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あの時言えなかった言葉
あの時言えなかった言葉
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リンが目をそらす。
「教えとけ」
「ですが……」
「覚えときたいんだよ。全部は無理でも、最初に交わした会話ぐらい、覚えときたいだろ?」
リンが消えることはない。
しかしこの関係が消える時は必ず来る。
その時は、俺もこいつの隣にはおるまい。
先にこの関係は突拍子もなく切れると言った。しかし多分、この関係を切るのは俺からだ。
切れることがわかっているのなら、俺は自分で切る。
俺ってのは基本そういう男だ。
「……わかりました」
少しの沈黙を挟んだ後、リンが言った。
俺は無言で言葉を待った。
いつまでこの関係は続くのかなーなんて、ふと考える。
一年なのか。二年なのか。
今日の夕日が沈むまでは続いていても、来年の夕日が沈むとき、どうなっているかはわからない。
――なんて、いくらなんでもセンチメンタルにすぎるか?
酔いすぎている自分に、つい笑った。
「じゃあ、耳を貸してください」
目を向ける。
リンは赤い顔でモジモジしなから、目を背けていた。
「はあ!?」
しばしの思考停止の後、俺は言った。
リンはと言うと、赤い顔で髪をイジイジしながら、目を背けている。
「だ……誰にも聞こえないように耳打ちしますから。耳を貸してください」
内緒話でもするように、リンが小声でせかしてくる。その顔の赤さは多分、夕焼けのものだけではないはずだ。
俺は眉間に手を置いて、たっぷり呆れた。
「誰も聞いちゃいねえよ、そんなもん。いいからとっとと言え。これは上官命令だ」
「やです」
プイと顔を反らして、リン。長い栗色の髪が弧を描く。
「あのなあ」
「あ、あたしも組長に言われてます。自分のことを周囲に漏らさないようにって。だから耳貸してくれないなら、リンもこのことは兄様には言いません」
頬を膨らましながら、リンが言う。
しかしその顔は、怒っているというより、何か、別の気持ちをこらえているようにも見えた。
前にも言ったが、リンが自分のことを名前で呼ぶときは、誰かに甘えたいときなのだ。
そうしてほしいと、心から願っている時、リンは自分のことを名前で呼ぶ。
――まあ、俺もシンプルに気になるしな。
「わかったよ」
顔も見ずに、俺は言った。だから、その時リンがどんな顔をしているのかは、わからなかった。
足を止めて、リンに耳を近づける。
リンの匂いがやってきた。
くすぐるように、手を耳元に添えられる。
リンの息遣いが、耳元で聞こえた。
そして――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あなたも……ここにいる人たちと、同じなんですか?」
二年前。
隠し地下牢の中で、あたしは兄様にそう言った。
あたしをさらったのは、北翼の人たちだった。その時、あたしの母と父、兄と姉を殺したのも、北翼の人たちだった。
そして、兄様の出身地もまた、北翼。
兄様は東尾でも有名で、あたしのような田舎者でも、兄様のことは知っていた。
だから言った。
一言で言えば、八つ当たりだ。
さらった人間にも、自分にもあたることができない、弱き存在。
それが、二年前のあたし。
兄様は、そんなあたしを見て、笑った。
「ああ。――極悪人だよ」
「ヒョウ」
有火姉様の言葉を、兄様が片手で遮った。
「普通、人をたたっ切ると、少なからず心ってやつが痛むらしい。俺は多分、お前をさらった連中の倍以上殺して来たんじゃねえかなー。生きるためでもあったが、楽しむ意味もあった。その中には善人もいただろう。殺すに値すると思った時はガキでもやった。それでも、心を痛めたことは一度もない」
二年一緒にいるからわかる。
兄様は本来自分を語らない。
そもそも人と話すこと自体が、そんなに好きではないのだと思う。
いつも笑っていらっしゃるから、多くの人が勘違いしているけれど。
本当の兄様は、わりと無口な方なのだ。
「仲間と思える人間が死んだことも何度となくあった。それでも、涙一滴零れやしねえ」
そんな兄様が、自分を語る。
それは、兄様が揺れている時なのだ。
愚痴を言うのも言われるのも嫌い。説教するのもされるのも嫌い。
