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3ー2章 落ち人たちの罪と罰
四十一話 消せない想い
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「いつまでそうしているつもりですか、この地下道でドブネズミと暮らしたいのなら止めませんが、どうしますか」
「や、ネズミと同居はかんべんです」
「なら早く。ユイ、あなたは先に」
いつもの口調を崩すことはないけれど、どこか焦りの色が見えるオーベールさん。
足腰の弱った伯爵様の肩を支え、湿って滑る地下道をずっと歩いてきたのです。
オーベールさんと伯爵様、それから以前ソランさんを馬車の前で倒した護衛、彼がカンテラで道を照らして先導していました。そこに私と結衣さんが加わったのです。
私たちのいる場所は、まるで坑道のような暗くて湿った土と岩がむき出しの道。詳しくは説明してもらえませんでしたが、古くに作られた城からの抜け道のひとつなのだそうです。
ただこの道、足場の悪さだけが問題ではありません。ゆるやかではありますが、登り坂になっているようです。老人にはかなり負担ではないのでしょうか。
「この道を抜けたところで味方が待っている予定です、急ぎますよ」
結衣さんは特に文句を言うわけでもなく、掴んでいた私の手を離し、先へ進みます。
「ここに残りたくなければ、私についてきて」
「結衣さん、まってください」
慌てて彼女の後に続きます。
私は何度も足元をさらわれそうになりながらも、彼女の隣に追い付きます。けっこう必死に歩いているのですが、結衣さんはとても軽やかに、まるで舗装された道を歩いているかのよう。
これはもしかして、加護が働いているのでしょうか。
「結衣さん……あの」
「迷いたくなければ話しかけないで」
色々と聞きたいと思って声をかけたのですが、結衣さんはまっすぐ前を向いたまま、私の言葉を遮りました。すると目の前に分岐が現れました。同じくらいのトンネルが二つ。
だけど結衣さんは躊躇することなく、左を選びます。私たちは黙ってその選択に従うのみ。
それからどれくらい歩いたでしょうか……ゆるやかとはいえ上り坂。みんな疲れたはずだと思うのですが、なんとなく歩き続けていられたのは加護の効果のひとつかもしれません。
いったいどこまで続いているのかと心配した地下道は、案外それほどでもなく。一時間もしないうちに、出口にたどり着きました。
ずっと暗闇の中を歩いてきたせいか、強い光りにかすむ景色に、自分の目を疑います。
だってそこには、たった一時間でたどり着けるはずはない景色が広がっていたのですから。
……大きな街を一望することができる、高い山の上。とても一時間で歩ききれる距離ではありません。
「これほどとは……やはり加護は恐ろしい」
オーベールさんも驚きを隠せない様子でした。
ですが周囲を警戒するように見回し、木々が途切れて山肌が露になっているその場所からすぐに離れることにしたようです。というのも、オーベールさんがあらかじめ手配していたはずの迎えが遅れているからだそう。
私と結衣さんも、洞窟から続く山道へ身を隠します。そしてオーベールさんは苦々しい顔で私を振り返りました。
「レヴィナス隊長のおかげで予定が狂いました、本当にあなたは面倒なお方だ」
「……どういうことですか?」
「どこで嗅ぎ付けたのか、今回の謀反をカロン様にお教えしたのは彼のようです。あなた方を迎えにくるついでに、エーデなどに立ち寄ったのもそのせいでしょう。おかげで予定を早めることになった……」
「アルベリックさんが? だから南回りを?」
「それもまた宰相の差し金かもしれませんが、彼の実行力をあなどると痛い目にあいそうです。だが、こちらも相当な準備をしてきています、こんなところで捕まるものですか」
木立を剣で薙ぎ払い、道を確保する護衛の後に続く私たち。オーベールさんに背負われた伯爵は、意識はしっかりしているものの、ずっとオーベールさんを頼りきりです。ときおりオーベールさんたちに「アインはまだ現れないのか」などと不平は言っていましたが、私たちは不遜に見下ろされるだけ。彼にとって私たちなど、声をかけてあげるほどの存在ではないようです。
