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6話
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名前のわからない彼が来てから、すでに一週間が経った。最初の数日は彼も警戒していたけれど、今ではすっかり屋敷の生活に慣れている様子だ。
私は執務の合間に、彼の部屋へ様子を見に行くのが日課になっていた。扉を開けると、彼の青い瞳がこちらを見つけ、ぱっと明るい表情になる。
その瞬間、胸がじんわりと温かくなるのを感じる。
「……まるで、雛鳥を飼い始めたみたいね」
彼の部屋には、いつも数人の使用人が交代で世話をしてくれている。オズワルドが指示を出してくれたおかげで、皆、特に不満も言わずに彼の世話をしてくれていた。
彼の一日も、徐々に規則正しくなってきた。
朝は使用人が体を拭き、衣服を整え、必要があれば彼の髪を整える。その後、オズワルドが彼に字の書き方を教える時間がある。これがなかなかの難関だった。
「そこは“まっすぐ”です。くるっと回して、はい、もう一度」
オズワルドの落ち着いた声が部屋に響くたび、彼は不器用にペンを握り直していた。彼の指先は動きが硬く、なかなか思うようにペンを動かせないようだった。
「……ふむ。少しずつ慣れていきましょう」
そう言いながらも、オズワルドは根気よく彼に教え続けている。彼も最初は不機嫌そうな顔をしていたが、今では集中してペンを動かすようになった。
主治医のリウドも、毎日彼を診察している。
「相変わらず、声が出せないのと足が動かないのは変わりませんね……」
リウドがそう言いながら彼の膝を軽く叩くと、彼の足は微動だにしなかった。
「でも、反射は見られます。感覚が完全に失われているわけではないようです」
その言葉を聞いて、私は少しだけ安堵する。
そう思わず口に出して、ふっと笑みがこぼれる。彼はそんな私の顔を不思議そうに見つめているが、気にする様子はない。
「となると、原因は筋肉か、それとも……」
リウドは考え込みながら彼の足をゆっくりと曲げたり伸ばしたりしている。彼は不安そうにリウドの動きを見ていたけれど、少しも痛がる様子はなかった。
声が出ない理由も分からない。喉には異常が見られないし、発声に必要な筋肉も問題なさそうだと、リウドは首を傾げている。
「何かしら……普通の病気や怪我ではなさそうね」
そんな彼の心配をしつつも、私の"本業”も慌ただしくなる。今日は、領土の主要な代表者たちとの定例会議がある日だった。執務室を出て、屋敷の一室に向かうと、すでに代表者たちが集まっていた。
この会議は、私が子爵になる前から欠かさず行っている。漁師たちを束ねる代表、港の店舗を管理する者、貿易の窓口を担う業者。アークレイン領を支える“海の男たち”が一堂に会する日だ。
「おっ、リディア様が来たぞ!」
「今日相変わらず美しいねぇ」
「お前はどうせまた文句を言いに来たんだろ!」
「ふん、事実を言うだけだ」
彼らは口調こそ荒いが、全員が領地の未来を真剣に考えている男たちだ。
最初に私が子爵を継いだときは、「こんな若い女が領地を治められるのか」と散々言われたものだが、今では彼らも私を認めてくれるようになった。
それでも、彼らは時折、父の話を持ち出してくる。
「リディア様の親父さんはな、もっと厳しい目を持ってたもんだ」
「そうだ、あの人は港の作業にも口を出してきたぞ」
そんな話が出るたび、彼らが未だに“あの頃”を懐かしんでいるのが分かる。父の代わりは務まらない。だけど、今の私は「私なりのやり方」でこの領地を守る覚悟がある。
「皆さん、集まっていただきありがとうございます。さっそく本日の議題を始めましょう」
会議の冒頭、私は静かにそう告げた。彼らの表情はそれぞれ違ったが、真剣な眼差しが返ってきた。この会議では、漁業の収益、港の維持費、貿易先の見直しなど、毎回様々な話題が取り上げられる。
港の維持費が不足していると報告が入ると、すぐに漁師の代表が声を上げる。
「維持費が足りないなら、こっちも協力するぞ。だが、うちの漁に影響が出るなら、そいつは話が違う!」
「港がなけりゃ、貿易もできねぇだろうが。少しは大人しくしてろ!」
彼らの口論が始まると、いつもは一筋縄ではいかない。
「…静かに」
私は彼らを見渡し、少しだけ声を張り上げた。
「言い分は分かります。でも、今は感情で話をしても意味がありません。まずは、現状を正確に把握してから対策を考えましょう」
ピリピリしていた空気が、少しだけ落ち着いた。彼らの意見は時にぶつかり合うけれど、全員がこの土地を愛しているからこそ、必要な衝突だと私は思っている。
彼らの視線が私に集まる。
「俺たちはリディア様を信じているが、こちらも生活があるんだ」