誰かに支えられることも、甘えることもしない兄様だけれど、時々こういう弱みを見せる。
それはいつも、東尾と、自分の違いを知った時。
「お前みたいな弱っちい、哀れな奴を見てると俺はな――どうしようもなく、笑っちまう」
口元に巻いた黒包帯の奥で笑いながら、兄様が言った。
先程も言ったように、兄様が自分を語るときは、揺れている時だ。
しかし、仮に揺れていたとしたって、初対面のあたしに、こんなことを言うはずがない。
つまりこの台詞は、あたしに向けられているようで、実はあたしに向けられていないのだった。
「そういうわけだ。だから――そこをどけ。雪女」
雪《ゆき》姉様に向かって、兄様が言った。
しかし――
「アホ」
「バッカねえ」
即座に、兄様に向かって、二つの罵声が突き刺さった。
壁にもたれかかっていた有火姉様が、音も立てず、兄様に向けて足を動かす。
「人を斬って心が痛まない? 仲間が死んでも涙が零れたことがない? 何を洒落たことで、心痛めてるんだよ、らしくない。
お前は、逆境だろうと順境だろうと、笑って対峙する。そして勝つ。ふざけた男だ。しかし、お前のような男を光だと思っている人間も、少なからずいる。うちみたいな隊だと特にな。
ま、あたしは違うがな」
兄様と肩を並べて、有火姉様が言った。
そして。
コツンと、雪姉様が、抜いた刀の鞘で兄様の頭を小突いた。
「大体ねえ。囚われのお姫様を救いに来た男がさー、悪党斬って心痛めてたり、仲間の死で泣いてたりしたら嫌じゃん?
あんた捕まってる子みたら笑えるって言ったわよね? だったらその笑った顔で、別のこと言ってみなよ。『助けにきた』とか『よく頑張った』とか『怪我はないか』とか。
それが言えたらあんた、メチャクチャかっこいい男だよ。ま、あたし基準では、あるけどね」
あたしは――
あたしは、この時のことを、とてもとても後悔している。
どうしてあたしは、兄様にあんなことを言ってしまったのだろう。
二人に及ばないのは仕方がない。
今ですら及んでいないのだから。
それでももっと、他に言葉はあっただろうに。
酷いことを言ってしまったと思った。謝りたいと思った。
だけど今は――
有火姉様と、雪姉様に、ちょっと嫉妬してる。
「ふん。女やめたお前らにどうこう思われてもな」
肩をすくめて、兄様が言った。
怒る有火姉様と、ため息つく雪姉様。
兄様はしばしその場で立ち尽くしていた。
そして――
「ただまあ――よかったと思うぜ。無事で」
「お!!」
ぴょこんと。
声を雪ウサギのように跳ねさせる雪姉様。
声だけで楽しんでいることが、あたしにさえわかる。
兄様を怒らせるには、十分すぎる。
「るっせえぞ、雪女!! いいかクソガキ!!」
あたしを指さして、兄様が言った。
「助けにきたのはこいつらだ!! 頑張ったのはお前だ!! そして、怪我がなかったのはお前が色気のないガキだったから!! 以上!! わかったらどけ!!」
兄様が、強引に雪姉様をどかして階段を登っていく。
頬を膨らますあたし。消える兄様。そして――
膨らましたあたしの頬を、瞬く間に間を詰めた雪姉様が、指で押して萎ませた。
驚くあたしに、雪姉様が笑いかける。
「あんたも。こういう時は『ありがとう』ぐらい言わなきゃね。
男はお姫様の一言で、いくらでも頑張れるものなんだからさ」
立ち上がり、雪姉様がウインク一つ。
「ユキ。そんな台詞決めるぐらいなら、服ぐらいどうにかならなかったのか? そんな布一枚で出歩きやがって。目に毒だ」
|有火(あるか)姉様が言った。
「あ、やっぱしー? アッハッハッハ」
雪姉様が、お腹を抱えて笑う。
笑う時、下ろした目蓋が、目の下に長い睫《まつげ》を並べている。
あたしは――
綺麗だと思った。
雪姉様は、本当にいつもいつも楽しそうに笑う。
それでいて、強く、楽観的なのに、言葉にはいつも重みがあった。
聞いたことはないけれど、兄様は、雪姉様みたいな人が好きなんじゃないかと思ってしまう。
あるいは、男の人はみんなそうなのかもしれない。
あたしと雪姉様は、対極だ。
雪姉様と比べる以前に、昔の言動を悔いる以前に、あたしが兄様を好きになるなんて、絶望で、何より罪であることも知っていた。
だけどあたしは――
雪姉様にも、誰にも、負けたくない。
あれから二年経った。
あたしは――
ソッと、爪先を立てた。
背はちょっとしか伸びなかったし。
誰にも聞こえないように、兄様の耳に手を添える。
