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第二十四話 夜のプール、それと水遊び
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目が覚めたとき、僕は教室にいた。窓際で一番後ろの席に座っている。ここは、奈々海さんの席だ。
なんでここにいるのだろう?
よく、思い出せない。
窓の向こう側に目をやると、無人のグラウンドが静止画のように広がっていた。サッカー部が使うゴールポストがぽつんとあって、奥のほうに野球場がある。さらに奥へ焦点を結ぼうとしたけど、街灯もヘッドライトも家屋の明かりも、月すら見えなかった。黒い絵の具でべた塗りしたような闇が学校の周囲を囲んでいる。
真っ暗だけど、手の輪郭ははっきりと視認できた。健常な左手と、歪な人差し指と中指が生えた右手がある。視界に入れたくない右手をポケットに突っ込んだ僕は、教室の中を見渡した。
自分の机の上にはなにもなかった。
黒板の隅に『日直 原井 奈々海 宮部 武』と書かれている。
時計の針は二十二時ちょうどを指していた。
「また夢か」
ぼそりと呟いた声は、特に反響することもなく消えていく。
これは夢のはずだ。今日は忘れ物をしていなかったはずだから、学校に戻ってくる理由がない。
浜中に貸したままのシュノーケルの存在が頭をよぎったけれど、親戚には数日借りると伝えてあったから、急いで取りにいく必要はない。だから、僕は学校に戻ってきていないはずだ。
あれ? 僕は学校に――、
ずきっ。
「いっ……て」
記憶を覗こうとすればするほど、こめかみのあたりに鈍痛を感じた。なにかを思い出せそうだったのに、硬球が直撃したような痛みが刺してきて、僕の思考は苦痛のせいで掻き消されるはめになった。
「あったま痛い……、最悪だわ……」
夢への感想が口からこぼれる。とりあえず、このまま教室にいても仕方がないと思い、教室を出ることにした。
非常口を知らせる緑色と、火災報知器の赤色が輝く廊下に異変は無い。下駄箱でスニーカーに履き替え、グラウンドへ出る。
グラウンドにも人影は見当たらなかった。そのまま正門に向かおうとしたけれど、ほんの少しだけ気になったことがあって、正門とは逆の方向を向いて歩くことにした。
「あはっあはっあはっ」
跳ねるような笑い声が聞こえたとき、やっぱりか、と思った。
スニーカーからサンダルに履き替え、笑い声が響いているプールへと足を運ぶ。
「それっ!」
「きゃっ! やったな!」
なんとなく想像しただけの光景が目の前に広がっている。奈々海さんが制服姿のままプールの中に入っていた。それと、おかっぱ頭で着物姿の女の子もいる。二人は、膝下まで水位が減ったプールの中で水をかけあってはしゃいでいた。
プールの水がなんで減っているのだろう。疑問を抱いて周りを見渡していると、奈々海さんが僕のことに気がついた。
「あ、宮部くんだ。やっぱり来てくれた」
濡れた前髪を額に張りつけたままの奈々海さんが笑う。「一緒に遊ぶ?」と聞かれたけど、遊ぶ気力なんて微塵も湧かなかった僕は、違和感に支配されつつあった頭を左右に振った。
奈々海さんは、酸素ボンベを背負っていなかった。
膝下まで水に浸かり、あられもなくびしょ濡れになった奈々海さんは、自由を堪能しているかのように大きく両手を広げていた。
「楽しいね!」
無邪気な声に、僕は愛想笑いを浮かべることもできなかった。
日中、酸素ボンベを吸引しながら奈々海さんは微笑んでいるけれど、心の内では楽しくないと思っているのだろうか。こう考えてしまうのも、普段の生活の中で奈々海さんがこんなに笑っているところを見たことがないからで、それはつまり、僕がそばにいても楽しくないことを意味しているから、だから僕は――、
「宮部くん? どうしたの? そんな怖い顔して」
気づけば、奈々海さんは僕が立ち尽くしていたプールサイドにまで近寄って来ていて、きょとんとした顔で僕のことを見上げていた。
なにか言わないと、とは思ったのに、奈々海さんが着ているシャツが濡れたせいで肌に張りついていて、インナーらしき黒色がうっすらと浮かびあがっていたものだから、僕は目のやり場に困ってしまい、「ずぶ濡れじゃん」と言いながら、奈々海さんの体に吸われかけた目線を逸らすことに必死になった。
どうやら奈々海さんは、服が透けていることが気にならないらしく、「こっそり水着着てたから平気だよん」と教えてくれた。
「わたしも久々にね、水遊び……したかったの」
奈々海さんは、記憶の感触を確かめるように、足元を満たしている水を素足で掻き回した。何度も何度も、渦を作るように水を掻き混ぜる。まるで、水の冷たさや肌にのしかかってくる水圧を忘れたくないように。惜しむように目を細めた表情からは、そんな声が聞こえてきそうだった。
最後に水遊びをしたのはいつのことなのだろう。過去を掘り返すのは、奈々海さんにとっての追い打ちになるだろうか。
奈々海さんが気にしないのなら、僕は過去の話を聞きたいなと率直に感じた。なにを好きで、なにを頑張ってきて、どう生きたいのか。
純粋に、奈々海さんのことを知りたかった。
僕は、奈々海さんが肺炎に苦しめられていることしか知らない。
奈々海さんが浜中に寄り添おうとしたように、僕も奈々海さんに寄り添ってあげられたら――。
なんでここにいるのだろう?
