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縛られた運命が動き出す
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『ん……ひっく……う、ぐ……』
『頼むから泣かないでくれ。そんなに泣かれると俺も辛くなる』
『だって……だってぇ……』
『大丈夫だ。いつか、必ず……』
「う、ん……」
芽依はゆっくりと目を開ける。
ガタガタと揺れる電車の窓から傾きかけた日の光が差し込んでいた。
起きたばかりの頭はまだ霞がかって、ぼんやりとしていたがそれも徐々に明瞭になっていく。
(……あ、もうすぐ降りる駅だ)
そう思って、芽依は目を擦りながら身を起こし降りる準備を始める。
やがて電車は人影のない駅に到着して、扉を開く。
誰もいないホームに降り立ち、無人の改札を抜ければ、十年前と変わらぬ景色が広がっていた。
(……ここは、変わってないな)
木造の古びた駅舎、生い茂る木々、まばらな家屋、その向こうに広がる田んぼや畑。
それらをなんともなしに眺めてた後、祖父母の家があった場所に向かう。
今が何時なのかわからない。腕時計など持っていないし、携帯は電源を落としていたからだ。
記憶を頼りにあるき続けると、たどり着いたその家は荒れ果てていたものの、まだそこにあった。
窓は割れ、雨戸は外れ、雑草が伸び放題になっていたものの、それでもかつて暮らしていた頃の面影を残している。
懐かしさを感じつつも、芽依はこれからのことを思った。
(どうしよう……できればここに泊まれたらと思ったけれど、これじゃあ無理そうだし……でも、他に行く宛なんて……)
だからといって、親のところに戻るなど絶対に嫌だった。そんなことをするぐらいなら、このまま野宿するほうがましである。
そもそも、戻れるだけのお金がない。
「これからどうしよう……」
途方に暮れていると、ふいに背後から声をかけられた。
「もしかして君は、芽依か?」
驚いて振り返るとそこには一人の青年が立っていた。
年齢は芽依と同じぐらいだろう。しかし、目鼻立ちが整っていて大人びて見える。
目の前の青年が誰なのか、一瞬迷う芽依だったが一人だけ思い当たる人物がいた。
「……陽真くん?」
恐る恐る尋ねると、彼は嬉しそうに口元を緩める。
「ああ、やっぱり芽衣だ!久しぶりだな!」
「うん、久しぶり」
久しぶりに会った幼馴染みとの再会に芽依の顔は自然と笑みを浮かぶ。
「私のこと、覚えていてくれたんだね」
「当たり前だろう。俺が芽依のことを忘れるはずがないじゃないか」
陽真はそう言うが、十年間音信不通だったのだから忘れていてもおかしくはない。
それなのに、自分のことを覚えていてくれたことが芽依の胸を打つ。
「……ありがとう」
「ところで、どうしてここへ? 何かあったのか?」
「えっと……」
陽真の質問に言い淀んでしまう。自分の事情を、再会したばかりの彼に話すことは躊躇われたのだ。
そんな彼女の様子を気づいているのかいないのか、陽真は明るい声で言った。
「まぁいいか。それより、もし時間があるなら少し付き合ってくれないか? いろいろと話したいことがあるんだ」
「そ、それじゃあ、少しだけお邪魔させてもらっていい?」
控えめに申し出れば、陽真は大きく首肯した。
「ああ。こっちだ、ついてきてくれ」
そのまま歩き出した彼の後を追うように、芽依は山の奥へと足を踏み出す。
(まさか、陽真くんとまた会えるなんて……)
十年ぶりに見る初恋の人の背中は、あの頃よりも大きくなっていた。
十年前、芽依は祖父母とこの村に住んでいた。
両親のことはよく知らなかったが、二人とも芽依のことをとても可愛がってくれたから特に寂しくはなかった。
けれど、周辺には同じ年頃の子がおらず、一番近い学校も一時間以上電車を乗り継がなければいけなかったため、友達と遊ぶこともままならないことが不満ではあった。
あの日も、働く祖父母の邪魔にならぬよう芽依は一人で遊んでいたのだが、すぐに飽きてしまい外へと飛び出した。
そして幼い好奇心と冒険心のままに、山の方まで足を伸ばしたのだが、深く踏み込み過ぎたせいで道に迷ってしまったのた。
右を見ても左を向いても似たような景色ばかり。自分がどこから来たのかすらわからない。
『おばあちゃん、おじいちゃん……どこぉ?』
涙ぐみながら祖父母を呼ぶものの当然返事は返ってこず、不安と恐怖がごちゃ混ぜになった感情に押しつぶされそうになったその時だった。
『どうしたんだ? 迷子か?』
ふいに声をかけられ振り向けば、そこにいたのは自分と同じぐらいの少年。
『う、うわあああ!』
人に会えた安心感から芽依は泣き出してしまった。
いきなり目の前で女の子が号泣し始めたことに驚いた少年は慌てて彼女の傍に近づき、その頭を優しく撫でてやる。
『泣かないでくれ。ほら、もう大丈夫だから』
そうしてしばらくあやされて落ち着いた頃、芽依はようやく彼の名前を知ることができた。
それが陽真との出会い。
その後、陽真の案内で無事に家に帰ることができた芽依は、翌日から毎日のように山に入り彼と一緒に遊んだ。
陽真はとても優しくて面倒見もよく、芽依はあっという間に陽真のことが大好きになった。
きっとそれは陽真も同じだったのだろう。
ここにはあまり来ない方がいい、と言いながらいつだって嬉しそうな笑顔を浮かべながら彼女を迎えてくれた。
大好きな祖父母と暮らし、大好きな陽真と遊び、いつか大人になったら陽真と恋人になりたい。そう思っていたのだ。
だが、終わりは唐突に訪れた。
祖父母が事故で他界したのだ。その上、長年会ったことがないどころか存在すら知らなかった親と、ここからずっと遠い場所で暮らさねばならないのだという。
嫌だった。慣れ親しんだ土地を離れることも、陽真と会えなくなることも。
けれど、幼い芽依にはどうすることもできず、ただ泣くことしかできなかった。
そんな彼女を、陽真は優しく慰め涙を拭う。
そして、彼は芽依に言った。
『いつか、必ず迎えに行く。そうしたら、ずっと一緒にいよう』
約束だと小指を差し出され、芽依は迷うことなくそれに自分の小指を絡めた。
芽依にとって、決して色褪せることのない大切な記憶。
(……でも、陽真くんは覚えてないだろうな)