それでも落ち人であることは理解しているようで。「加護は我らの役に立てばよい」そう呟くのも、湿った暗闇の中で聞こえていました。
森の中を少し進んだところで、蔦に覆われた小さな小屋まで到着しました。
「さあ、ここまで来れば追手もやすやすと見つけられないでしょう、父上、一旦お休みください」
「おお、ようやくか。それでアインの奴はどうした、さっさと奴の首をはねたのか?」
「大丈夫です、必ずやあの無能の首は切り落とします。それにもうすぐ父上を迎えにグリフォン隊が到着いたしますので、どうかご安心を」
護衛の彼が今度は伯爵様を抱え、小屋の中へ入っていきました。オーベールさんが私たちを振り返り、そこで別れを告げられました。
「カズハ様、ユイとは利害が一致したのでここまで互いに協力しあいましたが、それもここまで。あなたたちはここから先へ進むといい」
「え、あの、オーベールさんはいったいどこへ? どうしてこんな事を」
あんなに尊敬していたカロンさんへの忠誠は、まやかしだったのでしょうか。
「どうして? 私にもカロン様と同じだけの権利がある、それだけのことです」
「異母兄弟だからですか? でも、なら、協力しあった方が……そう思って支えてたんですよね? クラリスさんがそう言ってました」
オーベールさんは立ち去ろうとした足を止めます。
「今のカロン様は、セレスフィアを治めるにふさわしくありません。以前の……先代を廃した冷徹さを失ったカロン様には」
「……冷徹さ?」
「この南のセレスフィア、グレアデス、エーデ……それだけではない、この周辺の地域は強い力で治めなければならない土地なのです。隙を見せれば、寝首をかかれる。今回のように」
「そんな……でも、セレスフィアの街の人たちは幸せそうじゃないですか、式典だってあんなにみんな喜んでて」
「ノエリアなどとは訳が違うのです。あなたには分からないでしょうが」
どのような事情があるのかは、分かりません。だけど、カロンさんはオーベールさんを側に置いていたのです。それなのに裏切られて……兄弟なのに。
私のそんな動揺を、甘いと嘲笑うオーベールさん。
「あなたに言われる筋合いはない。あなたは同郷というだけで、ユイの信頼を勝ち得たのですか?」
「……それは」
オーベールさんへはっきりそんなことはないと答えることができず、苦し紛れに結衣さんを振り返ります。
そこには厳しい表情で私たちを見つめる結衣さん。
「人は間単に裏切るものです。愚かにも信頼などするから失望する。それは人の上に立つ者ならなおさら。あなたの大事なレヴィナス隊長とて、そのあたり弁えているではありませんか」
「アルベリックさんは、あなたとは違う」
「いいえ違いません。なぜなら、あなたを迎えに来る名目で、私たちの反乱を防ぐ手だてを講じた。それはつまり、宰相ウィリアム・レヴィナスの思惑を優先させたということではないのですか? たかだか女のために職務を放棄したのではない……アルベリック・レヴィナスは今でも宰相と国王陛下の鎖から放たれていないということ。ですが、カロン様には失望いたしました。役立たずのクローデを放置し、アインのような小物を重用するなど!」
アインという名は、確かカロンさんの奥方様のご実家の名前です。もしかして、そういった理由で勢力図が書き変わった? それが反乱の原因なのでしょうか。
港が襲撃にあったとき、とっさに妻子を背にかばったカロンさんの後ろ姿を思い出しました。
「さあ、もう無駄な話をしている時間はありません、あなた方とはこれまでです」
私と結衣さんを突き放すようにそう言うオーベールさん。
港での様子を見ていたかぎりでは、彼らに勝ち目があるとは思えません。警備隊が動いたということは、今回のことは事前に発覚し、既に公になったということ。
「まって下さい、まだ何かするんですか、これ以上は……」
「止めて、カズハさん」
オーベールさんをなんとか投降するよう引き留めようとした私を、結衣さんが止めます。
どうして?
