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あの時言えなかった言葉

あの時言えなかった言葉

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 リンが目をそらす。


「教えとけ」


「ですが……」


「覚えときたいんだよ。全部は無理でも、最初に交わした会話ぐらい、覚えときたいだろ?」


 リンが消えることはない。


 しかしこの関係が消える時は必ず来る。

 
 その時は、俺もこいつの隣にはおるまい。


 先にこの関係は突拍子もなく切れると言った。しかし多分、この関係を切るのは俺からだ。


 切れることがわかっているのなら、俺は自分で切る。


 俺ってのは基本そういう男だ。


「……わかりました」


 少しの沈黙を挟んだ後、リンが言った。


 俺は無言で言葉を待った。


 いつまでこの関係は続くのかなーなんて、ふと考える。


 一年なのか。二年なのか。


 今日の夕日が沈むまでは続いていても、来年の夕日が沈むとき、どうなっているかはわからない。


 ――なんて、いくらなんでもセンチメンタルにすぎるか?


 酔いすぎている自分に、つい笑った。


「じゃあ、耳を貸してください」


 目を向ける。


 リンは赤い顔でモジモジしなから、目を背けていた。


「はあ!?」


 しばしの思考停止の後、俺は言った。


 リンはと言うと、赤い顔で髪をイジイジしながら、目を背けている。


「だ……誰にも聞こえないように耳打ちしますから。耳を貸してください」


 内緒話でもするように、リンが小声でせかしてくる。その顔の赤さは多分、夕焼けのものだけではないはずだ。


 俺は眉間に手を置いて、たっぷり呆れた。


「誰も聞いちゃいねえよ、そんなもん。いいからとっとと言え。これは上官命令だ」


「やです」


 プイと顔を反らして、リン。長い栗色の髪が弧を描く。


「あのなあ」


「あ、あたしも組長に言われてます。自分のことを周囲に漏らさないようにって。だから耳貸してくれないなら、リンもこのことは兄様には言いません」


 頬を膨らましながら、リンが言う。


 しかしその顔は、怒っているというより、何か、別の気持ちをこらえているようにも見えた。


 前にも言ったが、リンが自分のことを名前で呼ぶときは、誰かに甘えたいときなのだ。


 そうしてほしいと、心から願っている時、リンは自分のことを名前で呼ぶ。


 ――まあ、俺もシンプルに気になるしな。


「わかったよ」


 顔も見ずに、俺は言った。だから、その時リンがどんな顔をしているのかは、わからなかった。


 足を止めて、リンに耳を近づける。


 リンの匂いがやってきた。


 くすぐるように、手を耳元に添えられる。

 
 リンの息遣いが、耳元で聞こえた。


 そして――






   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






「あなたも……ここにいる人たちと、同じなんですか?」


 二年前。


 隠し地下牢の中で、あたしは兄様にそう言った。


 あたしをさらったのは、北翼ほくよくの人たちだった。その時、あたしの母と父、兄と姉を殺したのも、北翼ほくよくの人たちだった。


 そして、兄様の出身地もまた、北翼ほくよく


 兄様は東尾とうびでも有名で、あたしのような田舎者でも、兄様のことは知っていた。


 だから言った。


 一言で言えば、八つ当たりだ。


 さらった人間にも、自分にもあたることができない、弱き存在。

 
 それが、二年前のあたし。


 兄様は、そんなあたしを見て、笑った。


「ああ。――極悪人だよ」


「ヒョウ」


 有火あるか姉様の言葉を、兄様が片手で遮った。


「普通、人をたたっ切ると、少なからず心ってやつが痛むらしい。俺は多分、お前をさらった連中の倍以上殺して来たんじゃねえかなー。生きるためでもあったが、楽しむ意味もあった。その中には善人もいただろう。殺すに値すると思った時はガキでもやった。それでも、心を痛めたことは一度もない」