もう十年という月日が流れているし、仮に覚えていたとしてもそんな幼い頃にした約束を律儀に守ろうとなんてしないだろう。
成長した陽真は贔屓目なしに見ても格好良く、年頃の女の子が放っておくとは思えない。
付き合っている人がいてもおかしくない。
そう思うと、芽依の胸がチクリと痛んだ。
「着いたぞ」
陽真の声に我に返り顔を上げれば、山の中には少し不釣り合いな古くも格式高い屋敷があった。
「ここが、陽真くんのお家?」
「まあ、そんなところだな」
曖昧に答えた陽真に続いて、門をくぐる。
その瞬間、空気が変わったような気がした。
うまくいえないのだが、門を境目にして雰囲気が異なるのだ。
決して嫌な感じはしない。むしろ、清廉で澄み切っていて、神聖さすら感じる。
けれども、だからこそ自分がひどく場違いに思えて、芽衣は少しだけ居心地が悪くなった。
そんな感覚に戸惑いながらも、芽依は陽真の後に続く。
家の中には、自分たち以外誰もいないようでひっそりとしていた。
(そういえば、陽真くんのご家族に会ったことなかったな……)
家を訪れるのも今日が初めてだし、どこの学校に通っていたのかも知らない。
自分は陽真のことを何も知らないのだと、今更ながらに思い知る。
「お茶をいれてくるから、適当に座って待っていてくれ」
「うん、ありがとう」
広い和室に通され、芽依は言われた通りに座布団の上に腰を下ろす。
「……」
一人待っている間、芽依は携帯を取り出した。
電源を入れてみるも、おびただしい数の着信とメールが届いている。
送り主は親からで、内容はどれも同じだ。
『どこにいる』『早く戻ってこい』『ふざけるな』『恩知らず』『許さない』『殺すぞ』
そんな文字列が延々と続いている。
芽依は小さくため息をつくと、電源を落としてしまい込む。
胸に泥が溜まっていくような不快感に蝕まれていくのを感じながら、外を眺めつつぼんやりとこれからのことを考えた。
(きっと、あの人達はそのうちここに来る……その前に、別の場所に行かないと……)
けれど、どこに行けばいいのだろう。
お金もないし、伝手もない。学校にもろくに通えなかったから学もないのだ。
考えれば考えるほど、自分の未来が閉ざされているとしか思えない。
「待たせたな」
声をかけられ振り向けば、そこには盆を持った陽真の姿があった。
「あ、ううん。全然、待ってないよ」
慌てて笑顔を取り繕いながら答える。
そんな芽依に陽真は一瞬眉を寄せたものの、すぐに笑みを浮かべると彼女の前に湯飲みを置いた。
「熱いから気をつけて飲んでくれ」
「うん、ありがとう。いただきます」
一口飲むと、熱すぎず温か過ぎず、ちょうど良い温度の茶だった。
「このお茶、美味しいね。初めて飲んだけど、すごく好きかも……」
「そうか? それならよかった」
嬉しそうに微笑む陽真を見て、芽依の頬が自然と緩んだ。
こんなふうに、穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろう。
少なくとも、親と共にいる時には感じなかったことだ。
「……なあ、芽依はこれからどこか行くあてはあるのか?」
不意に投げかけられた質問に、芽依は息を呑んだが、動揺を悟られないように平静を装い答える。
「えっと……どうして、急にそんなことを?」
「さっき、これからどうしようって呟いていただろう。だから、行くあてがないんじゃないかと思って」
まさか聞かれていたとは思わず、芽依の顔が強張った。
それからゆっくりと息を吐いて、笑顔を作る。
「気にしてくれてありがとう。でも、私は大丈夫だから気にしないで」
けれど、陽真は納得がいかないという表情を浮かべたまま、なおも口を開く。
「なあ、本当のことを話してくれ。俺は芽依の力になりたいんだ」
「……っ!」
その言葉に、芽依の心臓が跳ねた。
陽真にはきっと他意はなく、芽依のことを本当に心配しているのだろう。
だが、それでもその厚意に甘えられない。
十年前と変わらず優しい彼に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
「本当に大丈夫だから……それじゃあ、私用事があるからもう行かなきゃ」
そう言って笑うと、芽依は立ち上がり部屋を出ようとした。
これ以上一緒にいたらボロが出てしまうかもしれない。
しかし、陽真は芽依の腕を掴み引き止める。
「待ってくれ!そんな顔で笑う君を放っておけない!」
「は、離して!」
芽依は掴まれた腕を振り払うと、そのまま玄関へと向かう。
「芽依!」
背後で陽真の叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることなく走り続けた。
「はあ……はあ……」
門を抜け、山道を駆け下りながら芽衣は大きく肩で呼吸をする。
体力のない身体はあっという間に悲鳴を上げ、肺が痛くなった。
(ここまでくれば、もう来ないかな……)
木々が開け、道に出たところで立ち止まり後ろを振り返る。
陽真の姿はない。夕焼けに染まる薄暗い森が続いているだけだ。
「……早く、行かないと」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、芽依は歩き出した。
向かう先は、もちろん決めていない。
ただ、ここに居てはいけないという思いだけが彼女を突き動かしていた。
しかし、その歩みは数歩も進まないうちに止まる。
「……えっ」
視線の先に見覚えのある車を見つけ、彼女の喉がひゅっと音を立てた。
それは間違いなく、彼女の両親が使っている車だ。
「なんで、ここに……」
震える足で後ずさるより前に、車のドアが開き中から一組の男女が現れた。
それは間違いなく彼女の両親であり、その姿をみた瞬間、芽依は弾かれたようにその場から逃げ出した。
「見つけだぞ、てめぇ!!」
「何逃げてんのよ! あんたのせいで私たちにどれだけ迷惑かけたかわかってんの!?」
後方から響く罵声を聞きながら、芽依は森の奥へと走る。
途中、転びそうになりながらも、落ちていた枝や石で傷を負おうとも彼女は止まらない。
決して体力があるとはいえない芽依ではあったが土地勘はあり、ある程度距離を保つことができた。
しかし、それも長くは続かないだろう。
(誰か、助けて……誰かっ……陽真くん!)
