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第9話ー1 逆鱗
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3階の廊下を駆けていたベルとムサシに、鉢合わせになった家政婦長ピエトラが眉を吊り上げた。
「こら、ベル。走るんじゃないよ。誰かとぶつかったらどうするんだい。ムサシ殿下だってまだ小さいんだ、転んだら大変だろう?」
ベルは「申し訳ございません」と頭を下げたが、すぐにピエトラの顔を見た。
60歳のはずなのに、きゅっと結い上げた焦げ茶色の髪に白は少しも見られず、その顔はシワがほんの少しあるだけで最低でも20歳以上は若く見える。
「ピエトラ様、あの――」
「ベラ様を探しているのかい?」
と、ピエトラがベルの言葉を遮った。
ベルとムサシが同時に頷くと、その口から溜め息が漏れた。
「陰口っていうのは、いくら言うなって言ったところで無くならなくてね。大方、ベラ様はまた子供のことで何か言われたのだろう? 可哀想で見ていられないよ」
「ベラ様をどこでお見掛けしましたか?」
「擦れ違ったのは階段だけど、たぶん、1階の客間にいると思うよ。そこにいなかったら裏庭のことが多いね」
ベルとムサシは1階へと降りて行った。
先ほど走るなと注意されたばかりだが、ベラドンナが心配で駆け足気味になってしまう。
ピエトラの言った通り、ベラドンナの姿を見つけたのは1階にある城の出入り口脇――廊下の南端――にある客間だった。
シャンデリアの火は消えていたが、カーテンの隙間から差し込む明るい月明りがその姿を照らしていた。
ベッドに突っ伏し、枕に顔を埋め、嗚咽している。
「申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬっ……!」
レットの脇に土下座し、泣きじゃくるムサシを見、ベラドンナが「やぁね」と涙を拭いてレットから起き上がった。
まだ8つと小さなムサシの身体を抱っこして立たせ、レットに座らせる。
ベラドンナはその右隣に座ると、ムサシの黒いボサボサ頭を撫でた。
ベルはその前に膝を付き、声を上げて泣いているムサシの瞼にハンカチをそっと当てていく。
「アンタが謝るとこじゃないのよ、ムサシ」
「そうですよ、ムサシ殿下」
「し、しかし、拙者の父上が無礼をはたらきました故っ……」
ベラドンナがもう一度「やぁね」と言って苦笑した。
「『石女』って、意味分かってるの?」
「分かりませぬ。しかし、ベラ様はとても傷付いておられました故っ……」
ベルは小さく「そうですね」と同意した。
実はベルも『石女』という言葉をまだ知らなかったが、先ほどの会話の流れから『子供を産めない女』という意味であることは察した。
ヴァレンティーナ曰く、そのことで使用人などから陰口を叩かれているベラドンナは、常日頃から傷付いているようだった。
それにも関わらず、あまりにも無神経なマサムネの発言には憤らずにはいられない。
「私は女性側だけに原因があるとは思いませんが」
「ドルフや、女に詳しいマストランジェロ一族の男たちも、そう言って慰めてくれるわ。でも、こういうのって大抵の国が女の所為にするものだから仕方がないのよ。それに、実際ワタシの身体の方に問題がある気がしてるわ。だから気にしないで、2人とも」
そう言って無理に作った弱々しい笑顔は、ベラドンナには似合わないとベルは思う。
ベラドンナは、いつも快活な笑顔をしているのだ。
ムサシも同じことを思ったのか、ベラドンナの顔を見、尚のこと泣きじゃくった。
「ごめんなさいっ…ごめんなさいっ……!」
「やぁね、もう」
と、ベラドンナがムサシを膝の上に抱っこした。
「優しい子ね。ありがとう、ムサシ。アンタ、将来イイ男になるわよー」
と言って笑った顔は、先ほどよりも少しベラドンナらしい。
「ワタシ、こういう息子が欲しいわ」
ムサシが頭を後ろに倒して、ベラドンナの顔を見た。
