浦上の犬

はまだかよこ

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前編

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 そこはどこまでも茶色い世界だった。
 ガレキだけの地面、ショボショボと生えている雑草も緑というより薄茶色だ。向こうに見える家は、トタンをかぶせた屋根と寄せ集めてきた板のうす汚れたバラックばかり。やさしい色は全くない世界の中で、空だけは見事に青く、太陽はギンギンと照り付けていた。
 そのガレキを踏みつけて笑いながら走って来るのは、幼い自分だ。半ズボンとシャツ、丸坊主の敬一も、その乾いた茶色の景色に染まっている。くったくのない笑顔で、力いっぱい「おいで、おいで」と言うように手を振っている。その横を茶色いシェパード犬が走り去った。
 
「夢か」
敬一は、じっとりと寝汗をかいて起き上がった。ベッドからそっと抜け出して、カーテンを開ける。真冬の遅い夜明けももうすぐだ。
(なんだろう、最近ずっと同じ夢をみる。あれは長崎浦上だ。思い出すこともなかったのに)
 暖房がきいてきたリビングから、庭の木々の向こうに見える空が次第に明るく移っていく。その色をぼーっとながめていると、昔のことが思い出されてきた。

 敬一は、五島列島の福江島で生まれた。銀行員の父の転勤で、戦争が終わった三年後、昭和二十三年に長崎市浦上に引っ越した。そこには二年暮らしただけで、父の転職で大阪に住んだ。それからはすっかり大阪に馴染んでいる。大阪生まれの女性と結婚し家庭を持った。子どもたちも独立し、ほっとした八十才を前にして、心臓を悪くして大きな手術を受けた。今は、ころな禍のこともあり、あまり出歩かなくなっていた。
 そんなことをなんとなく思い出していると、妻の麻衣子がそっと入って来た。
「早いのね、眠れなかった? 」
「いや、どうってことないよ。長崎に行かないか? 」
「あらら、急にどうしたの? 懐かしくなったの? でも、いいわね、行きましょう。うわっ、旅行なんて久しぶり」
「うん、元気に動ける間にな。あったかくなったら一泊で行こう」
そう決めた夜から、あの夢は全くみなくなった。


「やれやれ、やっと着いたな」
 敬一は、背中を反らすと、杖を持ち直してホームに降りた。一緒に降り立った麻衣子は、きょときょと駅を見回して言った。
「まあ、明るくって気持ちのいい駅ねえ」
 敬一は、言葉もなく、ホームにしばらくつっ立っていた。七十年ぶりの長崎駅は、予想はしていたけれど、脳内に残る駅の面影は微塵もなく、浦島太郎の気分を味わっていた。
「ちょうどお昼だし、何か食べましょうよ」
 二人はゆっくりと改札を出て、構内のお土産や飲食店が集まっている広いスペースへと入って行った。
「まあ、おいしい」
具だくさんの皿うどんに二人の顔がほぐれ、疲れも忘れた。
 それから、駅と商業施設を繋ぐ大きな歩道橋を渡って路面電車に乗った。敬一は、ゆっくりと移っていく景色に目を細めていた。停留所の『八千代町』『浦上』など地名も懐かしい。少年の頃が思い出されてくる。

 敬一の家族が住んだ社宅の長屋は狭かったけれど、周りのバラックよりは幾分家らしかった。引っ越してすぐ入学した『山里小学校』は、原爆で鉄筋コンクリートの棟だけを残し、すべて破壊されていた。上級生たちが、
「窓にガラスもなーんもなかけん、雨の日はどがんしょーもなかったと」
「そやけん勉強なんぞせんで、水すくうてなおすだけやったと」
「親が、あめんふっととにしゃっちが学校が行かんでもよかろうにと言うたばい」
などと言っているのを、あまり気にせず聞き流していた。だって、雨風が吹き荒れ、机もない教室なんて考えられなかったのだ。
 敬一の担任の先生は、しんき先生という優しい若い女の先生だったし、勉強が好きで学校は楽しかった。

