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1、これまで、小説を終いまで書きあげたことがない。

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 これまで、小説を終いまで書きあげたことがない。目を閉じ、薄れゆく記憶の霧の中を覗いてみれば、夏の夜、十歳の寝巻き姿の自分がロウソクのひかりを頼りに机に向かっている。国語の宿題で、起承転結のある物語を書かされたことがあったのだ。たぶんそれが、初めて挑んだ小説らしきものではなかったろうか。あの時も、途中で迷子になり、嫌になって放りだしてしまった。
 あれから四十数年が過ぎた。波のように寄せては返し、わたしは小説を書こうと試みたのだけれども、未だにひとつとして完成させられないのである。
 黒白テレビが一般にやっと普及してきたころ、局に就職した美大の先輩から、人材が不足しているからと言って、メロドラマの脚本を書かないかと声をかけられたことがある。約束された原稿料は安かったが、原文で何度も読んでいたボージェの古典文学、【春を信じなければ】を現代風に脚色するというお題だったものだから、無鉄砲にも了承してしまった。
 脚本なんか、書くどころか読んだこともなかった。それでも無我夢中でやってみたら、最初の一幕はなかなか面白いと褒められたのだ。ところが、その先がどうにも続けられなくなった。締め切りが近づくにつれ、わたしは軽い神経症になり、先輩や関係者に迷惑をかけて、結局はベテランの作家に交代してもらった。
 優秀な脚本は、大衆の心を自由自在に操る。泣かせたり、笑わせたり、怖がらせたり、愉快なくらいに万能だ。わたしは、その秘密が知りたいと思って、脚本術の本をずいぶんと勉強した。図書館にある専門誌、専門書だけでは足らず、長溥町の円吉書房で洋書を何冊も注文したりした。
 欧米の最も有名な脚本解析の大家は、ジョナサン・E・ヒントン氏である。二時間の劇場映画の脚本は、大抵、百二十ページあり、一ページあたりが一分間に相当する。ヒントン氏は、その百二十ページを均等に二十ページごと、六幕に分解して分析する。そしてさらに、その二十ページを均等に四ページごと、五幕に分解して分析するのだ。そうすることで、理論上、脚本家は創造の航海で難破することなく、カタツムリのような進み方であるが、精密な地図に従って、目的地へ無事に辿り着けるはずなのである。だが、はたして、それが実践で有効な学問なのかどうかは分からない。というのも、二十年以上も大学で講義を続けているヒントン氏は、その野心にも関わらず、脚本家としてまるで成功しておらず、批評家からの受けもすこぶる悪いのである。

 十一月、そろそろ、神獅町にあるジャム店が、旬のマルメロの蜂蜜漬けを売り出すころだなと思った。
 いつものように、起きたら昼過ぎだった。医者から勧められているハーデス錠を冷たいビールで飲み、シャワーを浴びて、出かけることにした。太陽のひかりを浴びることも、体調に良いそうだ。
 アパートメントの近所にある、枯れた木々ばかりの寂しい公園のベンチで煙草を一本吸い、魚河岸でライスカレーでも食べようかしらと考えていたら、わたしの苦手な大家が現れた。大家は、八十歳になるのに水泳選手みたいな体格で、態度だって威圧感がある。しかも、おせっかいなのだ。
「再就職はしないの?」
 と聞く。いきなりである。
「充電期間中なんです」
 とわたしは答え、慌てて煙草を地面に捨てると、踏み消した。逃げなければ。
「まだ五十だね」
「五十二ですよ」
「わしなんか、死ぬまで現役のつもりだよ。まだまだ稼げる」
 我慢できなくて、わたしは立ちあがった。
 大家は構わずに続けた。
「立派な会社に勤めてたか知らんが、ふらふらとした生活を続けてたら、退職金なんかすぐに消えてしまう。家賃が払えなくなれば、出ていってもらうからね」
 かき氷を食べたみたいに、頭の中がむずむずしてきた。
「ご心配なく。滞納する前には引っ越しますから。では、約束があるので。御機嫌よう」
 とわたしは挨拶した。
「やれやれ、気分を害したかな。わしは、あんたが心配なだけさ」
 老人は、わざとらしい溜息をついた。

 マルメロの蜂蜜漬けも、ライスカレーも欲しくなくなった。憂さ晴らしには、タクシーに乗って東桜山通りへ向かい、気が済むまで飲むのが正しいように思えた。そして、嫌なことは続くものである。タクシーの運転手から、東桜山通りまで半額にするから、料金メーターを使わなくてもよいかと笑顔で聞かれた。もちろん不正行為だ。それは感心しないねと断ると、それっきり、運転手は無愛想になってしまった。悪いのは向こうで、わたしではない。会社に通報してやろうかと思った。しかし、つまらないことで興奮するのも嫌だったから、腹式呼吸して、しばらくは目を閉じることにした。世界が、自分を否定している気がする。頭に血がめぐっていない。とっくに、薬は効いているはずなのに。



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