涙で視界が歪む中、芽依は必死に助けを求めた。
そして、その願いは聞き届けられる。
「芽依!」
突如として現れた陽真を見て、芽依の目が大きく見開かれた。
「よ、陽真くん、どうしてここに?」
彼女の質問に答えず、陽真は彼女の手を取る。
「今は逃げるのが先決だ。俺についてきてくれ」
「う、うん!」
陽真の言葉に芽依は力強くうなずくと、彼の手を握り返し再び走り出す。
そうしてなんとか辿り着いたのは陽真の屋敷だ。
その門をくぐり抜けると、陽真はようやく芽依の手を解放した。
「ここまで来れば大丈夫だろう……芽依はここで休んでいろ」
「え、陽真くん!?」
それだけ告げると、陽真は再び外に出て門を閉めてしまう。
「陽真くん!」
慌てて追いかけようとする芽依だったが、固く閉ざされた扉を開けることはできない。
ドンッドンッと何度も叩くが、返事はなかった。
途方に暮れる芽依だが、不意に強烈な眠気に襲われる。
(あれ? どうして急に……)
立っていることもままならず、その場に倒れこんだ。
痛みはなかったが、指一本動かすことができない。
(寝てる場合じゃ……ないのに……)
瞼が重くなっていく感覚に耐えきれず、芽依はそのまま意識を失った。
***
「くそっ! どこに行ったんだ、あいつ!」
「さっさと見つけないと、まずいよ。金なんてもう残ってないし」
「んなもんわかってんだよ!!」
男は自分の妻である女を怒鳴りながら、逃げた娘を探していた。
その顔には焦りと怒りが入り混じり、余裕がない。
(あのガキ、ただでさえ役立たずのグズのくせに育ててやった恩を忘れて逃げ出しやがって!)
もともと子供は嫌いだったし欲しくなかったのだが、気づいた時にはもう堕ろせない時期になっていたのだ。
仕方なく生ませたが育てるつもりなど毛頭なく、妻の両親に押し付けていたのだが、十年前その二人が死んだ為引き取らざるを得なくなった。
それでもちゃんと面倒はみてやったし、元々馬鹿で無能だったから就職に困るだろうと仕事先も世話したのだ。
だが、あの娘は逃げ出した。男に足を開くだけの簡単な仕事を放り出して。
「ふざけんじゃねぇぞ、クソがっ!!」
もうすでに前払金は受け取っていて、このままでは自分たちが責任を取らされることになってしまう。
だからあちこちを探し回り、あの娘が幼少期過ごしていたこんな田舎まで来たのだ。
絶対に見つけださなければと男は辺りを見渡すが、ふと妻の姿が見えなくなっていることに気づいた。
「おい、何やってやがる! 早く探せっ」
立ちながら叫ぶが、一向に返ってくる言葉はない。
仕方なく来たを戻れば、倒れている妻の姿が目に入った。
「はっ? 何やって……」
その瞬間、男は強い目眩に襲われてそのまま地面に倒れる。
「……な……なんだ……これ……」
打ち付けられた衝撃で体に痛みが走るが、指一本動かせず起き上がることができない。
かろうじて動く眼球で周りを見渡していると、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
(だ……誰だ……?)
恐怖心から視線だけを向ければ、そこには見知らぬ青年が立っていた。
影になってその顔はよく見えない。ただ、彼が纏っている雰囲気は明らかに普通ではなかった。
そこにいるのは確かなのに存在感が希薄で、まるで現実感がない。
それなのに視線だけは強く感じ、冷たい汗が流れ落ちた。
「まず、お礼を言わせてくれ」
青年の声は穏やかで優しげなものであったが、何故か男の背筋は凍るような錯覚を覚える。
「ここに来てくれてありがとう。本当に助かった。俺はここからあまり離れられないから、どうすればここにおびき出すことができるか悩んでいたんだ。おかげで手間が省けた」
(何を言ってやがるんだ……こいつ……)
意味不明なことを言い出した青年に対し、男は混乱する。
そんな男を気にする様子もなく、青年は話を続けた。
「芽依と離れ離れになった十年間、ずっと迎えに行きたかった。けれど、俺の本来の体はもうとっくに朽ちて消えてしまっているし、新しい体を作るのにも代償が必要だ。流石に、何の罪もない人を犠牲にするわけにはいかなかないだろ? ……けれど、芽依が苦しんでいたならどんなことをしてでも助けに行くべきだったな。一人、朽ちていくはずだった俺に未来への希望を与えてくれたのは芽依なのだから」
淡々と紡がれていく言葉に、男の心臓が激しく脈打つ。
何故だか、とても恐ろしいことが起ころうとしているような気がしてならなかった。
(やばい……逃げないと!!)
