267 / 303
第52話ー3
しおりを挟む
――サジッターリオ国。
アラブのテレトラスポルト送迎でカプリコルノ国から戻って来た後、宮廷楽士たちの部屋でハーゲンの帰りを待つコラードとリナルドの足が貧乏ゆすりを始める。
「何してるんだよ、あいつ……」
ハーゲンが本日宮廷にやって来るのは正午の予定だったのだが、1時間過ぎた今でもまだやって来ない。
コラードとリナルドよりも落ち着きを失っているのが、ハーゲンの家族だった。
中でも父である宮廷楽士長は、正午を回った頃からずっと部屋の戸口の前を、左右に行ったり来たりしている。
その顔は白くなり、そのヒゲは最近急に白いものが増え始めた。
「コ、コラード陛下…、リ、リナルド殿下……」
その震え声を聞きながら、2人は苦笑する。
テレトラスポルトで送ってもらった後、アラブに帰らないでもらえば良かったと思う。
「仕方ないな、もう。馬で行ってみるかぁ……」
ハーゲンに渡す食料やワインを馬にぶら下げ、居ても立っても居られない様子の宮廷楽士長を連れて、遠く離れたハーゲンの山小屋まで向かっていく。
途中でハーゲンに会うことを願ったが、結局それは叶わず。
夕方になってやっと辿り着いたと思ったら、辺りにハーゲンだと分かるヴィオリーノの音色が響いている。
「普通に生きてたようだな。ただ単に今日のこと忘れてただけか?」
「ま、無理もないかと。見るからに日付感覚がなくなりそうだ、この生活」
と、コラードとリナルドからは安堵の溜め息が漏れたが、ここへ来るのが初めての宮廷楽士長は尚のこと狼狽していった。
何故なら山小屋の屋根やすぐ近くには、ピピストレッロの姿があった。
「な、なんということだ…! こんな危険なところに住んでいたというのか、ハーゲンは……!」
ヴィオリーノの音色が聴こえてくる山小屋の裏の方へと駆けて行くや否や、怒声に近い叫喚が響いてくる。
「寄るな! 私の息子に、近寄るな!」
ヴィオリーノの音色が止み、「父上!」とハーゲンの驚いた声が聞こえた。
突如付近にいるピピストレッロが一斉に浮遊し、コラードとリナルドが息を呑む。
(――やばい)
慌てて下馬し、山小屋の裏へと回っていく。
ハーゲンに後ろから抱きすくめられ、怒鳴り散らしている宮廷楽士長の目線の先には、一匹のメスのピピストレッロがいた。
「コラード陛下、リナルド殿下! すぐに父上を連れて帰ってください!」
ハーゲンの叫びを聞き、承知した2人が宮廷楽士長に駆け寄ってその両腕を掴む。
そして馬へ戻って退散しようかとき、宮廷楽士長の右腕を掴んでいたコラードが、ふとハーゲンの足元を見た。
「おい、ハーゲン! ヴィオリーノがっ……!」
と宮廷楽士長の右腕を離し、それを拾い上げる。
驚いてか、慌ててか、ハーゲンがヴィオリーノを落としたらしく、それはひびが入っていた。
「――ああ、そんな! 私のヴィオリーノが! 私の大切なヴィオリーノが!」
「待て、落ち着けハーゲン! これくらいなら直せる! オレがカプリコルノに持っていって、職人に直してもらうから――」
コラードの言葉を遮るように、宮廷楽士長がその手からヴィオリーノを奪った。
「これが、このヴィオリーノが、ピピストレッロを引き寄せているんだろうハーゲン! こんなもの、とっとと奴らにくれてやれ!」
とヴィオリーノの首を掴み、すぐそこにいるメスのピピストレッロの顔面に向かって叩き付ける。
微動だにしなかったピピストレッロの足元に、破砕したヴィオリーノが落ちた。
「――」
一瞬の静寂の後、響き渡ったハーゲンの悲鳴。
顔色を失ったコラードとリナルド。
夕陽に染まっていた辺りに突如闇が落ち、2人の背筋に寒気が走る。
(奴が、来た――)
そう確信するや否や、視界が紅の炎に染まった。
ほんの一瞬だけ宮廷楽士長の悲鳴が聞こえ、ナナ・ネネが2人に掛けてくれた50枚のバッリエーラの破砕音が継続して鳴り渡っていく。
「リナルド!」
「コラード陛下!」
逃げろの意味で同時に叫び、2人は振り返ることなく来た道を全力疾走していく。
宮廷楽士長同様に、山小屋や馬も、ほぼ一瞬で焼けてしまったことは分かった。