 夏休みのある日、いつものように棒切れを手に特に何をするでもなく五、六人の男の子と走り回っていた。遊ぶものは何もない。学校の運動場でも、ただ追いかけっこをするだけだったから同じだ。
 その辺りは『原子野』と呼ばれていたが、敬一には何のことかも分からず、気にもしていない見慣れたただの遊び場だった。立木がないので木陰もなく、赤土とガレキだけの場所だった。小鳥の鳴き声もせず、バッタとかカマキリを捕って遊んでいた。
 すぐ向こうに長崎医大の崩れかけた正門が傾いて建っていた。中へ入ってもとがめられなかったので、子どもの遊び場でもあった。何故かプールだけが柵で囲まれていた。
 以前、上級生と柵を抜けてそのプールを見に行ったことがある。そこには死んだ人間がたくさん浮かんでいた。敬一は、特に怖くはなかったけれど、二度は行かなかった。
 大学の前を通って、小高い丘を上ると浦上天主堂だ。壁だけを残し、ほとんど崩れた教会がそれでもなんとか建っていた。汚れたマリアさまが悲しそうにうつむいてたたずんでいた。敬一は、あまり近くに寄らなかった。キリストなんて知らないし、ぞっとしたのだ。崩れたマリア様の像は、死体のプールよりこわかった。
 天主堂を見ないふりをして坂を上ると、緑が少し増えてくる。小さな小屋が建っていて、その前で上級生がいばって言った。
「ここはえらか先生がおるとよ」
みんなでワーワー走り回っていると、その小屋の戸がガタピシと開いて、看護婦さんの帽子を被った人が怖い顔をして出て来た。
「せからしか。先生は具合が悪かけん、みんな向こうで遊ばんね」
敬一たちは、誰もきりっと背筋をのばし、無言で走り抜けた。以前親から、近くにりっぱな先生が重い病気で休んでおられるとは聞いていた。その家には、同じ小学校に通う子もいると。でも、
(女の子だし関係ないか)
などと思いながら、気にもしていなかったのだ。
 敬一は、二度とそこへは近づかなかった。そんなえらい先生がなんであんな小屋に住んでるのか不思議だったけど、この辺りには立派な家などないのだから仕方がない。でも敬一の住んでいる家の方がよほどましだと思ったりはした。

 ある日、上級生に連れられ、ずいぶん遠くまで出かけた。大学の前の坂を下りて、路面電車の駅の方まで歩いて行った。母親に厳しく禁止されている方向だ。でも、自分だけ帰るなんて言いにくくて、ついて行ったのだ。『山王神社』という大きな神社への急な階段を登ると、石の鳥居が右半分だけで立っていた。倒れると危ないので絶対行ってはいけないと言われていたので、敬一はびくびくしながらその鳥居を通り過ぎた。二本のクスノキが焼けただれた姿で立っていた。それでも芽を出し生きていることをみんなに伝えていた。他の子は、その樹を触ったり中の穴を覗きこんだりしていたが、敬一は遠い危ないところまで来てしまったことが気がかりで、早く帰りたくてそれどころではなかった。


 路面電車が『大橋町』に着いた。ふっと我に返った敬一は急いで降りると、『山里小学校』に向かった。
(長崎は坂の街、やっぱりこたえるなあ)
そう思ったが、隣を歩く麻衣子が
(大丈夫かな)
という目で見つめてくるので、
(そこまで弱ってはおらんぞ)
 敬一は、無理にも歩幅を大きくして歩いてみせた。広い道路の両側には瀟洒なたたずまいの住宅が並んでいる。五月の晴れわたった空、緑の木立からの風はなんとも心地よい。風景にあの頃の面影はかけらもない。
 立派な赤煉瓦の『山里小学校』の校門をくぐる。記念の碑や資料館などもあったがそのまま通り過ぎた。残された三つの防空壕の前では、子どもたちが元気に学級園の世話をしていた。
「こんにちは」
こんな知らない爺さん婆さんにも笑顔で挨拶をしてくれた。
 敬一は、どんなふうにして学校で過ごしていたのか、友だちの名前も覚えていないし、特に楽しかったこともなければ苦しかったこともない。ちょっと斜に構えたかわいげのない子どもだったように思う。勉強も、優しい「しんき先生」も好きだったけれど、もうすべてが霞の向こうだった。

