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第十二話 嫌いなもの

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 家まであと少しだった。ある民家の前を通るとき、テレビの音声が聞こえてきた。窓が開いているのだろう。この暑さなのに冷房をつけていないのだろうか。

『打った! ピッチャー返し! 抜けたぁ!』

 黄色い歓声を聞いたときだった。突然、じゃりじゃりと壊れたラジオみたいな耳鳴りが聴覚を支配してきた。

「……っ」

 おそらくセンターまで抜けたであろうヒットが点に繋がったのかも聞き届けることなく、僕は駆け出していた。吹奏楽部の演奏が追いかけては来たものの、全力で走ることでトランペットの音色を振り切る。

 そうだ。そういえば、昨日から一回戦が始まっていた。

 夏の甲子園。

 ようやく、忘れられそうだったのに。

 奥歯の力みを緩めるために、息が切れるまでひたすら走った。

 運動部に所属しているわけでもない体が限界を迎えるのは、すぐのことだった。

 この時期は、本当に嫌いだ。

 一年の中で一番嫌いな日々が始まっている。

「なんだってんだよ……、くそっ」

 膝に手をついた僕は、アスファルトに汗を落としながら喉をぜぇぜぇと鳴らしていた。一気に体温が跳ね上がったのか、全身から赤外線ストーブのような熱波が放たれていて、どんなに汗を拭っても顔がずぶ濡れのままになってしまった。

「もう忘れろって……終わっただろ、全部、なにもかも」

 ぶつぶつと独り言を呟いたとき、周りに誰もいなくて良かったと心底思えた。きっといまの自分は、酷い顔をしているはずだから。

 なによりも奈々海さんがいなくて良かった。

 ……なぜ、奈々海さんのことをいま考えているのだろう?

 今日の奈々海さんは、というより、プールにいたときの奈々海さんは、どこか寂しそうにも見えた。カナヅチ克服のため藻掻く浜中を眺める奈々海さんの横顔は、すごく真剣な表情だったけれど、その一方で、なにか悔しそうな――躊躇うような、そんな顔もしていた。

 すごく似ているような気がした。

 まだ諦めていなかったあの日の僕に。

 そこまで考え込んだとき、正面から人影が近づいてくることに気がついて丸まっていた背筋を伸ばした。何食わぬ顔を意識して、ただの通行人になることを徹底した。こんな真っ昼間から、学生服を汗まみれにさせて息を切らしている姿を誰かに見られるのは、少々恥ずかしく感じる。

 平常を装って歩きだした僕は、前から来る人とすれ違おうとした。だけど、なぜか前からやって来た人は、わざわざ僕の進路を塞ぐようにして立ち止まった。行く手を阻まれてしまえば歩みを止めるしかなく、なんだろう? と疑問に思って正面にいた人物を観察した。

 野球帽を深く被った男は、一目でスポーツマンだとわかるほど黒く日焼けしていた。そして、野球帽のつばの陰に隠れていた猛獣のような眼光に射抜かれた僕は、身動きが取れなくなった。

「一回戦、勝ったぞ」

 そう言われたとき、頭が真っ白になった。

 右手がポケットの中でかじかむように震えた。

 震える右手が、丸いものを握ろうとしている。

 固まった僕は絶句してしまった口をぱくぱくすることしかできず、そんな僕をいくつか見つめた男は、「ちっ」とあからさまに舌打ちをした。

「いつまで隠してんだよ。くだらねぇ」

 そう吐き捨てた男は、わざと僕の右肩にぶつかってから横を通り過ぎていった。ずかずかとガニ股気味で去っていく男の背中を、僕はただただ見送った。

「なんで……ここに……」

 わけがわからなかった。

 なんで、現地入りしているはずのあいつが戻って来ているのだ。県代表の投手として甲子園にいるはずのあいつが、なんでここに。

 まだ震えていた右手をポケットから出した僕は、ふと思った。

 歪な指を、金槌で叩いたら真っすぐにならないだろうか? と。

 そうしたら、僕も――、いや、僕こそが――。

 気づいたときには、野球帽を被った男の背中は見えなくなっていた。

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