糸のように細い目から垣間見える黒っぽい瞳は、とても真剣だった。
「では、なりまする」
「え?」
「拙者が、ベラ様の子になりまする」
ベラドンナは驚いて「ええ?」と声を高くすると、一度ベルと顔を見合わせた。
「ワタシとドルフの養子ってこと?」
「はい」
「それはお父上様に――ムネ殿下に怒られるのでは?」
とベルが問うと、ムサシが「いいえ」と首を横に振った。
「拙者は四男坊。兄上たちはみんな元気で健康故、拙者が王位を継承することはほとんど無いと思われまする。それ故、拙者がこの国に来たって特に問題はないでござりまする」
ベルとベラドンナが、もう一度顔を見合わせた。互いが困惑しているのが分かった。
「ムサシ殿下、一度お父上様に確認された方がよろしいかと」
「そうよ、ムサシ。アンタひとりで勝手に決めちゃ駄目よ。父上だけじゃなく、母上にも聞いた方がいいわ。泣いちゃうかもしれないわよー、お母さんは!」
「でも、国へはテレトラスポルトでいつでも帰れまする」
とムサシがじっと、ベラドンナの顔を見つめた。
「拙者が子では、不服でござりまするか?」
「そうじゃないわ。さっきも言ったけど、ワタシはこういう息子が欲しいんだもの」
「拙者はこの国がとても好きでござりまする。国民――特に女性はみんな笑顔で、明るくて、見ているだけで幸せな気分になりまする。特にベラ様はいつも元気で、活発で、こんなにお美しいのに気取らず、大きな口を開けて笑っていて…………拙者はいつも、ベラ様に見惚れてしまいまする。拙者はベラ様が、大好きでござる」
「ムサシ……」
ベラドンナの頬が染まる一方、ベルの頬も少しだけ熱を持つ。
これは、愛の告白というやつだろうかと思ってしまう。
「ベラ様には笑顔が似合いまする。拙者が子になることで、ベラ様が笑顔になれるというのなら、拙者をぜひとも子にしてほしいでござりまする。得意の弓を毎日練習するでござりまする、たくさんの書を読みまする、そして将来はこの国を守れる立派な男になりまする。だから――」
「ふふ」
というベラドンナの含み笑いが、ムサシの言葉を遮った。
小さな身体を、胸にぎゅっと抱き締める。
「ありがとう、ムサシ。ありがとう……」
ベラドンナの瞳から涙が零れ落ちた。
「今ね、なんだか凄く心が楽になった。凄く凄く、救われた気分だわ。そうだな……そうだな、あと1年。あと1年頑張ってみて子供が出来なかったら、よろしくねムサシ。ドルフには側室を……そうね、メッゾサングエを迎えてもらうことにするから」
そう決意した様子のベラドンナに、ベルは戸惑いながら確認する。
「そ…それでよろしいのですか、ベラ様……?」
「ええ、いいわ。そうすればムネ殿下はもううるさく言わないだろうし、とても強い子が出来るし、この国の将来のためになるでしょ。それにね、なるべくならお姉様のためにフラヴィオ様に第二夫人作らないで欲しいのが、ワタシの本音なの」
「し、しかし、ベラ様が――」
「気にしないで、ベル。だって……だって側室なんて、所詮は『妾』だもの。ドルフの妻はワタシだもの……ワタシだけが、ドルフの妻だもの」
この国の王侯貴族は、正室(第一夫人)の他にも、側室(第二夫人以降)も、列記とした『妻』とされる。
しかしそれを、ベラドンナがヴァレンティーナに『妾』――ただの『愛人』だと教え込んだ理由を、ベルは察した気がした。
ベラドンナはきっと、夫婦の間にいつかそういう日が来るかもしれないことを前々から覚悟していて、そう思い込むことで自身を慰撫し、励ましていたのかもしれない。
「それによって、もしドルフの心がワタシから離れても――」
「離れませんっ……!」
「ええ、分かってるわベル。『もし』の話よ。もしそんなことが起きても、ワタシはもう大丈夫。だってその時は、この子が――ムサシが――息子が、いてくれるんだもの……」
ベラドンナが、ムサシにどれほど救われたのか見ていて分かった。
ムサシを胸に抱き、微笑する顔があまりにも幸福に満ちている故に。
