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第六十四話 延長戦
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『野球、しようぜ』
松岡の声音は軽かった。でも、一緒に聞こえてくる雨音、それも土砂降りの雑音が松岡の言動を否定していた。この天気、しかも台風が直撃という状況で、こいつはなにを言っているのだ。低気圧で脳味噌がおかしくなったのか?
「しないって言っただろ。なに言ってんだ」
苛立っていること、自分の震え声を聞いてからようやく自覚した。だが、松岡はお構いなしと『いまから学校に来いよ』と言い放つ。
「……はっ。馬鹿かよ。この天気で野球? できるわけねえだろ」
『あ? やる前からできねぇって決めつけんなよ腰抜け』
目の前にいたら殴っているところだった。言われたくないことを直球で言われたのだ。耐える方が難しい。それでも堪えないといけない。怒りに身を任せたって、なにも解決しないのだから。
歯を食いしばった。いくつか深呼吸をして、煮えたぎる腹を冷まそうと試みる。だけど、そんな試みは必要なかった。新たに聞こえた『よう』という声が、松岡の声とは全く違って、え? と困惑したときに飛び込んできた言葉が、煮えた腹を凍らせた。
『次は決勝戦だな』
そんな台詞を吐くのは、あいつしかいない。顎が抜けたように落下して、息ができなくなった。なんで、なんで、おまえが――。
渡来。
なんで、おまえが松岡と一緒に――。
『決着つけようぜ。学校のグラウンドで待つ。早く来てくれよ。このままだと風邪ひいて決勝戦に悪影響だ。まあ、おまえが意地汚い奴ってなら、来なくてもいいさ。そんときはそんときだ。そんな雑魚だったなら、ま、俺の見る目が無かったってだけだな。よう、聞いてるか? ちょっとは返事しろって』
僕だけが置いていかれている。現在進行形で起きている事象に、僕は完全に乗り遅れている。そう思えるほど、頭の中が疑問で埋め尽くされていた。なんで? なんで松岡が渡来と? なんで渡来は学校に? なんでこの天気で? なんで、僕と野球を?
『よっしゃ宮部、待ってるぞ』
松岡の能天気な声が聞こえてから、「ま、待って」と裏返りかけた声で呼び止めた。
一拍空けてから、『なんだよ?』と返ってくる。
すぐに問う。「なんでだよ」と。
また一拍空く。『なにが』と。
息継ぎなんてせず、「なんで野球をするんだよ」と問う。
『あ? 楽しいからだよ。それ以外になにかあったか? 宮部もさ、ピッチャーしてたとき、それ以外になんかあったか?』
あっただろうか。わからない。覚えていない。答えられない。
『好きなんだからやればいいじゃん。やりたいならやればいいじゃん。できるできないは別としてさ、やりたいならやろうぜ』
『おれが付き合ってやるよ』その一言が、あまりにも重かった。膝が折れるくらい、重かった。
背負えないから床にばら撒くしかなかった。額を床に落として、重みを分散させるしかなかった。
『そろそろ延長戦も飽きただろ。とっとと決着つけてよ、次の試合に行かね? もう、天気だって良いんだ。ちょうどいい天気だ。やるならここしかねぇよ。延期する必要もないぜ。はやくしようぜ――おれたちの夏が終わる前に』
ツー、ツー。
声を切断してきた音色が断崖絶壁のように思えた。もうこちらから声を届けることが不可能だとわからされるような、絶望の壁がそびえ立っている。だけどこの壁を登らないといけない。みんながあっちにいるから、こっちにいる僕が向こう側に行かないといけない。ずっと目を逸らし続けてきた現実が、目の前に広がっている。
ぽた、と右手に落ちた水滴が、汗なのか涙なのかわからなかった。折れて歪な形になった人差し指と中指がそこにあった。もう使い物にならない指が、僕の足を引っ張る。
「なんだってんだよ……ちくしょう……」
頭の中で過去の記憶がぐるぐると回る。ホームベースに飛び込んだときのこと、指が思うように曲げられなくて絶望したときのこと、僕がいないのにチームのみんなが楽しそうに野球をしていたときのこと。痛くて、苦しくて、辛い、そんな感情が胸の中でどんどん膨張して、肺がぱんぱんに膨れ上がったかのような圧迫感がしんどい。
それでも足腰が立ち上がろうとする。
右手がなにか丸い物を握ろうとしている。
行かなきゃ。試合に。
幸いか、雨脚が弱まっている。風も落ち着いている。学校に行くなら、いまがチャンスだった。
松岡の声音は軽かった。でも、一緒に聞こえてくる雨音、それも土砂降りの雑音が松岡の言動を否定していた。この天気、しかも台風が直撃という状況で、こいつはなにを言っているのだ。低気圧で脳味噌がおかしくなったのか?
