新月の夜を仰ぐ

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 目を覚ました時、俺は店長の腕の中にいた。
 向かい合わせに横になって、彼の両腕の中に抱き込まれる形だった。俺の事を抱き枕か何かと勘違いしてるんじゃないかというくらいしっかりと抱え込んでいて、抜け出すのに苦労する。
 眠る店長の頭上のヘッドボードに眼鏡が置かれているのを見て、そういえば眼鏡外してるの顔を見るのは初めてだとまじまじと見てしまった。
 根本が少しだけ黒い金髪から、細い眉毛が見える。
 短めの睫毛は量もまばらで、笑うといつも目が線のようになってしまうのはこのせいもあるんだろうなと気が付いた。
 特別白くも黒くもない肌は、しかし昨日触れた時はしっとりと滑らかだった。
 薄く見える唇も、実は見た目より厚いのをもう知ってしまっている。
 触れたくなって、でもさすがに寝ている時に襲うような真似は自重した。
 薄い掛け布団を店長に掛け直し、そっとベッドから降りる。
 外はもう明るいみたいだが、エアコンが付けっぱなしだったおかげで暑くはない。ここ最近、自分の家では暑くて寝苦しくて起きる事が多かったから、久しぶりに熟睡してしまったようだ。
 ショルダーバッグを持って階下に降りてトイレを借り、洗濯機を覗き込むと、ちゃんと乾燥まで終わっているようだった。中から出して着替えようとしてから、自分の胸から腹に掛けてべたついているのに気が付いて、昨夜を思い出して頬が熱くなる。
 そういえば、約束通りちゃんと俺を抱き締めて寝てくれたんだな。
 最後の首絞めの後から記憶が無く、誉めてもらうのは叶わなかったけれど、その分もっとすごい事をしてもらえた。
 思い出すだけで身体がゾクゾクする。
 キスも首絞めも、もう俺にとってご褒美だ。
 そっと首に触れて、苦しさ混じりの快楽を反芻して喉元を掻いた。
 バッグの中からスマホを出して時間を確認すると、もう出勤まで一時間無かった。今から帰宅してシャワーを浴びている時間は無い。
 今日は店長は休みだった筈だ。わざわざ彼を起こすのも悪いかと、勝手にシャワーを借りてさっと体だけ洗い、着替えていた時だった。
 トントントン、と階段を降りてくる足音がして、そのまま洗面室の方へ向かってきた。

「あ、店長。すいません、シャワー借りまし……」
「何勝手に帰ろうとしてんだ」

 開けっ放しだった洗面室のドアから、まだ眠そうな表情の店長が入ってくる。
 勝手にシャワーを借りた事を詫びようとした首を掴まれて、そのまま片手で軽々と持ち上げられた。反射的に店長の腕を掴んだけれど、爪先が浮いてから、これ昨日よりヤバいやつ、と悟って諦めて体の力を抜く。
 持ち上げられている分、昨日のより痛い。
 俺の全体重が首に掛かって、吊られているみたいだと思う。ミシミシと顎の骨が軋む音がした。喉笛の骨が折られそうで、苦しさより痛みが強くて情けなく呻いてしまう。

「……っ、げほ、ぐ、ふ」

 意識を飛ばしかける寸前、足の裏が床に着いた。
 酸素を求めて咳き込む俺の喉から手が離れて、その場にへたり込む。腹を軽く蹴られ、くっ、と鳩尾がひっくり返りそうな感覚がきて口を抑えた。

「な、ん、で、か、って、に」
「て、店長は休みだからっ、起こしたら悪いかと思って」

 咳き込んで返事が遅れたら、蹴りつけられながら質問を繰り返されて慌てて答える。

「あ? お前今日仕事か」
「じゅ、十一時入りです」

 ドモってんじゃねぇ、と最後にもう一発蹴られて、ちょうど一番キツい所に入って腹を抱えて頭を垂れた。
 内臓にズンと響く、重い痛み。奥歯を噛んで耐え、滲んできた涙に目を瞑った。
 前髪を掴んで上を向かされても抵抗はしない。ただじっと耐える。昨夜が優し過ぎたのだ。あんなに俺を気持ち良くするばかりで店長が帰してくれる訳が無かった。

