痛い瞳が好きな人

wannai

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「その格好じゃ寒いだろ。店の前まで送る」
「店じゃなくてホテルなんだけど?」

 からかってやろうかと思いつきで軽口を叩いたが、返答がない。
 ぐぐっと体が右に傾く程急に左折し、道路沿いの、もう店じまいしたらしいラーメン店の駐車場に入って、ガクンと停車した。

「おま、今ちゃんと左確認したか!? 暗いんだから、歩行者居たら大変な」
「誰と」

 殺意すらこもったような表情で、車の運転をやめたカナメが睨んでくる。反射的に閉まったままのドアロックを開けて逃げようと手が伸びるが、それを制止するカナメの手の方が早い。運転席からこちらへ身を乗り出し、両手首を車のシートとドアに押し付けるように抑え込まれた。
 だが、掴む力は弱い。睨む視線の強さとは裏腹に、危害を加える気は無さそうかと冷静になり、一呼吸おいてカナメと視線を合わせる。
 じっと見つめてくる瞳は、暗闇でも潤んで光る。こんなイケメンに口説かれたら、なびかない女の子なんていないだろうなと辟易した。

「あんたの嫌な事を教えてくれ」

 急に脈絡のない事を言われ、首を傾げる。意味が伝わらなかったのを感じたのか、カナメは少し考えて言い直した。

「あんたが嫌がるプレイはしない。アナルもフェラも無し、奴隷契約もしない。だから俺の奴隷になってくれ」

 おそらく、彼にとってかなり妥協案なのだろう。頭を下げるような真似までされて、何故そこまで俺に拘るのだろうと心底不思議だ。

「なんでそんな俺にこだわるんだ?」
「気に入ったから」

 二つ返事がそれで、頭痛がする。やっぱりこいつ、少し頭悪いかもしれない。
 頬を指先でカリカリと掻きつつ、どうしようかと逡巡する。
 相手が嫌がるプレイはしないとか、当たり前の事なんだよなぁ。
 Sとしての素質は十分にあると思うが、如何せん素人だ。倫子からの命令でSを調教するのは慣れた事だが、カナメはたぶん、違う。倫子から何と言って紹介されたのかは分からないが、どうやら俺と固定パートナーになりたいらしい。
 だが、昨夜の話から察するに、プレイ傾向が合わない。俺がカナメに合わせるのは可能だが、ストレスの溜まるプレイなんて本末転倒甚だしい。どう言ったらこいつは大人しく諦めるだろうか。

「……俺は、普段の生活とプレイは分けたい派なんだよ。だから囲われるのは無理。呼び出されても行けない事もある。仕事第一、睡眠第二、んでお前が三番目。それが俺にできる妥協案。それでいいなら」
「それでいい。だから今日の約束はキャンセルしてくれ」

 即答。まるで俺がキャンセルしなければ死にそうな勢いで言い募る様は、哀れにすら見えてくる。こいつ、こんなんで芸能界なんて大丈夫なんだろうか。

「行けないって連絡入れるから、手離して」

 安心感からか口元を幾分緩ませてカナメは俺の手を離し、運転席に上半身を戻した。
 スマホでチャットアプリを開き、行けなくなった事を伝える。残念がりつつも理由を聞く人間も責める人間もおらず、安心してアプリを閉じた。

「まあ、ただの友達との飲み会だけどな」

 ぼそ、と呟くと、「はぁ!?」とエンジンを掛け直そうとスタートボタンに指を置いていたカナメが素っ頓狂な声をあげる。その反応が面白くて、くく、と小さく笑うと、カナメは怒っているのか呆れているのか、微妙な表情で眉根を寄せた。

「で? どうすんの、これから。俺、予定なくなっちゃったんだけど」

 言外に誘う色を出したのだが、返事は予想とは違ったものだった。

「家まで送るから、住所教えろ」

 エンジンをかけ、ナビを住所検索画面にして、ん、と指し示す。偉そうな命令口調に戻っているあたり、態度の使い分けは慣れっこか。

「俺は明日の朝は早くから仕事あるから、今日は話だけのつもりでな。……あんた、昨日いきなり帰っちまったから、日を空けたらもう会ってくれないかと思って」
「今日も会う気はなかったんだけど」

 恨みがましい視線が、早く住所を入力しろと訴えてくる。だが、それを笑顔で受け流す。

「ファミレスまで戻ってくれれば徒歩で帰れる。家は教えたくない」

 ギリ、と奥歯を噛む音に、優越感で心地良い。
 プレイは確かに稚拙だが、この男は分かりやすくて面白い。彼が俺に飽きるまで、遊んでやるのも悪くない。まぁ、どうせすぐ飽きるだろうけど。

「あんた、見た目で騙し過ぎだろ……」

 唸るように低い声で、カナメが情けない事を言う。どちらかと言えば普段から気が強く、SかMかでいえばドSに見られるタイプの俺に言われても、お前の見る目が無いんだろうとしか言いようがない。

「だぁから、見た目も中身もお好みの女の子紹介してやるって言ってるだろ? 俺なんかやめとけって」
「倫子だって、絶対服従の良い犬だって」

 尚も愚痴る男の口から出た名前に、やはり倫子から俺との事を聞いていたのだと知る。

「倫子とは、そういう約束だったから。羞恥プレイでもスカトロでも、なんでも笑顔で言うことを聞くから、ご褒美はうんと痛いのを頼む、って」

 痛みが約束されているからこその服従だったのだと、懐かしむように微笑むと、話題を振ったのはカナメだろうに、気分を害したとでも言いたげに顰め面だ。

「なんでも笑顔で……」

 呟く声には、嫉妬の色が滲む。これだけあからさまだと、むしろ微笑ましくさえある。

「カナメとも、そういう方針でいく? 倫子から俺の事聞いてるなら知ってるだろうけど、俺、痛い以外のプレイに興奮しないから。叩く殴る蹴るはご褒美、それ以外はお仕置き。言葉責めとか快楽責めとか、他のマゾが喜ぶようなのも喜べないから、今まで倫子以外に決まったご主人様がいた事ないんだよね」