 校門を出て、そんなことを考えているうちに、たくさんの書物を著し、世界的に有名な永井隆博士が過ごし亡くなられた『如己堂』の前まで来た。畳二畳という本当に小さなお気の毒なお住まいだ。ここへ、ヘレン・ケラーやローマ法王の特使まで見舞いに訪れたというから驚きだ。
前の歩道で休んでいると、反対側から茶色いシェパードを連れた男性が、ゆったりと坂を上って来た。
(おっ、かっこいいな)
そう思って、ふとその犬と目が合った。

  フワワーン、ザザー

 突然めまいがし、歩道わきの石垣に座り込んだ。ぐるぐるまわる渦の中へ投げ込まれた気がしたが、しだいにおさまって来た。ゆっくりまぶたをこじ開けると、そこに広がっていたのは『原子野』茶色いがれきの世界だった。
 一年生の敬一が坊主頭、半ズボンとシャツで棒切れを持って走り回っている。五・六人の少年がいる。遠くから茶色いシェパードが勢いよく駆けてくる。子どもたちが『ジョン』と呼んでかわいがっている犬だ。辺りには虫以外、鳥も猫も生きものの姿がない。そんな中で唯一の動物だ。子どもみんながかわいがっている大切な友だちだった。
 開通した路面電車の駅の近くに建っているわりと大きな薬局で飼われている犬だが、放し飼いで、首輪だけつけて、自由に遊んでいた。きちんとした名前があったのだろうが、「ジョン」と呼ぶと、しっぱを振って走って来た。高い土塀も余裕で越えるたくましい犬だ。
 一面のガレキの中にぽつんと空井戸があった。まわりには雑草も生えていなくて赤土がむき出しになっていた。ジョンは、軽々とその井戸を飛び越えて、自慢げに子どもたちを見る。子どもたちの賞賛が分かると、また飛び越える。何度もそんなことをして一緒に遊んでいた。そのとき、どうしたことか、ジョンが井戸に落ちてしまったのだ。
「うわー!」
「どうすっとお」
「ジョン!はよ出て来んね」
井戸の底から激しいジョン鳴き声が聞こえるが、子どもたちはどうすることもできず、おろおろと井戸を取り囲んでいた。
「この井戸は深か」
「どぎゃんすっとね」
「ジョン!ジョン!」
敬一が棒切れを井戸に入れようとすると
「このふーけもんが。そないなもんが何の役に立つおもとっとや」
上級生にそう言われて敬一は泣きそうになる。ジョンの鳴き声は、ただならぬ咆哮にかわった。
 そこへ、一人のおじさんがゆっくりとやって来た。髪も髭もぼうぼうで、服は、お寺のお坊さんが仕事をするときに着るようなもので、だらしなく胸がはだけていた。わらじをはいた足も真っ黒に汚れていた。おじさんが近づくと、子どもたちは少しづつ井戸から遠ざかった。
 おじさんは何が起こっているかを確かめると、一度家に戻り、すぐにもう一度やって来た。肩にロープを掛け、手にはろうそくと杭とハンマーを持ち、ひとことも発することなく井戸に近づいた。敬一はおじさんの汗とお酒の匂いでムッとなった。
 そのおじさんは昼間からお酒を飲んでバラックに一人で住んでいたのを、誰もが知っていた。相手になってはいけないと、親からもきつく言われていた。お父さんは毎朝背広を着て仕事に行くのに、このおじさんはずっと家でぶらぶらしていた。大人が、戦争に行く前は腕のいい大工だったのにと言っているのを聞いたことがある。
 
