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第52話ー3

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 ――サジッターリオ国。

 アラブのテレトラスポルト送迎でカプリコルノ国から戻って来た後、宮廷楽士たちの部屋でハーゲンの帰りを待つコラードとリナルドの足が貧乏ゆすりを始める。

「何してるんだよ、あいつ……」

 ハーゲンが本日宮廷にやって来るのは正午の予定だったのだが、1時間過ぎた今でもまだやって来ない。

 コラードとリナルドよりも落ち着きを失っているのが、ハーゲンの家族だった。

 中でも父である宮廷楽士長は、正午を回った頃からずっと部屋の戸口の前を、左右に行ったり来たりしている。

 その顔は白くなり、そのヒゲは最近急に白いものが増え始めた。

「コ、コラード陛下…、リ、リナルド殿下……」

 その震え声を聞きながら、2人は苦笑する。

 テレトラスポルトで送ってもらった後、アラブに帰らないでもらえば良かったと思う。

「仕方ないな、もう。馬で行ってみるかぁ……」

 ハーゲンに渡す食料やワインヴィーノを馬にぶら下げ、居ても立っても居られない様子の宮廷楽士長を連れて、遠く離れたハーゲンの山小屋まで向かっていく。

 途中でハーゲンに会うことを願ったが、結局それは叶わず。

 夕方になってやっと辿り着いたと思ったら、辺りにハーゲンだと分かるヴィオリーノの音色が響いている。

「普通に生きてたようだな。ただ単に今日のこと忘れてただけか?」

「ま、無理もないかと。見るからに日付感覚がなくなりそうだ、この生活」

 と、コラードとリナルドからは安堵の溜め息が漏れたが、ここへ来るのが初めての宮廷楽士長は尚のこと狼狽していった。

 何故なら山小屋の屋根やすぐ近くには、ピピストレッロの姿があった。

「な、なんということだ…! こんな危険なところに住んでいたというのか、ハーゲンは……!」

 ヴィオリーノの音色が聴こえてくる山小屋の裏の方へと駆けて行くや否や、怒声に近い叫喚が響いてくる。

「寄るな! 私の息子に、近寄るな!」

 ヴィオリーノの音色が止み、「父上!」とハーゲンの驚いた声が聞こえた。

 突如付近にいるピピストレッロが一斉に浮遊し、コラードとリナルドが息を呑む。

(――やばい)

 慌てて下馬し、山小屋の裏へと回っていく。

 ハーゲンに後ろから抱きすくめられ、怒鳴り散らしている宮廷楽士長の目線の先には、一匹のメスのピピストレッロがいた。

「コラード陛下、リナルド殿下! すぐに父上を連れて帰ってください!」

 ハーゲンの叫びを聞き、承知した2人が宮廷楽士長に駆け寄ってその両腕を掴む。

 そして馬へ戻って退散しようかとき、宮廷楽士長の右腕を掴んでいたコラードが、ふとハーゲンの足元を見た。

「おい、ハーゲン! ヴィオリーノがっ……!」

 と宮廷楽士長の右腕を離し、それを拾い上げる。

 驚いてか、慌ててか、ハーゲンがヴィオリーノを落としたらしく、それはひびが入っていた。

「――ああ、そんな! 私のヴィオリーノが! 私の大切なヴィオリーノが!」

「待て、落ち着けハーゲン! これくらいなら直せる! オレがカプリコルノに持っていって、職人に直してもらうから――」

 コラードの言葉を遮るように、宮廷楽士長がその手からヴィオリーノを奪った。

「これが、このヴィオリーノが、ピピストレッロを引き寄せているんだろうハーゲン! こんなもの、とっとと奴らにくれてやれ!」

 とヴィオリーノの首を掴み、すぐそこにいるメスのピピストレッロの顔面に向かって叩き付ける。

 微動だにしなかったピピストレッロの足元に、破砕したヴィオリーノが落ちた。

「――」

 一瞬の静寂の後、響き渡ったハーゲンの悲鳴。

 顔色を失ったコラードとリナルド。

 夕陽に染まっていた辺りに突如闇が落ち、2人の背筋に寒気が走る。

(奴が、来た――)

