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第13話ー1 凱旋

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 憤怒の感情が抜けて行ったら、残ったのは愛しさと悲しみだった。

 溜まらない愛しさに胸が詰まり、深い悲しみに胸が痛んで、フラヴィオの小刻みに震えた唇から言葉が出て来ない。

 タオルアッシュガマーノ一枚越しのベルの小さな身体を抱き締めたら、その小さな足が脱衣所の床から浮いた。

 フラヴィオの胸にしがみ付いて、嗚咽しながら「ごめんなさい」と何度も謝るベルに、やっとの思いで確認する。

「怪我は、無いのだな……?」

 ベルから「はいスィー」の返事が確認されると、フラヴィオは胸を撫で下ろした。

 失神する前にフェデリコから、ベルは無事だと、無傷だと聞いてはいたが、今やっと安堵した。

「私は、掠り傷ひとつありません。友人が――ハナが、満身創痍になりながらも私を守ってくれたのです」

「そうか……」

 一体、どれだけハナに感謝すれば良いだろう。

 ハナがいなければ、ベルを自身の目の届かぬところへやってしまったことを、フラヴィオは一生後悔するところだった。

 ベルはこの小さなか弱い身体を奮い立たせ、3年前にカプリコルノの商船を襲い、200人近くいた商人や船員を皆殺しにし、大量の金銀財宝を奪って逃走した凶悪な海賊のいる船に乗り込んだというのだから。

 それがフラヴィオにとって対岸の火事だったならば、ベルはそんな無茶をしなかっただろう。

 生理現象などは除き、ベルが何か行動を起こす際の理由のひとつには、必ずこのフラヴィオのためということがある。

 そう思うと胸が苦しくなるほどに愛しく、また、今回のことでベルが自身の手を血で汚してしまったことを思うと、胸が貫かれたかのように痛い。

 天使を守るのも、そのために手を汚すのも、このフラヴィオやフェデリコ、アドルフォたちの役目で、天使はただこの盾に守られ、笑顔を咲かせてくれていれば良かった。

 ベルは家事が得意だから、このフラヴィオのために料理してくれたり、衣類や持ち物に刺繍を入れてくれたり、取れたボタンボットーネを付けてくれたりするだけで幸せだった。

 またベルは勉強が好きだから、好きなだけ学んで知識を身に着け、賢くなってくれるだけで誇りだった。

「私はもう、フラヴィオ様の天使ではありませんか?」

 そう問うてきたベルに、フラヴィオは怒声混じりに「そんな訳ないだろう!」と返してしまう。

 フラヴィオが一度天使に選んだ者は、永遠の天使だ。

「そうですか。でも……」

 ベルは今日一日のことを思い返す。

 我ながら危険なことをしたと、冷静さを取り戻した今になって思う。

 そして、罪人とはいえ多くの命を奪った。だからもう、天国へは行けないと思った。

 ベルの耳に、頭の片隅から消えないエステ・スキーパの声が響く。

 エステ・スキーパの死刑執行中の、最期の言葉だ――

「フラヴィオ・マストランジェロ、地獄に堕ちろ」

 あの時、フラヴィオは「そうだな」と答えた。

「余も地獄行きだな」……――

(――ああ……)

 ベルの口から静かに、長く、溜め息が漏れる。

 顔を上げ、フラヴィオの顔を見つめるその栗色の瞳には、安堵の色が浮かんでいた。

「私は死んでからも、フラヴィオ様にお仕え出来るようになったのですね……」

 どういう意味なのかとフラヴィオが黙考する手前、ベルが穏やかな声でこう続けた。

「天使は天使でも、私は、地獄に堕ちる堕天使なのですから……」

「――」

 ベルがフラヴィオの胸に顔を埋め、再び安堵の溜め息を吐く一方、フラヴィオの言葉が出なくなった。

 地獄になど堕ちるものか、天使は天国に行くのだと言いたいのに、喉から出て来ない。

 代わりに溢れ出しそうになったのは涙で、瞼を強く押さえて堪える。

 そんなことを言ってしまったら、逆にベルを地獄に送ってしまうことになるのだと分かる。

 襲って来た他国の軍隊や海賊、犯罪者の処刑で星の数ほど命を奪って来たフラヴィオが、まず行くことのないだろう天国はベルにとっての地獄で、フラヴィオの堕ちる地獄こそがベルにとっての天国なのだという。