 長ったらしい説明に、カナメは考える素振りをみせる。この条件なら、そこまで俺のストレスは重くならず済む。今まで通り、表面上だけの服従を見せればいいだけ。
 ……なのだが。

「いや。笑うのはお前が気持ち良い時だけでいい」

 提案されたのは、チキンな俺の胃に穴が飽きそうな方式。

「なんでも言う事聞くってのは当たり前として。別に表情まで強制はしねーよ」
「でもお前、笑顔で奉仕する系のマゾのが好みだろ?」

 たとえ短い間だろうとはいえ、プレイが味気ないと思われるのはマゾとしてプライドが許さない。好みに寄ってやると言っているのに、何故拒否するのか。

「……SMしてまで、心の裏読むのは面倒なんだよ」

 吐かれたのは、本心なのだろう。深くため息を吐くカナメの顔が、一気に疲れて見えた。
 助手席側に向き、俺の頬に手を伸ばしてくる。そのまま撫でられ、親指が下唇を押して開かせる。

「俺はゲイじゃないからな?」

 台詞と行動が矛盾している気がするが。
 唇を撫でる指と反対の手に首の後ろを掴まれ、男の方に寄せられる。骨張った、割に熱い指が口腔に差し込まれたまま、カナメが顔を寄せて舌を入れてきた。
 指と舌が、それぞれ好きに俺の舌を弄び、ぺちゃぺちゃとはしたない水音が涎となって垂れる。ぞわ、ぞわ、と鳥肌がたつ。不感症な訳ではない。気持ちよくない訳ではない。ただ、それだけではイけないだけ。
 気持ち良いでは、足りない。
 されるがままぼんやりしている俺に、だがカナメは焦らない。ゆっくりと舌同士を擦り合わせて、唇でじゅるる、と舌を外に吸い出された。

「……っん、ぃ」

 す、と間近の目が眇められたと思ったら、舌の根本をがぶりと噛まれた。いつのまにか、両手の親指で唇を引っ張るように開かされ、何度も繰り返し噛まれる。がぶ、がぶ、と血が出ない強さで、たまに犬歯でガリガリと舌の表面を擦られる。唾液が垂れるままになって、顎から首へ滴り落ちてきて気持ち悪い。
 なのに、逃げられない。
 痛いのと、気持ち良いのと。どちらもが同じ程度に刺激を伝えてくる。呻く程の痛みではない。が、舌を噛まれるのは初めての経験だ。
 怖い。噛み千切られたら、という一抹の恐さが良い刺激になって、痛みがそれほどでなくても、十分に息が上がる。
 ──もっと、強く噛んで欲しい。
 強請ってもいいだろうか。もっと強く、とカナメのシャツを揺するのは、彼的に、アリかナシか。持て余した指をもぞもぞと動かす。
 痛みは与えられるだけを大人しく受けるのが当たり前で、強請るなぞ、マゾ的にはご法度だ。でも、彼ならば、アリかもしれない。良くも悪くも初心者なカナメならば……。
 一度だけ。気付いて貰えなければ、やめよう。
 緊張に震える指で、ごく軽く。ぎゅ、と要のシャツを掴み、下に引く。

「ん?」

 どこかに引っ掛かったとでも思ったのだろうか。舌が離れていく。見られたくなくて、すぐに指を離した。

「うわ、下、唾液でべたべた」

 サイドブレーキの周辺が涎で濡れているのを、指でなぞってカナメは楽しげだ。あの整った歯列が俺の舌を噛んでいたのだと、横目で盗み見る。

「……アナルは無理だから」
「だから、ゲイじゃねえって」

 手の甲で唇を拭い、名残惜しさに目を閉じる。口に出さない俺が悪い。言ってみなければ分からないのに、俺にはその勇気がない。
 ゆっくり、細く息を吐く。悟られてはいけない。もっとだなんて、はしたない。そう、弱気に自分を納得させる。

「何拭いてんだ。終わりのつもりか?」

 姿勢を直したカナメに顎を掴まれ、「もうちょい寄れ」と引っ張られる。

「いや、」
「嫌? なんだ、キスもNGかよ」
「そうじゃなくて……」

 これ以上は、これだけでは満足出来なくなる。終われなくなる。

「……もっとしたくなる、から」

 カナメの顔色を覗いつつ、言ってみる。みるみるうちに眉間に皺を寄せて強張った表情になったカナメに、やっちまったか、と後悔した。それはそうだ、俺は三十路過ぎのオッサンだ。それを忘れて甘えた事を言うなんて、どうかしていた。痛みという脳内麻薬が抜ければ、自分の吐いた言葉に吐き気すらしてくる。
 カナメは視線を逸らし、無言でシートに体を戻し、ハンドルを握り車を出した。オーディオも消された車内にはエンジン音だけが響き、やたら空気が重い。
 こんな恥ずかしい思いをしたのは久しぶりだ。もっと若ければ、いやその前に、俺が可愛い女の子だったら。羞恥プレイだなんて笑えない。少し優しくされたからって自分の容姿も考えず、言った台詞がしたくもないのに反芻されて、情けなさに泣きそうだった。
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