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4話
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ベッドの横にあるテーブルに、湯気の立つスープが置かれた。琥珀色の透き通ったスープは、野菜の甘みがしっかりと溶け込んだ温かそうな香りを漂わせている。
私は彼の前にそっとスープを差し出した。
「温かいスープよ。お腹も空いているでしょう?」
彼はスープの器をちらりと見たが、すぐに顔をそらした。警戒しているのだろうか。
さっきまでは私たちの言葉を理解しているように見えたけれど、まだ完全に心を開いてくれたわけではなさそうだ。
「大丈夫よ。毒なんか入ってないから」
彼がスープを警戒しているのは、もしかしたら『食べ方が分からないからでは?』という考えが不意に浮かんだ。
もう一つスプーンを用意し、彼のベッドに腰掛ける。
私は自分用のスプーンを手に取り、彼の目の前でゆっくりとスープをすくった。
「見ててね。こうやって、すくって……」
私は彼の目を見ながらスープを口に運んだ。
「ん……美味しい」
わざとらしいかもしれないけれど、美味しいと感じていることを伝えるために笑顔を浮かべた。彼の視線が、スープから私に移った。
しばらくの間、私の動きを観察するようにじっと見つめていたが、やがて、彼はおそるおそる自分のスプーンを手に取った。
「……」
私は彼の手元に視線を向け、すぐに違和感に気づいた。彼は、スプーンの持ち方が明らかにおかしかった。
スプーンの柄を拳の中でぎゅっと握り、まるで武器でも持つように力を込めている。
(……スプーンが分からなかったのね)
心の中で、思わず小さな驚きが走った。確かに、彼はペンを持ったときも不器用な動きをしていた。
(もしかして……忘れてしまったのかしら?)
言葉も話せないし、歩くこともできない。加えて、スプーンの使い方すら知らない。まるで、“人間としての基本的な行動”が何か失われているように見える。
私は彼の様子をじっと観察した。彼は握りしめたスプーンをぐいぐいとスープに押し込み、勢いよく持ち上げた。
その瞬間、スープがぽたぽたとテーブルに落ちたけれど、彼はそれを気にせず、無理やり口にスプーンを押し込んだ。
「……っ」
私は思わず目を見張った。彼の青い瞳が一瞬、見開かれた。その後、彼の頬がわずかに赤くなった。
(美味しかったのね)
おそらくお腹も空いていたのだろう。彼は次の一口をすくうために、もう一度スプーンを握りしめた。今度はさっきよりも少し上手くすくえている。私は、彼の成長を見守る母親のような気持ちになっていた。
「ふふ……いい子ね」
不意に笑いがこぼれた。彼がこちらを見て、少し不満そうに眉を下げた。不機嫌そうな顔だ。
(あら、気にしてるの?)
彼はスープを次々に口に運び、気づけば器は空っぽになっていた。お腹が満たされたせいか、彼の瞳がぼんやりと虚ろになり始めている。
まるで子供が満腹になった後のような、眠気に負けそうな顔だ。その様子があまりにも可愛らしくて、私はまた笑いがこぼれた。
(ふふ、まるで子供ね)
スープを平らげた彼は、あくびを一つすると、体をもたれさせた。その姿を見て、私はふと考えた。
(これから、どうするのかしら)
まだ名前も分からない、話すこともできない、歩くこともできない。家がないどころか、自分が誰かすら分かっていないかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の目の前にしゃがみ込んだ。彼の青い瞳と目を合わせる。
「助けが必要なら、私の屋敷に住んでいいわよ」
その言葉に、部屋の空気が一瞬止まったような気がした。執事のオズワルドも、医師のリウドも、側に控えていた使用人たちも、全員が驚いた顔をしている。
「リディア様……」
オズワルドが小さな声で何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。誰も反論しなかった。
誰も、私の言葉を否定しなかった。私はその静けさを”肯定”だと受け取った。
「あなたが誰でも関係ありません。困っているのなら、お互い助け合いですから」
彼は、その言葉を理解したのかは分からない。でも、私の言葉が届いたのか、彼は目を見開き、じっと私を見つめていた。
何も言わないけれど、彼の瞳は揺れているように見えた。その様子が、なんだかとても切なく感じた。
きっと彼は、安心したのだと思う。目を閉じた彼の顔は、どこか穏やかだった。
「オズワルド、彼がここでしばらく生活出来る様にを整えてあげて」
「承知しました」
オズワルドが深く一礼し、部屋を出ていく。私は彼の側に座り込み、小さくなった彼の姿をそっと見守った。
(大丈夫よ。ここにいていいから)
その思いを、彼に伝えたくて、そっと彼の手を握った。彼の指は冷たかったけれど、さっきまでよりは温かい気がした。
そのまま、彼の目はゆっくりと閉じられた。彼の眠る姿は、まるで“安心”という言葉が形になったように見えた。