 そう確信するや否や、視界が紅の炎に染まった。

 ほんの一瞬だけ宮廷楽士長の悲鳴が聞こえ、ナナ・ネネが2人に掛けてくれた50枚のバッリエーラの破砕音が継続して鳴り渡っていく。

「リナルド!」

「コラード陛下!」

 逃げろの意味で同時に叫び、2人は振り返ることなく来た道を全力疾走していく。

 宮廷楽士長同様に、山小屋や馬も、ほぼ一瞬で焼けてしまったことは分かった。

 ハーゲンの安否は分からなかったが、あの炎の中では普通に考えて助かるわけがなかった。

『奴』が追い駆けて来ている気がして、無我夢中で走り続け、しばらくすると正面に馬に乗った衛兵の姿が見えてきた。

「おい、逃げろ!」

 と声を揃えて叫んだら、きょとんとした顔が返ってきた。

「何からです?」

 2人が急停止して、振り返る。

 視界に入る範囲すべてを隈なく見渡しても、ピピストレッロの姿は無かった。

 汗だくになり、肩で大きく息をする2人の心臓が、今にも爆発しそうなほど動悸を上げていた。

「な、なんだ? オレたちは許されたのか?」

「わ、分かりませんが……幸い逃がしてくれたようです」

 コラードが、手で顔を塞ぐ。

「ああ…! ああ、なんてことだよ、ハーゲン……!」

「コラード陛下、天才ヴィオリニスタを失ってしまった悲しみは大きいですが、それどころではありません……!」

 リナルドの言う通りだった。

「何してくれるんだよ、宮廷楽士長は……!」

 その最期を哀れに思いながらも、恨みたいのが本音だった。

「これでオレたち人間はもう、二度と安穏と生きることは出来なくなってしまった……!」

 すっかり夜になった頃に王都に辿り着き、その足でハーゲンの実家へと向かっていく。

 ハーゲンと宮廷楽士長の最期を伝えると、その家族が泣き崩れていった。

「コラード陛下、お願いします! 奴らを滅してください!」

「私たちの掛けがえのないハーゲンと父の命を奪った奴らを、どうか!」

 居た堪れなくなり、2人を助けられなかったことを謝罪して、今日のところはハーゲンの実家を後にした。

 宮廷に帰ってまた2人のことを伝えたら、宮廷内がたちまち騒然としていく。

「ピピストレッロの中で宮廷楽士長だけが敵と認識されたのか何なのか、幸いオレとリナルドを追って来なかったけど……でも、これでもう彼らの中で、人間はどうでも良いものじゃなくなった。悪い意味で、人間が興味を持たれたのはたしかだ。この先、彼らの視界に入ったら殺されてもおかしくない。立ち入り禁止区域を広げよう、ロッテ。ピピストレッロの山から半径20kmは入らない方がいい」

「分かったわ、コラード。そうしましょう」

 とシャルロッテが、コラードを抱き締める。

「あなた、大丈夫だったの? 怪我は無いの?」

「うん」とコラードもシャルロッテを抱き締める。

「見ての通り何ともないよ、ナナ・ネネがバッリエーラを掛けてくれたお陰で。心配しないで、ロッテ」

 隣では、リナルドとその妻――王太女マヤも抱擁し合っていた。

 コラードの足元に4歳の長男ライモンドが寝間着姿で寄って来て、シャルロッテから受け継いだとても美しい紫色の瞳で、父の顔を心配そうに見上げる。

「ライも心配掛けたな、ごめん。でも大丈夫だぞ」

 とコラードが笑顔を見せて抱っこしてやると、ライモンドもほっとした様子で笑顔を見せた。

「今日のライは、カプリコルノから帰ってきたあと何をしてたんだ?」

「剣のしゅぎょう」

「よしよし、偉いな。おまえは将来、強くなるぞ。この父上みたいに」

「知ってる」

「だよな、いつも言ってるし」

 コラードはライモンドを抱っこしたまま、その部屋へと連れて行く。

 部屋のシャンデリアランパダーリオはもう消えていて、起こしてしまったのか、または帰って来ない父を心配して眠れなかったのか、さっきまでレットに入っていた形跡があった。