「……悪ぃ、加減間違ったわ」

 追撃を覚悟していた腹を、しゃがんだ店長に撫でられて目を剥いた。
 さすさすと腹を守るように抱える俺の腕を優しく撫でられ、「へ?」と間抜けな声が出る。

「目ぇ覚めて居ねーから腹立って……仕事じゃしょうがねぇよな」

 まだ眼鏡を掛けていない店長の目元が少し寂しそうに見えて、俺の幻覚だと分かっているのに触れたい衝動に駆られて彼の手を掴んだ。

「ん?」
「あ、あの、約束、守ってくれて、ありがとうございました」

 キスしたいキスしたいキスしたい。
 脳内が叫ぶのを抑え込んで、礼を言った。
 俺が気絶した後でも約束を守ってくれたのに礼も言わず居なくなったのでは、そりゃ怒るだろうと思ったのだ。
 掴んだ店長の指を見下ろし、そこに無性に噛みつきたくなる。甘噛みして舐め回したい。

「……ま、影間」
「えっ」

 じっと掴んだ店長の指を見ているうちにボーッとしてしまっていたらしい。
 俺の名前を呼んだ店長に小突かれて、慌てて手を離す。
 昨日からだいぶおかしい。
 自分から店長に触れたいだなんて、しかも性的なものを含んだ接触を望んでいるだなんて。不味い。駄目だ、抑えないと。

「ご、ごめんなさ……、も、行きます」

 ショルダーバッグを肩に掛けて立ち上がる。
 にこ、と下手な愛想笑いをしてから急いで玄関へ向かおうとするのに、店長に「ん」と腕を広げられて、足が止まった。
 抱き着きたいのを堪えてぷるぷる震える俺を、面白そうに目を細めて店長は笑う。

「今更だろ、ほら来いよ」
「……っ」

 促されてぎゅうっと抱き着くと、寝起きの店長の体温はいつもより少し高かった。まだパンツ一丁の彼の胸に頰をくっつけたら、もう耐えられない。

「て、店長……」
「お前なんでドモってんだよ」
「キス、していいですか」
「……」

 彼が答える前に、両手で頰を包んでそこに唇を寄せていた。
 爪先立ちしてやっと届いた唇が俺を気遣って前屈みに降りてきてくれて、顔を斜めにして深く口付ける。
 舌を入れて、彼の中を舐め回す。とろとろで熱い腔内が美味しくて、もっとと強請ると舌先を甘噛みされた。

「ん……ん」

 舌から滲む唾液を吸われて背筋がぞくぞくと震える。
 力の抜けそうな腰に店長の腕が回ってきて、離れそうになった唇がまた重なった。
 唾液を飲んで飲まされて、もう全部どうでも良い。ずっとこれだけしていたい。
 馬鹿になった俺がいつまでもそうしてひっついているので、先に口を離したのは店長だった。

「……お前、遅刻するぞ」

 呆れたように言われてハッとしてスマホで時間を確認したら、店長の家から走ってギリギリくらいの時間になっていた。

「うわっ、す、すいませんっ」

 ジンジンする唇を手の甲で拭ったら、頭を撫でられた。

「頑張ってこい」
「は、はいっ」

 撫でられた上に励まされてしまって、俺のテンションはうなぎ上りだ。頰の緩んだ顔はさぞだらしない事だろう。
 運動不足の体には朝からの駆け足通勤はかなり負担になったけれど、その日は誰に何を言われても全く気にならなかった。









 平日の午後二時。まだ学生の来ないこの時間の市立図書館は静かで、自分の立てる少しの足音すら気になるほどだった。

「──あ、あの」
「っ……?」

 借りていた本をカウンターで返却に出したら、司書らしき人に話し掛けられて驚く。
 ビクついた俺の反応に話し掛けてきた司書の人まで驚いた様子で、二人して数秒そのまま止まってしまった。
 前髪の長い、同じくらいの年齢の男の人だ。ネームプレートには『[[rb:木原 > きばら]]』と書いてある。

