に行ければよかった。強い希望があるとすれば……。
翌日。
「ねぇねぇ、河合さんは大学どこにするの?」
「う~ん……。まだ決まってないんだよね。私立文系にするつもりなんだけど……」
数仁は千華子とクラスメートとの会話にそっと聞き耳を立てていた。
その様子を雅人が後ろから見ていた。
さらに数日後。
「そういやぁ千華子のヤツ、図書室で『正化大学』の過去問を広げて熱心に勉強してたぜ」
廊下を歩いている時、雅人が数仁に何気なく話しかける。
それを聞いた数仁は何かを決心したような顔になった。
その日の放課後。
「千華子ちゃん、僕は正化大学を受けることに決めたよ」
数仁は笑顔で千華子に報告する。
「偶然だね。わたしも受けようと思ってたんだ……!」
すると、千華子の顔もパッと明るくなる。
2人は無言のまま嬉しそうに見つめ合った。
こうして数仁と千華子は同じ大学に進学することになった。
『いつも応援してるよ』
その一言はそれからもことあるごとに数仁の脳裏に蘇った。辛い時、苦しい時、この一言と千華子の笑顔が頭に浮かび、彼を困難に立ち向かわせた。
千華子ちゃんが僕を信じてくれている。
僕を応援してくれている。
僕は決して一人じゃない。
彼女は迷っていた僕に道を示してくれた。
僕を信じ、応援してくれる彼女を失望させる訳にはいかない。
これが、数仁が自分の重責から逃げ出さないもう一つの誓いとなった。
◇◇◇
「……この様に後白河天皇は今で言えばカラオケにハマり過ぎて喉を潰した様な人ですから、若いうちは全く期待されていませんでした」
講師が軽妙な語り口で講義を続ける。数仁は面白そうに聞いている。
すぅすぅ………
何やら寝息が聞こえた様な気がした。隣を見ると千華子が居眠りをしている。数仁はフッと笑みを浮かべると、彼女の肩を優しく叩いた。
「あ……」
千華子はトロンとした目のまま顔を上げる。数仁が微笑んでいる。千華子は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
さて、今日も頑張るか。
千華子の笑顔を見て数仁は静かに意気込んだ。
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