 太陽が照り付ける中、井戸から少し離れて、子どもたちはごくっとつばを飲み込んでこぶしを握り、ただ見守っていた。おじさんは、まず、空き缶に入れたろうそくに火をつけそっと井戸の底まで降ろした。そして火が消えないのを確かめると、今度は、地面に杭をハンマーで打ち込み、それにロープの端をを固く結び、体にひと巻きすると、そのロープで井戸の壁を伝って暗闇に消えた。敬一たちはこわごわ井戸に近づいた。しばらくしてジョンの「キャンキャン」と喜ぶ声が聞こえてきた。
 緊張した子どもたちの顔にほっと笑顔が浮かんだ。やっと、おじさんが這い上がって来たけれど、ジョンはいない。声も聞こえない。子どもたちの顔がゆがんだ。おじさんが、今度はまたロープを引き上げていった。その先にはジョンが結ばれていたのだ。でも、ジョンは動かず鳴かなかった。誰かが言った。 
「しんどっと」
みんながうつむいたその時、おじさんがロープをほどいた。すると、ジョンは立ち上がって勢いよく吠えた。
「わー」
「やったばい」
 拍手をして歓声をあげた子どもたちは、一斉にジョンに駆け寄ろうとした。でもジョンは子どもたちには見向きもせず、「ワンワンワン」と甘えながら、おじさんに何度も何度も飛びついて顔中をなめていた。おじさんは無言のままじゃれまわるジョンと一緒に静かに立ち去った。

 敬一は、気づくと涙を流していた。まわりの子どもたちはジョンが無事でうれしくて泣いたのだと思ったようだが、敬一は突然『戦争』を強く意識した。辛くてむごいかたまりを、おじさんは背負っていた。周りの大人は先生も含めて戦争や原爆のことは全く口にしない。敬一も何も考えずに過ごして来た。でも、このとき、おじさんの去っていく背中を見つめていて、激しい悲しみと怒りが涙となって噴き出したのだ。

(ああ、これだ。一年生の敬一が爺さんになった俺に思い出させたかったのは。そうだったよな、うん、ありがと う。無理やり蓋をしてたなあ)
 敬一は、深く息を吸い込むと、大きなものを大切に心にしまい込んだ。今はきれいに整備された芝生広場になっている井戸のあった場所を見つめながら。その向こうが家のあった場所だ。

「敬一さん!大丈夫?どうしたの」
麻衣子の声に我に返った敬一は、何度もまばたきをした。その目に映るのは、静かな清潔な街並みと行きかう車だけである。あのシェパードももう遠ざかっている。
「いや、なんかめまいがしただけや」
そう笑ってごまかした。
「大丈夫や」
そう言うのに、無理やりタクシーを止められて、押し込まれた。
 そのタクシーで、浦上天主堂をまわり、一本柱の鳥居の下まで行った。急な階段はそのまま残されており両側には家がぎっしりと建っており、あのクスノキは堂々と枝を伸ばし、緑豊かに茂っていた。幹に石や瓦が入り込み、中は木炭化しているとは信じられない勢いだった。帰り、運転手さんが気をきかせて福山雅治の『クスノキ』のCDを聴かせてくれた。

 早々と横になったホテルのベッドで敬一は、『クスノキ』の歌を『ユーチューブ』で何度も聴きながら、子どもの敬一が緑豊かに茂ったクスノキの根元で昼寝をしている姿を想像した。

『我が魂は この土に根差し
決して朽ちずに 決して倒れずに
片足鳥居と共に 人々の営みを 歓びを
かなしみを ただ見届けて
我が魂は 奪われはしない
この身折られど この身やかれども』  

 翌日は朝から『原爆資料館』へ向かった。『平和公園』では、笑顔で写真を撮り合う修学旅行の生徒たちとすれ違いながら、ゆっくりと歩いた。
まだ日が高かったが、孫たちへのお土産のカステラを買うと、帰途に就いた。

『特急かもめ』に乗り込んで、その車窓から遠ざかる長崎の街を見つめていた。平和公園の天に届きそうなあの噴水の清冽な水色、祈りに包まれた街、もう来ることはないだろうが、大切なものを受け取った。
(長崎は故郷だ)
 強く強くそう思った。




福山雅治作詞作曲 「クスノキ」(2014.4発売)から歌詞を引用させていただきました。







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