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第三話 原井奈々海

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 金属バッドがボールを叩く爽快な音が遠くに聞こえた。カキン。キンキンに冷えたサイダーに贅沢にも氷をぶちこんでから一気飲みしてやったときの爽やかさと張り合える音色だった。

 窓を閉めきった教室の中でも室外機の唸り声がぶつぶつと聞こえていた。けれど、教室の中はなんだか生温いと言えるような、例えるならエアコンを切った直後の車内みたいで、涼しさの名残を感じるけど外からの熱も感じるような、そんな半端な冷え方だった。要するに、エアコンは動いているけども、僕が求めている冷風はこれっぽっちも吐いてくれないのだ。僕の背後で忙しなく首を振り続ける扇風機のほうが、ねっとり汗ばんだ肌から熱気を攫ってくれていた。

 外から元気な掛け声が聞こえてくる。一、二、一、二、とリズミカルなのはサッカー部で、走れや捕れやと大声を発しているのは野球部だろう。運動部は本当に元気なものだ。聞こえてくる声に、顔と名前を知っている声は含まれていない。

 窓側から二列目、そして教室最後方の席に座っていた僕は、窓の外を眺めたあと、直下急降下してくる紫外線の眩しさだけで喉の渇きを覚えた。

 屋内にいるのにも関わらず、清々しいほど澄んだ青空だけでも思わず目を手で庇いたくなるほど外は眩しい。天気が良すぎる。こんな暑さの中、よく運動部は走り回れるものだ。だからみんな、肌をこんがり焼くのだ。休みの日くらい冷房が効いた部屋でのんびりしたいものだ。そう脳内で呟いているのも、毎年の恒例行事になる。

 外が眩しければ眩しいほど、教室の日陰は濃くなるような感覚にもなる。炎天下のグラウンドから薄暗い校舎の中に入ったとき、一瞬目の前が真っ黒になるみたいに。

 窓の外から窓の内に焦点を引き戻した僕は、背伸びするふりをしながら左隣の席を見やった。運動部の大声が一瞬止んだとき、カリカリと文字を刻む音色が左耳に届いた。

 机に向かってシャーペンを走らせているのは、この教室の中でただ一人だけ。それも、僕の隣の席以外は全て空席だから、人の気配を蠢かせているのも隣の席に座っているただ一人だけになる。

 僕はついつい、彼女の横顔を――他人とは一風変わった外見をしている原井奈々海さんのことを見つめてしまった。

 彼女は透明なチューブ――点滴で腕に刺されるチューブのような細い管を耳にかけていた。

 ぱっと見、眼鏡のフレームにも見えるその管は、彼女の足元に置かれている黒生地のリュックから伸びてきている。縦長のリュックには管を通すための穴が空けられていて、リュックの中には『医療用酸素』という白文字が書かれた黒い容器が入っている。つまり、リュックの中には酸素ボンベが入っているのだ。奈々海さんが耳にかけている透明な管は、酸素ボンベから供給される酸素を運ぶ道のようなものであって、透明な道は、彼女の鼻の穴にまで続いていた。

 映画やドラマで入院患者の方が鼻に管を挿している意味を知ったのは、奈々海さんがきっかけだった。

 数年前まで猛威を振るっていた疫病が原因で発症した肺炎に苦しんだ彼女は、疫病が落ち着いて日常が戻ってきたのにも関わらず、酸素を余分に含む空気を吸えないと苦しい体になってしまった。

 息として吸われる空気に追加で酸素を供給することで、僕たちが吸う空気よりも濃い酸素を含む空気を作り、弱ってしまった肺でも必要な酸素を体に取り込むことができる。

 そう説明を聞いたのは三年生に進級したあとのクラス替えのときだ。

 誰もが年上のクラスメイト、しかも酸素ボンベを常に傍らに置き、酸素を吸うための管を鼻に挿している奈々海さんに戸惑った。

 微妙な空気感だったけど、奈々海さんは微笑むことをずっとやめなかった。背中を見送ってくれるように笑う奈々海さんは、ちゃんと年上のお姉さんで、クラスのみんなも、近くもなく遠くもない、ほどよい距離感で彼女とほどほどに接した。

 そして奈々海さんが特定の誰かと親し気に接している姿を見かけぬまま、夏になった。

 奈々海さんは、僕の隣の席で今日も課題に励んでいる。

 体の関係で授業を休みがちな奈々海さんは、出席日数を稼ぐために夏休みだろうが普通の土日だろうが関係なく、体調さえ良ければ学校で補習授業を受けているわけだ。

 大変だよな、と思うことは簡単だけど、実際、酸素ボンベが手放せない生活なんて想像すらしたことがなかった。

 だから僕は、いつもどんな言葉を彼女にかけたらいいのかがわからなくて、こうして横目に奈々海さんを眺める日々を送っているのだ。

 そうやって奈々海さんのことを考えていると、気づかぬ間にも僕のへそは奈々海さんの方へ向いていた。

 なら、奈々海さんが僕の視線に気がつくのも仕方がないことだったのかもしれない。
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