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1巻

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 翡燕は夜明け前に自室の寝台で目を覚ました。むくりと身を起こし、寝台の脇で眠る獣姿の獅子王を見下ろす。
 どうやら気付かないうちに寝台まで移動させられていたようだ。翡燕の身体を思ってのことだろう。大きくなっても優しい獣徒につい顔が綻ぶ。
 獅子王に気付かれないよう、翡燕は完全に気配を消して寝台を降りた。獣人に気配を察知されないようにするには相当の技術がいるが、幸いなことに獅子王に起きる気配はない。
 中庭に出ると、まだ消えきれていない星が、かすかに輝いている。

「はー……。うん、夜のいい匂いだ」

 肺一杯に空気を吸い込み、翡燕は前を見据える。
 意識を手の平に集中させ、力を込める。体内に巡る気を上手く使って、まずは剣を具現化させた。戦司帝の時によく使っていた大剣が姿を現すが、翡燕は頭を振ってそれを打ち消す。

「これじゃ大きすぎる。この身体で振るえる物でないと……」

 適度に小さくした剣を握りしめ、一振りする。
 うん、ちょうどいいと身体を動かせば、慣れた感覚に自然と頬が綻んだ。
 打ち払い、切り上げ、突き、一通りの型をこなしながら、自身の力を推し量る。
 そのうち息が上がってきた。

(ああ……信じられないくらい弱い身体だ)

 力の巡りは悪くない。威力は小さいながら、高度な技も使えそうだ。
 しかしいかんせん、身体が弱い。
 この身体ぐらいの年だった時には丈夫な身体を持っていたし、体力もあった。しかし今の身体はやはり弱っているようだ。
 戦司帝としての技量は残っているものの、体力は非戦闘員のそれだ。昔の感覚で動き続ければ、肉体が悲鳴を上げるのは目に見えている。自分の能力値を見誤れば残りの期間が短くなりそうだ。
 翡燕は剣を消して中庭にごろりと寝転がる。屋敷の屋根の向こうがわずかに明るくなっていくのが見えた。
 思えば昨日は寝落ちして風呂にも入っていない。

「風呂に入るか……」

 むくりと起き上がって、翡燕は風呂場へと向かった。


 起き抜けだというのに獅子王は喉を震わせて絶叫する。
 乙女のように掛布で顔を隠し、彼は翡燕に向けて抗議の声を上げた。

「な、なんで、裸なんですかッ!!」
「失礼な。腰には手拭いを巻いているだろう」

 確かに上半身は裸ではあるが、腰には手拭いを巻き付けている。手拭いが巻けるほどの腰の細さには閉口したが、手拭い一つで局所を隠せるのならば僥倖ぎょうこうである。
 しかし目の前の獅子王は否定するようにかぶりを振り、捲し立てる。

「せ、せめて、大きい浴巾で巻いてくださいよ! 手拭いなんて動いたら見えちゃうって! ああ、あるじッ! 座らないで!」

 いつもの寝椅子に座ってしまった翡燕に獅子王は慌てて掛布を被せる。終始慌てている獅子王の姿を見て、翡燕は愉快そうに笑い声を零した。

「着替える服がなかったんだ。お前の服はどれも緩すぎた」
「え? き、着たのですか? おれの服を!?」
「二、三着な。何だ、減るものではないだろう?」

 獅子王が視線を巡らせ、自身の衣類籠を見遣る。その周辺が荒らされているのを見て彼の顔色がさっと青くなった。
 翡燕は獅子王の服を試してみたが、全て大きすぎて断念した。着たものはそのまま床に放置しておいたが、それがいけなかったのかもしれない。
 畳み方が分からなくてそのままにしたが、やはり整理すべきだったのだろう。
 しかし目の前の獅子王は怒る素振りもなく、まるで自分を納得させるように頷いた。

「……以前働いていた近侍の服が残っていると思いますので、それをとりあえず着ましょう」
「うん、頼む」

 獅子王はすぐ服を取りに行き、翡燕は近侍の服に袖を通す。
 その間、獅子王は荒らされた衣類籠の片付けへと取り掛かったようだ。
 服を着替えながら、獅子王の丸まった背中へと問いを投げる。