本能的にそう思ったが、やはり体が動かない。
そうこうしているうちに、青年がゆっくりと上を指差す。そこには赤い赤い、血のような夕日が広がっている。
「見ろ、逢魔時だ……俺の力が一番強くなる時間」
呟いた直後、青年の影がぐにゃりと歪んだ。
「ひっ……」
悲鳴をあげる男だが、やはり逃げ出すことは叶わない。
「大丈夫だ。安心してくれ……痛みはすぐになくなる」
優しく囁かれた声を最後に、男の視界は闇に包まれた。
***
昔々、この辺り一帯をとある呪術師の一族が治めていた。
その一族の力は強く、敵対していた他の呪術師たちをことごとく滅ぼしていくったらしい。
当然、多くの者から恨まれたが、それでも彼らは長きに渡って栄光を欲しいままにしてきた。
彼らがそれほどまでに強大な力を手にすることができたのは、おぞましい儀式を執り行っていたからである。
その儀式とは、一族の中でも強い力を持つ子供を『素材』として利用し、強力な呪いを生み出すことだった。
当然、素材にされた子供たちは助からない。
それでも一族の者たちは儀式を取り止めようとはしなかった。
しかし、どんなものにも終わりは訪れるものである。
犠牲になった子供たちの怨念は消えることなく、少しずつ蓄積されていき、ついには儀式で生み出された呪いよりも大きなものとなった。
そして、最後に選ばれた子供の力は歴代と比べ物にならないほど強かったのだ。それこそ、途方も無いほど膨大な呪いを制御できるほどに。
この二つが一つになった時、一族はたった一晩で滅んだ。
生き残った者は、誰一人いなかったという。
そして、呪いと一つになった子供の名は……
***
「……ん……」
目を覚ました芽依が最初に見たものは、見慣れぬ天井だった。
「ここは……?」
ぼんやりとした意識のまま、周囲を見渡すと心配そうな表情を浮かべた陽真が隣にいた。
「よかった……目が覚めたのか」
安堵したように言う彼に、芽衣は状況を理解すると同時に慌てて飛び起きる。
「陽真くん! 大丈夫!? あの人達から何かされなかった!?」
芽依は自分の両親が暴力を振るうのに抵抗の無い人間であることを知っているのだ。
その人達が、陽真に何か酷いことをしていないか不安で仕方なかった。
「あぁ、大丈夫だ。俺は何ともない。心配をかけてごめんな……」
「本当……? 本当に何とも……っ」
泣き出しそうになる芽依を見て、彼は困ったように笑う。
「そうだ。本当に何ともないんだ。それに、あいつらももう二度とここには現れないからな」
「あの人たちが? 本当に?」
信じられないという顔をする芽依に、陽真は力強く肯定する。
「もちろんだ。俺が保証するよ。だから、安心していい」
その言葉を聞いて、芽依はようやく肩の力を抜いた。
「……そっか、良かった。私のせいで、陽真くんまで巻き込まれたらどうしようって思ってたの」
申し訳なさそうにする彼女に、陽真は首を横に振る。
「気にしないで欲しい。芽依が無事ならそれでいいんだ」
心の底から嬉しそうにしている彼に、芽依は疑問を抱く。
「どうして……ここまでしてくれるの?」
自分と彼は、この十年間全く交流がなかったというのに。
「そんなこと、決まってるじゃないか」
芽依の問いに、陽真は明朗な笑みで答える。
「『ずっと一緒にいよう』って約束しただろう」
その答えに、芽依は思わず息を飲んだ。
「覚えててくれたの? 十年前のことを……」
「当たり前だろ? 俺にとっては大事な思い出なんだから」
陽真の当たり前だと言わんばかりな態度に、芽依の目からは涙が溢れ出す。
「陽真くんっ……」
芽依は陽真の胸に飛び込み、彼の背中に腕を回す。
陽真も彼女を優しく包み込み、二人は抱きしめ合った。
(……あれ?)
