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最終章

第56話 優しい獣

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 グリッドから借りた外套は、獅子王の身体にピッタリだった。隣にいるグリッドも、同じく外套を身に付けている。

 外の雨はさらに勢いを増していた。木製の屋根を破らんばかりに、ボツボツと大粒の雨が音を立てている。


 獅子王は未だ憤りの残る胸を押さえて、ふぅと息をついた。

 皇子は、翡燕が必死に築いたものを一瞬にして無に帰そうとしている。戦が始まるとすれば、戦場になるのは南の土地だろう。ようやく生命が実り始めた、あの土地だ。

 獅子王が吐いた息が白い湯気になって消えるのを、翡燕はぼうっと眺めている。翡燕が何を想っているのか、考えただけでも獅子王の胸は痛んだ。


 側に立っているグリッドも、翡燕の様子をじっと見ている。翡燕はその視線に気付くこともない。何を思案しているのか、翡燕の瞳は目の前の景色を映していないように見える。

 短く嘆息したグリッドが、長靴を鳴らす。その音に反応して顔を上げた翡燕に、グリッドは出来る限りの優しい笑顔を浮かべた。

「……俺は行く。翡燕、くれぐれも無理をするな」
「うん。グリッドも、気を付けて」
「この屋敷は開け放しておく。いつでも使って構わない」
「ありがとう、グリッド」

 笑って言う翡燕は、いつもと変わらないように見える。そして手に持っているもう一枚の外套を、ひらひらと掲げた。

「これもありがとう。僕には大きすぎるが、どうせ移動は獅子丸だ」

 翡燕がへらりと笑うと、グリッドが真剣な眼差しで返す。翡燕の頬に手を添えると、親指でその眉をさりさりと擦った。
 感触を指に染み込ませるように、優しく指を這わせる。

「……絶対に返せよ。翡燕」

「ああ、分かった」

「くそ、名残惜しい。愚かな同族め」

 そう吐き捨てながら、グリッドは翡燕から手を離した。立ち上がると踵を返し、足早に門から出て行く。まるで未練を断ち切るような去り方だ。

 グリッドが去った門は開け放たれていて、雨が降りしきる外の景色を切り取っている。
 そこをじっと眺めたままの翡燕の身体に、獅子王は外套を掛けた。膝をついて釦を止めていると、上から翡燕の声が降ってくる。

「移動をお前に頼ってもいいかい? 獅子丸は馬じゃないのに、ごめんな……」
「勿論です、主。あなたの為なら、馬でも鹿でもなりますよ」

 「鹿か!」と笑う翡燕を獅子王は抱きこみ、雨が当らないように外套を引き寄せる。優しく抱きかかえながら、獅子王は口を開いた。

「それで……どこに?」
「……うん、本当に気が乗らないが……皇宮へ向かってくれ」
「はい」

 翡燕に返事を返して、獅子王はグリッドの屋敷を出た。



 通りに溢れた民衆は、皆して皇子を褒めたたえている。ユウラに光を、希望をと、昏い空に向けて手を伸ばしていた。雨で濡れることも厭わない様子は、狂信的にも見える。

 翡燕に聞かせたくない言葉が溢れる通りを、獅子王は足早に走り抜けた。言葉が翡燕に届かないように、少しだけきつく抱きしめる。そして獅子王は思った。
 

 抱きしめる度に愛おしさが溢れる。抱きしめると、守りたいと思う。どうしてそれを、抑えなければいけないのか。


「……ふ、炉柊があんなに演説が上手だとは思わなかったよ……」

 胸元から聞こえる翡燕の声に、獅子王は思わず喉を鳴らす。

 この言葉を、言ってはいけない。いや、言わなければいけない。

 我慢していた涙が雨と混じるのを感じながら、獅子王は口を開いた。


「……主、この争いが終わったら……」

「うん?」

「……終わったら……」

「……主従関係を、解きたい?」

 言えなかった言葉を翡燕に言われ、獅子王は目を見開いた。

 「僕もそろそろだと思っていた」と呟く翡燕に、胸が詰まる。周りの音が掻き消されるような声で、獅子王は捲し立てた。

「主従関係が無くなっても、おれはあなたの側にいます。どこかに行けと言われても、おれはあなたの側にいる!」

「……し、獅子丸……」

「おれは守る側に立ちたいんです!あなたを守って、愛する側に……むぐ」

 突如口を押さえられた獅子王は、翡燕を見下ろした。
 翡燕の顔は外套で殆どが見えないが、白い肌が赤く染まっているのが見える。

「わ、解った! 解ったから、待ってくれ……」
「……あ、主?」

 獅子王が戸惑いながら問うと、翡燕がポツリポツリと呟く。

「……僕も、この件が片付いたら……向き合おうと思っている。僕に向けられている感情に、ちゃんと向き合おうと……」

「……それは四天王も含めって事ですよね?」

「そうだ」

 歩は緩めないまま、獅子王は押し黙る。

 外套に落ちる雨の音を聞きながら、翡燕は獅子王の胸に頬を寄せた。すると獅子王が応えるように、抱きしめ返してくる。

「……分かりました。おれは、四天王にも負ける気はありません」

「……うん……」

「あなたを翡燕と、おれも呼びたいです」

「……好きにして良い」

 その答えに、獅子王は破顔した。そして翡燕の身体を抱きしめたまま疾走する。
 嬉しくて仕方がないという獅子王の顔を見上げ、翡燕は一つ息をついた。


(ああ、皆、僕を置いて変わっていく。僕だけだな、こうして後退しているのは)


 周りの歓喜に満ちた声を聞きながら、翡燕はまた獅子王に縋る。こうして縋る事も、もう出来なくなるだろう。主従関係を絶つとは、そういう事だ。

 この優しい獣を手放すことになる。
 そう思うと、信じられないくらい翡燕の胸は痛んだ。
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