強さも、雪姉様には遠く及ばない。背丈等々は言わずもがなだ。
それでも届いている。一歩一歩。
だったら、諦めたくない。
兄様のことが、好きだから。
そんな言葉さえ、今は罪だけれど、いつかは――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リンから耳を離して、目を向けた。
リンは赤い顔をして、俺を見つめている。
リンの言った言葉は、ありがとうございます、だった。
確かにあの状況なら、そう言っていてもおかしくない。
ありがちな定型区で、俺が忘れているのも道理である。
しかし――
「お前本当にそんなこと言ったんだろうな?」
「え? 知りません」
笑いをこらえるような声で、リンが言った。
「ああ!?」
こっちは真剣に聞いていたんだ。
それをこんな冗談で返されたら、イラつきもするってなもんだ。
リンは素知らぬ顔で足を回して、俺にその小さな背中を向けた。
「昔のことすぎて、リンももう忘れちゃいました。ただそんなこと言ったかなーって、そんな気がしただけです」
「ふーん」
嘘くせえ話だ。
でもまあいっかと思った。
こいつがそう言うなら、それで。
真実を暴くのが、常に正しいとは限らない。
「そう――」
「だけど」
俺の言葉を遮るので、リンを見た。
リンは未だ俺に背を向けている。
「だ、だけど、いつか――その、思い出す日が、くるかもしれません」
たどたどしく話すリン。
顔を持ち上げ、夕焼けを見ていることしか、わからない。
ただ、多分、顔を赤くしながら言ってんだろうなって思った。
「だから……」
俺は続く言葉を待った。
「だから……」
中々言わない。
俺は、自分が待っていることも忘れて、待った。
リンが、夕焼けに染まった紅い髪を揺らしながら、振り返る。
「だから、その時が来るまで、リンのことずっとずっと、見ていてくださいね。兄様」
『こいつはいっつも俺のことを見てやがるから――』
目を開いて、そして閉じる。
そうか。
それだけ思った。
足を回して、リンと肩を並べる。
何と言おうか、迷った。
足を数歩、先に進ませる。
迷った挙句、頭に両手を置いて、逃げるように夕焼けを見つめた。
「ま、その時まで、気になってたらな」
お前のことを。
と、暗に含んだ気がした。
きっと気のせいだと、思いこんだ。
そんなわけ、あるものかと。
「――はい!!」
リンの言葉が、耳孔を打つ。
振り返った。
リンの顔を見て、俺は――段々と。
いや。
やめておこう。
この時、俺がなんて思ったか、なんてのは、例え心の中であっても、言えやしない。
だから。
「あで」
リンが言った。
俺がリンの頭を手刀で打ったからだった。
「どうかなされたのですか?」
「ん? 心の中でも言えなかったから、行動で示そうと思ってな」
笑って応えた。
リンが頬を膨らまして見上げてくる。
しかし、すぐに頬を萎ませて、リンもまた笑う。
「ちゃんと、いいこと言おうとしましたか?」
「ああ」
「ふふ。じゃあ許します」
「ついでに、叩きやすい位置にもあったしな」
「それは許さないです……」
「冗談だよ。あーそういやカーテン買って帰らないとなー。後コーヒー豆と――」
「コーヒー豆とはなんですか? 兄様」
「あーお前コーヒー知らないのか。コーヒーってのは、子供が飲める酒みたいなもんだ。要は大人の飲み物よ」
「そのような飲み物があるのですね……」
「よし!! 家に帰ったら、兄様が最高においしいコーヒーを飲ませてやるぞ!! 感謝しろよ、リン!!」
「ふふ、楽しみにしています、兄様」
<あの時言えなかった言葉 了>
「教えとけ」
「ですが……」
「覚えときたいんだよ。全部は無理でも、最初に交わした会話ぐらい、覚えときたいだろ?」
リンが消えることはない。
しかしこの関係が消える時は必ず来る。
その時は、俺もこいつの隣にはおるまい。
先にこの関係は突拍子もなく切れると言った。しかし多分、この関係を切るのは俺からだ。
切れることがわかっているのなら、俺は自分で切る。
俺ってのは基本そういう男だ。
「……わかりました」
少しの沈黙を挟んだ後、リンが言った。
俺は無言で言葉を待った。
いつまでこの関係は続くのかなーなんて、ふと考える。
一年なのか。二年なのか。
今日の夕日が沈むまでは続いていても、来年の夕日が沈むとき、どうなっているかはわからない。
――なんて、いくらなんでもセンチメンタルにすぎるか?