 二年一緒にいるからわかる。


 兄様は本来自分を語らない。


 そもそも人と話すこと自体が、そんなに好きではないのだと思う。

 
 いつも笑っていらっしゃるから、多くの人が勘違いしているけれど。


 本当の兄様は、わりと無口な方なのだ。


「仲間と思える人間が死んだことも何度となくあった。それでも、涙一滴零れやしねえ」


 そんな兄様が、自分を語る。


 それは、兄様が揺れている時なのだ。


 愚痴を言うのも言われるのも嫌い。説教するのもされるのも嫌い。


 誰かに支えられることも、甘えることもしない兄様だけれど、時々こういう弱みを見せる。


 それはいつも、東尾あたしたちと、自分の違いを知った時。


「お前みたいな弱っちい、哀れな奴を見てると俺はな――どうしようもなく、笑っちまう」


 口元に巻いた黒包帯の奥で笑いながら、兄様が言った。


 先程も言ったように、兄様が自分を語るときは、揺れている時だ。


 しかし、仮に揺れていたとしたって、初対面のあたしに、こんなことを言うはずがない。


 つまりこの台詞は、あたしに向けられているようで、実はあたしに向けられていないのだった。


「そういうわけだ。だから――そこをどけ。雪女」


 雪《ゆき》姉様に向かって、兄様が言った。


 しかし――


「アホ」


「バッカねえ」


 即座に、兄様に向かって、二つの罵声が突き刺さった。


 壁にもたれかかっていた有火あるか姉様が、音も立てず、兄様に向けて足を動かす。


「人を斬って心が痛まない? 仲間が死んでも涙が零れたことがない? 何を洒落たことで、心痛めてるんだよ、らしくない。
 お前は、逆境だろうと順境だろうと、笑って対峙する。そして勝つ。ふざけた男だ。しかし、お前のような男を光だと思っている人間も、少なからずいる。うちみたいな隊だと特にな。
 ま、あたしは違うがな」


 兄様と肩を並べて、有火あるか姉様が言った。


 そして。


 コツンと、雪姉様が、抜いた刀の鞘で兄様の頭を小突いた。


「大体ねえ。囚われのお姫様を救いに来た男がさー、悪党斬って心痛めてたり、仲間の死で泣いてたりしたら嫌じゃん? 
 あんた捕まってる子みたら笑えるって言ったわよね? だったらその笑った顔で、別のこと言ってみなよ。『助けにきた』とか『よく頑張った』とか『怪我はないか』とか。
 それが言えたらあんた、メチャクチャかっこいい男だよ。ま、あたし基準では、あるけどね」