「そういえば獅子丸、使用人たちはどうした? どこにもいないから、湯も沸かせなかったよ」
「……! ではどうやって身を清めたのです?」
「水を張って、熱波を流し込んだ。ちょっとぬるかったが仕方ない」
「……っ、あるじ……。そういう時は、言ってください。おれがすぐに、湯を沸かしましたのに……」

 翡燕を振り返らないまま、獅子王がまるで後悔を口にするように零す。
 翡燕はかぶりを振ってしゅんとしてしまった獅子王へ声を掛ける。

「いや、これは僕が悪いよ。風呂の沸かし方ぐらい知っておくべきなのに……僕の生活力が皆無なのは、獅子丸も知っているだろう?」

 強さの対価に打ち捨ててきたかのような生活力のなさは、戦司帝の時代から変わらない。
 湯の一つも沸かせないどころか、食事も与えられなければおざなりになりがちだ。服は畳めないし、何もない日は一日中惰眠を貪っていたい。
 翡燕自身もこれまでかなり自由に生きてきたと断言できる。当時は『誰かがいないと生きていけない』と開き直っていたが、使用人も雇えない今はそうも言っていられなくなるだろう。先が思いやられることばかりだ。
 獅子王から渡された近侍の服は寝間着としても使われる簡易なものだった。下衣を着ない形式のもので上衣が脛まで届く長い衣である。手早く帯を結ぶと、着心地の良さにほっと息を吐く。

「ふぅ。やっぱりこの形式のものは気楽でいいな」
「そういえばあるじは、これが一番好きでしたね。大きさは合いました……か……」

 振り返った獅子王が、翡燕の姿を見るなり大きく仰け反った。目線を左右にさ迷わせながら、まるで見てはいけないものを見ているかのように、ちらちらと翡燕の姿を窺う。

「どうした?」
「いや。な、何と言いますか……。か、身体の線が出すぎていると、言いますか……」
「身体の線?」

 翡燕の着用している服はごく一般的な形である。自身の身体を見下ろしても、特段不自然には感じない。
 腰が細くなってしまったため以前よりも腰回りの布がすとんと落ちているが、それも問題ないはずだ。

「腰が貧弱になったからか?」
「腰! ああ、そうか、腰か……」

 獅子王が頭を抱え、翡燕の腰を見ては視線を逸らす。露わになっている脛から下も、同じく直視できないようだ。
 獅子王の様子を見ていれば、この衣が似合っていないことなど容易に分かる。お気に入りの形だっただけに、今更ながらこの姿になったことを呪った。

「まいったな。そんなに酷いか?」
「いえ、よ、よくお似合いなのですが……。ただ、以前のようにその格好で、ふらりと買い物に出掛けられたりなどは、控えていただくことになるかと……」
「……そうか。気を付ける」
「そういえば、皇宮にはいつ参内されますか? 服屋を呼んできますので、正装を仕立てさせましょう。それともまずは、四天王の誰かに報告されますか?」

 獅子王が仕切り直しのように声を弾ませる。そして何を思ったか、懐から財布を取り出した。

「いや、報告は不要だよ。戦司帝は死んだ。それで良い」

 獅子王は財布を握りしめたまま、縦長の瞳孔をきゅっと縮ませる。

「な、何を……。皆、あなたの帰還を待ち望んで……」
「戦司帝の帰還を、だろ? もう僕は、あの頃の僕ではない。こんな姿になって力も大半を失った。戦司帝なんて名乗れないよ。皇王もきっと僕の処遇にお困りになる」

 翡燕は貧弱になった身体を見下ろし、自嘲気味に笑う。
 決して悲観的になっているわけではない。この身体では国に何の貢献もできず、悪くすれば混乱をもたらすだろう。状況を鑑みれば、皇宮に帰らないことこそが最適解だ。
 小さくなった腰を擦りながら、翡燕は獅子王に朗らかな笑顔を向ける。