酔いすぎている自分に、つい笑った。
「じゃあ、耳を貸してください」
目を向ける。
リンは赤い顔でモジモジしなから、目を背けていた。
「はあ!?」
しばしの思考停止の後、俺は言った。
リンはと言うと、赤い顔で髪をイジイジしながら、目を背けている。
「だ……誰にも聞こえないように耳打ちしますから。耳を貸してください」
内緒話でもするように、リンが小声でせかしてくる。その顔の赤さは多分、夕焼けのものだけではないはずだ。
俺は眉間に手を置いて、たっぷり呆れた。
「誰も聞いちゃいねえよ、そんなもん。いいからとっとと言え。これは上官命令だ」
「やです」
プイと顔を反らして、リン。長い栗色の髪が弧を描く。
「あのなあ」
「あ、あたしも組長に言われてます。自分のことを周囲に漏らさないようにって。だから耳貸してくれないなら、リンもこのことは兄様には言いません」
頬を膨らましながら、リンが言う。
しかしその顔は、怒っているというより、何か、別の気持ちをこらえているようにも見えた。
前にも言ったが、リンが自分のことを名前で呼ぶときは、誰かに甘えたいときなのだ。
そうしてほしいと、心から願っている時、リンは自分のことを名前で呼ぶ。
――まあ、俺もシンプルに気になるしな。
「わかったよ」
顔も見ずに、俺は言った。だから、その時リンがどんな顔をしているのかは、わからなかった。
足を止めて、リンに耳を近づける。
リンの匂いがやってきた。
くすぐるように、手を耳元に添えられる。
リンの息遣いが、耳元で聞こえた。
そして――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あなたも……ここにいる人たちと、同じなんですか?」
二年前。
隠し地下牢の中で、あたしは兄様にそう言った。
あたしをさらったのは、北翼の人たちだった。その時、あたしの母と父、兄と姉を殺したのも、北翼の人たちだった。
そして、兄様の出身地もまた、北翼。
兄様は東尾でも有名で、あたしのような田舎者でも、兄様のことは知っていた。
だから言った。
一言で言えば、八つ当たりだ。
さらった人間にも、自分にもあたることができない、弱き存在。
それが、二年前のあたし。
兄様は、そんなあたしを見て、笑った。
「ああ。――極悪人だよ」
「ヒョウ」
有火姉様の言葉を、兄様が片手で遮った。
「普通、人をたたっ切ると、少なからず心ってやつが痛むらしい。俺は多分、お前をさらった連中の倍以上殺して来たんじゃねえかなー。生きるためでもあったが、楽しむ意味もあった。その中には善人もいただろう。殺すに値すると思った時はガキでもやった。それでも、心を痛めたことは一度もない」
二年一緒にいるからわかる。
兄様は本来自分を語らない。
そもそも人と話すこと自体が、そんなに好きではないのだと思う。
いつも笑っていらっしゃるから、多くの人が勘違いしているけれど。
本当の兄様は、わりと無口な方なのだ。
「仲間と思える人間が死んだことも何度となくあった。それでも、涙一滴零れやしねえ」
そんな兄様が、自分を語る。
それは、兄様が揺れている時なのだ。
愚痴を言うのも言われるのも嫌い。説教するのもされるのも嫌い。
誰かに支えられることも、甘えることもしない兄様だけれど、時々こういう弱みを見せる。
それはいつも、東尾と、自分の違いを知った時。
「お前みたいな弱っちい、哀れな奴を見てると俺はな――どうしようもなく、笑っちまう」
口元に巻いた黒包帯の奥で笑いながら、兄様が言った。
先程も言ったように、兄様が自分を語るときは、揺れている時だ。
しかし、仮に揺れていたとしたって、初対面のあたしに、こんなことを言うはずがない。
つまりこの台詞は、あたしに向けられているようで、実はあたしに向けられていないのだった。
「そういうわけだ。だから――そこをどけ。雪女」