現在のこの国の成人女性の中で、並ぶ者がいないほど美しい顔の上を転がり落ちていく涙。
窓から差し込む月光に照らされて煌めき、まるで無色透明な宝石のように映った。
そこへ、部屋の扉が開く音がした。
「ここか、ベラっ……!」
アドルフォだ。
とても大柄な身体の、とても大幅な足で、ベラドンナの方へと足早に歩いて来る。
「ムネ殿下の言ったことは気にするな。俺はおまえ以外を妻に迎えたいとは思わないし、俺のことを心から愛してくれる女だっておまえだけなんだ」
ベラドンナが涙を拭い、「ふふ」と笑った。
「大丈夫よ、ドルフ。さっきのことは気にしてないわ」
アドルフォがベラドンナの様子をうかがう様に見つめる。
嘘偽りや、強がり、気遣いから来る言葉ではなく、本心だと悟ると、「そうか」と安堵の溜め息を吐いた。
「ねぇ、ドルフ。今日はムサシを真ん中にして眠りましょ?」
「へ?」
と間の抜けた声を出したアドルフォが、はしゃぐムサシを見た後、ベルを見て小さな声で問うた。
「何があった……?」
さっきのムサシの養子の話は、どうやらベラドンナはまだアドルフォに話す気はない様子。
ベルは「特に何も」と答えておいた。
「そういえば、レオーネ国では子供を真ん中にして、両脇に両親が並んで寝るらしいということをフェーデ様が仰っていました。『予行練習』をされてみては如何ですか、ドルフ様?」
「あー……まぁ、いいか。たまには、異国の文化を試してみるのも」
とアドルフォからの許可が下りると、ムサシが尚のことはしゃいだ。
4人で1階の客間を出て4階へと戻っていく途中――3階に辿り着いた時――フラヴィオとフェデリコ、オルランドと鉢合わせになった。
晩餐会でアドルフォと大喧嘩になったマサムネを3階の客間に引きずって行き、レットに縛り付けて来たところらしい。
廊下にはその怒声が響き渡って来る――
「縄解けや、ドアホォォォォォ――」
「うるさいっ!」
……ハナがムサシの額に手刀を入れたのが分かった。
ムサシの声がぴたりと止んだところを見ると、失神したのかもしれない。
やれやれと言った様子で溜め息を吐いたフラヴィオとフェデリコ、オルランドの3人が、ベラドンナを囲うように歩きながら、励ましの言葉を掛ける。
ベラドンナが「気にしてないわ」の言葉と共に笑顔を見せると、先ほどのアドルフォに続いて安心したようだった。
「本日の晩餐会はお開きですか?」
とベルが問うと、フラヴィオが「そうだな」と答えた。
フラヴィオとフェデリコ、オルランドは晩餐会前に温泉に行ったし、アドルフォもプリームラ軍の調練から帰って来てすぐ入浴したらしい。
ベラドンナもさっき入浴を終えたし、3階の方からはハナのこんな声が聞こえて来た――
「あたいと兄貴、1階の風呂借りるからなー」
それではと、ベルは4階の浴室に向かって行く。
本来は4階の浴室は王侯貴族限定だが、『天使』のベルも許可をもらっていた。
フラヴィオが「ふふふ」と笑ってベルの肩を抱く。
「たまには余が身体を洗ってやろう」
「いいえ、おやすみなさい父上」
とベルよりも早く返事をしたのは、オルランドだった。
その手首を引っ掴み、4階の廊下を駆けていく。
フラヴィオの寝室――国王夫妻の部屋の前で立ち止まったと思ったら、中にフラヴィオを強引に押し込んだ――
「何をする、ランド!」
「良い夢を、父上」
「まだベルにおやすみのバーチョしてないぞ!」
「駄目ですベルに寄らないで下さい父上酒臭すぎ」
「えっ……!?」
「おやすみなさい」
「ううぅ……」
その様子を見ていたフェデリコとアドルフォは、顔を見合わせて苦笑してしまう。
レオーネ国にはオルランドからの求婚を夢見る姫――マサムネの長女――がいるのだが、オルランドが恋心を抱いてしまったのはベルのようで。
こっちはこっちで問題が起きそうだった。
「あら?」
と小首を傾げたベラドンナもそれを察したようで、ベルに耳打ちして問うた――
「どうする気?」
「何のことでしょう?」
「何のって、そりゃ……――」
「どうぞ、ベル」
とオルランドが、浴室の扉を開けた。