よく、思い出せない。
窓の向こう側に目をやると、無人のグラウンドが静止画のように広がっていた。サッカー部が使うゴールポストがぽつんとあって、奥のほうに野球場がある。さらに奥へ焦点を結ぼうとしたけど、街灯もヘッドライトも家屋の明かりも、月すら見えなかった。黒い絵の具でべた塗りしたような闇が学校の周囲を囲んでいる。
真っ暗だけど、手の輪郭ははっきりと視認できた。健常な左手と、歪な人差し指と中指が生えた右手がある。視界に入れたくない右手をポケットに突っ込んだ僕は、教室の中を見渡した。
自分の机の上にはなにもなかった。
黒板の隅に『日直 原井 奈々海 宮部 武』と書かれている。
時計の針は二十二時ちょうどを指していた。
「また夢か」
ぼそりと呟いた声は、特に反響することもなく消えていく。
これは夢のはずだ。今日は忘れ物をしていなかったはずだから、学校に戻ってくる理由がない。
浜中に貸したままのシュノーケルの存在が頭をよぎったけれど、親戚には数日借りると伝えてあったから、急いで取りにいく必要はない。だから、僕は学校に戻ってきていないはずだ。
あれ? 僕は学校に――、
ずきっ。
「いっ……て」
記憶を覗こうとすればするほど、こめかみのあたりに鈍痛を感じた。なにかを思い出せそうだったのに、硬球が直撃したような痛みが刺してきて、僕の思考は苦痛のせいで掻き消されるはめになった。
「あったま痛い……、最悪だわ……」
夢への感想が口からこぼれる。とりあえず、このまま教室にいても仕方がないと思い、教室を出ることにした。
非常口を知らせる緑色と、火災報知器の赤色が輝く廊下に異変は無い。下駄箱でスニーカーに履き替え、グラウンドへ出る。
グラウンドにも人影は見当たらなかった。そのまま正門に向かおうとしたけれど、ほんの少しだけ気になったことがあって、正門とは逆の方向を向いて歩くことにした。
「あはっあはっあはっ」
跳ねるような笑い声が聞こえたとき、やっぱりか、と思った。
スニーカーからサンダルに履き替え、笑い声が響いているプールへと足を運ぶ。
「それっ!」
「きゃっ! やったな!」
なんとなく想像しただけの光景が目の前に広がっている。奈々海さんが制服姿のままプールの中に入っていた。それと、おかっぱ頭で着物姿の女の子もいる。二人は、膝下まで水位が減ったプールの中で水をかけあってはしゃいでいた。
プールの水がなんで減っているのだろう。疑問を抱いて周りを見渡していると、奈々海さんが僕のことに気がついた。
「あ、宮部くんだ。やっぱり来てくれた」
濡れた前髪を額に張りつけたままの奈々海さんが笑う。「一緒に遊ぶ?」と聞かれたけど、遊ぶ気力なんて微塵も湧かなかった僕は、違和感に支配されつつあった頭を左右に振った。
奈々海さんは、酸素ボンベを背負っていなかった。
膝下まで水に浸かり、あられもなくびしょ濡れになった奈々海さんは、自由を堪能しているかのように大きく両手を広げていた。
「楽しいね!」
無邪気な声に、僕は愛想笑いを浮かべることもできなかった。
日中、酸素ボンベを吸引しながら奈々海さんは微笑んでいるけれど、心の内では楽しくないと思っているのだろうか。こう考えてしまうのも、普段の生活の中で奈々海さんがこんなに笑っているところを見たことがないからで、それはつまり、僕がそばにいても楽しくないことを意味しているから、だから僕は――、
「宮部くん? どうしたの? そんな怖い顔して」
気づけば、奈々海さんは僕が立ち尽くしていたプールサイドにまで近寄って来ていて、きょとんとした顔で僕のことを見上げていた。
なにか言わないと、とは思ったのに、奈々海さんが着ているシャツが濡れたせいで肌に張りついていて、インナーらしき黒色がうっすらと浮かびあがっていたものだから、僕は目のやり場に困ってしまい、「ずぶ濡れじゃん」と言いながら、奈々海さんの体に吸われかけた目線を逸らすことに必死になった。
どうやら奈々海さんは、服が透けていることが気にならないらしく、「こっそり水着着てたから平気だよん」と教えてくれた。
「わたしも久々にね、水遊び……したかったの」
奈々海さんは、記憶の感触を確かめるように、足元を満たしている水を素足で掻き回した。何度も何度も、渦を作るように水を掻き混ぜる。まるで、水の冷たさや肌にのしかかってくる水圧を忘れたくないように。惜しむように目を細めた表情からは、そんな声が聞こえてきそうだった。
最後に水遊びをしたのはいつのことなのだろう。過去を掘り返すのは、奈々海さんにとっての追い打ちになるだろうか。
奈々海さんが気にしないのなら、僕は過去の話を聞きたいなと率直に感じた。なにを好きで、なにを頑張ってきて、どう生きたいのか。
純粋に、奈々海さんのことを知りたかった。
僕は、奈々海さんが肺炎に苦しめられていることしか知らない。
奈々海さんが浜中に寄り添おうとしたように、僕も奈々海さんに寄り添ってあげられたら――。
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