雪《ゆき》姉様に向かって、兄様が言った。
しかし――
「アホ」
「バッカねえ」
即座に、兄様に向かって、二つの罵声が突き刺さった。
壁にもたれかかっていた有火姉様が、音も立てず、兄様に向けて足を動かす。
「人を斬って心が痛まない? 仲間が死んでも涙が零れたことがない? 何を洒落たことで、心痛めてるんだよ、らしくない。
お前は、逆境だろうと順境だろうと、笑って対峙する。そして勝つ。ふざけた男だ。しかし、お前のような男を光だと思っている人間も、少なからずいる。うちみたいな隊だと特にな。
ま、あたしは違うがな」
兄様と肩を並べて、有火姉様が言った。
そして。
コツンと、雪姉様が、抜いた刀の鞘で兄様の頭を小突いた。
「大体ねえ。囚われのお姫様を救いに来た男がさー、悪党斬って心痛めてたり、仲間の死で泣いてたりしたら嫌じゃん?
あんた捕まってる子みたら笑えるって言ったわよね? だったらその笑った顔で、別のこと言ってみなよ。『助けにきた』とか『よく頑張った』とか『怪我はないか』とか。
それが言えたらあんた、メチャクチャかっこいい男だよ。ま、あたし基準では、あるけどね」
あたしは――
あたしは、この時のことを、とてもとても後悔している。
どうしてあたしは、兄様にあんなことを言ってしまったのだろう。
二人に及ばないのは仕方がない。
今ですら及んでいないのだから。
それでももっと、他に言葉はあっただろうに。
酷いことを言ってしまったと思った。謝りたいと思った。
だけど今は――
有火姉様と、雪姉様に、ちょっと嫉妬してる。
「ふん。女やめたお前らにどうこう思われてもな」
肩をすくめて、兄様が言った。
怒る有火姉様と、ため息つく雪姉様。
兄様はしばしその場で立ち尽くしていた。
そして――
「ただまあ――よかったと思うぜ。無事で」
「お!!」
ぴょこんと。
声を雪ウサギのように跳ねさせる雪姉様。
声だけで楽しんでいることが、あたしにさえわかる。
兄様を怒らせるには、十分すぎる。
「るっせえぞ、雪女!! いいかクソガキ!!」
あたしを指さして、兄様が言った。
「助けにきたのはこいつらだ!! 頑張ったのはお前だ!! そして、怪我がなかったのはお前が色気のないガキだったから!! 以上!! わかったらどけ!!」
兄様が、強引に雪姉様をどかして階段を登っていく。
頬を膨らますあたし。消える兄様。そして――
膨らましたあたしの頬を、瞬く間に間を詰めた雪姉様が、指で押して萎ませた。
驚くあたしに、雪姉様が笑いかける。
「あんたも。こういう時は『ありがとう』ぐらい言わなきゃね。
男はお姫様の一言で、いくらでも頑張れるものなんだからさ」
立ち上がり、雪姉様がウインク一つ。
「ユキ。そんな台詞決めるぐらいなら、服ぐらいどうにかならなかったのか? そんな布一枚で出歩きやがって。目に毒だ」
|有火(あるか)姉様が言った。
「あ、やっぱしー? アッハッハッハ」
雪姉様が、お腹を抱えて笑う。
笑う時、下ろした目蓋が、目の下に長い睫《まつげ》を並べている。
あたしは――
綺麗だと思った。
雪姉様は、本当にいつもいつも楽しそうに笑う。
それでいて、強く、楽観的なのに、言葉にはいつも重みがあった。
聞いたことはないけれど、兄様は、雪姉様みたいな人が好きなんじゃないかと思ってしまう。
あるいは、男の人はみんなそうなのかもしれない。
あたしと雪姉様は、対極だ。
雪姉様と比べる以前に、昔の言動を悔いる以前に、あたしが兄様を好きになるなんて、絶望で、何より罪であることも知っていた。
だけどあたしは――
雪姉様にも、誰にも、負けたくない。
あれから二年経った。
あたしは――
ソッと、爪先を立てた。
背はちょっとしか伸びなかったし。
誰にも聞こえないように、兄様の耳に手を添える。
強さも、雪姉様には遠く及ばない。背丈等々は言わずもがなだ。
それでも届いている。一歩一歩。