ハーゲンの安否は分からなかったが、あの炎の中では普通に考えて助かるわけがなかった。
『奴』が追い駆けて来ている気がして、無我夢中で走り続け、しばらくすると正面に馬に乗った衛兵の姿が見えてきた。
「おい、逃げろ!」
と声を揃えて叫んだら、きょとんとした顔が返ってきた。
「何からです?」
2人が急停止して、振り返る。
視界に入る範囲すべてを隈なく見渡しても、ピピストレッロの姿は無かった。
汗だくになり、肩で大きく息をする2人の心臓が、今にも爆発しそうなほど動悸を上げていた。
「な、なんだ? オレたちは許されたのか?」
「わ、分かりませんが……幸い逃がしてくれたようです」
コラードが、手で顔を塞ぐ。
「ああ…! ああ、なんてことだよ、ハーゲン……!」
「コラード陛下、天才ヴィオリニスタを失ってしまった悲しみは大きいですが、それどころではありません……!」
リナルドの言う通りだった。
「何してくれるんだよ、宮廷楽士長は……!」
その最期を哀れに思いながらも、恨みたいのが本音だった。
「これでオレたち人間はもう、二度と安穏と生きることは出来なくなってしまった……!」
すっかり夜になった頃に王都に辿り着き、その足でハーゲンの実家へと向かっていく。
ハーゲンと宮廷楽士長の最期を伝えると、その家族が泣き崩れていった。
「コラード陛下、お願いします! 奴らを滅してください!」
「私たちの掛けがえのないハーゲンと父の命を奪った奴らを、どうか!」
居た堪れなくなり、2人を助けられなかったことを謝罪して、今日のところはハーゲンの実家を後にした。
宮廷に帰ってまた2人のことを伝えたら、宮廷内がたちまち騒然としていく。
「ピピストレッロの中で宮廷楽士長だけが敵と認識されたのか何なのか、幸いオレとリナルドを追って来なかったけど……でも、これでもう彼らの中で、人間はどうでも良いものじゃなくなった。悪い意味で、人間が興味を持たれたのはたしかだ。この先、彼らの視界に入ったら殺されてもおかしくない。立ち入り禁止区域を広げよう、ロッテ。ピピストレッロの山から半径20kmは入らない方がいい」
「分かったわ、コラード。そうしましょう」
とシャルロッテが、コラードを抱き締める。
「あなた、大丈夫だったの? 怪我は無いの?」
「うん」とコラードもシャルロッテを抱き締める。
「見ての通り何ともないよ、ナナ・ネネがバッリエーラを掛けてくれたお陰で。心配しないで、ロッテ」
隣では、リナルドとその妻――王太女マヤも抱擁し合っていた。
コラードの足元に4歳の長男ライモンドが寝間着姿で寄って来て、シャルロッテから受け継いだとても美しい紫色の瞳で、父の顔を心配そうに見上げる。
「ライも心配掛けたな、ごめん。でも大丈夫だぞ」
とコラードが笑顔を見せて抱っこしてやると、ライモンドもほっとした様子で笑顔を見せた。
「今日のライは、カプリコルノから帰ってきたあと何をしてたんだ?」
「剣のしゅぎょう」
「よしよし、偉いな。おまえは将来、強くなるぞ。この父上みたいに」
「知ってる」
「だよな、いつも言ってるし」
コラードはライモンドを抱っこしたまま、その部屋へと連れて行く。
部屋のシャンデリアはもう消えていて、起こしてしまったのか、または帰って来ない父を心配して眠れなかったのか、さっきまでレットに入っていた形跡があった。
そこにライモンドを寝かせて、ふかふかのピュモーネを掛けてやる。
「いいか、ライ。しつこいと思わないでよく聞けよ。おまえは強くなって、将来母上やマヤ姉上、エーベル姉上、姪のエリーゼを守るんだぞ」
「分かってるよ、父上。それに、オレもう守れるよ!」
とライモンドが胸を張ると、コラードが「そうだな」と同意してやりながら笑った。
その自信家のところは、悩みの少ない頃の――国王になる以前の自身を見ているようだった。
「じゃー父上は、強いおまえを見込んで頼みたいことがある」
とコラードが言うと、ライモンドが「なになに?」と紫色の瞳を煌めかせた。
その視線の先には、真剣な眼差しの明るい茶色の瞳がある。
