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27、新五利治/代替わり
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1575年秋、信長様は右近衛大将に任じられ、事実上の天下人となった。
翌年には家督を嫡男・信忠様に譲られ、美濃・尾張の主を信忠様とされた。
西美濃三人衆らを含む美濃の西半分を治める家臣はそのまま信長様に仕えたが、残りの半分は新たに信忠様に仕えることと相成った。
信忠様付きとなるよう命じられたわしは、信長様と二人、岐阜城山麓の庭園にある回廊の橋から、滝の音に耳を傾けていた。
滝の音に負けぬよう、信長様が声を張って言った。
「新五よ、先年わしはお主を疑った。されどお主は悉くわしに付いてきた。今までのこと、礼を申す」
信長様から礼を言われるなど、はじめてのことであった。かつての疑念を晴らそうと獅子奮迅してきたことが、ようやく報われたのだ。
涙が溢れた。場所も相まってか、わしも信長様も、多分に感傷的であった。
「幼き頃から信長様に付き従い、信長様を父御のように思うてまいりました。そのようなお言葉を頂き、わしは果報者にございまする。されど向後は信長様に付き従うことかなわぬと思うと…」
袖で洟と涙を拭う。
「岐阜では京に遠い。わしは安土に城を造る」
滝の音が洟の音をかき消す。目の前の滝は自然のものではない。景色に合うようにと、人の手を加えて一から信長様が作らせたものだった。これほど贅を尽くした庭や館を手放すことに、信長様は少しも執着されぬ。安土の城はさらに凄いものとなるに相違ない。
「信忠の元には昔からの織田の家臣を揃える。また、帰蝶を信忠の養母とする。ゆえにお主は信忠の叔父というわけじゃ。信忠は戦は上手いが人の心がまだ読めぬ。お主が傍で支えよ」
「は」
姉の帰蝶が信忠様の養母となったことで、わしも織田の一門へと格上げされたことになる。とはいえ、信忠様の元で戦に出ることは変わりない。
「もとの美濃の衆を信忠の下に付ければ、信忠を軽んじ翻意を抱くやもしれぬ。それゆえ西美濃三人衆などは向後もわしの配下とする。帰蝶とお主、それと利堯とで、信忠をしかと後見し、盛りたてよ」
「ははっ」
信忠様を我らに託す信長様は、天下人となっても我が父・道三への恩を決して忘れておられぬ。敵だらけの尾張で、隣国美濃に初めて信の置ける味方が出来たその時の気持ちを忘れてはならぬのだと、まるで自らに言い聞かせておられるようだった。
「安土に城ができるまで、京の宿所を妙覚寺にする」
妙覚寺も斎藤家と縁が深い。
妙覚寺の住職は父・斎藤道三の四男で、わしの兄である。
妙覚寺に話を通しておくようにと信長様は言い残すと、回廊の先にある、帰蝶の姉上の居室へと姿を消した。
1579年、安土城は完成した。
信長様は家臣団を引き連れ安土へと向かい、若い信忠様が名実ともに岐阜を統べることとなった。
信長様が出ていかれてから、民も家臣も皆どことなく虚ろであった。
岐阜の賑わいはかつてとそう変わらぬのに、まるで遷都が行われたかのような空虚さが漂っていた。
「信長様の存在の大きさにございましょう」
兄上が言う。
「代替わりを機に、西美濃三人衆の稲葉も安藤も隠居を決めたのです。今の信忠様に、信長様ほどの器があるかどうか」
「兄上の懸念は尤もにござる。されば我らで信忠様をそれなりの器に育て上げねばなりますまい。兄上、何か良い手立てなどございませぬか」
何事もご自身で決めることのない兄上だが、信長様がおらぬ向後はそうも言ってはおられぬ。兄上の力量を確かめるように問いかけた。
「はて。佇まいなるものは、生まれながらにして持ち合わせるものではござらぬか。我が甥で美濃のかつての主・龍興様も、並々ならぬ佇まいをお持ちであられましたゆえ」
わしは兄上のお考えに初めて触れた気がした。兄上は龍興を見限り織田に与したはずで、あの折美濃は確実に斎藤離反の流れが出来ていた。そんな中、西美濃三人衆に言われるまま、離反せざるを得なかったのか。
「信長様は戦ばかりしておいでゆえ、信忠様に主としての道をしかとは説いてはおられぬでしょう」
兄上の籠もった声音には、侮蔑の色が混じっていた。
「されば兄上が」
わしは声を大きくした。
「兄上が信忠様に主たる者の振る舞いをお教え下され」
信忠様が岐阜城主となられても、信長様は変わらず信忠様に出陣の命を下すであろう。
信忠様と共にわしも戦へ行けば、加治田城と岐阜城を開けることになる。
