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第六十六話 挑戦
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この胸の鼓動は緊張ではない。期待感だ。ピッチャーマウンドに立った僕は、約十八メートル先のバッターボックスに向き合っていた。ザァ、と降り続ける雨を吸い続けたピッチャーマウンドの土に、足裏が沈んでいた。
顔を叩いてくる雨に抵抗する体が熱をむんむんと放つ。頬が熱い。吐く息が熱い。ボールを握る右手が熱い。全身が高熱を放つのは、病原菌と戦うためではなく、渡来和樹と戦うため。どうして渡来が勝負を挑んできたのかはわからない。けれど、挑戦者としてバッターボックスに立つ相手がいるのならば、僕はその挑戦を受けなければならない。
僕は挑戦する側ではない。挑戦される側だ。
僕が現実に抗っているのではない。渡来が現実に抗っている。
僕は現実を受け止めている。現実を理解していないのは渡来だ。
それと松岡も。
だから僕は、なにも間違っていない。
むしろ、僕が渡来と松岡に現実を教えてやるのだ。
野球がしたいという気持ちだけではどうにもならなかった現実を、叩き込んでやる。
それで解放される。みんなが現実を理解してくれれば、僕は解放される。野球というスポーツが近づいて来ることはなくなる。ここで無様に負けることで、僕がなにもできない人間であることを知らしめるのだ。
なにもできずに負ければ、きっと野球をしたいという気持ちも――綺麗に消えて無くなるはずだから。
始めよう。ここから。敗者として、新しい道を進むために。
「なにやってんのさ!」
豪雨を押しのける大声が聞こえた。三塁側を見ると、水色の傘と群青色の傘があった。水色の傘を差しているのは奈々海さんで、さっきの大声も奈々海さんのものだ。奈々海さんは、僕やバッターボックスに居る渡来たちを交互に眺め、困惑している様子だった。隣に居る愛梨さんも、わけがわからないと言いたげに首を傾げていた。
台風が直撃している最中、野球をするなんて行為、馬鹿すぎて笑えないだろうとは思う。
けれど――
「邪魔すんなっ!」
奈々海さんが肩をびくつかせたのは怒鳴り声が響いたから。奈々海さんを驚かせた犯人は――僕か。気持ちが昂ると言葉が勝手に出る癖、本当に悪い癖だ。
でも今だけは悪い癖が役に立った。気持ちが一言で奈々海さんに伝わったから。怯えたように両手で傘の持ち手を握る奈々海さんなら、この勝負の邪魔はできないはずだ。愛梨さんが我が子を守るように奈々海さんの前に立って睨んできたけれど、知ったことか。僕は、やるべきことを――やりたいことをする。
奈々海さんと愛梨さんを無視してバッターボックスを睨むと、キャッチャーの松岡が「いつでも来い!」と叫んだ。左打ちの渡来はすでにバットを構えていて、踵を浮かした右足と、雨雲を目指すバットの先端がゆらゆらとリズムを刻んでいる。
キャッチャーミットはストライクゾーンのど真ん中。これは松岡と組んでいたときによくやっていたことだ。初級を様子見する打者の場合、まずはど真ん中にカーブを投げる。基本的に見逃すし、振られても変化球で芯を外させる作戦だ。初級打ちの打者なら、ボール覚悟で端に変化球を投げる。そのあたりの判断は松岡に任せていた。三年前までは、松岡の判断だけを信じて――いた。
なんだか、懐かしいな。
「――ㇾイボール!」
審判役の浜中が叫んだ。緊張しているのか、頭の声が出ていなかった。でも始まったことがわかった。泥なぞ気にしていない松岡が、膝を泥水に沈ませながらキャッチャーミットを構えている。バットを構える渡来は、僕から一度も視線を外さない。浜中も眼鏡の水滴を手の甲で水滴を拭うと、ストライクゾーンに見入った。
僕はグローブを装備していない。だから、ボールを握った右手を左手で覆った。ボールを握る手の形を隠すためだ。手の形が見られると、投げる球種を予想される。なにせ僕は、変化球を得意とするエースだったから。ストレートを得意とする渡来とは、違う。
ボールをしっかり握る。上手く曲がらない人差し指と中指を、ボールの縫い目に引っかける。親指は支えに回す。
まずは様子見のカーブ。体が勝手に動いてくれるフォームで、振りかぶった。
すっぽ抜ける感触は、相変わらずだった。
「ボール!」
僕の右手から離れたボールは大きく右側に逸れ、バッターボックスからは遠く離れたところにボチャと落ちた。泥水の中に沈んでいたボールを松岡が拾いに行く。
落ち着け、落ち着け。久しぶりだったから仕方ない。一球目はウォーミングアップだ。
「どんまい!」と励ます松岡が山なりでボールを投げてくれた。左手でボールをキャッチし、気を入れ直す。松岡が指差すようなサインを示してくれた。フォークだ。人差し指と中指でボールの縫い目を外側から挟みこもうとした。だけど、投球体勢に入る前に、右手からボールがすっぽ抜けた。