「もし父上に何かあったら、おまえは母上たちを連れて『力の王』のところへ行くんだ」
「じーじのところに?」
「そうだ。そのときテレトラスポルトが無かったら、母上たちを連れて船に乗り、カプリコルノまで行くんだ。出来るな?」
「うん、オレ出来るよ!」
と再び胸を張ったライモンドが、「でも」と不安げに紫色の瞳を揺れ動かす。
「『何かあったら』って? 父上はじーじのところに行かないの?」
父の明るい笑顔が表れた。
「心配するな。父上もちゃんと後から行くからな。おまえたちのところに帰るからな――」
――逃げていくコラードとリナルドの後を追おうとしたピピストレッロたちが、宙に浮遊したまま制止する。
一見人間と変わらない、でもよく見ると尖った耳を小さく動かし、一斉に振り返った先には一匹のメスのピピストレッロ――ソフィアが浮遊している。
その腕はハーゲンをぶら下げるように抱き、紅の唇で人間には分からない言葉を一言発した。
するとピピストレッロたちが大地の上に静かに降りていき、辺りを一面を轟々と燃やしている炎に向かって手を伸ばした。
炎は数秒で小さくなって煙だけになり、天へと登っていく。
焼け跡には、真っ黒になった宮廷楽士長と3匹の馬、山小屋の残骸が転がっていた。
「――…ち…父上……?」
しばしのあいだ空中から呆然と眺めていたハーゲンの耳に、ソフィアの声が聞こえる――
「ごめんナさい」
はっとして「ソフィア!」と声を上げ、その胸にしがみ付く。
「ソフィアっ……ソフィア! 行かないで、ソフィア!」
それは焼けていない場所までふわふわと飛んでいくと、ハーゲンを大地の上に降ろした。
ハーゲンが必死にソフィアを胸に抱き締める。
「お願いだよ、ソフィア! どこにも行かないで! あのヴィオリーノは無くなっちゃったけど、私の傍から離れないで! お願いだよ、ソフィア! ソフィア! お願いだよ!」
口を挟む間もなく叫び続けるハーゲンの唇を、紅の唇が塞いだ。
我に返ったハーゲンの銀色の瞳に、生まれて初めてピピストレッロの涙が映る。
「ごめんナさい…ごメんなさい……」
「えっ……?」
一体何のことか少しのあいだ考えて、ソフィアの仲間が殺してしまった父のことだと分かった。
改めて父に顔を向けると、それは髪も服も燃えて無くなり、真っ黒で、開いた口から白い歯が見えていなかったら、人間かどうかすらも判別が難しいような状態だった。
それは酷く衝撃的な光景だったし、可愛がってくれた父の死も悲しかったが、それ以上にソフィアの涙が胸を締め付けた。
「泣かないで、ソフィア。君は何も悪くないし、君の仲間だって悪くない。私の父上が悪いんだ。それどころか、人間を許してくれてありがとう。だからお願い、泣かないで……胸が苦しいよ」
さっき父がヴィオリーノを叩き付けた、ソフィアの頬に触れる。
あのときソフィアは微動だにしなかったが、少しだけ頬骨のあたりが赤くなっていた。
「ごめんね、痛かったでしょう? こんなことされて、悲しかったでしょう? あのとき君は、父上を傷付ける気なんてまったくなかったのに……本当に、本当にごめんね。酷いね、人間は。嫌だね、人間は。ごめんねソフィア、ごめんね」
と、雪のように白い身体を抱き締めて慈しむハーゲンが、「でも」と続けた。
「もう大丈夫だからね。私もきっと、父上と同じように死んだと思われただろうから。これで人間はここへ近寄ることは無くなるだろうし、私ももう人間界に帰らないから。もう二度と、君を傷付けたりしないからね――」
アラブのテレトラスポルト送迎でカプリコルノ国から戻って来た後、宮廷楽士たちの部屋でハーゲンの帰りを待つコラードとリナルドの足が貧乏ゆすりを始める。
「何してるんだよ、あいつ……」
ハーゲンが本日宮廷にやって来るのは正午の予定だったのだが、1時間過ぎた今でもまだやって来ない。
コラードとリナルドよりも落ち着きを失っているのが、ハーゲンの家族だった。
中でも父である宮廷楽士長は、正午を回った頃からずっと部屋の戸口の前を、左右に行ったり来たりしている。