 あたしは――


 あたしは、この時のことを、とてもとても後悔している。


 どうしてあたしは、兄様にあんなことを言ってしまったのだろう。


 二人に及ばないのは仕方がない。


 今ですら及んでいないのだから。


 それでももっと、他に言葉はあっただろうに。


 酷いことを言ってしまったと思った。謝りたいと思った。


 だけど今は――

 
 有火あるか姉様と、雪姉様に、ちょっと嫉妬してる。


「ふん。女やめたお前らにどうこう思われてもな」


 肩をすくめて、兄様が言った。


 怒る有火あるか姉様と、ため息つく雪姉様。


 兄様はしばしその場で立ち尽くしていた。


 そして――


「ただまあ――よかったと思うぜ。無事で」


「お!!」


 ぴょこんと。


 声を雪ウサギのように跳ねさせる雪姉様。


 声だけで楽しんでいることが、あたしにさえわかる。


 兄様を怒らせるには、十分すぎる。


「るっせえぞ、雪女!! いいかクソガキ!!」

 
 あたしを指さして、兄様が言った。

 
「助けにきたのはこいつらだ!! 頑張ったのはお前だ!! そして、怪我がなかったのはお前が色気のないガキだったから!! 以上!! わかったらどけ!!」


 兄様が、強引に雪姉様をどかして階段を登っていく。


 頬を膨らますあたし。消える兄様。そして――


 膨らましたあたしの頬を、瞬く間に間を詰めた雪姉様が、指で押して萎ませた。


 驚くあたしに、雪姉様が笑いかける。


「あんたも。こういう時は『ありがとう』ぐらい言わなきゃね。
 男はお姫様の一言で、いくらでも頑張れるものなんだからさ」


 立ち上がり、雪姉様がウインク一つ。


「ユキ。そんな台詞決めるぐらいなら、服ぐらいどうにかならなかったのか? そんな布一枚で出歩きやがって。目に毒だ」


 |有火(あるか)姉様が言った。


「あ、やっぱしー? アッハッハッハ」
 

 雪姉様が、お腹を抱えて笑う。


 笑う時、下ろした目蓋が、目の下に長い睫《まつげ》を並べている。


 あたしは――


 綺麗だと思った。


 雪姉様は、本当にいつもいつも楽しそうに笑う。


 それでいて、強く、楽観的なのに、言葉にはいつも重みがあった。


 聞いたことはないけれど、兄様は、雪姉様みたいな人が好きなんじゃないかと思ってしまう。
 
 
 あるいは、男の人はみんなそうなのかもしれない。


 あたしと雪姉様は、対極だ。
 

 雪姉様と比べる以前に、昔の言動を悔いる以前に、あたしが兄様を好きになるなんて、絶望で、何より罪であることも知っていた。


 だけどあたしは――


 雪姉様にも、誰にも、負けたくない。


 あれから二年経った。


 あたしは――


 ソッと、爪先を立てた。


 背はちょっとしか伸びなかったし。


 誰にも聞こえないように、兄様の耳に手を添える。


 強さも、雪姉様には遠く及ばない。背丈等々は言わずもがなだ。


 それでも届いている。一歩一歩。


 だったら、諦めたくない。


 兄様のことが、好きだから。


 そんな言葉さえ、今は罪だけれど、いつかは――





 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






 リンから耳を離して、目を向けた。


 リンは赤い顔をして、俺を見つめている。


 リンの言った言葉は、ありがとうございます、だった。


 確かにあの状況なら、そう言っていてもおかしくない。


 ありがちな定型区で、俺が忘れているのも道理である。


 しかし――


「お前本当にそんなこと言ったんだろうな?」


「え? 知りません」


 笑いをこらえるような声で、リンが言った。


「ああ!?」


 こっちは真剣に聞いていたんだ。


 それをこんな冗談で返されたら、イラつきもするってなもんだ。
 

 リンは素知らぬ顔で足を回して、俺にその小さな背中を向けた。


「昔のことすぎて、リンももう忘れちゃいました。ただそんなこと言ったかなーって、そんな気がしただけです」


「ふーん」


 嘘くせえ話だ。


 でもまあいっかと思った。


 こいつがそう言うなら、それで。


 真実を暴くのが、常に正しいとは限らない。


「そう――」


「だけど」


 俺の言葉を遮るので、リンを見た。


 リンは未だ俺に背を向けている。

 
「だ、だけど、いつか――その、思い出す日が、くるかもしれません」


 たどたどしく話すリン。


 顔を持ち上げ、夕焼けを見ていることしか、わからない。


 ただ、多分、顔を赤くしながら言ってんだろうなって思った。


「だから……」


 俺は続く言葉を待った。


「だから……」
 

 中々言わない。

 
 俺は、自分が待っていることも忘れて、待った。


 リンが、夕焼けに染まった紅い髪を揺らしながら、振り返る。

 
「だから、その時が来るまで、リンのことずっとずっと、見ていてくださいね。兄様」



 


『こいつはいっつも俺のことを見てやがるから――』






 目を開いて、そして閉じる。


 そうか。


 それだけ思った。


 足を回して、リンと肩を並べる。


 何と言おうか、迷った。


 足を数歩、先に進ませる。


 迷った挙句、頭に両手を置いて、逃げるように夕焼けを見つめた。


「ま、その時まで、気になってたらな」


 お前のことを。


 と、暗に含んだ気がした。


 きっと気のせいだと、思いこんだ。


 そんなわけ、あるものかと。






「――はい!!」






 リンの言葉が、耳孔を打つ。


 振り返った。

 
 リンの顔を見て、俺は――段々と。


 いや。


 やめておこう。


 この時、俺がなんて思ったか、なんてのは、例え心の中であっても、言えやしない。


 だから。






「あで」


 リンが言った。


 俺がリンの頭を手刀で打ったからだった。


「どうかなされたのですか?」


「ん? 心の中でも言えなかったから、行動で示そうと思ってな」


 笑って応えた。


 リンが頬を膨らまして見上げてくる。


 しかし、すぐに頬を萎ませて、リンもまた笑う。


「ちゃんと、いいこと言おうとしましたか?」


「ああ」


「ふふ。じゃあ許します」
 

「ついでに、叩きやすい位置にもあったしな」


「それは許さないです……」


「冗談だよ。あーそういやカーテン買って帰らないとなー。後コーヒー豆と――」


「コーヒー豆とはなんですか? 兄様」


「あーお前コーヒー知らないのか。コーヒーってのは、子供が飲める酒みたいなもんだ。要は大人の飲み物よ」


「そのような飲み物があるのですね……」


「よし!! 家に帰ったら、兄様が最高においしいコーヒーを飲ませてやるぞ!! 感謝しろよ、リン!!」


「ふふ、楽しみにしています、兄様」


 <あの時言えなかった言葉 了>
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