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26、紅茂/豹変

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ややの幼名は新次と名付けられた。

斎藤家に伝わる新の字に一をつけて新一に、と殿は仰られたが、私は新次にと言って譲らなかった。

いつか許されたなら殿との子を為し、新一と名付けたい。そんな思いからであった。

殿は、新次を我が子のようにかわいがって下さる。一日に何度も私の部屋を訪れては、手足がよく動くやら、泣き声が逞しいやらと言って笑みを湛えておられる。

一方で、利堯様が新次の顔を見に来られることはなかった。殿に遠慮しているのか、それとも自らの子に興味を持たぬのか。
殿がお戻りになられてからは、利堯様とはめっきり会話も減り、夜毎情を交わした日々が、幻であったかのように思われた。

しかし、新次が生まれた翌々月、信長様は南伊勢への侵攻を決め、ふたたび殿は戦に赴くことに相成った。

私はまた一人城に残された。
途端に、利堯様は豹変された。呼び方を直ぐさま紅茂と変え、夜には再び伽をした。
伽の最中に新次の夜泣きが聞こえる。新次の元へ行かせて欲しいと頼むと、利堯様は私の頬を撲った。

「伽をせよとは殿の命じゃ。わしが、進んで伽をしておるとでも思うか」

籠もった声を荒げる利堯様は、獣のようであった。
そしてまた、私は身籠った。

二月ののち、殿は無事に戦から戻られた。殿と過ごす間、利堯様から解き放たれることだけが、些細な幸せであった。

しかし戦は終わらなかった。
翌年は一年で三度も戦があった。
信長様は戦の都度、殿を連れて行く。
殿がいなくなれば、利堯様と二人、私はこの城に残される。
子が長じる前に殿が戦で命を落とすような事があらば、誰が教えを授けるか。いつまで殿は戦に駆り出されるのか。いっそ、殿が病になってしまえば、信長様は代わりに利堯様を戦に駆り出すのではないか。
心の内の不安を、吐き出そうにも、吐き出した所で何も変わらぬ。どろどろした胸の内に蓋をしながら、日々の暮らしに励むしかない。
やがて二人目の男子、新三が産まれた。

戦から帰った殿に新三を見せると、まるで浦島太郎のようじゃと仰られた。
いつのまにか身籠り知らぬ間に生まれた新三を、殿は胸に抱き、手放しで喜んた。
誠に殿の懐の深さには、どれほど救われることであろう。

このところ、殿は戦で多く武功を挙げているご様子であった。
信長様から感謝の書状が届き、私もそれに目を通した。これだけ戦で忠を尽くせば、信長様の疑念もそろそろ晴れはしまいか。

「もしも恩賞を貰えるならば、世継ぎの件のお許しを頂くのはいかがにございましょう」

殿にそう進言したが、殿は受け入れなかった。

「戦に出るのは兵どもじゃ。知行が貰えねば兵どもに報いてやれぬ。兵どもにとっては、世継ぎがわしの血でも兄上の血でも同じこと」

その答えに、私は何も言えなくなった。


前年戦続きだったせいか、翌年は殿は戦に呼ばれなかった。
季節の移ろいを殿とゆっくり共に感じるのは、久しぶりに思えた。

夏になると、殿は二才になる新次を肩に乗せ、庭先の松に手を伸ばし、蝉を取った。
利堯様がおられる折には遠慮して城に足を運ばぬ父上も、殿がおられる間は伊深村から時折やってきて、孫たちにまで得意の茶を振る舞った。

殿がいる間、夜は殿と睦み合った。
利堯様の事を頭の隅に追いやりさえすれば、婚儀の日に思い描いていた幸せな日々を送ることが出来た。
そしてようやく、私は殿のお子を身籠もった。