 そこにライモンドを寝かせて、ふかふかのピュモーネを掛けてやる。

「いいか、ライ。しつこいと思わないでよく聞けよ。おまえは強くなって、将来母上やマヤ姉上、エーベル姉上、姪のエリーゼを守るんだぞ」

「分かってるよ、父上。それに、オレもう守れるよ!」

 とライモンドが胸を張ると、コラードが「そうだな」と同意してやりながら笑った。

 その自信家のところは、悩みの少ない頃の――国王になる以前の自身を見ているようだった。

「じゃー父上は、強いおまえを見込んで頼みたいことがある」

 とコラードが言うと、ライモンドが「なになに?」と紫色の瞳を煌めかせた。

 その視線の先には、真剣な眼差しの明るい茶色の瞳がある。

「もし父上に何かあったら、おまえは母上たちを連れて『力の王』のところへ行くんだ」

「じーじのところに?」

「そうだ。そのときテレトラスポルトが無かったら、母上たちを連れて船に乗り、カプリコルノまで行くんだ。出来るな?」

「うん、オレ出来るよ!」

 と再び胸を張ったライモンドが、「でも」と不安げに紫色の瞳を揺れ動かす。

「『何かあったら』って? 父上はじーじのところに行かないの?」

 父の明るい笑顔が表れた。

「心配するな。父上もちゃんと後から行くからな。おまえたちのところに帰るからな――」





 ――逃げていくコラードとリナルドの後を追おうとしたピピストレッロたちが、宙に浮遊したまま制止する。

 一見人間と変わらない、でもよく見ると尖った耳を小さく動かし、一斉に振り返った先には一匹のメスのピピストレッロ――ソフィアが浮遊している。

 その腕はハーゲンをぶら下げるように抱き、紅の唇で人間には分からない言葉を一言発した。

 するとピピストレッロたちが大地の上に静かに降りていき、辺りを一面を轟々と燃やしている炎に向かって手を伸ばした。

 炎は数秒で小さくなって煙だけになり、天へと登っていく。

 焼け跡には、真っ黒になった宮廷楽士長と3匹の馬、山小屋の残骸が転がっていた。

「――…ち…父上……?」

 しばしのあいだ空中から呆然と眺めていたハーゲンの耳に、ソフィアの声が聞こえる――

「ごめんナさい」

 はっとして「ソフィア!」と声を上げ、その胸にしがみ付く。

「ソフィアっ……ソフィア! 行かないで、ソフィア!」

 それは焼けていない場所までふわふわと飛んでいくと、ハーゲンを大地の上に降ろした。

 ハーゲンが必死にソフィアを胸に抱き締める。

「お願いだよ、ソフィア! どこにも行かないで! あのヴィオリーノは無くなっちゃったけど、私の傍から離れないで! お願いだよ、ソフィア! ソフィア! お願いだよ!」

 口を挟む間もなく叫び続けるハーゲンの唇を、紅の唇が塞いだ。

 我に返ったハーゲンの銀色の瞳に、生まれて初めてピピストレッロの涙が映る。

「ごめんナさい…ごメんなさい……」

「えっ……?」

 一体何のことか少しのあいだ考えて、ソフィアの仲間が殺してしまった父のことだと分かった。

 改めて父に顔を向けると、それは髪も服も燃えて無くなり、真っ黒で、開いた口から白い歯が見えていなかったら、人間かどうかすらも判別が難しいような状態だった。

 それは酷く衝撃的な光景だったし、可愛がってくれた父の死も悲しかったが、それ以上にソフィアの涙が胸を締め付けた。

「泣かないで、ソフィア。君は何も悪くないし、君の仲間だって悪くない。私の父上が悪いんだ。それどころか、人間を許してくれてありがとう。だからお願い、泣かないで……胸が苦しいよ」

 さっき父がヴィオリーノを叩き付けた、ソフィアの頬に触れる。

 あのときソフィアは微動だにしなかったが、少しだけ頬骨のあたりが赤くなっていた。

「ごめんね、痛かったでしょう? こんなことされて、悲しかったでしょう? あのとき君は、父上を傷付ける気なんてまったくなかったのに……本当に、本当にごめんね。酷いね、人間は。嫌だね、人間は。ごめんねソフィア、ごめんね」

 と、雪のように白い身体を抱き締めて慈しむハーゲンが、「でも」と続けた。

「もう大丈夫だからね。私もきっと、父上と同じように死んだと思われただろうから。これで人間はここへ近寄ることは無くなるだろうし、私ももう人間界に帰らないから。もう二度と、君を傷付けたりしないからね――」


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