となれば、その間二つの城の留守を守るのは、兄上しかおらぬ。
信忠様への指南と留守居の役目を託し、わしは兄上を岐阜城に遣わした。
翌年には家督を嫡男・信忠様に譲られ、美濃・尾張の主を信忠様とされた。
西美濃三人衆らを含む美濃の西半分を治める家臣はそのまま信長様に仕えたが、残りの半分は新たに信忠様に仕えることと相成った。
信忠様付きとなるよう命じられたわしは、信長様と二人、岐阜城山麓の庭園にある回廊の橋から、滝の音に耳を傾けていた。
滝の音に負けぬよう、信長様が声を張って言った。
「新五よ、先年わしはお主を疑った。されどお主は悉くわしに付いてきた。今までのこと、礼を申す」
信長様から礼を言われるなど、はじめてのことであった。かつての疑念を晴らそうと獅子奮迅してきたことが、ようやく報われたのだ。
涙が溢れた。場所も相まってか、わしも信長様も、多分に感傷的であった。
「幼き頃から信長様に付き従い、信長様を父御のように思うてまいりました。そのようなお言葉を頂き、わしは果報者にございまする。されど向後は信長様に付き従うことかなわぬと思うと…」
袖で洟と涙を拭う。
「岐阜では京に遠い。わしは安土に城を造る」
滝の音が洟の音をかき消す。目の前の滝は自然のものではない。景色に合うようにと、人の手を加えて一から信長様が作らせたものだった。これほど贅を尽くした庭や館を手放すことに、信長様は少しも執着されぬ。安土の城はさらに凄いものとなるに相違ない。
「信忠の元には昔からの織田の家臣を揃える。また、帰蝶を信忠の養母とする。ゆえにお主は信忠の叔父というわけじゃ。信忠は戦は上手いが人の心がまだ読めぬ。お主が傍で支えよ」
「は」
姉の帰蝶が信忠様の養母となったことで、わしも織田の一門へと格上げされたことになる。とはいえ、信忠様の元で戦に出ることは変わりない。
「もとの美濃の衆を信忠の下に付ければ、信忠を軽んじ翻意を抱くやもしれぬ。それゆえ西美濃三人衆などは向後もわしの配下とする。帰蝶とお主、それと利堯とで、信忠をしかと後見し、盛りたてよ」
「ははっ」
信忠様を我らに託す信長様は、天下人となっても我が父・道三への恩を決して忘れておられぬ。敵だらけの尾張で、隣国美濃に初めて信の置ける味方が出来たその時の気持ちを忘れてはならぬのだと、まるで自らに言い聞かせておられるようだった。
「安土に城ができるまで、京の宿所を妙覚寺にする」
妙覚寺も斎藤家と縁が深い。
妙覚寺の住職は父・斎藤道三の四男で、わしの兄である。
妙覚寺に話を通しておくようにと信長様は言い残すと、回廊の先にある、帰蝶の姉上の居室へと姿を消した。
1579年、安土城は完成した。
信長様は家臣団を引き連れ安土へと向かい、若い信忠様が名実ともに岐阜を統べることとなった。
信長様が出ていかれてから、民も家臣も皆どことなく虚ろであった。
岐阜の賑わいはかつてとそう変わらぬのに、まるで遷都が行われたかのような空虚さが漂っていた。
「信長様の存在の大きさにございましょう」
兄上が言う。
「代替わりを機に、西美濃三人衆の稲葉も安藤も隠居を決めたのです。今の信忠様に、信長様ほどの器があるかどうか」
「兄上の懸念は尤もにござる。されば我らで信忠様をそれなりの器に育て上げねばなりますまい。兄上、何か良い手立てなどございませぬか」
何事もご自身で決めることのない兄上だが、信長様がおらぬ向後はそうも言ってはおられぬ。兄上の力量を確かめるように問いかけた。
「はて。佇まいなるものは、生まれながらにして持ち合わせるものではござらぬか。我が甥で美濃のかつての主・龍興様も、並々ならぬ佇まいをお持ちであられましたゆえ」
わしは兄上のお考えに初めて触れた気がした。兄上は龍興を見限り織田に与したはずで、あの折美濃は確実に斎藤離反の流れが出来ていた。そんな中、西美濃三人衆に言われるまま、離反せざるを得なかったのか。
「信長様は戦ばかりしておいでゆえ、信忠様に主としての道をしかとは説いてはおられぬでしょう」
兄上の籠もった声音には、侮蔑の色が混じっていた。
「されば兄上が」
わしは声を大きくした。
「兄上が信忠様に主たる者の振る舞いをお教え下され」
信忠様が岐阜城主となられても、信長様は変わらず信忠様に出陣の命を下すであろう。
信忠様と共にわしも戦へ行けば、加治田城と岐阜城を開けることになる。
となれば、その間二つの城の留守を守るのは、兄上しかおらぬ。
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