ベルは「はい」と答えた後、フェデリコとアドルフォ、ベラドンナ、ムサシの顔を見回して「おやすみなさいませ」とお辞儀した。
小走りでオルランドの方へと向かって行く。
「ありがとうございます、オルランド様」
「うん……あの、ベル? 明日のティーナの家庭教師の時間――空いた時間は何してる?」
「ああ、それはねぇ?」
と声高気味になって口を挟んだのは、離れたところにいるベラドンナだ。
「えーとねぇ、明日のその時間、ワタシはムサシに弓矢教えようと思ってるんだけど、ベルも一緒にやろうかなって」
「そうですか、ベラ叔母上と……」
と少し残念そうな顔をしたオルランドを見たあと、ベラドンナは少し狼狽してフェデリコとアドルフォに囁く。
「ちょっとどうすんのよ、アレ? ランドがムネ殿下の姫を選ばないのはまずいでしょ。この国の軍事力についてはワタシは大丈夫だと思ってるけど、ガラスや陶磁器の製造に向こうの魔法の力を借りてるわけだし、最大の貿易相手国でもあるんだし……」
「ああ、どうするか……ランドの婚約によって、レオーネ国とより深い友好関係を築けると思っていたのだが」
「なぁ、閣下よ。マストランジェロ王家の『男は年頃になったら意中の彼女を口説き落として嫁にする試練』は廃止した方が良いんじゃないか?」
「そうよ、他国の王侯貴族みたいに親が婚約者を決めておいた方が安泰よ。ランドが向こうの姫選ばなかったら、ムネ殿下が激怒して友好関係にヒビが入るかもよ? あの人、「もう絶交や!」とか子供じみたこと言いそうだし」
「ああ、困る……普通に言いそうだ」
3人の目線の先、浴室に入って行こうとしたベルの手を、ふとオルランドが「待って」と引っ張った。
少し照れ臭そうな様子を見せた後、「おやすみ」とベルの頬にキスする。
ベルの方は通常運転で「おやすみなさいませ」と淡々と返した後、浴室に入って行った。
3人の目線を感じて振り返ったオルランドは、嬉しそうにはにかんで「おやすみなさい」と言うと自室に入って行った。
3人は「おやすみ」と微笑を返して見送った後、顔を見合わせて苦々しく笑んだ。
「こら、ベル。走るんじゃないよ。誰かとぶつかったらどうするんだい。ムサシ殿下だってまだ小さいんだ、転んだら大変だろう?」
ベルは「申し訳ございません」と頭を下げたが、すぐにピエトラの顔を見た。
60歳のはずなのに、きゅっと結い上げた焦げ茶色の髪に白は少しも見られず、その顔はシワがほんの少しあるだけで最低でも20歳以上は若く見える。
「ピエトラ様、あの――」
「ベラ様を探しているのかい?」
と、ピエトラがベルの言葉を遮った。
ベルとムサシが同時に頷くと、その口から溜め息が漏れた。
「陰口っていうのは、いくら言うなって言ったところで無くならなくてね。大方、ベラ様はまた子供のことで何か言われたのだろう? 可哀想で見ていられないよ」
「ベラ様をどこでお見掛けしましたか?」
「擦れ違ったのは階段だけど、たぶん、1階の客間にいると思うよ。そこにいなかったら裏庭のことが多いね」
ベルとムサシは1階へと降りて行った。
先ほど走るなと注意されたばかりだが、ベラドンナが心配で駆け足気味になってしまう。
ピエトラの言った通り、ベラドンナの姿を見つけたのは1階にある城の出入り口脇――廊下の南端――にある客間だった。
シャンデリアの火は消えていたが、カーテンの隙間から差し込む明るい月明りがその姿を照らしていた。
ベッドに突っ伏し、枕に顔を埋め、嗚咽している。
「申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬっ……!」
レットの脇に土下座し、泣きじゃくるムサシを見、ベラドンナが「やぁね」と涙を拭いてレットから起き上がった。
まだ8つと小さなムサシの身体を抱っこして立たせ、レットに座らせる。
ベラドンナはその右隣に座ると、ムサシの黒いボサボサ頭を撫でた。
ベルはその前に膝を付き、声を上げて泣いているムサシの瞼にハンカチをそっと当てていく。