「しないって言っただろ。なに言ってんだ」
苛立っていること、自分の震え声を聞いてからようやく自覚した。だが、松岡はお構いなしと『いまから学校に来いよ』と言い放つ。
「……はっ。馬鹿かよ。この天気で野球? できるわけねえだろ」
『あ? やる前からできねぇって決めつけんなよ腰抜け』
目の前にいたら殴っているところだった。言われたくないことを直球で言われたのだ。耐える方が難しい。それでも堪えないといけない。怒りに身を任せたって、なにも解決しないのだから。
歯を食いしばった。いくつか深呼吸をして、煮えたぎる腹を冷まそうと試みる。だけど、そんな試みは必要なかった。新たに聞こえた『よう』という声が、松岡の声とは全く違って、え? と困惑したときに飛び込んできた言葉が、煮えた腹を凍らせた。
『次は決勝戦だな』
そんな台詞を吐くのは、あいつしかいない。顎が抜けたように落下して、息ができなくなった。なんで、なんで、おまえが――。
渡来。
なんで、おまえが松岡と一緒に――。
『決着つけようぜ。学校のグラウンドで待つ。早く来てくれよ。このままだと風邪ひいて決勝戦に悪影響だ。まあ、おまえが意地汚い奴ってなら、来なくてもいいさ。そんときはそんときだ。そんな雑魚だったなら、ま、俺の見る目が無かったってだけだな。よう、聞いてるか? ちょっとは返事しろって』
僕だけが置いていかれている。現在進行形で起きている事象に、僕は完全に乗り遅れている。そう思えるほど、頭の中が疑問で埋め尽くされていた。なんで? なんで松岡が渡来と? なんで渡来は学校に? なんでこの天気で? なんで、僕と野球を?
『よっしゃ宮部、待ってるぞ』
松岡の能天気な声が聞こえてから、「ま、待って」と裏返りかけた声で呼び止めた。
一拍空けてから、『なんだよ?』と返ってくる。
すぐに問う。「なんでだよ」と。
また一拍空く。『なにが』と。
息継ぎなんてせず、「なんで野球をするんだよ」と問う。
『あ? 楽しいからだよ。それ以外になにかあったか? 宮部もさ、ピッチャーしてたとき、それ以外になんかあったか?』
あっただろうか。わからない。覚えていない。答えられない。
『好きなんだからやればいいじゃん。やりたいならやればいいじゃん。できるできないは別としてさ、やりたいならやろうぜ』
『おれが付き合ってやるよ』その一言が、あまりにも重かった。膝が折れるくらい、重かった。
背負えないから床にばら撒くしかなかった。額を床に落として、重みを分散させるしかなかった。
『そろそろ延長戦も飽きただろ。とっとと決着つけてよ、次の試合に行かね? もう、天気だって良いんだ。ちょうどいい天気だ。やるならここしかねぇよ。延期する必要もないぜ。はやくしようぜ――おれたちの夏が終わる前に』
ツー、ツー。
声を切断してきた音色が断崖絶壁のように思えた。もうこちらから声を届けることが不可能だとわからされるような、絶望の壁がそびえ立っている。だけどこの壁を登らないといけない。みんながあっちにいるから、こっちにいる僕が向こう側に行かないといけない。ずっと目を逸らし続けてきた現実が、目の前に広がっている。
ぽた、と右手に落ちた水滴が、汗なのか涙なのかわからなかった。折れて歪な形になった人差し指と中指がそこにあった。もう使い物にならない指が、僕の足を引っ張る。
「なんだってんだよ……ちくしょう……」
頭の中で過去の記憶がぐるぐると回る。ホームベースに飛び込んだときのこと、指が思うように曲げられなくて絶望したときのこと、僕がいないのにチームのみんなが楽しそうに野球をしていたときのこと。痛くて、苦しくて、辛い、そんな感情が胸の中でどんどん膨張して、肺がぱんぱんに膨れ上がったかのような圧迫感がしんどい。
それでも足腰が立ち上がろうとする。
右手がなにか丸い物を握ろうとしている。
行かなきゃ。試合に。
幸いか、雨脚が弱まっている。風も落ち着いている。学校に行くなら、いまがチャンスだった。
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