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第三十三話 壁ドン
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助けられるべき人は、病気に苦しんでいる奈々海さんであって、愛梨さんのような人を助ける必要があるのだろうか。
そう考えてしまうのは、愛梨さんの日頃の行いが現状に繋がっているからだ。どんなに愛梨さんの中身が清きものだとしても、見た目や立ち振る舞いが派手なものなら、悪い意味で目立ってしまい、周囲からの評価はそういうものだと固定され、女子高校生の家出が本当のことだとするならば、遊びたい男にとっては獲物でしかない。自らが蒔いた種がどう芽吹くかは、水のやり方一つで変わってしまうものなのだ。
なんの不幸もないはずなのに面倒事を引き寄せた愛梨さんと、なにもしていないのに不運に見舞われている奈々海さん。二人の違いは、明白なものであるはずだ。
奈々海さんが愛梨さんを心配していることはわかる。でも、心配する理由がわからないのだ。
年上だから、とか世話になっているから、とか言われても、僕は愛梨さんと同い年だし、まともに会話したことさえない。お互いの印象が違うのに助けてやってくれと頼まれても、助けられる本人が誠意を持って接してくれないと、助ける価値を見出すことができなかった。
浜中のときもそうだ。
過去の浜中が川で溺れたとき、助けに行ったのが本当に菅野先生だったのか、それもはっきり教えてくれなかった。そういう事情があると言ってくれれば、僕だって浜中の悩みを真剣に考えられたかもしれない。
結局、最後の最後まで、僕は部外者という立場のままだった。
いまだってそう。愛梨さんのことを心配しているのは奈々海さんであって僕ではない。なんで、僕が愛梨さんのために動かなければならないのだ?
僕に一体、どんな利益があると――、
「あんま騒ぐなよ」
「きゃっ」
ドンと壁を叩く振動が響き、愛梨さんの小さな悲鳴が僕の鼓膜を震わせた。びくっと肩を跳ねさせた奈々海さんが、またシャツの裾を引っ張ってくる。
ああもう、嫌だな。
僕には関係ない。
そんな自分の声が聞こえたのに、僕は一歩を踏み出していた。
「その子から離れろ」
精一杯、ドスを効かせたつもりの声は、階段の踊り場ではあまり響いてはくれなかった。それよりも、「おまえ誰?」と警戒心を剥き出しにした男の声のほうが、僕の足を震わせるほど周囲をびりびりと振動させた。
「え、あんた……」
僕の顔を見た愛梨さんが目を見開いた。
「なんか文句あんの? あ?」
カツカツと迫ってきた金髪の男が僕の目と鼻の先にまで顔を寄せてくると、見下すようにぎろりと睨んできて、頭一つ分ある身長差に、圧倒的な体格差を嫌というほど思い知らされる。
気圧されて後ずさりをしてしまったのがいけなかった。
「ビビッてんの?」
金髪の男がぐいぐい顔を寄せてくるたび、僕は脅されている人みたいに後ろへと引いてしまう。階段の踊り場はそれほど広いわけでもなく、すぐに尻が壁にがつんとぶつかってしまい逃げ場が無くなった。
「たいした覚悟もなしに首突っ込んだわけ?」
視界一杯に男の顔が広がる。二重まぶたの目を左だけ細めた男の表情には、侮蔑の感情がこめられているようで、正面から受け止めるのはとにかくしんどかった。喉仏が引き籠もったように詰まる喉がからからに乾き、痙攣したのかキュッと萎む胃に吸い込まれるように体が内から丸まろうとした。
けれど僕は、なんとか時間だけは稼ぐ、その一心で歯を食いしばりながら男を見上げ、眼球が干乾びるのも構わず目を見開いてやった。すると相対する男は、「おまえマジでなに?」と困惑した様子で顔を引いた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