「それにこんな姿を見たら四天王は呆れかえるだろう?」
「いいえ、そんなことありません!」
「一応僕は彼らの指導者だったんだぞ? こんな姿になった師匠など、扱いに困るに決まっている」
「……そんな、そんなこと……」

 言葉を詰まらせながら獅子王は必死にかぶりを振る。彼は悲壮感を漂わせるが、当の本人である翡燕はそれほど重く考えていなかった。
 頭に浮かぶのは四天王の朗らかな笑顔である。彼らならば、幼く小さくなった翡燕も受け入れてくれるかもしれない。しかし翡燕にはまだ彼らの師匠としての矜持が残っていた。何より迷惑をかけることだけは避けたいのだ。
 四天王はとっくの昔に戦司帝から卒業している。今更戻らなくとも何の問題もないだろう。

「そうそう、僕の財産は残っているかな? 調度品を売っても構わないんだが……」
「あなたの財産はほとんど残っています。使いきれないほどです」
「よし。じゃあ獅子丸。それで、僕を養っておくれ」
「……っ! 養うも何も、あなたのお金です!」

 獅子王が顔を歪め、その金色の瞳からぼろりと涙が零れる。
 穏やかな性格の獅子王は昔から泣き虫だった。特に翡燕のこととなると、まるで自分のことであるように傷ついてしまう。
 優しい獣人の肩に翡燕は細くなった手をそっと置いた。暗くなった空気は掻き回せばいい。場を明るくするのは、かつて戦司帝の十八番おはこだった。

「……しかし、ちょっとだけ都に手を入れるぐらいなら罰はあたるまい。なぁ、獅子丸」

 にひ、と悪戯げに笑うと、獅子王は虚をつかれたように目を瞬かせる。しかしすぐに、困ったような笑顔を浮かべた。

「まったく、何をするおつもりですか?」
「命を賭して国を守ったのに、いざ帰ってきたら荒れ放題だ。身体は上手く機能しないが、口は出せるからな」
「正体を隠したまま、苦言を呈すると?」

 うん、と大きく頷いて翡燕は長椅子へと腰掛けた。尻をずりずりと移動させ、背もたれにゆっくりと身体を傾ける。

「まずは僕の身分についてだが……この屋敷で働く近侍ってことで構わないか?」
「問題ないと思います。この屋敷でおれと二人暮らしになりますので、秘密は漏れないかと」

 戦司帝がいなくなった後、この屋敷の使用人は解雇され、希望する者は四天王の屋敷へと引き取られた。屋敷の管理としては獅子王一人が留まったのだという。
 ほぼ当時のままの室内を見回して、翡燕は獅子王へと笑顔を向ける。

「では今日から、お前は僕の主人だね」
「それはできません。主従は覆せませんから」
「分かっている。屋敷の中では今まで通りで構わない。そうそう、それと……僕の名前は翡燕と呼んでくれ」
「翡燕ですか、いいあざなですね。いつの間に考えたんですか?」
「本名だよ」
「本名!? 駄目ですよ、そんな!」

 ユウラ国の民族にとって名前は魂と同等に扱われる神聖なものである。親しい相手でなければ本名を教えず、自身で定めたあざなを名乗るのが一般的だ。皇族や貴族などの尊い身分は役職で呼ばれ、下民に名前は公開されない。
 また、親しい仲で本名を教え合い、あざなを付け合うのは最上級の親愛の証とされている。獅子丸という名も、あるじである戦司帝から贈ったあざなだ。

「本名を名乗っていては、いずれ四天王も気付くのでは!?」
「彼らは僕の本名を知らないよ。皆、僕を『せん』という役職の略称で呼んでいた。僕からは彼らに名を贈ったが、貰いはしなかった。狡い男だろ?」

 ははは、と弾むように笑うと華奢な身体は寝椅子の上で軽く跳ねる。その感触が存外心地よくて、身軽なのも悪くないと呑気に思う。調子良く跳ねながら、翡燕は獅子王に向けて四本の指を立てた。

