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第十五話 浅瀬に仇波

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「豊助。今から店に帰るところか。ちょっと茶でも飲んで行こうや」

声をかけてきたのは、呉服問屋の銀次郎の長男、鶴次郎だった。鶴次郎は母親にひどく甘やかされて育ったせいか、自尊心だけ広大なわりにちょっとしたことで傷つきやすい性格で、辺りでも評判の豊助をあまり良く思っていなかった。子どもの頃は一緒に遊ぶこともあったが、いつしかお互いあまり関わらないようになっていた。だから鶴次郎がわざわざ大した用もないのに豊助に声をかけてくるのは珍しい。

「若旦那。こないな所で何してはるんです?」

「息抜きや息抜き。ほんでついでにお前に会いに来たんや。わしはお前がいつも働きすぎてそのうち死んでまうんちゃうかなーて心配しとるんやで?せやし息抜きさしたろ思て来たんや。まあちょっとそこの茶屋でも入って話でもしよや。」

「今日はあきまへんわ。店帰ったらまだ旦那さんから頼まれてる仕事がぎょうさん残ってるんや」

兄弟同然に育ったとはいえ、ここ最近、鶴次郎とは挨拶をするくらいでほとんど話す機会もなくなっていた。豊助は毎日仕事に明け暮れていたし、なんといっても周りの女性たちが豊助を放っておいてくれないので暇な時間など存在しない。一方鶴次郎は若旦那のくせにいつもフラフラとその辺をぶらついているばかりで、仕事なんてほとんどせず、かといって学問をやるわけでもなく、金さえあればなんでも思い通りになる遊郭でしか自分の価値を確かめられないような状態だった。そんな二人の関わりが減っていったのは必然といえる。
そんな鶴次郎がわざわざ豊助のところにやって来て話をしようなんて言うのは珍しい。しかも店ではなくわざわざ出先の豊助のところに来るなんて、なにか嫌な予感がする。実は今日の仕事はほとんど済ませてしまっていたのだが、あまり鶴次郎と話す気になれず豊助は嘘をついた。

「なんやまだ働くんか。もう手代なる話も決まってんのやろ。そない根詰めて頑張らんでもええやんか。俺が親父には上手く言うたるさかい」

「そう言われても、お客さんが待ってはるしあきまへんわ。せっかくやけどまた今度にしとくれやす」

「なんやお前。お前のため思てわざわざここまで来て、言うてやってんのやで」

鶴次郎はあからさまに苛々しだした。鶴次郎は自分の思い通りにならないとすぐに癇癪をおこす。体は大きいが中身はまるで子供だ。
豊助は鶴次郎の苛立ちをいち早く察知した。豊助は人の感情の機微に敏感なのだ。このままでは鶴次郎は大通りだろうとお構いなく怒鳴り散らすだろう。豊助は、大通りで暴れる鶴次郎をなだめるのと、鶴次郎の話とやらを聞くのとどちらが面倒か一瞬で考えた。

「わかりやした若旦那。せっかくの機会やし、ちょっとだけ休憩しましょか」

豊助と鶴次郎は二人が会った場所から一番近い茶屋に入った。二人を席に案内してくれた若い娘が、茶を用意しながらちらちらと豊助のことを見ていた。

「ほんまにお前はどこ行っても女に好かれるのお。腹立たしい限りや」

「そんなことありまへんよ。そんなことより、話てなんやったんです?」

「せっかちやのう。せっかくわしら兄弟水入らずというのに」
一緒の家で暮らして毎日顔を突き合わせているのに今更水入らずもなにもないだろうと豊助は思った。

「わしはな、豊助お前のこと、ほんまに兄弟やと思て信頼しとるんや。やからな、お前にしか頼めへんことがあるねん。助けてくれへんか」

「そりゃ俺かて若旦那の頼みやったらなんでもしたいとは思いますけど。内容によっては俺ではできひんこともあります」

「大丈夫大丈夫、そんな難しいことちゃうんや」
そう言うと鶴次郎は茶をすすった。

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