涙が出るほど喜んだ私とは裏腹に、殿は戸惑っておられた。

「わしの血を後世に残してよいものか。遺恨のもととならぬか」

顔を曇らせる殿に、私はどうにかして喜んで欲しかった。

「信長様は家督を利堯様に継がせよと仰いましたが、殿との子を為すなとは仰られなんだはず」

「いや…後々の争いの種を残してはおけぬ。男であれば寺にいれる。生かしておくにはそれしかなかろう」

腹の中にはすでに命が宿っておるというのに、殺されぬよう考えねばならぬことに私は愕然とした。

「許せ。家を守らねばならぬゆえ」

かつて父上もよくその言葉を口にした。当主であれば当然のことかもしれぬ。
ただ父上と違うのは、殿が頭を下げて、私の手を取ってくれたことだった。


不安を募らせたまま臨月を迎えたが、またしても試練が舞い込んだ。
殿に出陣の命が下ったのである。武田方に寝返った信長様の叔母様の城を攻めるのだという。

信長様は先の戦で、火縄銃なる新しい武器を使われた。
火を噴いて鉛の玉を飛ばし、相手の体にめり込ませるのだと殿から聞いたとき、私は思わず、そのような戦にいくのはおやめくだされと殿にすがった。
此度の戦で使うことはないと殿は笑っておられたが、以前よりも一層恐ろしさを増した信長様と命運を共にせねばならぬ殿が、哀れでならなかった。

信長様の命に抗えるはずもなく、出陣の日はやってきた。
生まれた子が男子であれば寺へやるようにと家中の者に言い残し、殿は軍勢を率いて山中へと向かわれた。

私はもはや、生きる意味を失いかけていた。殿との子を産んでも共に喜ぶ者はいない。その上我が身は利堯様に貪られ続ける。ならば、何のために生きているのか。


殿が出立してちょうど一月が経った頃、子は産まれた。
姫であった。
産婆からややを渡された折に、思わず声を上げた。
ややの頬に、殿と同じえくぼがあったのである。
女子衆も産婆もそれを見て、涙を流した。口には出さぬが、この子が殿との初めての子であることを、皆もわかっていた。

「ほんに、ようございました…奥方様の思いが、ようやく実ったのでございます…」

喜ぶ者など誰もおらぬと思っていたのに、皆が姫の誕生を心から祝っていた。この時ばかりは、涙を流さずにはいられなかった。

初めての乳を与えているところに、新次と新三が入ってきた。

「母上、ややに触れてもよいですか?」

ようやく言葉がしっかりし始めた新次が言う。

「よいですよ。ほれ、初めての妹じゃ」

新次は前に出るよう弟を促し、新三がそばに来てややの頬を触った。

「やわらかい…」

新三の言葉につられて、新次もややの太ももを指で押す。

「このややは肥えております。この柔らかさは餅のようじゃ」

新次の言葉に皆が笑っているとき、突如、襖が素早く開け放たれた。

利堯様であった。

新次と新三は気まずくなったのか、すぐに部屋を出て行ってしまった。
利堯様はややをのぞき込むと、私には話しかけず、ツルに問うた。

「女子か」

「はい、姫君にございます」

利堯様はそのあと、私の顔を見た。
その目は、今までに見たことのないような冷たい目のように思えた。

「ふうん」

それだけ言うと、利堯様は部屋を後にされた。
この時私は、ややが姫であることに心から安堵した。もし男子であれば、いかに人任せな利堯様とて、ややの命を奪ったかもしれぬ。
姫であれば、和議の証として他家に嫁がすこともできる。むげに命を奪ったりはなさらぬであろう。
早う、早う殿が戻られますよう。
私は、それだけを考えていた。

一月後、戦から戻られた殿にややのえくぼを見せると、殿は嬉しそうにはにかんで、涙を滲ませた。

ややは、蓮与(れんよ)と名付けられた。

しかし、そののち殿がまた戦に出ていかれると、利堯様は閨で私に手を上げ、足蹴にした。
他の者に気取られることのないよう周到に、それは毎晩続いた。
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