「僕の本名を知っていて、かつ呼ぶことができる人物は……皇王と皇妃、皇弟、皇子だけだ。彼らの耳に、こんな僻地にいる近侍の名など入ることはあるまい」
「そ、そんな貴重な名を……」

 獅子王が逞しい喉を鳴らし、視線を泳がせた。翡燕としては、もう名に執着はない。一度は死んだと思った人生での名など、呼んでもらえるだけでも僥倖ぎょうこうだろう。
 それより何より気になることは、愛する弟子たちである。

「今日は、ちゃんとお仕事をしていない弟子たちを見に行こうかな」
「サガラさんですか?」

 口を滑らせた獅子王は自分の失態に気付いたのか、固まりつつ口を引き結んだ。
 その愛嬌のある姿が可笑しくて、翡燕は勢い良く吹いた。
 腹を抱えて笑い、それでも耐えきれず卓をバンバン叩く。笑われている獅子王はというと、怒るでもなくまっすぐにこちらを見つめてくる。うっすら微笑んでいるのも気になるが、話を進めなくては先に進まない。

「それで? サガラはお仕事しないでどこにいるんだい?」
「……娼館です」
「……あー……なるほど、そうか。もうそんな年だったな」

 あれから三万年が経ったとすると、弟子らももう四万歳を迎えている。男として、最盛期の入り口といった年である。娼館など、付き合いの一つとして通っていても不思議ではない。
 しかし弟子らを四天王から預かった時、彼らはまだ性も知らないほどの純粋な少年だったのだ。そんな子たちが娼館に行っているなど、正直複雑な気分になるのもやむなしである。

「親代わりだった身としては、あまり穏やかではいられない話だな」
「……親、ですか……」
「うん。それがどうした?」

 困り顔を浮かべる獅子王を見て、翡燕はこてんと首を倒した。
 ぐっと言葉に詰まる彼の顔は朱に染まり、口はごにょごにょと何かを紡ごうとしている。

「どうした?」
「……いえ、ただ、当時のお弟子さんたちは……そんなに純粋ではなかったですよ?」
「そうか?」

 記憶を辿るも、そんな一面は一つも思い出せない。
 当時の獅子王はまだ人型になれず、小獅子の姿で弟子たちと接していた。師匠である翡燕よりも近い位置で、弟子たちと触れ合っていたのかもしれない。

「では、そんな弟子の一人と再会しに行きますか。獅子丸、手伝ってくれるね?」

 ぐっと口端を吊り上げると、獅子王が嬉しそうに眉を下げた。


 半分に欠けた月が夜空に浮かんでいる。星々は薄い雲で見えないというのに、月だけは自分の存在を見せつけるように輝いていた。しかしながらそれを見上げる者は、ここにはいない。
 翡燕は獅子王と共に繁華街の一角を訪れていた。人目に付かない奥まった場所にありながら、人出はかなり多い。

「国が荒れたとしても、色街は元気だなぁ」
「元気な人しか来ませんからね、ここは」
「まさか獅子丸と、娼館を訪れることになるとはなぁ」
「これもサガラさんのせいですよ……」

 弟子のサガラは四天王である朱王しゅおうの部下だ。当時から感情の起伏が激しい激情家だったが、根はいい子で素直な可愛いやつだった。

(赤い髪で、目は吊り目……。でも笑うと八重歯が覗いて可愛かったな)
「あ、あるじ!!」

 突然強い力で引っ張られ、翡燕は抱き込まれた。すぐ横を馬車が走り去っていく。獅子王の大きな腕に抱えられながら、翡燕は落胆したように嘆息した。

「すまない、獅子丸」
「いえ、お怪我がなくて、良かった……」

 優しく地面に降ろされ、服の乱れを正される。されるがままになりながら翡燕ははっとした。

「こら獅子丸、翡燕と呼びなさい」
「あ……翡燕、でしたね。つい……」
「僕も外ではご主人様と、お前を呼ぶよ」
「……っ!」

 声を詰まらせながら獅子王は大きな手を自身の鼻へ押し付けた。何かに耐えるようにしている顔は、真っ赤に染まりつつある。明らかに狼狽うろたえる獅子王を前に翡燕はにっこりと微笑んだ。