「彼には覚悟があるのよ、私には分かる」
「……え、どういう」
「あなたは私と一緒に来るのよ」
私の腕を掴む結衣さん。するとまたしても勝手に足が動いて抵抗できなくなります。
まだ加護が? いったいどれほどの作用が続くものなのでしょうか。とにかく私は彼女につれられて、山の奥の小屋を遠ざかってしまいます。
小さくなる小屋の扉、オーベールさんが、私たちを見送るように立っています。その顔は、どこか切なそうで……覚悟という言葉に、私の胸が重く締め付けられます。
「まって結衣さん、だめです放ってはいけません」
「どうしてあなたが気にしなくちゃいけないの? 関係ないでしょう?」
「関係なくないです、だって長いこと一緒にいたじゃないですか、それは結衣さんも同じですよね、心配するのは当然です」
「そうね」
「だったら!」
もしかしたら、オーベールさんは……
渾身の力をこめて結衣さんの手を振りほどきます。
すると結衣さんが、恐ろしいことを口にしました。淡々と、諭すかのように。
「いいえ関係ないわ。だってあなた、帰るんですもの」
「……え?」
「帰るの。今なら和葉さんを向こうへ帰せるわ。大切な家族があなたを心配して泣いている。だからあなたは無理をしてここに居る必要なんてないでしょう? あなたがここに残りたい理由は彼? でも彼は……レヴィナス隊長はあなたの境遇に同情しただけよ。落ち人という境遇に……それなら私もあなたと同じ立場。私がもらってもいいでしょう?」
「ゆ、結衣さん、でも私はアルベリックさんの……」
「形だけじゃない、譲って。あなたには他にも必要とされる人がいるでしょう、なんでそんなに欲張りなのよ! 私には他にいない、それは彼も同じ。あなたでなくたっていいはずよ!」
辛い、痛い。そんな感情のままに激昂する結衣さんの言葉が、私を突き刺していました。
彼女はまるで、突然この世界に落とされたことを知った、あの日の私そのもの。
たった一人。それがどんなに寂しくて心細いか、そんな状態のまま過ごしている結衣さん。きっと彼女の心を理解できるのは、皮肉にも彼女が責める私だけ。
「でも、結衣さんにだって心を砕いてくれた人がいたはずです、思い出してください。行き違いはあったけれど、最初に助けてくれたおかみさんは? 厳しいことを言うけれど、ずっと結衣さんの行方を気にしていたソランさんもです」
「そんなの関係ない! 私の罪に許しを与えられるのは、他の誰にも代わりなんてできない」
「……結衣さん!」
「簡単に忘れられるはずがないわ……だから辛いの、それは私たちが二人、ここにいる限り終わらない。それならあなたがいなくなればいい」
ショーンさんの死から一歩も進めないでいる結衣さんにとって、唯一の救いをアルベリックさんに見い出しているというのですか……?
私はおろか、ソランさんの心すらも届かない。まるで暗い洞穴のようにぽっかりと空いてしまった結衣さんの心。
だけど──結衣さんのような知性ある女性すら狂わせてしまうほどの哀しみを前にしても、私にだって譲れない想いがあるのです。
「私は、アルベリックさんを譲ることはできません」
どう取り繕っても、それが本心です。
それを聞いた結衣さんがどう思おうとも。アルベリックさんの心がたとえ私になくなったとしても、きっと私の気持ちはそう簡単には変わらない。
私も、結衣さんと同じ。
たとえ世界が隔てられても、アルベリックさんの心が離れても、減りようがない気持ちが心に溢れてどうしようもないのです。
私たちはもう、出会ってしまったから。
「そう……分かったわ、私は私のために行動する。あなたに憎まれようともかまわない」
結衣さんがそう告げた時。
頭上の木々の間から、大勢の影が飛来しました。風を切る音とともに、何頭ものグリフォンが空を急降下していきます。騎乗者の格好から、警備隊などではありません。
それらに気をとられていると、結衣さんに再び腕を取られました。彼女になかば引きずられるようにして木々の間を抜ければ、そこは山頂に近い崖の上でした。
「あれは、きっと迎えね」
結衣さんが見下ろす先には、茂みの中に降りていくグリフォンたち。恐らく先ほど別れた山小屋がある位置です。私たちの立つ崖下、三十メートルほどでしょうか。まさかこんな短時間でこの距離を移動できるとは思ってもみませんでした。
少しだけ開けたそこからは、遠く東にセレスフィアの街が小さく見えます。家々の屋根の間に運河が数本、入り江に向かって弧を描くのが見える……それくらい遠く離れているのです。
「どこへ向かうつもりなんですか、結衣さん」
私をあちらの世界に帰す。そう告げた結衣さんが向かう先は、いったいどこ。
そもそも、私たちの加護が共鳴してはじめて、それが可能なのです。そして私の加護は絵を媒介する……今ここにその絵はありません。とすれば、どこへ向かうのでしょうか?