けれども、芽依は不思議な感覚を覚える。
芽依と陽真が触れ合ったのはこれが初めてではない。
一緒に遊んでいた頃、何度も手を握ったことがあるし、抱きついたこともあったはずだ。
なのにこの違和感はなんだろう。まるで初めて陽真に触れたような、そんな気がしてならない。
けれども、そんなことあるはずがないので、芽依は自分の違和感を気のせいで片付けた。
「これからは、ずっと一緒にしてくれる?」
「あぁ、勿論だ。絶対に離れない。共に生きていこう」
その言葉を聞き、芽依は幸せそうに微笑む。
「嬉しい……大好きだよ、陽真くん」
「俺もだ。愛している、芽依……」
二人の唇はゆっくりと近づいていき、やがて重なり合う。
芽依の心は満たされ、幸福感に包まれていた。
彼女の両親がどうなったかなんて、もう気にする必要などないことである。
『頼むから泣かないでくれ。そんなに泣かれると俺も辛くなる』
『だって……だってぇ……』
『大丈夫だ。いつか、必ず……』
「う、ん……」
芽依はゆっくりと目を開ける。
ガタガタと揺れる電車の窓から傾きかけた日の光が差し込んでいた。
起きたばかりの頭はまだ霞がかって、ぼんやりとしていたがそれも徐々に明瞭になっていく。
(……あ、もうすぐ降りる駅だ)
そう思って、芽依は目を擦りながら身を起こし降りる準備を始める。
やがて電車は人影のない駅に到着して、扉を開く。
誰もいないホームに降り立ち、無人の改札を抜ければ、十年前と変わらぬ景色が広がっていた。
(……ここは、変わってないな)
木造の古びた駅舎、生い茂る木々、まばらな家屋、その向こうに広がる田んぼや畑。
それらをなんともなしに眺めてた後、祖父母の家があった場所に向かう。
今が何時なのかわからない。腕時計など持っていないし、携帯は電源を落としていたからだ。
記憶を頼りにあるき続けると、たどり着いたその家は荒れ果てていたものの、まだそこにあった。
窓は割れ、雨戸は外れ、雑草が伸び放題になっていたものの、それでもかつて暮らしていた頃の面影を残している。
懐かしさを感じつつも、芽依はこれからのことを思った。
(どうしよう……できればここに泊まれたらと思ったけれど、これじゃあ無理そうだし……でも、他に行く宛なんて……)
だからといって、親のところに戻るなど絶対に嫌だった。そんなことをするぐらいなら、このまま野宿するほうがましである。
そもそも、戻れるだけのお金がない。
「これからどうしよう……」
途方に暮れていると、ふいに背後から声をかけられた。
「もしかして君は、芽依か?」
驚いて振り返るとそこには一人の青年が立っていた。
年齢は芽依と同じぐらいだろう。しかし、目鼻立ちが整っていて大人びて見える。
目の前の青年が誰なのか、一瞬迷う芽依だったが一人だけ思い当たる人物がいた。
「……陽真くん?」
恐る恐る尋ねると、彼は嬉しそうに口元を緩める。
「ああ、やっぱり芽衣だ!久しぶりだな!」
「うん、久しぶり」
久しぶりに会った幼馴染みとの再会に芽依の顔は自然と笑みを浮かぶ。
「私のこと、覚えていてくれたんだね」
「当たり前だろう。俺が芽依のことを忘れるはずがないじゃないか」
陽真はそう言うが、十年間音信不通だったのだから忘れていてもおかしくはない。
それなのに、自分のことを覚えていてくれたことが芽依の胸を打つ。
「……ありがとう」
「ところで、どうしてここへ? 何かあったのか?」
「えっと……」
陽真の質問に言い淀んでしまう。自分の事情を、再会したばかりの彼に話すことは躊躇われたのだ。
そんな彼女の様子を気づいているのかいないのか、陽真は明るい声で言った。
「まぁいいか。それより、もし時間があるなら少し付き合ってくれないか? いろいろと話したいことがあるんだ」
「そ、それじゃあ、少しだけお邪魔させてもらっていい?」
控えめに申し出れば、陽真は大きく首肯した。
「ああ。こっちだ、ついてきてくれ」
そのまま歩き出した彼の後を追うように、芽依は山の奥へと足を踏み出す。
(まさか、陽真くんとまた会えるなんて……)
十年ぶりに見る初恋の人の背中は、あの頃よりも大きくなっていた。
十年前、芽依は祖父母とこの村に住んでいた。
両親のことはよく知らなかったが、二人とも芽依のことをとても可愛がってくれたから特に寂しくはなかった。
けれど、周辺には同じ年頃の子がおらず、一番近い学校も一時間以上電車を乗り継がなければいけなかったため、友達と遊ぶこともままならないことが不満ではあった。
あの日も、働く祖父母の邪魔にならぬよう芽依は一人で遊んでいたのだが、すぐに飽きてしまい外へと飛び出した。
そして幼い好奇心と冒険心のままに、山の方まで足を伸ばしたのだが、深く踏み込み過ぎたせいで道に迷ってしまったのた。
右を見ても左を向いても似たような景色ばかり。自分がどこから来たのかすらわからない。
『おばあちゃん、おじいちゃん……どこぉ?』
涙ぐみながら祖父母を呼ぶものの当然返事は返ってこず、不安と恐怖がごちゃ混ぜになった感情に押しつぶされそうになったその時だった。
『どうしたんだ? 迷子か?』
ふいに声をかけられ振り向けば、そこにいたのは自分と同じぐらいの少年。
『う、うわあああ!』
人に会えた安心感から芽依は泣き出してしまった。
いきなり目の前で女の子が号泣し始めたことに驚いた少年は慌てて彼女の傍に近づき、その頭を優しく撫でてやる。
『泣かないでくれ。ほら、もう大丈夫だから』
そうしてしばらくあやされて落ち着いた頃、芽依はようやく彼の名前を知ることができた。
それが陽真との出会い。
その後、陽真の案内で無事に家に帰ることができた芽依は、翌日から毎日のように山に入り彼と一緒に遊んだ。
陽真はとても優しくて面倒見もよく、芽依はあっという間に陽真のことが大好きになった。
きっとそれは陽真も同じだったのだろう。
ここにはあまり来ない方がいい、と言いながらいつだって嬉しそうな笑顔を浮かべながら彼女を迎えてくれた。
大好きな祖父母と暮らし、大好きな陽真と遊び、いつか大人になったら陽真と恋人になりたい。そう思っていたのだ。
だが、終わりは唐突に訪れた。
祖父母が事故で他界したのだ。その上、長年会ったことがないどころか存在すら知らなかった親と、ここからずっと遠い場所で暮らさねばならないのだという。
嫌だった。慣れ親しんだ土地を離れることも、陽真と会えなくなることも。
けれど、幼い芽依にはどうすることもできず、ただ泣くことしかできなかった。
そんな彼女を、陽真は優しく慰め涙を拭う。
そして、彼は芽依に言った。