愛梨さんが取り繕おうとしたみたいだったが、「少し黙ってろ」と男が威圧すれば愛梨さんはしゅんと黙り込んでしまった。そんな瞬間を見てしまえば、愛梨さんがこの金髪の男に力で支配されているようにしか思えなかった。
奈々海さんの心配は当たりだ。もしかしたら、奈々海さんは愛梨さんがトラブルに巻き込まれていることを薄々感づいていたのかもしれない。
とにかく、どう考えても悪そうなのはこの男、なら僕の立場はどう転んでも被害者の味方――、それなら後々有利になるのは僕のほうだから――、
「長谷川さんから離れろゲス野郎」
「アァ?」
ピキッと音色が聞こえそうなほど男の顔が歪んだ。足がすくんだせいでもう一歩も動けそうになかったけれど、正義は我にありと確信した舌だけはよく回ってくれた。正しい行いをしているという正義感が背筋を支えてくれていて、奈々海さんが見守っているからという男のプライドが虚勢を張ってくれる。「喧嘩売ってんの?」と睨まれたとて、殴るなら殴ってみやがれと、僕は胸の内で声を荒げた。
「こいつに用があんの。わかる? 邪魔なんだけど」
愛梨さんを親指で指差した男に、僕は「他の人にしろよ」と言い返す。すると、男がゆらりと揺れ――、
男が右手を振りかぶった。
テーブルを思いっきり殴ったような打撃音に心臓が飛び跳ねた。
叩きつけるように迫ってきた男の右手に殴られたのかとも思ったけれど、男の手は僕の左耳を掠めたあと、背後の防火扉を激しく揺らしていた。突然のけたたましい音に耳がキンと麻痺し、飛び跳ねた全身は凍ったように動かせなくなった。瞬きもできなくなった僕に顔を近づけてきた男は、右耳に吐息をフッとかけてきて、
「僕が相手してくれんの?」
そう囁いてきたから鼓膜がぞわりと震えた。
右耳に、ちゅ、と響くリップ音が別次元の危険信号に変換され、至急脱出せよと足が逃げ出そうとする。しかし、左側を腕が、右側を男の顔に挟まれた僕に逃げ道なんてものは存在していなくて、「君の表情も生き生きとしていて好みだ」と囁かれたとき、さっき飲んだコーヒーを吐きそうになった。
「エッ!」
濁点がついたような驚愕の声を上げたのは奈々海さんだった。口元を両手で隠した奈々海さんはなぜか目を輝かせていて、僕はようやく、見知らぬイケメンに壁ドンをされているのだという異常事態を理解した。
誰か助けて。
救いを求めようとした首を、金髪の男にがっしりと捕縛された。
そう考えてしまうのは、愛梨さんの日頃の行いが現状に繋がっているからだ。どんなに愛梨さんの中身が清きものだとしても、見た目や立ち振る舞いが派手なものなら、悪い意味で目立ってしまい、周囲からの評価はそういうものだと固定され、女子高校生の家出が本当のことだとするならば、遊びたい男にとっては獲物でしかない。自らが蒔いた種がどう芽吹くかは、水のやり方一つで変わってしまうものなのだ。
なんの不幸もないはずなのに面倒事を引き寄せた愛梨さんと、なにもしていないのに不運に見舞われている奈々海さん。二人の違いは、明白なものであるはずだ。
奈々海さんが愛梨さんを心配していることはわかる。でも、心配する理由がわからないのだ。
年上だから、とか世話になっているから、とか言われても、僕は愛梨さんと同い年だし、まともに会話したことさえない。お互いの印象が違うのに助けてやってくれと頼まれても、助けられる本人が誠意を持って接してくれないと、助ける価値を見出すことができなかった。
浜中のときもそうだ。
過去の浜中が川で溺れたとき、助けに行ったのが本当に菅野先生だったのか、それもはっきり教えてくれなかった。そういう事情があると言ってくれれば、僕だって浜中の悩みを真剣に考えられたかもしれない。
結局、最後の最後まで、僕は部外者という立場のままだった。
いまだってそう。愛梨さんのことを心配しているのは奈々海さんであって僕ではない。なんで、僕が愛梨さんのために動かなければならないのだ?