私の疑問に結衣さんは首を横に振りました。しかしその拍子に、結衣さんが足元をふらつかせました。
「結衣さん、大丈夫ですか?」
「平気……ちょっと頭がぼうっとしただけ」
目を擦る結衣さんの姿に、私はハッとします。
次々と起こる出来事に忘れていましたが、結衣さん、ずっと加護を使い続けていますよね。
「それって加護の反動です、休んだ方がいいです結衣さん」
「反動?」
ここ最近になって自覚したせいで、そのあたりの事情も知らなかったのですね。
ですが状況はそれどころではなくなりました。崖下へ降りたグリフォンの一団が再び姿を現したのです。様子をうかがっていた私たちに気づいたようで、数人がこちらを指さして何やら言葉を交わしています。
「こっちよ」
茂みに身を隠そうと思ったのでしょうか、結衣さんに引かれ崖から離れようとしたとき、もう一つのグリフォンの集団が空の向こうに見えたのです。
すると崖下が慌ただしくなります。どうやら、後から来るのはオーベールさんたちを追ってきた、セレスフィアの護衛たち。
目をこらすと、二十騎は下らない集団の中に、赤い制服が混在しているのが見てとれます。
それはオーベールさんたちにも確認できたのでしょう。数騎のグリフォンが、追手に向かって急上昇していきます。恐らく、数騎で追手を引き付け、その間にオーベールさんたちは逃げ切るつもりなのです。
私たちが立つ山頂近くで、ついにオーベールさんの護衛と追手がぶつかりました。
追手の隊列に飛び込むグリフォンを、迎え撃ったのはカロンさんの警備隊兵たちのようでした。彼らを取り囲み数で封じると、残りのカロンさんの護衛たちが、逃げるオーベールさんたちを追っていきます。
突然始まった戦闘に、足をすくませ見守るしかない私と結衣さん。
ですが私はすぐに気づいたのです、その集団の中に彼がいたことに。
今度は私が引っ張ります。そして目立つように崖の上から手を振ってみせました。赤い制服の集団の中の、ひときわ大きなグリフォンに向かって。
「アルベリックさん!」
とにかくこれでひとまずは安全なところへ戻れる。
そうしたらもう一度、じっくり結衣さんと話そう。
時間をかけてお互いの気持ちが落ち着くところを、探せばいい。時間はあるのですから……そうほっとしたのです。
ですが私たちに気づいたのでしょう、アルベリックさんたちの注意がこちらに向いたとき。取り囲まれていたグリフォンが、ハデュロイに向かって突進したのです。
空中でもみあうようになり、バランスを崩すアルベリックさん。巻き込まれるようにして、他の数騎もぐらりと傾き、隊列が乱れます。墜落しそうになりながらも、何とかハデュロイが姿勢をただすのを認め、ほっとしたのもつかの間。
結衣さんの悲鳴に振り向けば、翼をばたつかせながら一頭のグリフォンが落下してくるところだったのです。
「ユイ、カズハ、伏せろ!」
「うひゃあああ!」
私たちを襲ったのは、羽が擦れる音と、風、それから舞い上がる砂ぼこりだけ。
間一髪、私たちと落ちてくるグリフォンとの間に、壁になってぶつかるのを防いでくれたのは、なんとソランさんが操るグリフォン。
警備隊と一緒に、彼も追ってきてくれたのです。
「ソランさん、大丈夫ですか?」
「まだ近づくな、危ない」
そう叫び剣を抜いたソランさんは、落下した兵士を拘束しに向かいます。呻き声をあげる兵士は怪我をしているようでしたが、そこは容赦せず後ろ手に縛り上げるソランさん。
それから落下して興奮しているグリフォンをなだめ、落ち着かせました。
「怪我はなかったか二人とも?」
「私は大丈夫です、結衣さんも……あれ?」
振り返るそこに結衣さんがいません。
焦って見回すのですが、いるのは横たわった兵士とグリフォン、それから空に入り乱れて舞うたくさんのグリフォンだけ。
どこ?
そのとき、一度は静まったグリフォンが、嘶いたのです。
「ユイ?!」
私よりも早く駆け寄るソランさん。
馬なんかよりも高い位置の鞍によじ登る結衣さん。必死にしがみつく手が、鞍ではなく羽を掴んでしまったのか、グリフォンが暴れ出します。
揺らされ落ちそうになる結衣さんを受け止めようと、私も駆け寄ります。
「降りてください、危ないです結衣さん!」
両手を広げてみせても、彼女は無視してそのまま鞍にまたがります。
反対側からはソランさんが翼に足をかけて結衣さんを下ろそうと手を伸ばすのが見えました。だけど、結衣さんがその手を払い除け、私を見下ろしました。