『いつか、必ず迎えに行く。そうしたら、ずっと一緒にいよう』
約束だと小指を差し出され、芽依は迷うことなくそれに自分の小指を絡めた。
芽依にとって、決して色褪せることのない大切な記憶。
(……でも、陽真くんは覚えてないだろうな)
もう十年という月日が流れているし、仮に覚えていたとしてもそんな幼い頃にした約束を律儀に守ろうとなんてしないだろう。
成長した陽真は贔屓目なしに見ても格好良く、年頃の女の子が放っておくとは思えない。
付き合っている人がいてもおかしくない。
そう思うと、芽依の胸がチクリと痛んだ。
「着いたぞ」
陽真の声に我に返り顔を上げれば、山の中には少し不釣り合いな古くも格式高い屋敷があった。
「ここが、陽真くんのお家?」
「まあ、そんなところだな」
曖昧に答えた陽真に続いて、門をくぐる。
その瞬間、空気が変わったような気がした。
うまくいえないのだが、門を境目にして雰囲気が異なるのだ。
決して嫌な感じはしない。むしろ、清廉で澄み切っていて、神聖さすら感じる。
けれども、だからこそ自分がひどく場違いに思えて、芽衣は少しだけ居心地が悪くなった。
そんな感覚に戸惑いながらも、芽依は陽真の後に続く。
家の中には、自分たち以外誰もいないようでひっそりとしていた。
(そういえば、陽真くんのご家族に会ったことなかったな……)
家を訪れるのも今日が初めてだし、どこの学校に通っていたのかも知らない。
自分は陽真のことを何も知らないのだと、今更ながらに思い知る。
「お茶をいれてくるから、適当に座って待っていてくれ」
「うん、ありがとう」
広い和室に通され、芽依は言われた通りに座布団の上に腰を下ろす。
「……」
一人待っている間、芽依は携帯を取り出した。
電源を入れてみるも、おびただしい数の着信とメールが届いている。
送り主は親からで、内容はどれも同じだ。
『どこにいる』『早く戻ってこい』『ふざけるな』『恩知らず』『許さない』『殺すぞ』
そんな文字列が延々と続いている。
芽依は小さくため息をつくと、電源を落としてしまい込む。
胸に泥が溜まっていくような不快感に蝕まれていくのを感じながら、外を眺めつつぼんやりとこれからのことを考えた。
(きっと、あの人達はそのうちここに来る……その前に、別の場所に行かないと……)
けれど、どこに行けばいいのだろう。
お金もないし、伝手もない。学校にもろくに通えなかったから学もないのだ。
考えれば考えるほど、自分の未来が閉ざされているとしか思えない。
「待たせたな」
声をかけられ振り向けば、そこには盆を持った陽真の姿があった。
「あ、ううん。全然、待ってないよ」
慌てて笑顔を取り繕いながら答える。
そんな芽依に陽真は一瞬眉を寄せたものの、すぐに笑みを浮かべると彼女の前に湯飲みを置いた。
「熱いから気をつけて飲んでくれ」
「うん、ありがとう。いただきます」
一口飲むと、熱すぎず温か過ぎず、ちょうど良い温度の茶だった。
「このお茶、美味しいね。初めて飲んだけど、すごく好きかも……」
「そうか? それならよかった」
嬉しそうに微笑む陽真を見て、芽依の頬が自然と緩んだ。
こんなふうに、穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろう。
少なくとも、親と共にいる時には感じなかったことだ。
「……なあ、芽依はこれからどこか行くあてはあるのか?」
不意に投げかけられた質問に、芽依は息を呑んだが、動揺を悟られないように平静を装い答える。
「えっと……どうして、急にそんなことを?」
「さっき、これからどうしようって呟いていただろう。だから、行くあてがないんじゃないかと思って」
まさか聞かれていたとは思わず、芽依の顔が強張った。
それからゆっくりと息を吐いて、笑顔を作る。
「気にしてくれてありがとう。でも、私は大丈夫だから気にしないで」
けれど、陽真は納得がいかないという表情を浮かべたまま、なおも口を開く。
「なあ、本当のことを話してくれ。俺は芽依の力になりたいんだ」
「……っ!」
その言葉に、芽依の心臓が跳ねた。
陽真にはきっと他意はなく、芽依のことを本当に心配しているのだろう。
だが、それでもその厚意に甘えられない。
十年前と変わらず優しい彼に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
「本当に大丈夫だから……それじゃあ、私用事があるからもう行かなきゃ」
そう言って笑うと、芽依は立ち上がり部屋を出ようとした。
これ以上一緒にいたらボロが出てしまうかもしれない。
しかし、陽真は芽依の腕を掴み引き止める。
「待ってくれ!そんな顔で笑う君を放っておけない!」
「は、離して!」
芽依は掴まれた腕を振り払うと、そのまま玄関へと向かう。
「芽依!」
背後で陽真の叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることなく走り続けた。
「はあ……はあ……」
門を抜け、山道を駆け下りながら芽衣は大きく肩で呼吸をする。
体力のない身体はあっという間に悲鳴を上げ、肺が痛くなった。
(ここまでくれば、もう来ないかな……)
木々が開け、道に出たところで立ち止まり後ろを振り返る。
陽真の姿はない。夕焼けに染まる薄暗い森が続いているだけだ。
「……早く、行かないと」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、芽依は歩き出した。
向かう先は、もちろん決めていない。
ただ、ここに居てはいけないという思いだけが彼女を突き動かしていた。
しかし、その歩みは数歩も進まないうちに止まる。
「……えっ」
視線の先に見覚えのある車を見つけ、彼女の喉がひゅっと音を立てた。
それは間違いなく、彼女の両親が使っている車だ。
「なんで、ここに……」
震える足で後ずさるより前に、車のドアが開き中から一組の男女が現れた。
それは間違いなく彼女の両親であり、その姿をみた瞬間、芽依は弾かれたようにその場から逃げ出した。
「見つけだぞ、てめぇ!!」
「何逃げてんのよ! あんたのせいで私たちにどれだけ迷惑かけたかわかってんの!?」
後方から響く罵声を聞きながら、芽依は森の奥へと走る。
途中、転びそうになりながらも、落ちていた枝や石で傷を負おうとも彼女は止まらない。
決して体力があるとはいえない芽依ではあったが土地勘はあり、ある程度距離を保つことができた。
しかし、それも長くは続かないだろう。
(誰か、助けて……誰かっ……陽真くん!)
