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最終章 そこに踏み入るには

第242話 踏み入る

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 リーリュイがランパルに着いたのは、もう陽が落ちかかっている頃だった。守衛門の前に降ろしてもらうと、リーリュイは足早に歩き出す。

 リーリュイにとって久しぶりのランパルだった。魔導騎士団の兵舎には、時折ポータルを使って移動していたが、街に入るのは久しぶりだ。
 ランパルは王都とは違い、心和らぐような雰囲気の街並みが特徴だ。しかし見慣れた光景だというのに、リーリュイの背中がちりちりと粟立つ。

 目の前にあるのは、ランパルの商店街。じわじわと過去の光景が形作られて行く。

 監獄で、彼の死に絶望した事。商店街で再会して、走り回った事。一緒に買い物をした事。
 狂おしいほど胸が痛んで、リーリュイは胸元を鷲掴んだ。


 商店街の外れにある小さな薬屋は、誰も住んでいないように見えた。看板も出ておらず、厚いカーテンで閉ざされた窓からは灯りも漏れていない。
 施錠されていない扉を開くと、懐かしい香りと光景が目に入る。

 入って右に暖炉。目の前にはカウンターがある。彼はかつて、そこで薬を調合して客に微笑みかけていた。

 店を閉めた後は、彼は前髪を括って作業をする。仕事が終わったら、リーリュイが作った食事を美味しそうに食べていた。

 リーリュイは喉を鳴らし、堪らず震える吐息を漏らした。焼けつくような胸の痛みと、自分への憤りがぐるぐると感情を掻き回す。
 カウンターを撫でると、目の奥がかっと熱くなった。

(……君が分かるよ。……分かる。……今なら、君の名前だって……)

 ふと目線を移すと、カウンターの脇に小さな扉が見えた。
 その扉を開くと、人一人入れるほどのスペースがある。そこに、小ぶりのブーツが揃えて置いてあった。

 左にある階段を見て、リーリュイは唇を噛み締める。
 その階段は、正しく彼の心だった。階段の上にある部屋は、彼しか入ることのできない、唯一彼が気を許せる安全地帯だ。

(_____ ここに踏み入るには……)

 
 リーリュイはその場にしゃがみ、ブーツの紐を解いた。自身の手にぽつぽつと、温かい雫が落ちてくる。

 目の前にぼんやりと彼の姿が浮かぶ。彼は人差し指を立て、小さな口を開く。

『_____ 俺の前世では、家に上がる時靴を脱ぐ。ここで必ず靴を脱ぐこと!』

「……ああ、分かった。脱いだよ」

 笑って応えながら、リーリュイは立ち上がって階段を見上げる。流れ落ちる涙は拭う気にならなかった。
 耳に甦る彼の声は、リーリュイの心を締め付ける。思い出せた事に安堵するも、心は張り裂けそうに痛い。


『___ 階段は全部で12段。まずは1段目に足を掛けて、3段目に次の足を掛ける……』

 足音を立てないように階段を登り、リーリュイは階段の上へと視線を移す。
 正面と両側にある扉を見て、思わず手で顔を覆った。

(……思い、出した……。君の、お陰だ……)

 あの時、彼は少しはにかみながらも、この部屋に入る術を教えてくれた。彼の心に踏み入る資格を、既に与えていてくれた。

(……君は、許してくれるだろうか。……君を忘れてしまった、私の事を……)

 許して貰えなくても構わない。どんな形でも良い。側にいたい。

 リーリュイは左の扉に手を掛けて、そこへと踏み入った。


◆◆◆


「_____ 光太朗」

 聞こえてきた声に身じろぎ、光太朗はまた自嘲的な笑みを零した。何度聞いたか分からない幻聴に、反応する気力もない。

(うるさいな、眠らせろよ……)

 薄く瞼を開けると、誰もいないはずの部屋に人影が見える。その人影は光太朗の前に膝を付くと、もう一度呟く。

「光太朗」

 目線を上げると、プラチナブロンドの髪が目に映った。美しい虹彩を持つ緑の瞳、薄い褐色の肌、薄い唇は優しく弧を描いている。

(……おお、まじか。……ついに幻覚まで見えるようになっちまった……)

 ふふ、と笑いを漏らして、光太朗はその幻覚を見据える。
 まるで本物のように存在するそれは、優しい微笑みを浮かべていた。しかし時折、痛みを感じているかのように眉を顰める。

「……? ……ど、っか……痛い……?」

 出した声は、光太朗自身も驚くほど掠れて弱々しかった。
 幻覚に話しかけるなんて、どうかしている。そう思いながらも、目の前の辛そうなリーリュイを放って置けなかった。

「……どこ、痛い?」

 手を伸ばそうかと思ったが、鉛のように重かった。少ししか浮かせられなかった手を、リーリュイが掴む。
 温かい大きな手だった。温もりを感じたことに驚いたが、それを押し流すほどの安堵が湧いてくる。