「来て、和葉さん!」
「……え、ええ?」
「いいから、来るのよ!」
思ってもみない力で引き上げうられ、気づけば私も彼女とともに鞍に跨がっていました。
次の瞬間、激しい羽ばたきと浮遊感に襲われて……
「まて!」
私と結衣さんを乗せ、断崖に向かって走り出すグリフォン。
結衣さんが掴む手綱を奪おうと私は手を伸ばすのですが、走り出したグリフォンの勢いでそれもままなりません。あともう少し……
もみあう私たちの前に迫る断崖。
このままでは飛び立ってしまう。
追ってくるソランさんのグリフォンとは距離がつきすぎています。万事休す、そんなときでした。
目の前の空しか見えない断崖に、突如大きなグリフォンが上昇して姿を現し、翼を広げ行く手を塞ぎます。
「アルベリックさん!」
しかし既に飛び立てるほどに充分加速していて、止まることなど不可能。私たちを乗せたグリフォンは、ハデュロイをかわし、空へ飛び立っていました。
「や、ネズミと同居はかんべんです」
「なら早く。ユイ、あなたは先に」
いつもの口調を崩すことはないけれど、どこか焦りの色が見えるオーベールさん。
足腰の弱った伯爵様の肩を支え、湿って滑る地下道をずっと歩いてきたのです。
オーベールさんと伯爵様、それから以前ソランさんを馬車の前で倒した護衛、彼がカンテラで道を照らして先導していました。そこに私と結衣さんが加わったのです。
私たちのいる場所は、まるで坑道のような暗くて湿った土と岩がむき出しの道。詳しくは説明してもらえませんでしたが、古くに作られた城からの抜け道のひとつなのだそうです。
ただこの道、足場の悪さだけが問題ではありません。ゆるやかではありますが、登り坂になっているようです。老人にはかなり負担ではないのでしょうか。
「この道を抜けたところで味方が待っている予定です、急ぎますよ」
結衣さんは特に文句を言うわけでもなく、掴んでいた私の手を離し、先へ進みます。
「ここに残りたくなければ、私についてきて」
「結衣さん、まってください」
慌てて彼女の後に続きます。
私は何度も足元をさらわれそうになりながらも、彼女の隣に追い付きます。けっこう必死に歩いているのですが、結衣さんはとても軽やかに、まるで舗装された道を歩いているかのよう。
これはもしかして、加護が働いているのでしょうか。
「結衣さん……あの」
「迷いたくなければ話しかけないで」
色々と聞きたいと思って声をかけたのですが、結衣さんはまっすぐ前を向いたまま、私の言葉を遮りました。すると目の前に分岐が現れました。同じくらいのトンネルが二つ。
だけど結衣さんは躊躇することなく、左を選びます。私たちは黙ってその選択に従うのみ。
それからどれくらい歩いたでしょうか……ゆるやかとはいえ上り坂。みんな疲れたはずだと思うのですが、なんとなく歩き続けていられたのは加護の効果のひとつかもしれません。
いったいどこまで続いているのかと心配した地下道は、案外それほどでもなく。一時間もしないうちに、出口にたどり着きました。
ずっと暗闇の中を歩いてきたせいか、強い光りにかすむ景色に、自分の目を疑います。
だってそこには、たった一時間でたどり着けるはずはない景色が広がっていたのですから。
……大きな街を一望することができる、高い山の上。とても一時間で歩ききれる距離ではありません。
「これほどとは……やはり加護は恐ろしい」
オーベールさんも驚きを隠せない様子でした。
ですが周囲を警戒するように見回し、木々が途切れて山肌が露になっているその場所からすぐに離れることにしたようです。というのも、オーベールさんがあらかじめ手配していたはずの迎えが遅れているからだそう。
私と結衣さんも、洞窟から続く山道へ身を隠します。そしてオーベールさんは苦々しい顔で私を振り返りました。
「レヴィナス隊長のおかげで予定が狂いました、本当にあなたは面倒なお方だ」
「……どういうことですか?」
「どこで嗅ぎ付けたのか、今回の謀反をカロン様にお教えしたのは彼のようです。あなた方を迎えにくるついでに、エーデなどに立ち寄ったのもそのせいでしょう。おかげで予定を早めることになった……」
「アルベリックさんが? だから南回りを?」
「それもまた宰相の差し金かもしれませんが、彼の実行力をあなどると痛い目にあいそうです。だが、こちらも相当な準備をしてきています、こんなところで捕まるものですか」
