魔王へのレクイエム

浜柔

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第九章 魔王はここに

第百十二話

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 声は途切れる。
「アルル……。最後まで我の名を正しく発音できなかったのだな……」
「感想はそれだけなの?」
 シーリスには魔王のあっさりした反応が意外だった。長年思い続けた女性の姿を見て、声を聞いたにしてはあまりにあっさりし過ぎている。もっと喜んでも良いのではないか。
 だがここでふと縦穴の底の風景を思い出した。あのアルルは見た目だけでは幻でも作り物でもなく、生きた人間にしか見えなかった。あれを魔王が創り出したものだとしたら。いや、魔王が創り出したもの意外には考えられない。魔王が創り出したものとして、あれだけ鮮明に記憶しているのであれば、記憶結晶の映し出す映像程度では心が動かないかも知れない。
 そんな風に考え、シーリスは少し口の中を苦く感じた。
「アルルのいつもの口癖のようなものだ。それを生の声で聞けたことには感謝する」
 これは記憶の中で再生した声ではないと言う意味だ。
「だが、所詮この程度・・・・か」
「この程度?」
 シーリスは魔王の物言いに何故か引っ掛かった。
 だが、それを追及しようとした時。記憶結晶の蓋を閉めようともせずに佇んだままのサーシャが虚ろな瞳で声を出した。
「ハニャト」
 明らかにサーシャとは違う声。
 そしてその声がスイッチだったかのように、サーシャが手にする記憶結晶が仄かに光を放ち出す。その光は瞬きながら次第に強さを増し、一瞬目映く輝いて、また仄かな光に戻った。
 その時にはエミリーも、オリエも、リリナも、そしてシーリスも眩んだ目を押さえていた。
 目を押さえながら「今のは何だったの?」と呟くシーリスの耳に魔王の声が響く。
「アルル!」
 驚きに満ちた声音だ。
 シーリスは、どうして今頃になってそんな声を出すのかと訝しみ、幾度となく瞬きしながら眩んだ目を凝らす。はっきりしない視界の中に人影を見た第一印象は「誰?」だった。サーシャが立っている筈の場所にサーシャではない女性が立っている。斜め後ろからでは精々横顔が判る程度のために誰だかはっきりしないが、その女性が手にする記憶結晶は間違いなくサーシャが持っていたものだ。
 そこで漸く魔王が呼んだ名前を思い出す。目の前の女性はアルルだ。
 でも何故?
 シーリスのそんな疑問など無視するかのように、アルルは話す。

「ハニャトは私が同情からハニャトの面倒をみていると思っているのでしょうね」

 シーリスは酷い違和感に襲われた。相手が目の前に居るにも拘わらず、手紙を朗読しているような台詞だ。もう少し回復した視覚で見ると、アルルの服に奇妙な継ぎ接ぎが見えた。そこに目を凝らす。よくよく見れば、サーシャの服がアルルの服からはみ出している。アルルの幻がサーシャに重なっていたのだ。
 これは奇跡なのだろうか。いや、恐らくは記憶結晶に掛けられた特別な魔法。魔王を、ハヤトを前にした時だけ再生されるメッセージなのだ。シーリスが見た二回とも「暮らせますように」のところで終わっていた。