「アンタが謝るとこじゃないのよ、ムサシ」
「そうですよ、ムサシ殿下」
「し、しかし、拙者の父上が無礼をはたらきました故っ……」
ベラドンナがもう一度「やぁね」と言って苦笑した。
「『石女』って、意味分かってるの?」
「分かりませぬ。しかし、ベラ様はとても傷付いておられました故っ……」
ベルは小さく「そうですね」と同意した。
実はベルも『石女』という言葉をまだ知らなかったが、先ほどの会話の流れから『子供を産めない女』という意味であることは察した。
ヴァレンティーナ曰く、そのことで使用人などから陰口を叩かれているベラドンナは、常日頃から傷付いているようだった。
それにも関わらず、あまりにも無神経なマサムネの発言には憤らずにはいられない。
「私は女性側だけに原因があるとは思いませんが」
「ドルフや、女に詳しいマストランジェロ一族の男たちも、そう言って慰めてくれるわ。でも、こういうのって大抵の国が女の所為にするものだから仕方がないのよ。それに、実際ワタシの身体の方に問題がある気がしてるわ。だから気にしないで、2人とも」
そう言って無理に作った弱々しい笑顔は、ベラドンナには似合わないとベルは思う。
ベラドンナは、いつも快活な笑顔をしているのだ。
ムサシも同じことを思ったのか、ベラドンナの顔を見、尚のこと泣きじゃくった。
「ごめんなさいっ…ごめんなさいっ……!」
「やぁね、もう」
と、ベラドンナがムサシを膝の上に抱っこした。
「優しい子ね。ありがとう、ムサシ。アンタ、将来イイ男になるわよー」
と言って笑った顔は、先ほどよりも少しベラドンナらしい。
「ワタシ、こういう息子が欲しいわ」
ムサシが頭を後ろに倒して、ベラドンナの顔を見た。
糸のように細い目から垣間見える黒っぽい瞳は、とても真剣だった。
「では、なりまする」
「え?」
「拙者が、ベラ様の子になりまする」
ベラドンナは驚いて「ええ?」と声を高くすると、一度ベルと顔を見合わせた。
「ワタシとドルフの養子ってこと?」
「はい」
「それはお父上様に――ムネ殿下に怒られるのでは?」
とベルが問うと、ムサシが「いいえ」と首を横に振った。
「拙者は四男坊。兄上たちはみんな元気で健康故、拙者が王位を継承することはほとんど無いと思われまする。それ故、拙者がこの国に来たって特に問題はないでござりまする」
ベルとベラドンナが、もう一度顔を見合わせた。互いが困惑しているのが分かった。
「ムサシ殿下、一度お父上様に確認された方がよろしいかと」
「そうよ、ムサシ。アンタひとりで勝手に決めちゃ駄目よ。父上だけじゃなく、母上にも聞いた方がいいわ。泣いちゃうかもしれないわよー、お母さんは!」
「でも、国へはテレトラスポルトでいつでも帰れまする」
とムサシがじっと、ベラドンナの顔を見つめた。
「拙者が子では、不服でござりまするか?」
「そうじゃないわ。さっきも言ったけど、ワタシはこういう息子が欲しいんだもの」
「拙者はこの国がとても好きでござりまする。国民――特に女性はみんな笑顔で、明るくて、見ているだけで幸せな気分になりまする。特にベラ様はいつも元気で、活発で、こんなにお美しいのに気取らず、大きな口を開けて笑っていて…………拙者はいつも、ベラ様に見惚れてしまいまする。拙者はベラ様が、大好きでござる」
「ムサシ……」
ベラドンナの頬が染まる一方、ベルの頬も少しだけ熱を持つ。
これは、愛の告白というやつだろうかと思ってしまう。
「ベラ様には笑顔が似合いまする。拙者が子になることで、ベラ様が笑顔になれるというのなら、拙者をぜひとも子にしてほしいでござりまする。得意の弓を毎日練習するでござりまする、たくさんの書を読みまする、そして将来はこの国を守れる立派な男になりまする。だから――」
「ふふ」
というベラドンナの含み笑いが、ムサシの言葉を遮った。
小さな身体を、胸にぎゅっと抱き締める。
「ありがとう、ムサシ。ありがとう……」
ベラドンナの瞳から涙が零れ落ちた。