涙で視界が歪む中、芽依は必死に助けを求めた。
そして、その願いは聞き届けられる。
「芽依!」
突如として現れた陽真を見て、芽依の目が大きく見開かれた。
「よ、陽真くん、どうしてここに?」
彼女の質問に答えず、陽真は彼女の手を取る。
「今は逃げるのが先決だ。俺についてきてくれ」
「う、うん!」
陽真の言葉に芽依は力強くうなずくと、彼の手を握り返し再び走り出す。
そうしてなんとか辿り着いたのは陽真の屋敷だ。
その門をくぐり抜けると、陽真はようやく芽依の手を解放した。
「ここまで来れば大丈夫だろう……芽依はここで休んでいろ」
「え、陽真くん!?」
それだけ告げると、陽真は再び外に出て門を閉めてしまう。
「陽真くん!」
慌てて追いかけようとする芽依だったが、固く閉ざされた扉を開けることはできない。
ドンッドンッと何度も叩くが、返事はなかった。
途方に暮れる芽依だが、不意に強烈な眠気に襲われる。
(あれ? どうして急に……)
立っていることもままならず、その場に倒れこんだ。
痛みはなかったが、指一本動かすことができない。
(寝てる場合じゃ……ないのに……)
瞼が重くなっていく感覚に耐えきれず、芽依はそのまま意識を失った。
***
「くそっ! どこに行ったんだ、あいつ!」
「さっさと見つけないと、まずいよ。金なんてもう残ってないし」
「んなもんわかってんだよ!!」
男は自分の妻である女を怒鳴りながら、逃げた娘を探していた。
その顔には焦りと怒りが入り混じり、余裕がない。
(あのガキ、ただでさえ役立たずのグズのくせに育ててやった恩を忘れて逃げ出しやがって!)
もともと子供は嫌いだったし欲しくなかったのだが、気づいた時にはもう堕ろせない時期になっていたのだ。
仕方なく生ませたが育てるつもりなど毛頭なく、妻の両親に押し付けていたのだが、十年前その二人が死んだ為引き取らざるを得なくなった。
それでもちゃんと面倒はみてやったし、元々馬鹿で無能だったから就職に困るだろうと仕事先も世話したのだ。
だが、あの娘は逃げ出した。男に足を開くだけの簡単な仕事を放り出して。
「ふざけんじゃねぇぞ、クソがっ!!」
もうすでに前払金は受け取っていて、このままでは自分たちが責任を取らされることになってしまう。
だからあちこちを探し回り、あの娘が幼少期過ごしていたこんな田舎まで来たのだ。
絶対に見つけださなければと男は辺りを見渡すが、ふと妻の姿が見えなくなっていることに気づいた。
「おい、何やってやがる! 早く探せっ」
立ちながら叫ぶが、一向に返ってくる言葉はない。
仕方なく来たを戻れば、倒れている妻の姿が目に入った。
「はっ? 何やって……」
その瞬間、男は強い目眩に襲われてそのまま地面に倒れる。
「……な……なんだ……これ……」
打ち付けられた衝撃で体に痛みが走るが、指一本動かせず起き上がることができない。
かろうじて動く眼球で周りを見渡していると、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
(だ……誰だ……?)
恐怖心から視線だけを向ければ、そこには見知らぬ青年が立っていた。
影になってその顔はよく見えない。ただ、彼が纏っている雰囲気は明らかに普通ではなかった。
そこにいるのは確かなのに存在感が希薄で、まるで現実感がない。
それなのに視線だけは強く感じ、冷たい汗が流れ落ちた。
「まず、お礼を言わせてくれ」
青年の声は穏やかで優しげなものであったが、何故か男の背筋は凍るような錯覚を覚える。
「ここに来てくれてありがとう。本当に助かった。俺はここからあまり離れられないから、どうすればここにおびき出すことができるか悩んでいたんだ。おかげで手間が省けた」
(何を言ってやがるんだ……こいつ……)
意味不明なことを言い出した青年に対し、男は混乱する。
そんな男を気にする様子もなく、青年は話を続けた。
「芽依と離れ離れになった十年間、ずっと迎えに行きたかった。けれど、俺の本来の体はもうとっくに朽ちて消えてしまっているし、新しい体を作るのにも代償が必要だ。流石に、何の罪もない人を犠牲にするわけにはいかなかないだろ? ……けれど、芽依が苦しんでいたならどんなことをしてでも助けに行くべきだったな。一人、朽ちていくはずだった俺に未来への希望を与えてくれたのは芽依なのだから」
淡々と紡がれていく言葉に、男の心臓が激しく脈打つ。
何故だか、とても恐ろしいことが起ころうとしているような気がしてならなかった。
(やばい……逃げないと!!)