その顔は白くなり、そのヒゲは最近急に白いものが増え始めた。
「コ、コラード陛下…、リ、リナルド殿下……」
その震え声を聞きながら、2人は苦笑する。
テレトラスポルトで送ってもらった後、アラブに帰らないでもらえば良かったと思う。
「仕方ないな、もう。馬で行ってみるかぁ……」
ハーゲンに渡す食料やワインを馬にぶら下げ、居ても立っても居られない様子の宮廷楽士長を連れて、遠く離れたハーゲンの山小屋まで向かっていく。
途中でハーゲンに会うことを願ったが、結局それは叶わず。
夕方になってやっと辿り着いたと思ったら、辺りにハーゲンだと分かるヴィオリーノの音色が響いている。
「普通に生きてたようだな。ただ単に今日のこと忘れてただけか?」
「ま、無理もないかと。見るからに日付感覚がなくなりそうだ、この生活」
と、コラードとリナルドからは安堵の溜め息が漏れたが、ここへ来るのが初めての宮廷楽士長は尚のこと狼狽していった。
何故なら山小屋の屋根やすぐ近くには、ピピストレッロの姿があった。
「な、なんということだ…! こんな危険なところに住んでいたというのか、ハーゲンは……!」
ヴィオリーノの音色が聴こえてくる山小屋の裏の方へと駆けて行くや否や、怒声に近い叫喚が響いてくる。
「寄るな! 私の息子に、近寄るな!」
ヴィオリーノの音色が止み、「父上!」とハーゲンの驚いた声が聞こえた。
突如付近にいるピピストレッロが一斉に浮遊し、コラードとリナルドが息を呑む。
(――やばい)
慌てて下馬し、山小屋の裏へと回っていく。
ハーゲンに後ろから抱きすくめられ、怒鳴り散らしている宮廷楽士長の目線の先には、一匹のメスのピピストレッロがいた。
「コラード陛下、リナルド殿下! すぐに父上を連れて帰ってください!」
ハーゲンの叫びを聞き、承知した2人が宮廷楽士長に駆け寄ってその両腕を掴む。
そして馬へ戻って退散しようかとき、宮廷楽士長の右腕を掴んでいたコラードが、ふとハーゲンの足元を見た。
「おい、ハーゲン! ヴィオリーノがっ……!」
と宮廷楽士長の右腕を離し、それを拾い上げる。
驚いてか、慌ててか、ハーゲンがヴィオリーノを落としたらしく、それはひびが入っていた。
「――ああ、そんな! 私のヴィオリーノが! 私の大切なヴィオリーノが!」
「待て、落ち着けハーゲン! これくらいなら直せる! オレがカプリコルノに持っていって、職人に直してもらうから――」
コラードの言葉を遮るように、宮廷楽士長がその手からヴィオリーノを奪った。
「これが、このヴィオリーノが、ピピストレッロを引き寄せているんだろうハーゲン! こんなもの、とっとと奴らにくれてやれ!」
とヴィオリーノの首を掴み、すぐそこにいるメスのピピストレッロの顔面に向かって叩き付ける。
微動だにしなかったピピストレッロの足元に、破砕したヴィオリーノが落ちた。
「――」
一瞬の静寂の後、響き渡ったハーゲンの悲鳴。
顔色を失ったコラードとリナルド。
夕陽に染まっていた辺りに突如闇が落ち、2人の背筋に寒気が走る。
(奴が、来た――)
そう確信するや否や、視界が紅の炎に染まった。
ほんの一瞬だけ宮廷楽士長の悲鳴が聞こえ、ナナ・ネネが2人に掛けてくれた50枚のバッリエーラの破砕音が継続して鳴り渡っていく。
「リナルド!」
「コラード陛下!」
逃げろの意味で同時に叫び、2人は振り返ることなく来た道を全力疾走していく。
宮廷楽士長同様に、山小屋や馬も、ほぼ一瞬で焼けてしまったことは分かった。
ハーゲンの安否は分からなかったが、あの炎の中では普通に考えて助かるわけがなかった。
『奴』が追い駆けて来ている気がして、無我夢中で走り続け、しばらくすると正面に馬に乗った衛兵の姿が見えてきた。
「おい、逃げろ!」
と声を揃えて叫んだら、きょとんとした顔が返ってきた。
「何からです?」
2人が急停止して、振り返る。
視界に入る範囲すべてを隈なく見渡しても、ピピストレッロの姿は無かった。
汗だくになり、肩で大きく息をする2人の心臓が、今にも爆発しそうなほど動悸を上げていた。
「な、なんだ? オレたちは許されたのか?」