「こ、これ、読んでみませんか」

 差し出された本を思わず受け取って、首を傾げる。図書館のオススメ本とかなのだろうか。
 タイトルは『アリア系銀河鉄道』。
 銀河鉄道の夜、って他の有名作家の作品があった気がするけれど、それのオマージュだろうか。
 なんで俺にこれを渡したのか、困る俺を見て木原さんも何か言おうとして口をもごもごさせていた。どうやら俺と同じくコミュ障らしい。
 カウンターには他に利用客は居ないようなので、少し待ってみることにした。

「えっと、きょ、去年の、……冬から、ですよね。図書館に来てるの。『あ』行の作家さんから、ずっと借りてて……あの、その、作者、『つ』なので、すごく遠くて」

 確かに、俺が図書館に通い始めたのはその頃からだ。
 何を読めばいいのか分からないから、日本人作家の名前順に並んだ棚の端から借り始めた。
 毎週のように借りて、夏の終わりの今やっと『赤川次郎』だ。一冊読んで合わないと思った作家の本は借りないようにしていたが、読書をしない俺でも名前を知っていたさすがの赤川次郎は面白くて、毎週三冊借りても四週目だ。まだまだある。
 手元の本の背表紙に書かれた作家名を見下ろして、確かに『柄刀』まで行くのは何年後になるか分からないと苦笑した。

「赤川次郎、好きなら、推理小説、好きかなって……。そ、その人の、僕の、お勧めで」

 図書館のオススメではなく、この司書さんの個人的なオススメだったらしい。

「……なんで、俺に」

 借り方まで覚えられていて、少し薄気味悪い、というのは飲み込んだ。
 そんな事を言えば、彼のコミュ障が悪化するのは明白だからだ。善意でやっているだけなら、彼の心を折りたくはない。

「本、好きになってくれる人、嬉しい、ので……。今まで、あんまり読まなかった感じ、ですよね?」
「……うん。参考書とか実用書ばっかりで、物語は、全然です」
「あ、やっぱり。二冊目読まなかった作家さん、言い回しが独特で、読みにくい人のが多かったから」

 予想が当たったのが嬉しかったのか、カウンターから身を乗り出してこられて、少し後退った。
 怯えた俺を見て、木原さんはハッとしてからシュンとして戻っていく。

「あ、す、すみません。俺……距離感、わかんなくて」
「あの、いえ……すいません」

 お互いに謝りだして、気不味くなってしまった。
 結局、押し付けられたその一冊だけを借りて足早に図書館を出る。
 一冊だけだと、たぶん三日くらいで読みきってしまうだろう。ラストまでの日は上がり時間には図書館が閉まっているから、出勤前に返却して新しいのを借りようか。
 図書館近くのコーヒー店でサンドイッチとアイスティーの昼食を摂りながら、スケジュール帳を出して確認した。スマホでやればいいのだけれど、どうにも紙がしっくりくるのだ。
 ミラノサンドに齧り付き、たまには濃い味も美味しいな、と咀嚼する。
 ローストビーフ単体は好きだけれど、揚げたのはあまり好きじゃない。ニンニクや焼き肉みたいなジャンクも好まない。
 昔から、味覚が老人みたいだと揶揄われてきた。一人で居れば、何を食べていても誰にも何も言われないのがとても楽だ。
 窓の外は平日でも人通りが多く、知らず眉間に皺が寄る。
 人が多いのは好きじゃない。誰も自分を見ていなくても、どんな拍子に自分が異質だと晒されるか不安になる。背は曲がっていないか、おかしな歩き方をしていないか、身嗜みは……、と不安は尽きず、出歩くだけで心が摩耗していくようだ。
 この店のこの時間の店員はやる気があまり無く、フロアに出てくる事がほとんど無いから居やすい。滅多に席が満杯になることもないからゆっくり食べられる。
 サンドイッチを食べ終え、アイスティーを飲みながらさっき借りてきた本を開こうとした所で、スマホが震えた。
 誰か当日欠勤でもして、補充が必要になったのだろうか。俺はフロアに出られないから補充として呼ばれる事はほとんど無いのだけれど。
 開いてみれば、店からではなく、店長からだった。
 