ボトッと落ちたボールを見下ろしたとき、転がる空き缶を思い出した。一度もゴミ箱に入らなかった。何度投げても、一度もゴミ箱に入らなかった――、やめよう、余計なことは考えるな。ボールを拾ってから首を横に振れば、松岡が親指を立てた。チェンジアップか。五本指で深く握るから、きっと投げられる。
回転させないように、投げれば――。
「ボール!」
チェンジアップは、バッターボックスに届きすらしなかった。力を抜きすぎたせいか、バッターボックス手前でボトリと落下した。「どんまいどんまい!」松岡がまた励ましてくれるけれど、そんな励ましの声よりも、僕の口角の隙間を抜ける息の音の方がうるさかった。
噛んだ唇が痛い。食いしばる歯の間に唇が挟まっている。
なんてダサい投球だ。恥ずかしい。
下手くそすぎる。なんだよ、これ。なんでこんなに投げれないんだよ。イライラする。
くそ。
僕はエースだ。
チームを引っ張るエースだ。
僕がいないと、チームは勝てない。
だから僕がエースだ。
松岡が山なりで投げてくれたボールを左手でキャッチした。でも、雨のせいなのか滑ってしまい、ボールを落としてしまった。またボトリと落ちたボールが僕を見上げてくる。
ボールの縫い目が、誰かが笑う口元のように見えた。
「宮部! まだツーボールだ!」
松岡が声を張り上げたから、ボールを拾った。カウントぐらい、言われなくても覚えている。次のサインは……拳を握った? ストレート? ふざけてんのか? 僕は、変化球が得意なのに。
もう一度、ボールの縫い目に人差し指と中指を引っ掛けた。ストレートなんて投げるつもりはない。速球を得意とする投手が相手なのだ。ストレートは狙われる。勝つためにも、ここはカーブで――、
……なんで、勝とうとしているのだろう――。
「ボール!」
投げたカーブは、バッターボックスから大きく逸れて泥水の中にボチャと落ちていた。投げる寸前、不意に頭をよぎった疑問に手元が変になった。自覚してしまった。勝とうとしている自分がいることを。そしたら、右手がどうしようもなく震えた。矛盾が生じた。自分の中に。いまここに立っている理由と気持ちが、矛盾している。
負けるべくマウンドに上がったはずなのに。それで野球から、渡来から解放されるはずだったのに。
――勝ちたい。
「くだらねぇ」
そんな冷めた声が聞こえたとき、顔面が一段と熱くなる感触を感じた。バッターボックスを見れば、構えていたはずのバットを下ろしている渡来がいた。
顔を叩いてくる雨に抵抗する体が熱をむんむんと放つ。頬が熱い。吐く息が熱い。ボールを握る右手が熱い。全身が高熱を放つのは、病原菌と戦うためではなく、渡来和樹と戦うため。どうして渡来が勝負を挑んできたのかはわからない。けれど、挑戦者としてバッターボックスに立つ相手がいるのならば、僕はその挑戦を受けなければならない。
僕は挑戦する側ではない。挑戦される側だ。
僕が現実に抗っているのではない。渡来が現実に抗っている。
僕は現実を受け止めている。現実を理解していないのは渡来だ。
それと松岡も。
だから僕は、なにも間違っていない。
むしろ、僕が渡来と松岡に現実を教えてやるのだ。
野球がしたいという気持ちだけではどうにもならなかった現実を、叩き込んでやる。
それで解放される。みんなが現実を理解してくれれば、僕は解放される。野球というスポーツが近づいて来ることはなくなる。ここで無様に負けることで、僕がなにもできない人間であることを知らしめるのだ。
なにもできずに負ければ、きっと野球をしたいという気持ちも――綺麗に消えて無くなるはずだから。
始めよう。ここから。敗者として、新しい道を進むために。
「なにやってんのさ!」
豪雨を押しのける大声が聞こえた。三塁側を見ると、水色の傘と群青色の傘があった。水色の傘を差しているのは奈々海さんで、さっきの大声も奈々海さんのものだ。奈々海さんは、僕やバッターボックスに居る渡来たちを交互に眺め、困惑している様子だった。隣に居る愛梨さんも、わけがわからないと言いたげに首を傾げていた。
台風が直撃している最中、野球をするなんて行為、馬鹿すぎて笑えないだろうとは思う。
けれど――
「邪魔すんなっ!」
奈々海さんが肩をびくつかせたのは怒鳴り声が響いたから。奈々海さんを驚かせた犯人は――僕か。気持ちが昂ると言葉が勝手に出る癖、本当に悪い癖だ。
でも今だけは悪い癖が役に立った。気持ちが一言で奈々海さんに伝わったから。怯えたように両手で傘の持ち手を握る奈々海さんなら、この勝負の邪魔はできないはずだ。愛梨さんが我が子を守るように奈々海さんの前に立って睨んできたけれど、知ったことか。僕は、やるべきことを――やりたいことをする。