「正直に言うとね、最初はそう。
 だけど貴方と暮らす内に同情ではなくなった。貴方に少しずつ惹かれた。
 愛してるわ。ハ、ヤ、ト。
 永遠の愛を貴方に」

「アルルーッ!」
 魔王の叫びと共に魔王から濃密な瘴気が黒い霧となって膨れあがった。
 これには成り行きを見守っていたエミリー、リリナ、オリエも身構える。
「何かヤバくねぇか?」
「ええ。これはちょっと……」
 三人だけなら今更だ。だが、持ち前の魔力が高いからと言って、サーシャや不調を隠せないシーリスがどこまで堪えられるかは未知数。何より常人でしかないルセアが危険だ。いくら普段のこの場所の瘴気が濃いとは言え、魔王の持つ瘴気のほんの一部でしかなかったからリリナの力で打ち消せていたのだ。この全開と思える瘴気を打ち消せるとはとても思えない。
「リリナとエミリーはルセアを連れて逃げてくれ! わたしがサーシャ殿下とシーリス殿を連れて行く!」
 最悪でもルセアを逃がす。そのためには瘴気を祓えるリリナと移動ムービングを使えるエミリーが必要だ。
「心得た!」
 エミリーとリリナも即それを理解し、リリナがルセアを抱き上げて今日来た扉へと逃亡を図る。位置的に前に通っていた入口より近く、ゴンドラに残っているメンバーを考えれば後戻りする以外の選択肢は無い。
 一方、オリエはアルルの幻、即ちサーシャに向けてひた走る。だが遠かった。あるいは瘴気が速すぎた。後三歩のところで瘴気がアルルを包み込む。直後にオリエも呑み込まれ、オリエは押し返されるほどの圧力を感じた。
 瘴気は扉へと走るリリナ達へも迫る。「くそくそくそっ! 折角治ったってのに!」とエミリーは内心で叫びつつ覚悟を決める。
 その刹那、光が溢れた。記憶結晶から発した光が瞬く間に瘴気を煌めく光に変える。
 エミリーもリリナもオリエもその場で立ち尽くした。
 光はダンジョンを駆け抜け、魔の森を覆い尽くし、空へと登る。魔の森の全てを昼間のような明るさが照らす。
 ただ、これを見た者は多くない。殆どの人々がベッドの中で夢を見ている時間だ。
 魔王を覆っていた瘴気が全て、煌めきながらも眩しさをあまり感じさせない光に変わった。すると、そこには一人の青年が立っていた。酷く気弱そうで、酷くひ弱そうな青年が困ったような、照れたような表情を浮かべながら一歩を踏み出す。
 するとそれに応じるようにアルルが一歩を踏み出した。
 虚ろな瞳のサーシャが取り残されて力無く頽れるのを抱き留めたオリエの向こうで青年とアルルが互いに歩み寄り、見つめ合い、そして抱き締め合う。泣き顔を浮かべる青年の背中をアルルが宥めるように摩る。
 シーリスはその姿に微笑んだ。失われたものは、奪ったものは戻らなければ戻せもしない。それでも思いがけず、時を越えた思いを繋ぐことができた。これで少しはあの日の罪滅ぼしができただろうか。シーリスの目に抱き合う二人の姿が滲む。
 光が一際輝きを増し、その光に二人の姿が溶ける。幸せそうに笑い合っていた。
 そして薄まり始める光。
 同時に起きたのは地響きだ。
「揺れてますわ!」
「ちくしょうめ! 立ってるだけでやっとだ!」
 リリナもエミリーも肝を冷やす。続けて襲って来た大きな揺れに足下が覚束ない。波間に揺れる木の葉のように弄ばれるだけ。
 エミリーはムービングで浮かび上がろうとする。しかしその意に反して足は地面に着いたままだ。
「上がってねぇか!?」
 この部屋全体が浮上しているらしい。ムービングで浮かび上がる分を相殺してしまう速さでだ。こうなるともう不用意にムービングを使えない。気付いた時には天井に激突していたとなったら本末転倒だ。
 運を天に任せ、その一方で不測の事態に対応できるように身構えるエミリー達。
 結果的には杞憂に終わる。何も起きないまま揺れが治まり、部屋の浮上も止まる。
 部屋が揺れる間に満ちていた光も消えていた。瘴気も全て消えている。
 オリエもエミリーもリリナもその場に座り込んだ。
「助かったようだ」
 オリエは腕の中のサーシャの様子を確かめて言った。意識を失っているようだが、命に別状は無い。
「ええ。命拾しましたわ」
 リリナは抱き抱えたルセアを見て答えた。今も穏やかに寝息を立てている。
 エミリーは何か巨大な存在感が欠けているように感じた。
「魔王は……」
 部屋を見回したが、魔王の姿もアルルの姿も見当たらない。
「消えちまったようだな……」
「ええ。もうどこにもいらっしゃいません」
 リリナがずっと感じていた魔王の気配が完全に消えていた。
「挨拶も無しにいきなり消えるなんてよ……」
 エミリーは薄情な感じがして些か面白くなかった。だがそこでもう一人のことを思い出す。
「ねえさんは?」
 捜したが居ない。
「ねえさん?」
 部屋には魔王が横たわっていた椅子が在るだけだから隠れるような場所も無い。シーリスも消えていた。
「ねえさん!」
 エミリーは絶叫した。
「エミリー、帰ろう」
 沈痛な面持ちをしながらオリエは言った。待っていればシーリスが戻って来る保証がある訳ではない。その一方でゴンドラには自分達の帰りを待っているメンバーが居る。
「ああ」
 エミリーも反論しなかった。
 リリナがルセアを、オリエがサーシャを抱え、三人は元来た螺旋階段を上る。上り終わる直前に見えたのは白み始めた空だ。「家の中だった筈だ」と、三人は顔を見合わせ階段を駆け上がる。
 在ったのは辛うじて一部の基礎が残る廃墟であった。畑に見えた所も雑草が生えている。
「あの家も、何もかも全部幻だったのかよ……」
 エミリーにはシーリスまでもが幻だったかのように感じられた。
 だが、ふと手を見る。そしてよたよたと少し離れた場所へと歩く。「エミリーさん?」とリリナが訝しげに呼ぶのにも耳を貸さず、地面に手を突いた。
生成クリエイト!」
 力有る言葉によって傀儡ゴーレムは生成された。その座り込んだエミリーと同じ高さのゴーレムが「どうして呼ばれたの?」と問い掛けるかのように小首を傾げる。
「はは……。ちくしょう……」
 エミリーは笑いながら泣いた。
「エミリー?」
「エミリーさん?」
「ゴーレムがあたしの固有魔法になっちまった。本当にねえさんは居なくなっちまったんだな……」
 固有魔法は目覚めるには何らかの切っ掛けを必要としている。単純なのは朝の目覚めだ。それ以外には命の危機に瀕するなどの場合が有るが、今夜のエミリーにそんな場面は全く無かった。しかし他者が切っ掛けになる場合も一つだけ有る。任意にはできず、偶然の産物でしかないが、稀に固有魔法を持つ者から継承されることが有るのだ。
 リリナとオリエは絶句する先で、ゴーレムが咽び泣くエミリーの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「リリナさーん! オリエさーん!」
 呼ぶ声が聞こえた。声がした方を見ると、少し離れた場所に中型ゴンドラだ。
「ノルトさんですわ」
 ゴンドラの甲板にノルトの姿が見える。ノルトからは立っているリリナとオリエだけがはっきり見えたのだろう。そしてゴンドラの周囲に目を移せば森だ。いつの間にかリリナ達は穴の底ではなく森の中に立っていた。
「あの揺れは地面が迫り上がる揺れだったのですね」
「うむ。魔王の魔法の影響でこの場所そのものがねじ曲っていたのだろう」
「とにかく帰ろうぜ。まだリリナには仕事が残ってるだろ?」
 エミリーは涙を拭いつつ言った。リリナにはまだロイエンの治療が残されている。

 この後、ダンジョンや魔の森から瘴気が消え、新たな魔物を生み出すことが無くなる。これによって世界の産業、文化の構造に大変革が起きることになる。
 そんな中でエミリーが賢者と呼ばれるようにもなるが、まだまだ先の未来のことである。
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