『十七時上がりだから家に来てろ』

 店長がラストまでじゃないのは珍しいし、何より彼が休みじゃない日に呼ばれるのが珍しい。
 スマホのカメラで撮ってあるシフト表を確認してみたら、店長は明日が休みだった。
 という事は、夜通し、だろうか。
 ぽ、と頰が熱くなる。
 明日は俺は十三時入りでラストまで。
 朝方まで遊ばれても、少しは帰宅して寝る時間がある。
 わくわくしてしまう鼓動を押さえてアイスティーを飲み、もう一度本を開こうとして、またスマホが震える。

『外行くからまともな服で来いよ』

 外? ……まともな服ってなんだ?
 自分を見下ろし、半袖Tシャツとジャージパンツに首を傾げる。
 通勤も店長の家に行くのも大体同じような格好なので、つまりはこれじゃ駄目なんだろう。
 というか、外出するだなんて。
 高揚した気分が急降下する。
 単に外で奉仕させたいだけなら、服装の指定はしてこない筈だ。まともな服、というからには、人目があるのだろう。
 ストローを噛んで考える。
 断ってしまいたいけれど、怒るだろうか。
 反抗したいわけじゃない。何か用があるとかで誤魔化し……、いや、最初の約束で、店長に呼ばれたら最優先、と条件付けされていたのを思い出す。
 返事を書くのが億劫で放置していたら、またスマホが震えた。
 なんだ今度は。髪切れとかじゃないだろうな。目にかかるので真ん中で分けてはいるが、前髪が長いには違いない。
 さっきの司書さんを思い出して、さすがにあれで客前には出られないだろうなと思う。うちの店なら『ユーレイ』と渾名されるのが分かり切っている。
 こわごわスマホを開くと、やはりまた店長からだ。

『返事』

 短い二文字に、苛立ちを察知して溜め息を吐く。

『分かりました。十七時少し前に着くように向かいます』

 返事を送ると、すぐに既読がついた。
 俺からの返事を待ってスマホを開いたまま事務所で頬杖をつく店長を想像して、少しだけ息が苦しくなる。
 店長のことを考えると、苦しくなる回数が増えた。あまりに苦しいことをされてばかりいるから、そっちに反射がついてしまったのだろうか。
 借りた本を読むのを諦めてショルダーバッグにしまい、アイスティーを飲み干した。
 大学に通っていた頃に浮かないよう買った服たちはもう捨ててしまっていたから、どこかで買わないといけない。
 コーヒー店を後にして、近くにあった量販店で白のTシャツと黒いスキニーパンツを買って、帰宅して一応風呂に入った。
 丁寧に髭を剃り直して、髪を整える。
 学生時代は周りから浮かないように毎日やっていた事だったが、卒業してからは久々だ。
 鏡を見ると、いつもよりは幾分マシになった気がした。
 目が死んでるのは相変わらずだが。
 服のタグを切ってサイズシールを剥がし、パンツのポケットに財布と家の鍵、スマホを入れれば準備完了。
 自分の家を出たのは十六時半過ぎだった。ゆっくり歩いても余裕で着くだろう。
 十七時上がりの店長が家に着くのはそれからもっと後だから、問題無い。
 まだ陽の高い道路を歩き、店長の家の前で待った。
 帽子被ってくるんだったな、と暑さで頭がぼんやりしてきた頃合いで、やっと遠くに店長を見つけた。俺に尻尾があったら、ブンブン振って風を起こしているに違いない。