奈々海さんと愛梨さんを無視してバッターボックスを睨むと、キャッチャーの松岡が「いつでも来い!」と叫んだ。左打ちの渡来はすでにバットを構えていて、踵を浮かした右足と、雨雲を目指すバットの先端がゆらゆらとリズムを刻んでいる。
キャッチャーミットはストライクゾーンのど真ん中。これは松岡と組んでいたときによくやっていたことだ。初級を様子見する打者の場合、まずはど真ん中にカーブを投げる。基本的に見逃すし、振られても変化球で芯を外させる作戦だ。初級打ちの打者なら、ボール覚悟で端に変化球を投げる。そのあたりの判断は松岡に任せていた。三年前までは、松岡の判断だけを信じて――いた。
なんだか、懐かしいな。
「――ㇾイボール!」
審判役の浜中が叫んだ。緊張しているのか、頭の声が出ていなかった。でも始まったことがわかった。泥なぞ気にしていない松岡が、膝を泥水に沈ませながらキャッチャーミットを構えている。バットを構える渡来は、僕から一度も視線を外さない。浜中も眼鏡の水滴を手の甲で水滴を拭うと、ストライクゾーンに見入った。
僕はグローブを装備していない。だから、ボールを握った右手を左手で覆った。ボールを握る手の形を隠すためだ。手の形が見られると、投げる球種を予想される。なにせ僕は、変化球を得意とするエースだったから。ストレートを得意とする渡来とは、違う。
ボールをしっかり握る。上手く曲がらない人差し指と中指を、ボールの縫い目に引っかける。親指は支えに回す。
まずは様子見のカーブ。体が勝手に動いてくれるフォームで、振りかぶった。
すっぽ抜ける感触は、相変わらずだった。
「ボール!」
僕の右手から離れたボールは大きく右側に逸れ、バッターボックスからは遠く離れたところにボチャと落ちた。泥水の中に沈んでいたボールを松岡が拾いに行く。
落ち着け、落ち着け。久しぶりだったから仕方ない。一球目はウォーミングアップだ。
「どんまい!」と励ます松岡が山なりでボールを投げてくれた。左手でボールをキャッチし、気を入れ直す。松岡が指差すようなサインを示してくれた。フォークだ。人差し指と中指でボールの縫い目を外側から挟みこもうとした。だけど、投球体勢に入る前に、右手からボールがすっぽ抜けた。
ボトッと落ちたボールを見下ろしたとき、転がる空き缶を思い出した。一度もゴミ箱に入らなかった。何度投げても、一度もゴミ箱に入らなかった――、やめよう、余計なことは考えるな。ボールを拾ってから首を横に振れば、松岡が親指を立てた。チェンジアップか。五本指で深く握るから、きっと投げられる。
回転させないように、投げれば――。
「ボール!」
チェンジアップは、バッターボックスに届きすらしなかった。力を抜きすぎたせいか、バッターボックス手前でボトリと落下した。「どんまいどんまい!」松岡がまた励ましてくれるけれど、そんな励ましの声よりも、僕の口角の隙間を抜ける息の音の方がうるさかった。
噛んだ唇が痛い。食いしばる歯の間に唇が挟まっている。
なんてダサい投球だ。恥ずかしい。
下手くそすぎる。なんだよ、これ。なんでこんなに投げれないんだよ。イライラする。
くそ。
僕はエースだ。
チームを引っ張るエースだ。
僕がいないと、チームは勝てない。
だから僕がエースだ。
松岡が山なりで投げてくれたボールを左手でキャッチした。でも、雨のせいなのか滑ってしまい、ボールを落としてしまった。またボトリと落ちたボールが僕を見上げてくる。
ボールの縫い目が、誰かが笑う口元のように見えた。
「宮部! まだツーボールだ!」
松岡が声を張り上げたから、ボールを拾った。カウントぐらい、言われなくても覚えている。次のサインは……拳を握った? ストレート? ふざけてんのか? 僕は、変化球が得意なのに。
もう一度、ボールの縫い目に人差し指と中指を引っ掛けた。ストレートなんて投げるつもりはない。速球を得意とする投手が相手なのだ。ストレートは狙われる。勝つためにも、ここはカーブで――、
……なんで、勝とうとしているのだろう――。
「ボール!」
投げたカーブは、バッターボックスから大きく逸れて泥水の中にボチャと落ちていた。投げる寸前、不意に頭をよぎった疑問に手元が変になった。自覚してしまった。勝とうとしている自分がいることを。そしたら、右手がどうしようもなく震えた。矛盾が生じた。自分の中に。いまここに立っている理由と気持ちが、矛盾している。
負けるべくマウンドに上がったはずなのに。それで野球から、渡来から解放されるはずだったのに。
――勝ちたい。
「くだらねぇ」
そんな冷めた声が聞こえたとき、顔面が一段と熱くなる感触を感じた。バッターボックスを見れば、構えていたはずのバットを下ろしている渡来がいた。
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