「わ、分かりませんが……幸い逃がしてくれたようです」
コラードが、手で顔を塞ぐ。
「ああ…! ああ、なんてことだよ、ハーゲン……!」
「コラード陛下、天才ヴィオリニスタを失ってしまった悲しみは大きいですが、それどころではありません……!」
リナルドの言う通りだった。
「何してくれるんだよ、宮廷楽士長は……!」
その最期を哀れに思いながらも、恨みたいのが本音だった。
「これでオレたち人間はもう、二度と安穏と生きることは出来なくなってしまった……!」
すっかり夜になった頃に王都に辿り着き、その足でハーゲンの実家へと向かっていく。
ハーゲンと宮廷楽士長の最期を伝えると、その家族が泣き崩れていった。
「コラード陛下、お願いします! 奴らを滅してください!」
「私たちの掛けがえのないハーゲンと父の命を奪った奴らを、どうか!」
居た堪れなくなり、2人を助けられなかったことを謝罪して、今日のところはハーゲンの実家を後にした。
宮廷に帰ってまた2人のことを伝えたら、宮廷内がたちまち騒然としていく。
「ピピストレッロの中で宮廷楽士長だけが敵と認識されたのか何なのか、幸いオレとリナルドを追って来なかったけど……でも、これでもう彼らの中で、人間はどうでも良いものじゃなくなった。悪い意味で、人間が興味を持たれたのはたしかだ。この先、彼らの視界に入ったら殺されてもおかしくない。立ち入り禁止区域を広げよう、ロッテ。ピピストレッロの山から半径20kmは入らない方がいい」
「分かったわ、コラード。そうしましょう」
とシャルロッテが、コラードを抱き締める。
「あなた、大丈夫だったの? 怪我は無いの?」
「うん」とコラードもシャルロッテを抱き締める。
「見ての通り何ともないよ、ナナ・ネネがバッリエーラを掛けてくれたお陰で。心配しないで、ロッテ」
隣では、リナルドとその妻――王太女マヤも抱擁し合っていた。
コラードの足元に4歳の長男ライモンドが寝間着姿で寄って来て、シャルロッテから受け継いだとても美しい紫色の瞳で、父の顔を心配そうに見上げる。
「ライも心配掛けたな、ごめん。でも大丈夫だぞ」
とコラードが笑顔を見せて抱っこしてやると、ライモンドもほっとした様子で笑顔を見せた。
「今日のライは、カプリコルノから帰ってきたあと何をしてたんだ?」
「剣のしゅぎょう」
「よしよし、偉いな。おまえは将来、強くなるぞ。この父上みたいに」
「知ってる」
「だよな、いつも言ってるし」
コラードはライモンドを抱っこしたまま、その部屋へと連れて行く。
部屋のシャンデリアはもう消えていて、起こしてしまったのか、または帰って来ない父を心配して眠れなかったのか、さっきまでレットに入っていた形跡があった。
そこにライモンドを寝かせて、ふかふかのピュモーネを掛けてやる。
「いいか、ライ。しつこいと思わないでよく聞けよ。おまえは強くなって、将来母上やマヤ姉上、エーベル姉上、姪のエリーゼを守るんだぞ」
「分かってるよ、父上。それに、オレもう守れるよ!」
とライモンドが胸を張ると、コラードが「そうだな」と同意してやりながら笑った。
その自信家のところは、悩みの少ない頃の――国王になる以前の自身を見ているようだった。
「じゃー父上は、強いおまえを見込んで頼みたいことがある」
とコラードが言うと、ライモンドが「なになに?」と紫色の瞳を煌めかせた。
その視線の先には、真剣な眼差しの明るい茶色の瞳がある。
「もし父上に何かあったら、おまえは母上たちを連れて『力の王』のところへ行くんだ」
「じーじのところに?」
「そうだ。そのときテレトラスポルトが無かったら、母上たちを連れて船に乗り、カプリコルノまで行くんだ。出来るな?」
「うん、オレ出来るよ!」
と再び胸を張ったライモンドが、「でも」と不安げに紫色の瞳を揺れ動かす。
「『何かあったら』って? 父上はじーじのところに行かないの?」
父の明るい笑顔が表れた。
「心配するな。父上もちゃんと後から行くからな。おまえたちのところに帰るからな――」