「今ね、なんだか凄く心が楽になった。凄く凄く、救われた気分だわ。そうだな……そうだな、あと1年。あと1年頑張ってみて子供が出来なかったら、よろしくねムサシ。ドルフには側室を……そうね、メッゾサングエを迎えてもらうことにするから」
そう決意した様子のベラドンナに、ベルは戸惑いながら確認する。
「そ…それでよろしいのですか、ベラ様……?」
「ええ、いいわ。そうすればムネ殿下はもううるさく言わないだろうし、とても強い子が出来るし、この国の将来のためになるでしょ。それにね、なるべくならお姉様のためにフラヴィオ様に第二夫人作らないで欲しいのが、ワタシの本音なの」
「し、しかし、ベラ様が――」
「気にしないで、ベル。だって……だって側室なんて、所詮は『妾』だもの。ドルフの妻はワタシだもの……ワタシだけが、ドルフの妻だもの」
この国の王侯貴族は、正室(第一夫人)の他にも、側室(第二夫人以降)も、列記とした『妻』とされる。
しかしそれを、ベラドンナがヴァレンティーナに『妾』――ただの『愛人』だと教え込んだ理由を、ベルは察した気がした。
ベラドンナはきっと、夫婦の間にいつかそういう日が来るかもしれないことを前々から覚悟していて、そう思い込むことで自身を慰撫し、励ましていたのかもしれない。
「それによって、もしドルフの心がワタシから離れても――」
「離れませんっ……!」
「ええ、分かってるわベル。『もし』の話よ。もしそんなことが起きても、ワタシはもう大丈夫。だってその時は、この子が――ムサシが――息子が、いてくれるんだもの……」
ベラドンナが、ムサシにどれほど救われたのか見ていて分かった。
ムサシを胸に抱き、微笑する顔があまりにも幸福に満ちている故に。
現在のこの国の成人女性の中で、並ぶ者がいないほど美しい顔の上を転がり落ちていく涙。
窓から差し込む月光に照らされて煌めき、まるで無色透明な宝石のように映った。
そこへ、部屋の扉が開く音がした。
「ここか、ベラっ……!」
アドルフォだ。
とても大柄な身体の、とても大幅な足で、ベラドンナの方へと足早に歩いて来る。
「ムネ殿下の言ったことは気にするな。俺はおまえ以外を妻に迎えたいとは思わないし、俺のことを心から愛してくれる女だっておまえだけなんだ」
ベラドンナが涙を拭い、「ふふ」と笑った。
「大丈夫よ、ドルフ。さっきのことは気にしてないわ」
アドルフォがベラドンナの様子をうかがう様に見つめる。
嘘偽りや、強がり、気遣いから来る言葉ではなく、本心だと悟ると、「そうか」と安堵の溜め息を吐いた。
「ねぇ、ドルフ。今日はムサシを真ん中にして眠りましょ?」
「へ?」
と間の抜けた声を出したアドルフォが、はしゃぐムサシを見た後、ベルを見て小さな声で問うた。
「何があった……?」
さっきのムサシの養子の話は、どうやらベラドンナはまだアドルフォに話す気はない様子。
ベルは「特に何も」と答えておいた。
「そういえば、レオーネ国では子供を真ん中にして、両脇に両親が並んで寝るらしいということをフェーデ様が仰っていました。『予行練習』をされてみては如何ですか、ドルフ様?」
「あー……まぁ、いいか。たまには、異国の文化を試してみるのも」
とアドルフォからの許可が下りると、ムサシが尚のことはしゃいだ。
4人で1階の客間を出て4階へと戻っていく途中――3階に辿り着いた時――フラヴィオとフェデリコ、オルランドと鉢合わせになった。
晩餐会でアドルフォと大喧嘩になったマサムネを3階の客間に引きずって行き、レットに縛り付けて来たところらしい。
廊下にはその怒声が響き渡って来る――
「縄解けや、ドアホォォォォォ――」
「うるさいっ!」
……ハナがムサシの額に手刀を入れたのが分かった。
ムサシの声がぴたりと止んだところを見ると、失神したのかもしれない。
やれやれと言った様子で溜め息を吐いたフラヴィオとフェデリコ、オルランドの3人が、ベラドンナを囲うように歩きながら、励ましの言葉を掛ける。
ベラドンナが「気にしてないわ」の言葉と共に笑顔を見せると、先ほどのアドルフォに続いて安心したようだった。