だったら、諦めたくない。
兄様のことが、好きだから。
そんな言葉さえ、今は罪だけれど、いつかは――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リンから耳を離して、目を向けた。
リンは赤い顔をして、俺を見つめている。
リンの言った言葉は、ありがとうございます、だった。
確かにあの状況なら、そう言っていてもおかしくない。
ありがちな定型区で、俺が忘れているのも道理である。
しかし――
「お前本当にそんなこと言ったんだろうな?」
「え? 知りません」
笑いをこらえるような声で、リンが言った。
「ああ!?」
こっちは真剣に聞いていたんだ。
それをこんな冗談で返されたら、イラつきもするってなもんだ。
リンは素知らぬ顔で足を回して、俺にその小さな背中を向けた。
「昔のことすぎて、リンももう忘れちゃいました。ただそんなこと言ったかなーって、そんな気がしただけです」
「ふーん」
嘘くせえ話だ。
でもまあいっかと思った。
こいつがそう言うなら、それで。
真実を暴くのが、常に正しいとは限らない。
「そう――」
「だけど」
俺の言葉を遮るので、リンを見た。
リンは未だ俺に背を向けている。
「だ、だけど、いつか――その、思い出す日が、くるかもしれません」
たどたどしく話すリン。
顔を持ち上げ、夕焼けを見ていることしか、わからない。
ただ、多分、顔を赤くしながら言ってんだろうなって思った。
「だから……」
俺は続く言葉を待った。
「だから……」
中々言わない。
俺は、自分が待っていることも忘れて、待った。
リンが、夕焼けに染まった紅い髪を揺らしながら、振り返る。
「だから、その時が来るまで、リンのことずっとずっと、見ていてくださいね。兄様」
『こいつはいっつも俺のことを見てやがるから――』
目を開いて、そして閉じる。
そうか。
それだけ思った。
足を回して、リンと肩を並べる。
何と言おうか、迷った。
足を数歩、先に進ませる。
迷った挙句、頭に両手を置いて、逃げるように夕焼けを見つめた。
「ま、その時まで、気になってたらな」
お前のことを。
と、暗に含んだ気がした。
きっと気のせいだと、思いこんだ。
そんなわけ、あるものかと。
「――はい!!」
リンの言葉が、耳孔を打つ。
振り返った。
リンの顔を見て、俺は――段々と。
いや。
やめておこう。
この時、俺がなんて思ったか、なんてのは、例え心の中であっても、言えやしない。
だから。
「あで」
リンが言った。
俺がリンの頭を手刀で打ったからだった。
「どうかなされたのですか?」
「ん? 心の中でも言えなかったから、行動で示そうと思ってな」
笑って応えた。
リンが頬を膨らまして見上げてくる。
しかし、すぐに頬を萎ませて、リンもまた笑う。
「ちゃんと、いいこと言おうとしましたか?」
「ああ」
「ふふ。じゃあ許します」
「ついでに、叩きやすい位置にもあったしな」
「それは許さないです……」
「冗談だよ。あーそういやカーテン買って帰らないとなー。後コーヒー豆と――」
「コーヒー豆とはなんですか? 兄様」
「あーお前コーヒー知らないのか。コーヒーってのは、子供が飲める酒みたいなもんだ。要は大人の飲み物よ」
「そのような飲み物があるのですね……」
「よし!! 家に帰ったら、兄様が最高においしいコーヒーを飲ませてやるぞ!! 感謝しろよ、リン!!」
「ふふ、楽しみにしています、兄様」
<あの時言えなかった言葉 了>
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しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
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