蝶の水槽

折原ノエル

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 コーヒーが違う質量でもって水の中をおちていく。
 給湯室でコーヒーを淹れる。
 ここも水槽の中なのだけど、コーヒーも紅茶も水槽の水と混じり合いそうで混じり合わず、サーバーからカップの中へ落ちて水を押し除け溜まっていく。
 水の中を緩やかに伝っていくのを見るのは他の仕事をしている時と違って息苦しくない。

 カップの横、テーブルの上にぽたりとコーヒーとは違う染みが落ちてきて、見上げると、何匹もの蜘蛛が放射状の綺麗な巣を張り巡らせていた。水の中できらきらと鏡の様に光を反射している
 その下の角から雫型の質量の違う液体が落ちてきて、テーブルにマーブル模様を作る。
 ぽたぽた。
 お茶を淹れるのは私の特技で、取引先のお客様が来た時に頼まれたりもするのだけど、暇な今日は課内の同僚たちの分だ。
 良かった。これは楽しいまんまで。

 もうそろそろ全員分入るかと云う頃、その全員の皆様が水圧の向こうから現れた。

「? 持って行きますよ?」
 庄司さんは何か怒っているのだろうか? 顔が赤い。莉子さんも珍しくちゃんと立っている。雪乃さんや他の皆んなは少し困った顔をしていて、?マーク付けている人も居れば、あからさまに「しまった。帰りたい」というのが表情に出ている人もいる。
 一番「しまった」のは私なのだろうが、攻撃的なのは庄司さんだけなので、ぼんやりしてしまった。大体この人は攻撃的でない時の方が珍しいのだ。反応しなかったのが、さらに不味かったらしく顔が赤いだけでなく、周りの水を押し除けて逆立つ髪を辛うじて髪留めが押さえている。
「どっちなの?」
「はい?」
「雨見くん、振ったの? あの人、彼氏なんでしょ。一緒に見舞い行ったそうじゃない」
 この人は見ていたのだろうか? いや、張り巡らされた情報網というものがあるのだろう。子飼いの手下とか幾人も居るに違いない。
「ランチも何時も一緒よね」

 えーと、何と答えよう?
 誤解を受けたくない時は下手に誤魔化したりする事なく、事実をそのまま言った方が良いんだよね? どう誤魔化して良いか何も思い付かないし。
「えーと」
『えーと』は止めた方が良いんだろうが出てしまう。ここら辺に必死さが出ないと云うか、若気の至りと云うか。
「えーと。女は高校の時からの親友で、その彼氏と、その先輩。指導係。教育係で。私は知り合いの知り合いで」
「そんな男が何で一緒に見舞いに行くのよ?」
 仰る通り。
「合コンしたいそうで。親友が来れない代わりに一緒に行ったら恩が売れて合コンが出来ると企んでですね。勝手に来たんです」
 一気に喋る。一緒に行ったんじゃなくて、病院の外出たら居ただけだけど、そこら辺はいいだろう。
「あんな台風の中を?」
 あれ? 何か髪の毛収まった。
「合コン?」
「合コン」
 これは本当だ。本当にそう言ってた。私はそのまま庄司さんに伝えている。
 彼女の居ない男は常に合コンの事を考えてるらしい。例外は雨見くんだけだ。

「いたしましょう、合コン!」
「え?!」
 衝撃でピシリと壁に亀裂が入った。
 庄司さんの髪がクリップやバレッタを飛ばして水の中をぶわっと広がる。
 そして次の瞬間髪は元通りクリップもバレッタも綺麗に収まった。
 変幻自在だな、この人。

「早い方が良いわ! 善は急げよ! だって夏ですもの!!」
「え?!」
 二度目の「え?!」で壁にごぽりと穴が穿たれた。
「良いですわね!!」
 さっき迄違う方向を向いていた皆んなが同じ方向を向いた瞬間だった。同じ質量でもって。

「え?!」
 水が勢い良く流れ出し体を持っていかれる。
 穴の縁に手を掛けて吸い出されないように頑張るもそんなのは無駄な抵抗だった。
 皆んなは楽しそうに「何着てく~?」だの「残業阻止よ」「了解!」お喋りしながら流されて行く。

「えーー?!!」

 流される。
 どんな人たちも止める事は出来ないであろう巨大な熱量で流されていく。

 そっか。合コンって、善だっだんだ……。違ーう!!

 のりツッコミも虚しく、どういうルートを通ったのか、オフィスに辿り着きまだ仕事をしている人たちを横目に、ぐるぐる渦を巻き、私たちは水面に向かって勢いよく噴き上げられた。
 水流は外に出ても途切れる事なく、ウォータースライダーの如く私たちを押し流す。
 大通りを抜け、道を滑り、街路樹の間をすり抜け、人々の上を滑空しながら、流れは止まるところを知らない。

 私たち何処へ行くんだろう?

 途中に雨見くんの入院してる病院が見えて来た。
 見る内に近付いて、その周りを螺旋を描きながら最上階の壁のない彼の病室まで上昇する。
 雨見くんがびっくりした顔でこっちを見てる。
 遠かった彼にどんどん近付いて、私はがっちりその手を掴んだ。
 彼の驚いた顔なんて初めてだ。

「何?!」
 叫んだのも初めてだ!
「一人だけ優雅に人生憂えてんじゃないわよ!!」

「楽しいかどうかなんてやってみなくちゃ分かんないの!」

 繋いだ手を中心にくるくると廻る。
 私達は大きな渦になった。


 彼を救いたいとも思わない。救えるとも思えない。自分の事だけで手一杯。でも一緒に楽しむのは出来る。楽しめる地点は一緒の筈。


 途中、手を振る碧子と影山さんを見付けて文字通り、合流して。
 ぐるぐる。
 波に乗って、近付いたり離れたり。
 途中で、庄司さんたちとは別れた。

 富士山まで行ってみた。
 波に乗って、船はなかったけど、一枚の浮世絵になったり。温泉に浸かったり。
 いつの間にか、夜で、
「流星群だ」
 雨見くんも覚悟を決めて、大人しく星空を見上げた。


 花火と虫取り網と、一杯のお菓子も手に入れる。
「何してんの?!」
「大丈夫! お金は払った!!」
「そうじゃなく!」
「子供用でも使えるよ!!」
「だから、そう云う話をしてるんじゃなーい!!」
 けたけたと楽しそうに影山さんが笑う。

 大人になっても、闇は怖いし、花火は楽しいのだ。

 私の手の中にある物を見て戸惑っている。
「そんなのやっても」

「やってみなくちゃ楽しいかどうか分かんない」

 息を止めて。
 私たちはダイヴする。
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