僕に一体、どんな利益があると――、
「あんま騒ぐなよ」
「きゃっ」
ドンと壁を叩く振動が響き、愛梨さんの小さな悲鳴が僕の鼓膜を震わせた。びくっと肩を跳ねさせた奈々海さんが、またシャツの裾を引っ張ってくる。
ああもう、嫌だな。
僕には関係ない。
そんな自分の声が聞こえたのに、僕は一歩を踏み出していた。
「その子から離れろ」
精一杯、ドスを効かせたつもりの声は、階段の踊り場ではあまり響いてはくれなかった。それよりも、「おまえ誰?」と警戒心を剥き出しにした男の声のほうが、僕の足を震わせるほど周囲をびりびりと振動させた。
「え、あんた……」
僕の顔を見た愛梨さんが目を見開いた。
「なんか文句あんの? あ?」
カツカツと迫ってきた金髪の男が僕の目と鼻の先にまで顔を寄せてくると、見下すようにぎろりと睨んできて、頭一つ分ある身長差に、圧倒的な体格差を嫌というほど思い知らされる。
気圧されて後ずさりをしてしまったのがいけなかった。
「ビビッてんの?」
金髪の男がぐいぐい顔を寄せてくるたび、僕は脅されている人みたいに後ろへと引いてしまう。階段の踊り場はそれほど広いわけでもなく、すぐに尻が壁にがつんとぶつかってしまい逃げ場が無くなった。
「たいした覚悟もなしに首突っ込んだわけ?」
視界一杯に男の顔が広がる。二重まぶたの目を左だけ細めた男の表情には、侮蔑の感情がこめられているようで、正面から受け止めるのはとにかくしんどかった。喉仏が引き籠もったように詰まる喉がからからに乾き、痙攣したのかキュッと萎む胃に吸い込まれるように体が内から丸まろうとした。
けれど僕は、なんとか時間だけは稼ぐ、その一心で歯を食いしばりながら男を見上げ、眼球が干乾びるのも構わず目を見開いてやった。すると相対する男は、「おまえマジでなに?」と困惑した様子で顔を引いた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
愛梨さんが取り繕おうとしたみたいだったが、「少し黙ってろ」と男が威圧すれば愛梨さんはしゅんと黙り込んでしまった。そんな瞬間を見てしまえば、愛梨さんがこの金髪の男に力で支配されているようにしか思えなかった。
奈々海さんの心配は当たりだ。もしかしたら、奈々海さんは愛梨さんがトラブルに巻き込まれていることを薄々感づいていたのかもしれない。
とにかく、どう考えても悪そうなのはこの男、なら僕の立場はどう転んでも被害者の味方――、それなら後々有利になるのは僕のほうだから――、
「長谷川さんから離れろゲス野郎」
「アァ?」
ピキッと音色が聞こえそうなほど男の顔が歪んだ。足がすくんだせいでもう一歩も動けそうになかったけれど、正義は我にありと確信した舌だけはよく回ってくれた。正しい行いをしているという正義感が背筋を支えてくれていて、奈々海さんが見守っているからという男のプライドが虚勢を張ってくれる。「喧嘩売ってんの?」と睨まれたとて、殴るなら殴ってみやがれと、僕は胸の内で声を荒げた。
「こいつに用があんの。わかる? 邪魔なんだけど」
愛梨さんを親指で指差した男に、僕は「他の人にしろよ」と言い返す。すると、男がゆらりと揺れ――、
男が右手を振りかぶった。
テーブルを思いっきり殴ったような打撃音に心臓が飛び跳ねた。
叩きつけるように迫ってきた男の右手に殴られたのかとも思ったけれど、男の手は僕の左耳を掠めたあと、背後の防火扉を激しく揺らしていた。突然のけたたましい音に耳がキンと麻痺し、飛び跳ねた全身は凍ったように動かせなくなった。瞬きもできなくなった僕に顔を近づけてきた男は、右耳に吐息をフッとかけてきて、
「僕が相手してくれんの?」
そう囁いてきたから鼓膜がぞわりと震えた。
右耳に、ちゅ、と響くリップ音が別次元の危険信号に変換され、至急脱出せよと足が逃げ出そうとする。しかし、左側を腕が、右側を男の顔に挟まれた僕に逃げ道なんてものは存在していなくて、「君の表情も生き生きとしていて好みだ」と囁かれたとき、さっき飲んだコーヒーを吐きそうになった。
「エッ!」
濁点がついたような驚愕の声を上げたのは奈々海さんだった。口元を両手で隠した奈々海さんはなぜか目を輝かせていて、僕はようやく、見知らぬイケメンに壁ドンをされているのだという異常事態を理解した。
誰か助けて。
救いを求めようとした首を、金髪の男にがっしりと捕縛された。
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