鬼が啼く刻

白鷺雨月

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第五話 麗しのマダム

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 まだもう少し情報収集が必要だという渡辺学の言葉に従い、私たちは夜汽車という名前のバーを訪れた。
 時刻はもう夕刻となろうとしていた。
 店には客は一人もいない。
 つい先月までこの国は贅沢は敵だと言っていた。バーが存続できていたのが奇跡的だ。

 そのバーに一人の女性がカウンターを掃除していた。
 黒いドレスを着た、ほっそりとしたスタイルの女性だった。

「マダム…… 恥ずかしながら戻ってまいりました」
 学はその女性にそう声をかけた。
 黒いドレスの女性は拭き掃除の手をとめ、こちらを見た。

 私はその黒いドレスの女性の顔を見て、おもわずハッと息を飲んでしまった。
 それはその女性が息をするのをわすれるほど美しかったからだ。
 髪にはかなり白いものが混じり、目尻にはシワが刻まれている。それすらも含めて、この女性は美しい。品格とか気高さといったものがその細い体から溢れ出していた。ヨーロッパで出会ったどんな貴族よりもずっと貴族的であった。
 私が彼女に勝っていると思われるのは若さと豊満な体くらいか。 いや、こんな発想をしてしまうのは私が心の奥底で女としてこの人に負けていると思ってしまっているからだ。
 マダムと呼ばれたその女性が持つ気品のようなものにはどう逆立ちしても勝てないと思った。
 その麗しのマダムが学の顔を見るとその大きなアーモンド型の瞳に涙を浮かべ、両手を広げて学の体を抱きしめた。

「ああっ…… 学、本当に学ぶなのね……」
 涙ながらにマダムは言った。

「ええっええっ、渡辺学です。マダム、僕は帰ってきました」
 学も両手を広げ、マダムの細い体をぎゅっと抱きしめた。
 おそらく二人には私のしらない絆があるのだろう。
 私はこの光景を見て、言いようのない疎外感を感じた。
 学をあの暗くてじめじめした不潔な部屋から出したのは私だというのに……。

 ひとしきり再会を祝した学はカウンターの席に腰をかけた。
 私は学の隣に座る。
 マダムは私たちのためにコーヒーをいれてくれた。
 そのコーヒーは良い香りで、かなり美味しかった。
 ものがない状況でこれだけのものを用意できたのには正直に驚いた。
 おそらくだが、これは学のためにマダムが隠していたものだろう。
 学はそのコーヒーにたっぷりと砂糖をいれ、一口のんだ。
「やはりマダムのコーヒーは世界一だな」
 うれしそうに学はマダムに言った。
 たしかにこのコーヒーは美味しい。パリでもこれほどのものはなかなか飲めないだろう。
 しかし、学そんなに砂糖をいれてコーヒーの味などわかるのだろうか。

「それで私のところにきたということは、何か知りたいことがあるといいうことでしょう」
 マダムは言った。

「ええ、僕はこの赤毛のアンと共にある事件を請け負っているのです。それは三名のアメリカ陸軍将校の不審死について調査しているのです。マダム、彼らについて何かご存知ですか?」
 学はそう訊いた。
 私は簡単なその三名の略歴を説明した。
 その三名の名を聞き、マダムは形の良い眉をよせた。そおの顔には明らかに怒りの色があった。

「ええっその方々なら知っていますわ。私の小鳥たちに口では言えないこひどいことをしたのよ。白州様を通じて連合国司令部に抗議もうしあげたのですがね。それでも夜の仕事をするものたちなら、まだなんとか我慢してくれました。小鳥たちはお国のために身をささげる覚悟ができていましたからね。でもあの男たちは普通の女の子たちにも手をだしたのです。その女の子はみずから命を絶ちました……」
 美しいマダムの頬に涙がすっと流れる。
 戦争に勝ったとはいえ、その国の人間を好きにしていいわけではない。
 非戦闘員に乱暴を働いていいわけはない。
 私はその三名がおこなった行為を同じ連合国側の人間として大いに恥じた。

「その自殺した女の子にはきれいな姉がいたわね。必ず復讐してやるって言っていたわ。私は女の身ではなにもできないから、別の方法を探しましょうっていったのですがね」
 マダムはそういった。

「その女性はどこにいるのですか?」
 学は甘いコーヒーをすすり、マダムに尋ねた。

「その小鳥なら私が天王寺に用意したアパートメントにいるわ。どうやらひどい病気を患っているようなのよね。浅沼先生に見てもらっているのですがね」
 そう言い、マダムは簡単な地図を手帳に書き、それをやぶっって学に手渡した。
 渡すとき、その白い手を学の手の甲に重ねる。
「学、必ず戻ってきてくださいね」
 マダムはじっと学の紫色の瞳をみつめた。
「ええ必ず」
 学はそのマダムの手を握り返した。


 私たちはその病にふせっているという娘に会いにいくことにした。
 彼女はかならずこの事件になんらかの形でかかわっているとおもわれる。
 それにしても学はあんな大人の女の人が好みなのだろうか。
 私がむすっとしていると学が声をかけてきた。
「どうした赤毛のアン。君がそんな顔をするのは珍しいな」
「いえ、なんでもないわ」
「もしかしてマダムのことか?」
 それは図星だった。
「なら心配することはない。マダムはとても美人だが、男性だ」
 渡辺学は東洋の神秘を語った。
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