 リーリュイは掴んだ光太朗の手を、自身の頬へと導いた。彼の頬は温かくて、少し湿っている。

「……? ないて、んのか……? どした……」
「……まったく、本当に……君、は……」

 掴まれた手の甲に、温かい雫が触れる。幻覚だと思っていても、泣いているリーリュイに心が痛む。
 彼は寂しがり屋で、ちょっと泣き虫だ。光太朗はそれを良く知っていた。

「……だいじょうぶだ、リュウ。俺が……まもってやる……」
「……もう十分、守ってもらった。……ありがとう、光太朗」

 「ありがとう」の言葉に、胸がつきりと痛む。それは光太朗にとって、別れの言葉にも聞こえた。
 もうリーリュイは自分を必要としていない。その事実を受け入れられなくて、光太朗はキュウ屋に帰って来た。

 部屋に閉じこもり誰も寄せ付けず、自分の想いを断ち切ろうとした。しかし上手くいかず、身体だけが衰弱していく。
 そろそろ区切りを付けなければならない、光太朗もそう思っていた。

(……ああ、きっとこの幻覚は、俺を諦めさせるために来てくれたんだな……)

 目の前のリーリュイに別れを告げれば、この胸の痛みとも別れられるかもしれない。
 薄い笑みを浮かべると、自然と言葉が零れ出る。


「……おれは、あんたにもらったもの、返しただけだ……」

 フェンデという立場から側近にまで押し上げて貰ったこと、魔導騎士団という居場所、ゴア卿との結びつきも、全部リーリュイから貰ったものだ。あれが無ければ、彼は救えなかった。
 文字通り返しただけだ。だから、ありがとうなんて要らなかった。

(……っだけど……)

 目の前のリーリュイは、記憶が無くなる前の彼そのものだ。優しい眼差し、穏やかな笑み。見ているだけで想いが溢れてしまう。

 これで最後なんだ。光太朗はそう思った。
 もう幻聴が聞こえることも、幻覚が見えることも無いかもしれない。
 こうして対面して話すことも、きっとこの先無いだろう。

 
「……っでも、ほん、とは……ほんとは……あんたと、生きたかった……!」

 枯れたと思っていた涙が、滲みだすのを感じる。駄々をこねる子供のように口をへの字に曲げて、光太朗は嗚咽を漏らした。
 情けない姿だ。でももうどうでも良かった。想いを吐露しなければ、壊れてしまいそうだった。

「……俺は、ずっと、そばにいたかったんだ……でも……」

「ずっと側に居る。いや、居させてくれ……!」

 幻とは思えないほどの強い声に、光太朗はびくりと肩を揺らした。
 目の前のリーリュイは、まるで懇願するように光太朗の手を包み込み、額へと当てる。

「私には君が必要だ。君はもう、私の一部なんだ。……側に居させてくれ、光太朗。……君からは、たくさんの物を貰った。一生返しきれないほどの恩だ」
「……りゅ、う……?」
「返させてくれ。今度は私が返す番だ。今生……いや来世まで掛かっても、君に恩返しする」

 脇に手を入れられ、強く抱きしめられる。その力強い感覚は、とても幻覚とは思えない。
 弱っていた心臓が、急にばくばくと動き始める。光太朗は宙に浮いたままの自身の手を、おずおずとリーリュイの背中に回した。

「……リュウ、か……?」
「うん」

 温かくて逞しい背中。どれだけ渇望したか分からないリーリュイの香り。感情が処理しきれず、光太朗は嗚咽を漏らした。

「……っぐ、ほんと、に……リュ、なのか……っ」
「ああ、君のリュウだ。光太朗」
「うそだっ……だっ、って、りゅう、は……!」

 記憶は戻らない。光太朗はそう結論付けて、自ら望みを断ち切っていた。
 リーリュイの記憶が戻る事を、待ち続けることは出来ない。これまでの事で擦り切れていた精神が、もう限界だったのだ。
 
 しかし身体を包むリーリュイの温もりは、確かに息づいているものだった。「クジロ」ではなく「光太朗」と呼ぶ声も、昔と同じく熱い想いの籠ったものだ。

「……君が、教えてくれたんだ。私の中の君が、光太朗をもう一度甦らせてくれた」
「そんな、だって……誰も……」
「……他の奴らと私を、一緒にするな」

 更に抱き寄せられ、光太朗はリーリュイの膝の上へと導かれた。胸に身を預けると、安堵と心地よさに包まれる。
 頭を胸に擦りつけると、優しい手つきで髪を撫でられた。

 重くて怠かった身体が、どんどん軽くなるのを感じる。まるでマタタビに擦り寄る猫のように、光太朗はリーリュイに身体を寄せた。

 リーリュイの手が伸びてきて、光太朗の頬に触れる。

「光太朗。私を見て」
「……ん」

 見上げると、緑の美しい瞳とぶつかる。腹から胸までがじんわり熱くなり、光太朗は思わず微笑んだ。リーリュイの顔が近付いてきて、唇が重なる。

 飢えていた身体に、たくさんの熱い愛が注ぎ込まれる。溢れるほど注がれて、強張っていた気持ちが蕩けていった。
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