「さあ、行きましょうか。ご主人様」
「……っふ、ふぁい!」

 後ろからよたよた歩いてくる獅子王を目の端に見ながら翡燕は小さく溜息を零す。

(馬車に轢かれそうになるなんて……しかも獅子丸にいとも簡単に抱え上げられるとは……)

 この姿で過ごせば過ごすほど、以前の自分とは大違いすぎて、戸惑うことが増えていく。
 二人は屋敷を出る前に食事を済ませたのだが、翡燕は自分の口の小ささにまず驚いた。一口の量が分からず、以前と同じように口に運んでしまうと必ずと言っていいほどむせるのだ。腹は減るのでいつものように口に運び、むせては獅子王を心配させてしまった。
 思うように食事ができないということは、大食漢だった翡燕にとっては思いのほか辛いものだった。以前は弟子たちと大食い対決をしたものだが、もうそれもできないのだろう。

「そういえば獅子丸。僕が去った後、弟子や四天王と交流はあったのか?」
「いいえ、あまり。……おれが半獣の姿になれるようになった後、獅子王という称号をいただき、戦司帝の私邸の管理を任されました。お弟子さんや四天王は時折戦司帝の屋敷を訪れ、その時に話を交わすくらいです」
「……友人や恋人はいないのか?」
「いませんよ! いや、声高く言うことでもないのですが……いません。おれは屋敷に引きこもりがちなので……」
「……そうか」

 翡燕はこの身体ではあまり長くは生きられない。あの広い屋敷に獅子王はまた独り取り残されることになる。そんな姿など想像したくもなかった。思えば、帰るか分からないあるじの家を守らせるなど、なんて残酷なことをしたのだろうか。

(次こそは、しっかり死なねばならんな)

 絶対に戻らないと皆が納得する方法で今度は去らなければならない。
 そう思うと、胸の奥がひやりと凍えるような気がした。
 翡燕は俯いて懸念を振り払うように自身の顔をむにむにと揉む。獅子王には憂いた顔など見せたくはない。

「ご主人様、これから友人をたくさん増やしましょう!」
「え? あ、はい……」

 頭に疑問符を浮かべている獅子王を引き連れて、翡燕は街を歩く。娼館が立ち並ぶ一角へ来ると、賑やかさは更に増した。廃れた道中に建つ豪華な建物を見ていると、閉口しつつもほっとする部分もあった。これすらなくなってしまったらもう国は終わりだろう。
 立ち並ぶ娼館の間を歩いていると客引きが獅子王に向けて声を掛けてくる。

「獅子王じゃないですか! 久しいですね! まだ発情期は先じゃあなかったですか?」
「!!」

 獅子王から咄嗟に耳を塞がれた翡燕は苦笑いしながら彼を見上げる。

狼狽うろたえなくても、その年なら娼館に行かない方が変ですよ。ご主人様」
「っちが……!」

 今にも言い訳を捲し立てようとする獅子王を翡燕は首を横に振って諫めるような仕草をした。
 獅子王はがっくりと項垂れた後、釈明を諦めて表情を切り替える。そして真顔のまま客引きへと向き合った。
 人型の獅子王は精悍な顔つきをすると相当な男前だ。きっと人にも獣人にもモテるだろうに、特定の相手はいないと聞く。発情期だけの付き合いだけでとどめているのか、謎なところである。
 翡燕が獅子王を見上げていると、客引きが驚いたように声を上げる。

「こりゃ驚いた。この子、獅子王様の近侍ですかい? いやぁ、これほどの美人はそうそういませんよ」

 煙管から煙をくゆらせながら客引きが翡燕を覗き込む。翡燕が穏やかに微笑んでいると、客引きが大げさに眉を跳ね上げた。

「度胸もいい! こりゃあ、うちの看板にしたいくらいです! 獅子王様、いくら……」
「売らんぞ」

 獅子王にぐいと引き込まれ、後ろ手に隠される。
 翡燕の目の前が獅子王で埋まってしまうと、彼は普段聞かないような低い声で話し始めた。

「皇都巡衛軍の隊長は、どの店を懇意にしている?」
「……巡衛隊長様ですか? うちにもたまに来ますが『楓楼フクロウ』がお気に入りですよ。あそこは男娼も多いですから。それより獅子王様、気が変わりましたら……」
「しつこい! 売らんもんは売らん」
「……左様さようですか」