彼が、何者であろうと関係ない。ここが、彼の”帰る場所”になるかもしれない、何故かそう思えたから。
私は彼の前にそっとスープを差し出した。
「温かいスープよ。お腹も空いているでしょう?」
彼はスープの器をちらりと見たが、すぐに顔をそらした。警戒しているのだろうか。
さっきまでは私たちの言葉を理解しているように見えたけれど、まだ完全に心を開いてくれたわけではなさそうだ。
「大丈夫よ。毒なんか入ってないから」
彼がスープを警戒しているのは、もしかしたら『食べ方が分からないからでは?』という考えが不意に浮かんだ。
もう一つスプーンを用意し、彼のベッドに腰掛ける。
私は自分用のスプーンを手に取り、彼の目の前でゆっくりとスープをすくった。
「見ててね。こうやって、すくって……」
私は彼の目を見ながらスープを口に運んだ。
「ん……美味しい」
わざとらしいかもしれないけれど、美味しいと感じていることを伝えるために笑顔を浮かべた。彼の視線が、スープから私に移った。
しばらくの間、私の動きを観察するようにじっと見つめていたが、やがて、彼はおそるおそる自分のスプーンを手に取った。
「……」
私は彼の手元に視線を向け、すぐに違和感に気づいた。彼は、スプーンの持ち方が明らかにおかしかった。
スプーンの柄を拳の中でぎゅっと握り、まるで武器でも持つように力を込めている。
(……スプーンが分からなかったのね)
心の中で、思わず小さな驚きが走った。確かに、彼はペンを持ったときも不器用な動きをしていた。
(もしかして……忘れてしまったのかしら?)
言葉も話せないし、歩くこともできない。加えて、スプーンの使い方すら知らない。まるで、“人間としての基本的な行動”が何か失われているように見える。
私は彼の様子をじっと観察した。彼は握りしめたスプーンをぐいぐいとスープに押し込み、勢いよく持ち上げた。
その瞬間、スープがぽたぽたとテーブルに落ちたけれど、彼はそれを気にせず、無理やり口にスプーンを押し込んだ。
「……っ」
私は思わず目を見張った。彼の青い瞳が一瞬、見開かれた。その後、彼の頬がわずかに赤くなった。
(美味しかったのね)
おそらくお腹も空いていたのだろう。彼は次の一口をすくうために、もう一度スプーンを握りしめた。今度はさっきよりも少し上手くすくえている。私は、彼の成長を見守る母親のような気持ちになっていた。
「ふふ……いい子ね」
不意に笑いがこぼれた。彼がこちらを見て、少し不満そうに眉を下げた。不機嫌そうな顔だ。
(あら、気にしてるの?)
彼はスープを次々に口に運び、気づけば器は空っぽになっていた。お腹が満たされたせいか、彼の瞳がぼんやりと虚ろになり始めている。
まるで子供が満腹になった後のような、眠気に負けそうな顔だ。その様子があまりにも可愛らしくて、私はまた笑いがこぼれた。
(ふふ、まるで子供ね)
スープを平らげた彼は、あくびを一つすると、体をもたれさせた。その姿を見て、私はふと考えた。
(これから、どうするのかしら)
まだ名前も分からない、話すこともできない、歩くこともできない。家がないどころか、自分が誰かすら分かっていないかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の目の前にしゃがみ込んだ。彼の青い瞳と目を合わせる。
「助けが必要なら、私の屋敷に住んでいいわよ」
その言葉に、部屋の空気が一瞬止まったような気がした。執事のオズワルドも、医師のリウドも、側に控えていた使用人たちも、全員が驚いた顔をしている。
「リディア様……」
オズワルドが小さな声で何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。誰も反論しなかった。
誰も、私の言葉を否定しなかった。私はその静けさを”肯定”だと受け取った。
「あなたが誰でも関係ありません。困っているのなら、お互い助け合いですから」
彼は、その言葉を理解したのかは分からない。でも、私の言葉が届いたのか、彼は目を見開き、じっと私を見つめていた。
何も言わないけれど、彼の瞳は揺れているように見えた。その様子が、なんだかとても切なく感じた。
きっと彼は、安心したのだと思う。目を閉じた彼の顔は、どこか穏やかだった。
「オズワルド、彼がここでしばらく生活出来る様にを整えてあげて」
「承知しました」
オズワルドが深く一礼し、部屋を出ていく。私は彼の側に座り込み、小さくなった彼の姿をそっと見守った。
(大丈夫よ。ここにいていいから)
その思いを、彼に伝えたくて、そっと彼の手を握った。彼の指は冷たかったけれど、さっきまでよりは温かい気がした。
そのまま、彼の目はゆっくりと閉じられた。彼の眠る姿は、まるで“安心”という言葉が形になったように見えた。
彼が、何者であろうと関係ない。ここが、彼の”帰る場所”になるかもしれない、何故かそう思えたから。
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