――逃げていくコラードとリナルドの後を追おうとしたピピストレッロたちが、宙に浮遊したまま制止する。
一見人間と変わらない、でもよく見ると尖った耳を小さく動かし、一斉に振り返った先には一匹のメスのピピストレッロ――ソフィアが浮遊している。
その腕はハーゲンをぶら下げるように抱き、紅の唇で人間には分からない言葉を一言発した。
するとピピストレッロたちが大地の上に静かに降りていき、辺りを一面を轟々と燃やしている炎に向かって手を伸ばした。
炎は数秒で小さくなって煙だけになり、天へと登っていく。
焼け跡には、真っ黒になった宮廷楽士長と3匹の馬、山小屋の残骸が転がっていた。
「――…ち…父上……?」
しばしのあいだ空中から呆然と眺めていたハーゲンの耳に、ソフィアの声が聞こえる――
「ごめんナさい」
はっとして「ソフィア!」と声を上げ、その胸にしがみ付く。
「ソフィアっ……ソフィア! 行かないで、ソフィア!」
それは焼けていない場所までふわふわと飛んでいくと、ハーゲンを大地の上に降ろした。
ハーゲンが必死にソフィアを胸に抱き締める。
「お願いだよ、ソフィア! どこにも行かないで! あのヴィオリーノは無くなっちゃったけど、私の傍から離れないで! お願いだよ、ソフィア! ソフィア! お願いだよ!」
口を挟む間もなく叫び続けるハーゲンの唇を、紅の唇が塞いだ。
我に返ったハーゲンの銀色の瞳に、生まれて初めてピピストレッロの涙が映る。
「ごめんナさい…ごメんなさい……」
「えっ……?」
一体何のことか少しのあいだ考えて、ソフィアの仲間が殺してしまった父のことだと分かった。
改めて父に顔を向けると、それは髪も服も燃えて無くなり、真っ黒で、開いた口から白い歯が見えていなかったら、人間かどうかすらも判別が難しいような状態だった。
それは酷く衝撃的な光景だったし、可愛がってくれた父の死も悲しかったが、それ以上にソフィアの涙が胸を締め付けた。
「泣かないで、ソフィア。君は何も悪くないし、君の仲間だって悪くない。私の父上が悪いんだ。それどころか、人間を許してくれてありがとう。だからお願い、泣かないで……胸が苦しいよ」
さっき父がヴィオリーノを叩き付けた、ソフィアの頬に触れる。
あのときソフィアは微動だにしなかったが、少しだけ頬骨のあたりが赤くなっていた。
「ごめんね、痛かったでしょう? こんなことされて、悲しかったでしょう? あのとき君は、父上を傷付ける気なんてまったくなかったのに……本当に、本当にごめんね。酷いね、人間は。嫌だね、人間は。ごめんねソフィア、ごめんね」
と、雪のように白い身体を抱き締めて慈しむハーゲンが、「でも」と続けた。
「もう大丈夫だからね。私もきっと、父上と同じように死んだと思われただろうから。これで人間はここへ近寄ることは無くなるだろうし、私ももう人間界に帰らないから。もう二度と、君を傷付けたりしないからね――」
0
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
政略結婚した夫の愛人は私の専属メイドだったので離婚しようと思います
結城芙由奈
恋愛
浮気ですか?どうぞご自由にして下さい。私はここを去りますので
結婚式の前日、政略結婚相手は言った。「お前に永遠の愛は誓わない。何故ならそこに愛など存在しないのだから。」そして迎えた驚くべき結婚式と驚愕の事実。いいでしょう、それほど不本意な結婚ならば離婚してあげましょう。その代わり・・後で後悔しても知りませんよ?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載中
【完結】身を引いたつもりが逆効果でした
風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。
一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。
平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません!