木立を剣で薙ぎ払い、道を確保する護衛の後に続く私たち。オーベールさんに背負われた伯爵は、意識はしっかりしているものの、ずっとオーベールさんを頼りきりです。ときおりオーベールさんたちに「アインはまだ現れないのか」などと不平は言っていましたが、私たちは不遜に見下ろされるだけ。彼にとって私たちなど、声をかけてあげるほどの存在ではないようです。
それでも落ち人であることは理解しているようで。「加護は我らの役に立てばよい」そう呟くのも、湿った暗闇の中で聞こえていました。
森の中を少し進んだところで、蔦に覆われた小さな小屋まで到着しました。
「さあ、ここまで来れば追手もやすやすと見つけられないでしょう、父上、一旦お休みください」
「おお、ようやくか。それでアインの奴はどうした、さっさと奴の首をはねたのか?」
「大丈夫です、必ずやあの無能の首は切り落とします。それにもうすぐ父上を迎えにグリフォン隊が到着いたしますので、どうかご安心を」
護衛の彼が今度は伯爵様を抱え、小屋の中へ入っていきました。オーベールさんが私たちを振り返り、そこで別れを告げられました。
「カズハ様、ユイとは利害が一致したのでここまで互いに協力しあいましたが、それもここまで。あなたたちはここから先へ進むといい」
「え、あの、オーベールさんはいったいどこへ? どうしてこんな事を」
あんなに尊敬していたカロンさんへの忠誠は、まやかしだったのでしょうか。
「どうして? 私にもカロン様と同じだけの権利がある、それだけのことです」
「異母兄弟だからですか? でも、なら、協力しあった方が……そう思って支えてたんですよね? クラリスさんがそう言ってました」
オーベールさんは立ち去ろうとした足を止めます。
「今のカロン様は、セレスフィアを治めるにふさわしくありません。以前の……先代を廃した冷徹さを失ったカロン様には」
「……冷徹さ?」
「この南のセレスフィア、グレアデス、エーデ……それだけではない、この周辺の地域は強い力で治めなければならない土地なのです。隙を見せれば、寝首をかかれる。今回のように」
「そんな……でも、セレスフィアの街の人たちは幸せそうじゃないですか、式典だってあんなにみんな喜んでて」
「ノエリアなどとは訳が違うのです。あなたには分からないでしょうが」
どのような事情があるのかは、分かりません。だけど、カロンさんはオーベールさんを側に置いていたのです。それなのに裏切られて……兄弟なのに。
私のそんな動揺を、甘いと嘲笑うオーベールさん。
「あなたに言われる筋合いはない。あなたは同郷というだけで、ユイの信頼を勝ち得たのですか?」
「……それは」
オーベールさんへはっきりそんなことはないと答えることができず、苦し紛れに結衣さんを振り返ります。
そこには厳しい表情で私たちを見つめる結衣さん。
「人は間単に裏切るものです。愚かにも信頼などするから失望する。それは人の上に立つ者ならなおさら。あなたの大事なレヴィナス隊長とて、そのあたり弁えているではありませんか」
「アルベリックさんは、あなたとは違う」
「いいえ違いません。なぜなら、あなたを迎えに来る名目で、私たちの反乱を防ぐ手だてを講じた。それはつまり、宰相ウィリアム・レヴィナスの思惑を優先させたということではないのですか? たかだか女のために職務を放棄したのではない……アルベリック・レヴィナスは今でも宰相と国王陛下の鎖から放たれていないということ。ですが、カロン様には失望いたしました。役立たずのクローデを放置し、アインのような小物を重用するなど!」
アインという名は、確かカロンさんの奥方様のご実家の名前です。もしかして、そういった理由で勢力図が書き変わった? それが反乱の原因なのでしょうか。
港が襲撃にあったとき、とっさに妻子を背にかばったカロンさんの後ろ姿を思い出しました。
「さあ、もう無駄な話をしている時間はありません、あなた方とはこれまでです」
私と結衣さんを突き放すようにそう言うオーベールさん。
港での様子を見ていたかぎりでは、彼らに勝ち目があるとは思えません。警備隊が動いたということは、今回のことは事前に発覚し、既に公になったということ。
「まって下さい、まだ何かするんですか、これ以上は……」
「止めて、カズハさん」
オーベールさんをなんとか投降するよう引き留めようとした私を、結衣さんが止めます。
どうして?