 二人のやり取りを聞く限り、やはりサガラは仕事をせずに遊び呆けているようだ。
 翡燕は獅子王の手を引き、人気のないところへ引きずり込む。

「獅子丸、僕が男娼になってサガラと話してくることにするよ」
「は?」

 ぽかんと呆けた顔の獅子王を、翡燕は強い決意をもって見上げる。サガラとゆっくり会う方法はこれしかない。

「あの客引きの話からするとサガラは男娼を好むらしい。このまま二人で会いに行くよりは、僕だけが男娼になって部屋に入り、何で仕事をしないのかしっかり話を聞くよ。個室だし、飲んでるし、その方があいつも訳を話しやすいんじゃないか?」
「ななななな、何をわけの分からないことを! あるじだと分からなくて、最悪、その……」
「何を言っているんだ、獅子丸。僕は自分の正体を明かす気はないよ。あくまで一般国民としての意見を……」
「わあああぁ、そんな甘いもんじゃないです! サガラさんはそういう行為をしようとお店を訪れているんですよ! そんなことするぐらいだったら仕事場に行って、健全な状況で話せばいいでしょう!? それこそ一般国民としての意見を……」
「ただの一般国民に皇都巡衛軍の隊長が会うわけがないだろう? それこそ門前払いだ。獅子丸は地位はあるが獣人だ。口を出すなと言われるのがオチじゃないのか?」
「っく……!」

 獅子王の喉元から獣独特の唸り声が漏れる。鼻梁にも皺が寄り、まるで威嚇しているような表情だ。珍しく気を昂らせている獅子王を宥めるように、翡燕は彼の腕を軽く叩く。

「それに相手が僕であれば、勃つもんも勃たんだろ。サガラの部屋に入ろうとしている男娼を眠らせて、僕が代わりに入る。大丈夫、人と仲良くするのは得意だよ?」
「仲良くしてはいけません!」
「……獅子丸、僕は男の友人は多い。しかしこれまで一度も襲われたことがない。大丈夫だ」
「それはあなたが、バチクソに強かった時代でしょう!?」

 獅子王は大きく息を吐き、地団駄でも踏みそうな勢いで身体を揺らす。
 しかし翡燕は知っている。獅子王は翡燕の無理難題を、なんだかんだ言いながら受け入れてくれるのだ。
 獅子王の袖を掴み、くいくいと動かす。とどめとばかりに見上げれば、獅子王が諦めたように溜息をついた。

「……っもう、分かりましたよ。おれはどこかに身を潜めますから、何かあったら必ず呼んでくださいね」
「ありがとう、獅子丸」

 いつものように肩を抱こうとするが、背がまったく届かない。代わりに腰へと抱きつくと、獅子王はぐっと身体を強張らせた。


 サガラには、忘れられない人がいる。三万年前にいなくなった、最愛の師匠である。
 目の前で剣舞を披露する娼婦を見ながら、サガラは酒を呷った。

(……お師匠様は剣舞が好きだった。ご自分で舞うのもお好きだったな……)

 戦場では無慈悲に敵を切り裂く大剣で、この世のものとは思えないほどの美しい剣舞を舞う。弟子のサガラたちが何か良いことをすると、ご褒美にと彼は舞を見せてくれた。中庭で見惚れていた時間が、今でも愛おしくて、焦がれるほど恋しい。

『――――僕はお前たちの親代わりなんだから』

 お師匠様はよくそう言って弟子らの罪悪感を煽ったものだ。皆、彼を親ではなく、違う対象として捉えていたのに。

(……そういえば、師匠を題材にした創作本も出ていたな……)


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