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第十九話 人柱

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 大きな声が聞こえてはっとした自分は、プールサイドを見た。クラスメイトで年上の原井さんと、担任の菅野先生が並んで立っていた。

 原井さんが胸一杯に空気を吸ったことが肩の動きでわかった。両手を口に添えた原井さんが「浜中くん!」と大声を出した。

「自分の目で見なきゃ、わかんないよ! 自分から飛び込まないと、たどり、つけ、ないよっ」

 原井さんの精一杯の声量は、だんだん小さくなっていった。限界になったのか、原井さんはへなへなと膝に手をついた。

 昨日、原井さんはいろいろと語ってくれた。おそらく、原井さんなりに寄り添ってくれたのだとは思う。けれど、原井さんの経験と自分との経験は、似ているようで本質は全く別物だとも思った。

 原井さんは他人の寿命を貰ったと言った。

 だが自分は、他人の人生を貰ったのだ。背負う重荷にこそ、天と地の差がある。他人が生きているのなら、いいじゃないか。

 恨まれて憑かれた自分より――よっぽど幸運だよ。

「浜中!」

 菅野先生に呼ばれた。体育教師らしい地響きのような大声に、勝手に背筋が伸びる。

「男にはな! 引けねぇ瞬間がある! それは突然やってくる! そのとき動けるかどうかは日頃の積み重ねだ! 強くないといけねぇ! 浜中! おめぇはどうすんだ!」

 菅野先生の目は、水面に斜陽が差したみたいにぎらぎらしていた。菅野先生の真剣な眼差しが胸のあたりに深くめり込んでくると、内臓が委縮したみたいに体の内側が萎み、頭の血液が引きずり降ろされて息苦しくなった。

 男には、引けない瞬間がある、か。

 少なくとも、いまは引けない瞬間ではないような気がした。宮部も溺れているわけではない。

 そもそも自分はなぜ、こんなことをしているのだろう。

 亡霊に気がついたのは高校生の葬式に参列してからだ。亡霊は水の中に潜らなければ動くことはなかったから、ずっと水に近寄らないようにしてきた。これからも水から離れた生活を続ければ、亡霊が誰かを襲うこともないだろう。

 でも、なにか違うような気がした。言葉では言い表せられない違和感があった。

 ほとんど思いつきだった。水泳部がしばらく合宿でいないと聞いたとき、なぜか体が勝手に動いた。誰もいないプールなら、亡霊が誰かを襲うこともないと考えた。

 亡霊と向き合う、チャンスだと思った。

 ただ、この世に存在してはいけない亡霊と目を合わせるのは相当な勇気が必要で、初日で自分の心は折れた。亡霊が視界に映るだけで心臓が爆発しそうになるほど緊張してしまう。そんな状態では十秒も潜っていられなかった。

 二日目には宮部がプールに入って来てしまったから、宮部を守るためにも水に潜るわけにはいかなかった。

 せめて、亡霊の声が聞こえたなら。対話ができたなら、なにか違ったのかもしれない。

 亡霊と自分だけの水の中に、音は聞こえなかった。

 言いたいことがあるなら言ってほしい。

『わたしはもう、迷惑をかけてまで生き延びたくない』

 どうして、原井さんの声が耳にこびりついているのだろう。聞きたい声は、原井さんの声ではなく、水中にいる亡霊の声なのに。

 自分は、生きるためならば、誰かを殺してでも生き延びたい。

 高校生の葬式のとき、強く感じた。

 肌色が抜けた高校生の顔を見て、死にたくないと心の底から願った。生きるためなら誰かを身代わりにしてもいいと本気で思っている。

 だから誰かと仲良くなるのは嫌だ。いざというとき、躊躇ってしまいそうだから。

 ああ、自分のほうがよっぽど亡霊みたいだ。生にしがみつく、亡霊だ。

 ……もしかして、あの亡霊は自分自身だったりするだろうか。

 生きたいという願望が目に見えているだけなのだろうか。

 なんとかして、確かめられないだろうか。

 ……いまなら、宮部がいる。

 宮部とはそこまで関わっているわけでもないし、宮部がそれほどクラスで人気があるようには見えない。野球部とは仲が良いみたいだけど、わりと宮部は素っ気ない人間だと思う。

 別にいなくなっても誰も困らないのでは?

 そんなことを考えたとき、胸がどきりとして喉がごくりと鳴った。

 亡霊の正体を確かめたい。そのためには人柱が必要だ。

 万が一があっても、菅野先生がいるし、なんとかなるのではないか。

 亡霊の動きが見たい。いまなら、確かめられる。

 我慢ができなかった。ずっと引きずってきた問題の答えが目の前にあると考えれば考えるほど、どうしようもなくそれを見たくなった。

 ゆらゆらと輪郭を揺らめかせる宮部の背後で、黒いモヤが手招きをしている。

 宮部、許してくれ。

 大きく、息を吸った。
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