「彼には覚悟があるのよ、私には分かる」
「……え、どういう」
「あなたは私と一緒に来るのよ」
私の腕を掴む結衣さん。するとまたしても勝手に足が動いて抵抗できなくなります。
まだ加護が? いったいどれほどの作用が続くものなのでしょうか。とにかく私は彼女につれられて、山の奥の小屋を遠ざかってしまいます。
小さくなる小屋の扉、オーベールさんが、私たちを見送るように立っています。その顔は、どこか切なそうで……覚悟という言葉に、私の胸が重く締め付けられます。
「まって結衣さん、だめです放ってはいけません」
「どうしてあなたが気にしなくちゃいけないの? 関係ないでしょう?」
「関係なくないです、だって長いこと一緒にいたじゃないですか、それは結衣さんも同じですよね、心配するのは当然です」
「そうね」
「だったら!」
もしかしたら、オーベールさんは……
渾身の力をこめて結衣さんの手を振りほどきます。
すると結衣さんが、恐ろしいことを口にしました。淡々と、諭すかのように。
「いいえ関係ないわ。だってあなた、帰るんですもの」
「……え?」
「帰るの。今なら和葉さんを向こうへ帰せるわ。大切な家族があなたを心配して泣いている。だからあなたは無理をしてここに居る必要なんてないでしょう? あなたがここに残りたい理由は彼? でも彼は……レヴィナス隊長はあなたの境遇に同情しただけよ。落ち人という境遇に……それなら私もあなたと同じ立場。私がもらってもいいでしょう?」
「ゆ、結衣さん、でも私はアルベリックさんの……」
「形だけじゃない、譲って。あなたには他にも必要とされる人がいるでしょう、なんでそんなに欲張りなのよ! 私には他にいない、それは彼も同じ。あなたでなくたっていいはずよ!」
辛い、痛い。そんな感情のままに激昂する結衣さんの言葉が、私を突き刺していました。
彼女はまるで、突然この世界に落とされたことを知った、あの日の私そのもの。
たった一人。それがどんなに寂しくて心細いか、そんな状態のまま過ごしている結衣さん。きっと彼女の心を理解できるのは、皮肉にも彼女が責める私だけ。
「でも、結衣さんにだって心を砕いてくれた人がいたはずです、思い出してください。行き違いはあったけれど、最初に助けてくれたおかみさんは? 厳しいことを言うけれど、ずっと結衣さんの行方を気にしていたソランさんもです」
「そんなの関係ない! 私の罪に許しを与えられるのは、他の誰にも代わりなんてできない」
「……結衣さん!」
「簡単に忘れられるはずがないわ……だから辛いの、それは私たちが二人、ここにいる限り終わらない。それならあなたがいなくなればいい」
ショーンさんの死から一歩も進めないでいる結衣さんにとって、唯一の救いをアルベリックさんに見い出しているというのですか……?
私はおろか、ソランさんの心すらも届かない。まるで暗い洞穴のようにぽっかりと空いてしまった結衣さんの心。
だけど──結衣さんのような知性ある女性すら狂わせてしまうほどの哀しみを前にしても、私にだって譲れない想いがあるのです。
「私は、アルベリックさんを譲ることはできません」
どう取り繕っても、それが本心です。
それを聞いた結衣さんがどう思おうとも。アルベリックさんの心がたとえ私になくなったとしても、きっと私の気持ちはそう簡単には変わらない。
私も、結衣さんと同じ。
たとえ世界が隔てられても、アルベリックさんの心が離れても、減りようがない気持ちが心に溢れてどうしようもないのです。
私たちはもう、出会ってしまったから。
「そう……分かったわ、私は私のために行動する。あなたに憎まれようともかまわない」
結衣さんがそう告げた時。
頭上の木々の間から、大勢の影が飛来しました。風を切る音とともに、何頭ものグリフォンが空を急降下していきます。騎乗者の格好から、警備隊などではありません。
それらに気をとられていると、結衣さんに再び腕を取られました。彼女になかば引きずられるようにして木々の間を抜ければ、そこは山頂に近い崖の上でした。
「あれは、きっと迎えね」
結衣さんが見下ろす先には、茂みの中に降りていくグリフォンたち。恐らく先ほど別れた山小屋がある位置です。私たちの立つ崖下、三十メートルほどでしょうか。まさかこんな短時間でこの距離を移動できるとは思ってもみませんでした。
少しだけ開けたそこからは、遠く東にセレスフィアの街が小さく見えます。家々の屋根の間に運河が数本、入り江に向かって弧を描くのが見える……それくらい遠く離れているのです。
「どこへ向かうつもりなんですか、結衣さん」
私をあちらの世界に帰す。そう告げた結衣さんが向かう先は、いったいどこ。
そもそも、私たちの加護が共鳴してはじめて、それが可能なのです。そして私の加護は絵を媒介する……今ここにその絵はありません。とすれば、どこへ向かうのでしょうか?