漁師の代表がそう言った。
「ええ、分かっています。だからこそ、みんなで協力して行きたいんです」
彼らは笑い合い、うなずいた。
私は執務の合間に、彼の部屋へ様子を見に行くのが日課になっていた。扉を開けると、彼の青い瞳がこちらを見つけ、ぱっと明るい表情になる。
その瞬間、胸がじんわりと温かくなるのを感じる。
「……まるで、雛鳥を飼い始めたみたいね」
彼の部屋には、いつも数人の使用人が交代で世話をしてくれている。オズワルドが指示を出してくれたおかげで、皆、特に不満も言わずに彼の世話をしてくれていた。
彼の一日も、徐々に規則正しくなってきた。
朝は使用人が体を拭き、衣服を整え、必要があれば彼の髪を整える。その後、オズワルドが彼に字の書き方を教える時間がある。これがなかなかの難関だった。
「そこは“まっすぐ”です。くるっと回して、はい、もう一度」
オズワルドの落ち着いた声が部屋に響くたび、彼は不器用にペンを握り直していた。彼の指先は動きが硬く、なかなか思うようにペンを動かせないようだった。
「……ふむ。少しずつ慣れていきましょう」
そう言いながらも、オズワルドは根気よく彼に教え続けている。彼も最初は不機嫌そうな顔をしていたが、今では集中してペンを動かすようになった。
主治医のリウドも、毎日彼を診察している。
「相変わらず、声が出せないのと足が動かないのは変わりませんね……」
リウドがそう言いながら彼の膝を軽く叩くと、彼の足は微動だにしなかった。
「でも、反射は見られます。感覚が完全に失われているわけではないようです」
その言葉を聞いて、私は少しだけ安堵する。
そう思わず口に出して、ふっと笑みがこぼれる。彼はそんな私の顔を不思議そうに見つめているが、気にする様子はない。
「となると、原因は筋肉か、それとも……」
リウドは考え込みながら彼の足をゆっくりと曲げたり伸ばしたりしている。彼は不安そうにリウドの動きを見ていたけれど、少しも痛がる様子はなかった。
声が出ない理由も分からない。喉には異常が見られないし、発声に必要な筋肉も問題なさそうだと、リウドは首を傾げている。
「何かしら……普通の病気や怪我ではなさそうね」
そんな彼の心配をしつつも、私の"本業”も慌ただしくなる。今日は、領土の主要な代表者たちとの定例会議がある日だった。執務室を出て、屋敷の一室に向かうと、すでに代表者たちが集まっていた。
この会議は、私が子爵になる前から欠かさず行っている。漁師たちを束ねる代表、港の店舗を管理する者、貿易の窓口を担う業者。アークレイン領を支える“海の男たち”が一堂に会する日だ。
「おっ、リディア様が来たぞ!」
「今日相変わらず美しいねぇ」
「お前はどうせまた文句を言いに来たんだろ!」
「ふん、事実を言うだけだ」
彼らは口調こそ荒いが、全員が領地の未来を真剣に考えている男たちだ。
最初に私が子爵を継いだときは、「こんな若い女が領地を治められるのか」と散々言われたものだが、今では彼らも私を認めてくれるようになった。
それでも、彼らは時折、父の話を持ち出してくる。
「リディア様の親父さんはな、もっと厳しい目を持ってたもんだ」
「そうだ、あの人は港の作業にも口を出してきたぞ」
そんな話が出るたび、彼らが未だに“あの頃”を懐かしんでいるのが分かる。父の代わりは務まらない。だけど、今の私は「私なりのやり方」でこの領地を守る覚悟がある。
「皆さん、集まっていただきありがとうございます。さっそく本日の議題を始めましょう」
会議の冒頭、私は静かにそう告げた。彼らの表情はそれぞれ違ったが、真剣な眼差しが返ってきた。この会議では、漁業の収益、港の維持費、貿易先の見直しなど、毎回様々な話題が取り上げられる。
港の維持費が不足していると報告が入ると、すぐに漁師の代表が声を上げる。
「維持費が足りないなら、こっちも協力するぞ。だが、うちの漁に影響が出るなら、そいつは話が違う!」
「港がなけりゃ、貿易もできねぇだろうが。少しは大人しくしてろ!」
彼らの口論が始まると、いつもは一筋縄ではいかない。
「…静かに」
私は彼らを見渡し、少しだけ声を張り上げた。
「言い分は分かります。でも、今は感情で話をしても意味がありません。まずは、現状を正確に把握してから対策を考えましょう」
ピリピリしていた空気が、少しだけ落ち着いた。彼らの意見は時にぶつかり合うけれど、全員がこの土地を愛しているからこそ、必要な衝突だと私は思っている。
彼らの視線が私に集まる。
「俺たちはリディア様を信じているが、こちらも生活があるんだ」
漁師の代表がそう言った。
「ええ、分かっています。だからこそ、みんなで協力して行きたいんです」
彼らは笑い合い、うなずいた。
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