というか、婚約者にされそうです!
【完結】公女が死んだ、その後のこと
杜野秋人
恋愛
【第17回恋愛小説大賞 奨励賞受賞しました!】
「お母様……」
冷たく薄暗く、不潔で不快な地下の罪人牢で、彼女は独り、亡き母に語りかける。その掌の中には、ひと粒の小さな白い錠剤。
古ぼけた簡易寝台に座り、彼女はそのままゆっくりと、覚悟を決めたように横たわる。
「言いつけを、守ります」
最期にそう呟いて、彼女は震える手で錠剤を口に含み、そのまま飲み下した。
こうして、第二王子ボアネルジェスの婚約者でありカストリア公爵家の次期女公爵でもある公女オフィーリアは、獄中にて自ら命を断った。
そして彼女の死後、その影響はマケダニア王国の王宮内外の至るところで噴出した。
「ええい、公務が回らん!オフィーリアは何をやっている!?」
「殿下は何を仰せか!すでに公女は儚くなられたでしょうが!」
「くっ……、な、ならば蘇生させ」
「あれから何日経つとお思いで!?お気は確かか!」
「何故だ!何故この私が裁かれねばならん!」
「そうよ!お父様も私も何も悪くないわ!悪いのは全部お義姉さまよ!」
「…………申し開きがあるのなら、今ここではなく取り調べと裁判の場で存分に申すがよいわ。⸺連れて行け」
「まっ、待て!話を」
「嫌ぁ〜!」
「今さら何しに戻ってきたかね先々代様。わしらはもう、公女さま以外にお仕えする気も従う気もないんじゃがな?」
「なっ……貴様!領主たる儂の言うことが聞けんと」
「領主だったのは亡くなった女公さまとその娘の公女さまじゃ。あの方らはあんたと違って、わしら領民を第一に考えて下さった。あんたと違ってな!」
「くっ……!」
「なっ、譲位せよだと!?」
「本国の決定にございます。これ以上の混迷は連邦友邦にまで悪影響を与えかねないと。⸺潔く観念なさいませ。さあ、ご署名を」
「おのれ、謀りおったか!」
「…………父上が悪いのですよ。あの時止めてさえいれば、彼女は死なずに済んだのに」
◆人が亡くなる描写、及びベッドシーンがあるのでR15で。生々しい表現は避けています。
◆公女が亡くなってからが本番。なので最初の方、恋愛要素はほぼありません。最後はちゃんとジャンル:恋愛です。
◆ドアマットヒロインを書こうとしたはずが。どうしてこうなった?
◆作中の演出として自死のシーンがありますが、決して推奨し助長するものではありません。早まっちゃう前に然るべき窓口に一言相談を。
◆作者の作品は特に断りなき場合、基本的に同一の世界観に基づいています。が、他作品とリンクする予定は特にありません。本作単品でお楽しみ頂けます。
◆この作品は小説家になろうでも公開します。
◆24/2/17、HOTランキング女性向け1位!?1位は初ですありがとうございます!
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる