上 下
64 / 69

第六十四話 延長戦

しおりを挟む
『野球、しようぜ』

 松岡の声音は軽かった。でも、一緒に聞こえてくる雨音、それも土砂降りの雑音が松岡の言動を否定していた。この天気、しかも台風が直撃という状況で、こいつはなにを言っているのだ。低気圧で脳味噌がおかしくなったのか?

「しないって言っただろ。なに言ってんだ」

 苛立っていること、自分の震え声を聞いてからようやく自覚した。だが、松岡はお構いなしと『いまから学校に来いよ』と言い放つ。

「……はっ。馬鹿かよ。この天気で野球? できるわけねえだろ」

『あ? やる前からできねぇって決めつけんなよ腰抜け』

 目の前にいたら殴っているところだった。言われたくないことを直球で言われたのだ。耐える方が難しい。それでも堪えないといけない。怒りに身を任せたって、なにも解決しないのだから。

 歯を食いしばった。いくつか深呼吸をして、煮えたぎる腹を冷まそうと試みる。だけど、そんな試みは必要なかった。新たに聞こえた『よう』という声が、松岡の声とは全く違って、え? と困惑したときに飛び込んできた言葉が、煮えた腹を凍らせた。

『次は決勝戦だな』

 そんな台詞を吐くのは、あいつしかいない。顎が抜けたように落下して、息ができなくなった。なんで、なんで、おまえが――。

 渡来。

 なんで、おまえが松岡と一緒に――。

『決着つけようぜ。学校のグラウンドで待つ。早く来てくれよ。このままだと風邪ひいて決勝戦に悪影響だ。まあ、おまえが意地汚い奴ってなら、来なくてもいいさ。そんときはそんときだ。そんな雑魚だったなら、ま、俺の見る目が無かったってだけだな。よう、聞いてるか? ちょっとは返事しろって』

 僕だけが置いていかれている。現在進行形で起きている事象に、僕は完全に乗り遅れている。そう思えるほど、頭の中が疑問で埋め尽くされていた。なんで? なんで松岡が渡来と? なんで渡来は学校に? なんでこの天気で? なんで、僕と野球を?

『よっしゃ宮部、待ってるぞ』

 松岡の能天気な声が聞こえてから、「ま、待って」と裏返りかけた声で呼び止めた。

 一拍空けてから、『なんだよ?』と返ってくる。

 すぐに問う。「なんでだよ」と。

 また一拍空く。『なにが』と。

 息継ぎなんてせず、「なんで野球をするんだよ」と問う。

『あ? 楽しいからだよ。それ以外になにかあったか? 宮部もさ、ピッチャーしてたとき、それ以外になんかあったか?』

 あっただろうか。わからない。覚えていない。答えられない。

『好きなんだからやればいいじゃん。やりたいならやればいいじゃん。できるできないは別としてさ、やりたいならやろうぜ』

 『おれが付き合ってやるよ』その一言が、あまりにも重かった。膝が折れるくらい、重かった。

 背負えないから床にばら撒くしかなかった。額を床に落として、重みを分散させるしかなかった。

『そろそろ延長戦も飽きただろ。とっとと決着つけてよ、次の試合に行かね? もう、天気だって良いんだ。ちょうどいい天気だ。やるならここしかねぇよ。延期する必要もないぜ。はやくしようぜ――おれたちの夏が終わる前に』

 ツー、ツー。

 声を切断してきた音色が断崖絶壁のように思えた。もうこちらから声を届けることが不可能だとわからされるような、絶望の壁がそびえ立っている。だけどこの壁を登らないといけない。みんながあっちにいるから、こっちにいる僕が向こう側に行かないといけない。ずっと目を逸らし続けてきた現実が、目の前に広がっている。

 ぽた、と右手に落ちた水滴が、汗なのか涙なのかわからなかった。折れて歪な形になった人差し指と中指がそこにあった。もう使い物にならない指が、僕の足を引っ張る。

「なんだってんだよ……ちくしょう……」

 頭の中で過去の記憶がぐるぐると回る。ホームベースに飛び込んだときのこと、指が思うように曲げられなくて絶望したときのこと、僕がいないのにチームのみんなが楽しそうに野球をしていたときのこと。痛くて、苦しくて、辛い、そんな感情が胸の中でどんどん膨張して、肺がぱんぱんに膨れ上がったかのような圧迫感がしんどい。

 それでも足腰が立ち上がろうとする。

 右手がなにか丸い物を握ろうとしている。

 行かなきゃ。試合に。

 幸いか、雨脚が弱まっている。風も落ち着いている。学校に行くなら、いまがチャンスだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】

S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。 物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

バッサリ〜由紀子の決意

S.H.L
青春
バレー部に入部した由紀子が自慢のロングヘアをバッサリ刈り上げる物語

男子中学生から女子校生になった僕

大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。 普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。 強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!

処理中です...