「本日の晩餐会はお開きですか?」
とベルが問うと、フラヴィオが「そうだな」と答えた。
フラヴィオとフェデリコ、オルランドは晩餐会前に温泉に行ったし、アドルフォもプリームラ軍の調練から帰って来てすぐ入浴したらしい。
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「あたいと兄貴、1階の風呂借りるからなー」
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フラヴィオが「ふふふ」と笑ってベルの肩を抱く。
「たまには余が身体を洗ってやろう」
「いいえ、おやすみなさい父上」
とベルよりも早く返事をしたのは、オルランドだった。
その手首を引っ掴み、4階の廊下を駆けていく。
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「良い夢を、父上」
「まだベルにおやすみのバーチョしてないぞ!」
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「えっ……!?」
「おやすみなさい」
「ううぅ……」
その様子を見ていたフェデリコとアドルフォは、顔を見合わせて苦笑してしまう。
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こっちはこっちで問題が起きそうだった。
「あら?」
と小首を傾げたベラドンナもそれを察したようで、ベルに耳打ちして問うた――
「どうする気?」
「何のことでしょう?」
「何のって、そりゃ……――」
「どうぞ、ベル」
とオルランドが、浴室の扉を開けた。
ベルは「はい」と答えた後、フェデリコとアドルフォ、ベラドンナ、ムサシの顔を見回して「おやすみなさいませ」とお辞儀した。
小走りでオルランドの方へと向かって行く。
「ありがとうございます、オルランド様」
「うん……あの、ベル? 明日のティーナの家庭教師の時間――空いた時間は何してる?」
「ああ、それはねぇ?」
と声高気味になって口を挟んだのは、離れたところにいるベラドンナだ。
「えーとねぇ、明日のその時間、ワタシはムサシに弓矢教えようと思ってるんだけど、ベルも一緒にやろうかなって」
「そうですか、ベラ叔母上と……」
と少し残念そうな顔をしたオルランドを見たあと、ベラドンナは少し狼狽してフェデリコとアドルフォに囁く。
「ちょっとどうすんのよ、アレ? ランドがムネ殿下の姫を選ばないのはまずいでしょ。この国の軍事力についてはワタシは大丈夫だと思ってるけど、ガラスや陶磁器の製造に向こうの魔法の力を借りてるわけだし、最大の貿易相手国でもあるんだし……」
「ああ、どうするか……ランドの婚約によって、レオーネ国とより深い友好関係を築けると思っていたのだが」
「なぁ、閣下よ。マストランジェロ王家の『男は年頃になったら意中の彼女を口説き落として嫁にする試練』は廃止した方が良いんじゃないか?」
「そうよ、他国の王侯貴族みたいに親が婚約者を決めておいた方が安泰よ。ランドが向こうの姫選ばなかったら、ムネ殿下が激怒して友好関係にヒビが入るかもよ? あの人、「もう絶交や!」とか子供じみたこと言いそうだし」
「ああ、困る……普通に言いそうだ」
3人の目線の先、浴室に入って行こうとしたベルの手を、ふとオルランドが「待って」と引っ張った。
少し照れ臭そうな様子を見せた後、「おやすみ」とベルの頬にキスする。
ベルの方は通常運転で「おやすみなさいませ」と淡々と返した後、浴室に入って行った。
3人の目線を感じて振り返ったオルランドは、嬉しそうにはにかんで「おやすみなさい」と言うと自室に入って行った。
3人は「おやすみ」と微笑を返して見送った後、顔を見合わせて苦々しく笑んだ。
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