「外で待ってたんですか?」

 訝しげな店長に言われて首を傾げる。借主不在の家に入れる訳が無い。

「鍵、あげたでしょう」
「は?」

 身に覚えのないことを言われて、誰と間違えてるんだと睨んでしまう。「貰ってないです」と低く言うと、店長が首を傾げた。

「家の鍵、出して」
「だから貰ってないです」
「貴方の家の鍵」

 訳も分からず、ポケットから出したそれを店長に渡す。
 俺にもくれるんだろうか。
 というか、誰だ。他の誰が店長の家に出入りしていて、鍵まで貰っているのか。
 腹の奥がぐるぐるして、胸がむかつく。
 そいつも店長に撫でられたり抱かれたりしてるのか。キスをしたり、もっと先の事も──。
 握った拳の爪が掌に刺さる。
 考えない方がいい。
 店長は俺の物じゃないし、俺は店長のただの玩具だ。
 睨む視線を店長から外した俺の前で、店長は薄ら笑いを浮かべながら俺の家の鍵を揺らす。

「ここにくっつけたの、忘れました?」
「……?」
「まあ、あげた時は貴方、意識があるか無いか微妙でしたしね。……まさか気付いてないと思いませんでしたが」

 鍵が一個から二個に増えてるのに気付かないなんて、と呆れられて、まじまじと見た。確かに、自宅アパートの鍵の他に、見覚えの無い形の鍵が付いていた。

「???」
「フクロウみたいになってますよ」

 意味の分からなさに九十度近く首を傾ける俺をくっくっと笑われて赤面する。

「あの……いつ、ですか」
「この前ですよ」

 店長はそれを使って家の鍵を開けて、そのまま俺に返してきた。
 手の上に乗った鍵を見つめて、感激だかなんだか分からない感情が膨れ上がって弾けそうになるのを鍵を握って抑え込む。
 俺が貰えてるんだから、他にも居るかもしれない。
 でも、今は考えたくない。

「俺も支度しますから、中に入りなさい」

 呼ばれて、玄関扉をくぐって家に入った。
 パタン、と静かに閉めたドアの前で、店長が寄ってきて軽く唇同士が触れた。

「あ……」
「これ以上はお預け」

 入れようとした舌を避けられて、店長は笑って離れていってしまう。
 寸止めされて辛くて唇を噛んで、上がり框に腰を下ろした。支度するって事は、する前にどこかに行くんだろう。してもらえるのは帰宅してからなんだろうか。
 少し待たされて、戻ってきた店長はいつもと違う眼鏡を掛けていた。
 細い銀縁から黒い太縁のセルフレームに変えただけで、いつものインテリな雰囲気からガラッと印象が変わって見える。つるの内側が濃い紫なのがチラついて、金髪にラフな服装も相まって、普段なら絶対に近寄らないタイプだ。

「……なんだ」
「いや、店長もやっぱあの店の店員なんだなって」

 ガラが悪い、というのを歪曲して伝えるが、どうやら正確に俺の言いたい事を読み取ってしまった店長に座った背中を蹴り付けられた。

「テメエが浮いてるだけだ」

 行くぞ、と玄関から出て行く店長を追って外へ出る。
 電車で五駅ほど乗り継ぎ、降りた駅から少し歩いた。
 あまり住んでいる場所から移動しないので、匂いの違う街並みは少し興味を惹かれた。
 特に何か話す訳でもなく店長は俺の先を歩いて行ってしまうので、辺りを見回しながらも彼を見失わないようにだけ気を付けた。
 一階に美容室のあるビルに入って行く店長を追って階段を上ると、重そうな扉には『SMbar 錘』と書かれたプレートが掛かっていた。

「え……」

 勝手知ったる様で扉を開けて入っていく店長に、俺は立ち止まってしまう。
 え、いや、何。なにここ。俺も入るの?
 開いた扉が閉まる寸前で止まって、また中から開かれる。