 一体どうすればいいのか、この天使は。

 本当の天国に行って欲しいのに、共に地獄になんか堕ちて欲しい訳が無いのに。

 それにも関わらず、迷惑千万なことに付いて来たいという。

 それほどにこのフラヴィオのために生きることが幸福なのだと、痛いほどに伝わって来る。

 そうしたらもう、良い年こいて何言っているのかと自身に突っ込みたくなるような誓いが口から出て来た。

「分かった、ベル……分かった。余は死後に地獄を支配する」

 浴衣姿のまま浴槽にぶん投げられ、そこから2人を見ていたフェデリコから「へ?」と間の抜けた声が出、マサムネから「閻魔大王か」と突っ込みが入った。

 しかし、フラヴィオの誓いは継続して喉から出て来る。

「だからその間、ベルはこっちで待っていろ。すぐに付いて来ては駄目だ。悪党だらけの地獄を制するには余でも時間が掛かるから、ベルがこっちで生きて生きて……そうだな、100歳越えの熟女になったあたりで迎えに来る」

 マサムネが「完熟すぎやろ」と小声で突っ込む一方、15になろう少女は嗚咽していた。

 フラヴィオのその言葉を純粋に、真剣に受け止めたようで、必死に首を横に振って、嫌だと訴えている。

 もともと男よりも女の方が長生きで、しかもベルはフラヴィオよりも17歳も年下故に「長すぎます」と言ってしゃくり上げ、もっと早く迎えに来て欲しいのだと訴えている。

 しかしここは引き下がれないらしいフラヴィオが「駄目だ」と言うと、ベルは少しのあいださらに泣きじゃくっていたが、やがて「スィー」と承知した。

「先ほど、天使軍元帥閣下の手前、フラヴィオ様のために『生きること』を誓いました故、このベルナデッタ、奮励努力して100歳の熟女を目指します。だから……」

 地獄界を制圧したら必ず迎えに来て下さい、と叫ぶように願った少女と、「分かった」と承知して、さも愛しそうに抱き締めるフラヴィオ。

 それを交互に見つめるマサムネは、「あかんわ」と些か引いてしまったが、その傍らで目頭を押さえているフェデリコは反対に感動したらしい――

「なんと健気な天使よ……!」

 そして湯船にいるもうひとり――オルランドは、2人を見つめていられなくなって湯の中に沈んでいった。

 ベルの姿はフラヴィオの背に隠されて見えなかったが、2人はアッシュガマーノ一枚越しに裸で抱き合っているのだと察し、少女に何してんだこのオッサンとそろそろフラヴィオに突っ込みを入れようかと思っていたが、思わず萎えていく。

 ベルのフラヴィオに対する忠誠心が桁外れであることはもう分かっていたつもりだが、改めてその洪大さを目の前で突きつけられた。

 まるで2人の間に入り込む隙間が無いように見えてやるせなく、胸がずきずきと痛みを上げる。

「くぉらっ!」

 と、マサムネがオルランドの顔を湯の中から引っ張り出した。

「早まったら、あかん。おまえの人生はこれからなんやから。な?」

 どうやらマサムネは、オルランドが入水自殺でも試みたと思ったらしい。

 そんなつもりはなかったオルランドだが、特に否定することもなく、むっつりと黙り込んで顔を伏せる。

 そんな様子を見たフェデリコが湯船から出て戸を閉め、2人の姿を見えなくすると、オルランドがようやく顔を上げた。

 深い深い、溜め息を吐く。

「まぁ、そう落ち込むなや」

 と、マサムネがオルランドの肩を叩いた。

「正直、ベルあれをフラビーから奪うのは無理やけども」

 この後行われるベルとハナの祝宴には、フラヴィオとヴィットーリアを招く予定だったが、そこにオルランドが加わっているのは、オルランドに片思いをしているマサムネの長女――アヤメのためだった。

 オルランドはベルに思いを寄せているが、フラヴィオたちもマサムネたちも色んな理由から、オルランドにはアヤメを選んで欲しいと思っていたりする。

 それ故、フェデリコとマサムネは目を合わせると、小さく咳払いをしてこんなことをさりげなく勧めてみる。

「あー、せや、ランド……うちのアヤメ、まだ婚約者おらのやけど、どう?」

「お、おおー、いいじゃないかランド。アヤメなら愛らしいし、皆喜ぶぞ?」

 オルランドは何も聞こえなくなっているらしい。俯きがちに一点を見つめ、生気を失っている。

「父上の、バカ」

 そう呟いたと思ったらオルランドの頬が膨らみ、フェデリコはちょっとおかしくなって笑ってしまう。

 オルランドはその年齢から考えたらとても落ち着いた性格をしていて、童心の残るフラヴィオよりも大人だと思っていたが、こうして見るとやっぱり13歳だった。

「バカ……バーカ……父上の――酒池肉林王の、バァァァァァカッ!」

 とオルランドが浴室に声を響かせた刹那、引き戸が先ほどに続いて銃声のような大音声を上げて開き、そこに立っていた酒池肉林王の手から投げ放たれたマサムネの草履が疾風のごとくオルランド目掛けて飛んで行き、その顔面にパーンと何かが破裂するような音を立ててめり込んだ。

「――……クサッ!」


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