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四、市川箱登羅と源じい

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 その二日後の昼過ぎ、大樹は、おばあちゃんに頼まれて、となりに回覧板を持って行った。おじいさんが、郵便受けの横に何やら厚みのある紙をはっている。
「こんにちは」
 そう言いながら、大樹はそのポスターに目をとめた。『農村歌舞伎上演会』とある。
 おじいさんは、
「ご苦労さん、どや、ちょっとはこっちに慣れたか? じいちゃんはな、去年大阪からこっちへ来たんや。一人で機嫌よう暮らしとうのに、娘の家に無理やり連れて来られてなあ」
 大樹は愛想笑いをしたが、そんなことよりポスターが気になった。
「あの、農村歌舞伎って?」
「ああ、これな、今度上演会やるんや。まあ大樹君なんかは興味ないやろけどな」
「ぼく、『子ども歌舞伎』やることになって」
 おじいさんは、目を見開いたあと、顔中しわにして大声を出して笑った。
「おーそうかあ、仲間やないか」 
 そして、いそいそと中へ入ってしまった。
「ほらこっちこっち」
 縁側から手招きする。
「ちょっとしゃべろ。誰もおらんし、いや、おってもええんやけど。いやあ、うれしなあ」
 大樹は、仕方なく庭を通って縁側に腰を下ろした。
「かき氷アイスあるで。イチゴ味でええか」
 返事も聞かず、大樹にカップとスプーンを持たせると、勢い込んで話した。
「いやあ、うれしい。もう友だちやな。わし源蔵ていうんや。源じいて呼んでんか」
 源じいはお茶をごくごく飲みながら話し続けた。
 「わしはな、こう見えても今度は菅原道真すがわらみちざねやるんやで、知ってるか?受験ときにお参りする天神さんに祭られてはるえらい人や。大樹君は何やるの?」
「この間はじめて行ったんだけど、『子はたからわらべうた何んとか』というの」
「おー、箱登羅さんのやな。あれはええ」
 大樹は、目を見張って
「箱登羅っていう人知ってるんですか?」
「この源じいはな、大阪でずっと箱登羅さんに教えてもろてたんや。ほんまは市川箱登羅師匠やけど。まあええんや」
「優しかったって聞きました」
 大樹は、かき氷をサクサクくずしながら言った。
「まあいきなお人やったなあ。粋って分からんわなあ」
「初めて聞いた」
「反対は野暮やぼていうんやけど、これも分からんわなあ。着てるもんはよれよれのジーンズにシャツだけ。首にスカーフ巻いたりしてて」
「かっこよかったんですね」
「そやなあ。役者になろうていうんやから、今でいうイケメンで、芝居のことばっか考えてはったなあ」
「ぼくたちを教えてくれる先生も、箱登羅さんに習ったって言ってました」
「そうかあ。場所は違うけど源じいとおんなじやな。その箱登羅さんな、昭和の初めに生まれて、東京のええとこのボンボンやったらしい。大学出てから歌舞伎の世界に飛び込んだんやて。あの世界は家柄が勝負なんや。縁故もない若者には厳しい世界や」
「ふうん」
 大樹は歌舞伎のことなんて何も知らなかったから、そんな気のない返事をした。でも、源じいの勢いは止まらない。もう、アイスもなくなった。
「それでも努力重ねて『三代目市川箱登羅』ちゅう名跡みょうせきをついだ。なんのことや分からんわな。歌舞伎界では立派な跡目をついだんや。名前が大きすぎて生活は苦しかったんやと」
「はあ」
 大樹は、おばあちゃんも心配してると思うと、そろそろ帰りたかった。
「六十で歌舞伎引退したんやけど、ずっと借金取りに追われてたんやて。借金取りて分かるか? 今で言うたらローン返されんと追い回されるんやな。家族の面倒はお兄さんがみてたらしい。離婚してからはあちこち放浪みたいにしてたんやて。九州四国や大阪で歌舞伎の普及活動に明け暮れてるときにな、源じいがそのグループに入ったんや。面白うてなあ、夢中になった」
 大樹は、空のカップをかき回しながら聞いた。
「源じいは、ずっと歌舞伎習ってたんですか?」
「そうやでえ。十年くらいかな。箱登羅さんは『プロとしての歌舞伎じゃなくってさ、みんなで楽しむ歌舞伎ってのをやりたいのね。簡単なんだよ。歌舞伎ってのは、要は体を動かしてさ、楽しみながらやればいいんだからさ』っていつも言うてはった。お酒が好きで、胃を切り取ってガリガリに痩せてはっても『酒だけはやめられん』てわろうてはった。まあそれだけは、この源じいも一緒やけどな。あはは」
「もうだいぶ前に亡くなったって」
「うん、平成二十二年に八十歳で亡くならはったときはなあ、大阪であった葬儀の席で小さいお子がわあわあ泣いて。子どもさんに歌舞伎教えてたとは聞いてたけど。今から考えたら、こっちの子が大阪の葬式まで行ってたんやなあ」
「お母さんも知ってたのかなあ」
 大樹は声に出さずにつぶやいた。源じいの話しは、まだ止まらない。
「知らせを受けて駆け付けた息子さんが『妻子を捨てて好き放題した親父をずっと恨んでいましたが、こんなに子どもさんから慕われていたんですね。たくさんの方が参列してくださって、胸がいっぱいです』そう言うて泣いてはった。追悼公演も大阪でやった。このじいさんも最後や思て真剣にやったんやで。こっちから来たお子たちも懸命に演じてはった。『吾はいま傘寿さんじゅ祝いて舞台立つ』っていうんが、箱登良さんの最後の句や。難しいなあ。八十になっても次の公演のこと考えてはったんや。おかげで大阪にもこっちにもまだ歌舞伎が続いてるわけや」
 源じいは、はるか向こうの空を眩しそうに見つめていた。
「あっ、すまんことやった。ついうれしゅうて長話になってしもた。ジュース飲むか」
「いいです」
 大樹がそう言って道路の方を見ると、帰りの遅いのを心配したおばあちゃんがこっちをのぞいていた。やっと大樹は家に帰った。今度はおばあちゃんが縁側に腰かけて、源じいの相手をしている。
(話の好きなおじいさんだなあ。おばあちゃん、しばらく帰ってこれないな)
 大樹はくすっと笑って、もらったCDをセットした。
 
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