「どうしました?」

 心配そうな外面を浮かべているけれど、店長の額に青筋が浮いている。

「あ、の、俺」
「大丈夫ですから。……おいで」

 ふるふると首を横に振って後退ったのに、握れと言わんばかりに手を出されて唇を噛んだ。
 怖い。どんな店なのか分からないのも怖いし、何をされるかも分からない。SMバーってなんだ。店長みたいなのがいっぱい居たらどうしよう。ボコボコに殴られたりしたらどうしよう。
 不安は尽きないのに、差し出された店長の手を見てしまうと、抗えない気がしてくる。
 何が待っているかより、ただ彼に触れたい。
 悩んだ挙句結局彼の手を取ってしまって、俺はそのまま店の敷居を跨いだ。

「あれ……普通」

 店内は少し薄暗いけれど特に恐ろしいものは無く、変わった配置のボックス席とボンテージ姿の店員の格好を除けば普通のバーのようだった。
 とはいっても、俺はその普通のバー自体にも行った事が無いのだけれど。テレビとかに出てくるイメージそのまま、というか。
 壁の時計は十八時半を指しており、まだ開店から間もない時間だろうに席は半分ほど埋まっているようだった。
 店長に引っ張られてカウンター席に座り、きょろきょろ見回している俺の前に、胸のふくよかな店員さんがやってくる。抑圧するような生地に負けず豊満さをアピールしてくるので、目のやり場に困って俯いた。

「クラさん、久しぶりですねぇ~。しかも今日はお連れの方がいるなんて」

 お酒何にしますか、と聞かれ、店長を仰ぐ。
 酒は好きではないのだけれど、こういう店でノンアルコールを頼んだりしたら笑われてしまうだろうか。

「とりあえず二人とも水割り薄めで。……今日、[[rb:紫 > ゆかり]]さんいるんでしょう?」
「はい、出勤してますよ~。紫さ~ん、こっち来れますかぁ」
「はいはーい、ちょっと待ってねーっ」

 高くて可愛らしい返事と共に他の席から戻ってきた紫と呼ばれた店員は、しかし店長を見て露骨に顔を顰めた。

「うわ、クラじゃん」
「うわ、は無いでしょう?」

 胸の大きな店員さんと交代で俺たちの前のカウンターに立った紫さんは、濃い紫色の露出のほとんど無いボンテージ姿でお酒を作り始める。
 銀髪みたいな薄い色のボブヘアに、ピンク色の唇。
 すごい美少女だけれど、胸が平らだ。
 そして多分、俺より身長がある。

「だって僕、クラの縄キライだもん」
「酷いなぁ」
「クラの縄には愛が無いから。自分が縛りたいばっかりで、縛られる方の気持ちなんてなぁんにも考えてない」
「マゾの気持ちなんて考えてなんになります?」
「そういうとこだよ」

 ツンケンした紫さんにディスられても、店長は気分を害した風も無く苦笑いを浮かべている。
 すごい、なんだこの人。店長にこんな風に言って怒られないなんて羨ましい。
 俺なら何度か蹴られてる、と見つめていたら、やっと俺に気付いたみたいに大きな瞳に俺を映した。

「……え。クラのお連れさん?」
「あ、はい」
「やめときな、この人サドじゃなくてただの暴力男だよ」

 知ってます、というのを飲み込んで、店長を窺う。
 苦笑しているだけで、俺が彼女と会話するのを嫌がる素振りは見えない。

「サドと暴力男って、なにか違うんですか」

 だから、素直に疑問に思った事を聞いてみた。
 視界の端の店長の唇の端が痙攣したのを見て、質問を間違えたと悟る。

「あ、いえ、やっぱりいいです」
「あ~、もうプレイした後? しかもド素人っぽい? うわー、ほんとえげつないねクラ。そうやって何人毒牙にかけてきたか……。ねぇ君、マゾならもっとちゃんとしたサド紹介してあげるから、この人とは切れた方が良いよ? なんなら今紹介してあげようか?」

 今来てるお客さんにも良い人いっぱいいるよ、と言われて首を振った。
 店長以外とか考えられないのに、紫さんはよほど店長が嫌いなのか、カウンターの向こうから俺の手を取って撫でてくる。

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