私の疑問に結衣さんは首を横に振りました。しかしその拍子に、結衣さんが足元をふらつかせました。
「結衣さん、大丈夫ですか?」
「平気……ちょっと頭がぼうっとしただけ」
目を擦る結衣さんの姿に、私はハッとします。
次々と起こる出来事に忘れていましたが、結衣さん、ずっと加護を使い続けていますよね。
「それって加護の反動です、休んだ方がいいです結衣さん」
「反動?」
ここ最近になって自覚したせいで、そのあたりの事情も知らなかったのですね。
ですが状況はそれどころではなくなりました。崖下へ降りたグリフォンの一団が再び姿を現したのです。様子をうかがっていた私たちに気づいたようで、数人がこちらを指さして何やら言葉を交わしています。
「こっちよ」
茂みに身を隠そうと思ったのでしょうか、結衣さんに引かれ崖から離れようとしたとき、もう一つのグリフォンの集団が空の向こうに見えたのです。
すると崖下が慌ただしくなります。どうやら、後から来るのはオーベールさんたちを追ってきた、セレスフィアの護衛たち。
目をこらすと、二十騎は下らない集団の中に、赤い制服が混在しているのが見てとれます。
それはオーベールさんたちにも確認できたのでしょう。数騎のグリフォンが、追手に向かって急上昇していきます。恐らく、数騎で追手を引き付け、その間にオーベールさんたちは逃げ切るつもりなのです。
私たちが立つ山頂近くで、ついにオーベールさんの護衛と追手がぶつかりました。
追手の隊列に飛び込むグリフォンを、迎え撃ったのはカロンさんの警備隊兵たちのようでした。彼らを取り囲み数で封じると、残りのカロンさんの護衛たちが、逃げるオーベールさんたちを追っていきます。
突然始まった戦闘に、足をすくませ見守るしかない私と結衣さん。
ですが私はすぐに気づいたのです、その集団の中に彼がいたことに。
今度は私が引っ張ります。そして目立つように崖の上から手を振ってみせました。赤い制服の集団の中の、ひときわ大きなグリフォンに向かって。
「アルベリックさん!」
とにかくこれでひとまずは安全なところへ戻れる。
そうしたらもう一度、じっくり結衣さんと話そう。
時間をかけてお互いの気持ちが落ち着くところを、探せばいい。時間はあるのですから……そうほっとしたのです。
ですが私たちに気づいたのでしょう、アルベリックさんたちの注意がこちらに向いたとき。取り囲まれていたグリフォンが、ハデュロイに向かって突進したのです。
空中でもみあうようになり、バランスを崩すアルベリックさん。巻き込まれるようにして、他の数騎もぐらりと傾き、隊列が乱れます。墜落しそうになりながらも、何とかハデュロイが姿勢をただすのを認め、ほっとしたのもつかの間。
結衣さんの悲鳴に振り向けば、翼をばたつかせながら一頭のグリフォンが落下してくるところだったのです。
「ユイ、カズハ、伏せろ!」
「うひゃあああ!」
私たちを襲ったのは、羽が擦れる音と、風、それから舞い上がる砂ぼこりだけ。
間一髪、私たちと落ちてくるグリフォンとの間に、壁になってぶつかるのを防いでくれたのは、なんとソランさんが操るグリフォン。
警備隊と一緒に、彼も追ってきてくれたのです。
「ソランさん、大丈夫ですか?」
「まだ近づくな、危ない」
そう叫び剣を抜いたソランさんは、落下した兵士を拘束しに向かいます。呻き声をあげる兵士は怪我をしているようでしたが、そこは容赦せず後ろ手に縛り上げるソランさん。
それから落下して興奮しているグリフォンをなだめ、落ち着かせました。
「怪我はなかったか二人とも?」
「私は大丈夫です、結衣さんも……あれ?」
振り返るそこに結衣さんがいません。
焦って見回すのですが、いるのは横たわった兵士とグリフォン、それから空に入り乱れて舞うたくさんのグリフォンだけ。
どこ?
そのとき、一度は静まったグリフォンが、嘶いたのです。
「ユイ?!」
私よりも早く駆け寄るソランさん。
馬なんかよりも高い位置の鞍によじ登る結衣さん。必死にしがみつく手が、鞍ではなく羽を掴んでしまったのか、グリフォンが暴れ出します。
揺らされ落ちそうになる結衣さんを受け止めようと、私も駆け寄ります。
「降りてください、危ないです結衣さん!」
両手を広げてみせても、彼女は無視してそのまま鞍にまたがります。
反対側からはソランさんが翼に足をかけて結衣さんを下ろそうと手を伸ばすのが見えました。だけど、結衣さんがその手を払い除け、私を見下ろしました。
「来て、和葉さん!」
「……え、ええ?」
「いいから、来るのよ!」
思ってもみない力で引き上げうられ、気づけば私も彼女とともに鞍に跨がっていました。
次の瞬間、激しい羽ばたきと浮遊感に襲われて……
「まて!」
私と結衣さんを乗せ、断崖に向かって走り出すグリフォン。
結衣さんが掴む手綱を奪おうと私は手を伸ばすのですが、走り出したグリフォンの勢いでそれもままなりません。あともう少し……
もみあう私たちの前に迫る断崖。
このままでは飛び立ってしまう。
追ってくるソランさんのグリフォンとは距離がつきすぎています。万事休す、そんなときでした。
目の前の空しか見えない断崖に、突如大きなグリフォンが上昇して姿を現し、翼を広げ行く手を塞ぎます。
「アルベリックさん!」
しかし既に飛び立てるほどに充分加速していて、止まることなど不可能。私たちを乗せたグリフォンは、ハデュロイをかわし、空へ飛び立っていました。
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