本能的にそう思ったが、やはり体が動かない。
そうこうしているうちに、青年がゆっくりと上を指差す。そこには赤い赤い、血のような夕日が広がっている。
「見ろ、逢魔時だ……俺の力が一番強くなる時間」
呟いた直後、青年の影がぐにゃりと歪んだ。
「ひっ……」
悲鳴をあげる男だが、やはり逃げ出すことは叶わない。
「大丈夫だ。安心してくれ……痛みはすぐになくなる」
優しく囁かれた声を最後に、男の視界は闇に包まれた。
***
昔々、この辺り一帯をとある呪術師の一族が治めていた。
その一族の力は強く、敵対していた他の呪術師たちをことごとく滅ぼしていくったらしい。
当然、多くの者から恨まれたが、それでも彼らは長きに渡って栄光を欲しいままにしてきた。
彼らがそれほどまでに強大な力を手にすることができたのは、おぞましい儀式を執り行っていたからである。
その儀式とは、一族の中でも強い力を持つ子供を『素材』として利用し、強力な呪いを生み出すことだった。
当然、素材にされた子供たちは助からない。
それでも一族の者たちは儀式を取り止めようとはしなかった。
しかし、どんなものにも終わりは訪れるものである。
犠牲になった子供たちの怨念は消えることなく、少しずつ蓄積されていき、ついには儀式で生み出された呪いよりも大きなものとなった。
そして、最後に選ばれた子供の力は歴代と比べ物にならないほど強かったのだ。それこそ、途方も無いほど膨大な呪いを制御できるほどに。
この二つが一つになった時、一族はたった一晩で滅んだ。
生き残った者は、誰一人いなかったという。
そして、呪いと一つになった子供の名は……
***
「……ん……」
目を覚ました芽依が最初に見たものは、見慣れぬ天井だった。
「ここは……?」
ぼんやりとした意識のまま、周囲を見渡すと心配そうな表情を浮かべた陽真が隣にいた。
「よかった……目が覚めたのか」
安堵したように言う彼に、芽衣は状況を理解すると同時に慌てて飛び起きる。
「陽真くん! 大丈夫!? あの人達から何かされなかった!?」
芽依は自分の両親が暴力を振るうのに抵抗の無い人間であることを知っているのだ。
その人達が、陽真に何か酷いことをしていないか不安で仕方なかった。
「あぁ、大丈夫だ。俺は何ともない。心配をかけてごめんな……」
「本当……? 本当に何とも……っ」
泣き出しそうになる芽依を見て、彼は困ったように笑う。
「そうだ。本当に何ともないんだ。それに、あいつらももう二度とここには現れないからな」
「あの人たちが? 本当に?」
信じられないという顔をする芽依に、陽真は力強く肯定する。
「もちろんだ。俺が保証するよ。だから、安心していい」
その言葉を聞いて、芽依はようやく肩の力を抜いた。
「……そっか、良かった。私のせいで、陽真くんまで巻き込まれたらどうしようって思ってたの」
申し訳なさそうにする彼女に、陽真は首を横に振る。
「気にしないで欲しい。芽依が無事ならそれでいいんだ」
心の底から嬉しそうにしている彼に、芽依は疑問を抱く。
「どうして……ここまでしてくれるの?」
自分と彼は、この十年間全く交流がなかったというのに。
「そんなこと、決まってるじゃないか」
芽依の問いに、陽真は明朗な笑みで答える。
「『ずっと一緒にいよう』って約束しただろう」
その答えに、芽依は思わず息を飲んだ。
「覚えててくれたの? 十年前のことを……」
「当たり前だろ? 俺にとっては大事な思い出なんだから」
陽真の当たり前だと言わんばかりな態度に、芽依の目からは涙が溢れ出す。
「陽真くんっ……」
芽依は陽真の胸に飛び込み、彼の背中に腕を回す。
陽真も彼女を優しく包み込み、二人は抱きしめ合った。
(……あれ?)
けれども、芽依は不思議な感覚を覚える。
芽依と陽真が触れ合ったのはこれが初めてではない。
一緒に遊んでいた頃、何度も手を握ったことがあるし、抱きついたこともあったはずだ。
なのにこの違和感はなんだろう。まるで初めて陽真に触れたような、そんな気がしてならない。
けれども、そんなことあるはずがないので、芽依は自分の違和感を気のせいで片付けた。
「これからは、ずっと一緒にしてくれる?」
「あぁ、勿論だ。絶対に離れない。共に生きていこう」
その言葉を聞き、芽依は幸せそうに微笑む。
「嬉しい……大好きだよ、陽真くん」
「俺もだ。愛している、芽依……」
二人の唇はゆっくりと近づいていき、やがて重なり合う。
芽依の心は満たされ、幸福感に包まれていた。
彼女の両親がどうなったかなんて、もう気にする必要などないことである。
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